令和2年10月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
http://www.watari-yamamoto.com/
縄文時代<補足>
今から1万2千年前より、諸説あるが紀元前3百年(2400年前)頃までの、およそ1万年間を縄文時代と呼んでいる。日本列島は地球の温暖化による海面の上昇で、大陸より隔絶されて世界にも類例を見ない独自の縄文文化をはぐくんでいった。
[原]日本人が形成したとされる時期でもある。あまりに長い期間に渡るので、6つの時期に分類して語られている。(草創期・・・晩期)
比較的暖かったので、北海道から九州まで広範囲での生活痕跡(遺跡)がある。
亘理郡では吉田の八幡神社近くに、1万年前の「西遺跡」が存在している。発掘品からの年代推定である。
北海道伊達市には6千年前の「北黄金貝塚遺跡」があり、国の史跡に指定され整備ができて立派な公園博物館となっている。明治以降の亘理郡からの移住者により同市とのつながりができ、往来することも多くなった。

三内丸山遺跡などこれらを含めて北東北、北海道縄文遺跡群として世界遺産登録への申請が準備されている。
まだ何なのか解析されていないものの、同時代のストーンサークルと呼ばれている、石を円状に並べた不思議な遺跡もある。
縄文時代には人間の上下関係もなく、また争いによる殺し合いなども起きておらず、現代人からみると一見して平和な良い時代にも見えるが、実情は人口も少なく食べてゆくためには、共同生活が必要不可欠だったものと推測される。
生産手段が少なく、野山の植物を採取したり、獣を罠にかけて殺したり、海辺で貝を取ったり、魚を釣ったり、銛でつくなどして生活を支えていた。狩猟は石器時代より継続していたものだが、新たに、植物採取・植物栽培・漁労の3つの生産手段が加わり豊かさが増した時代でもある。縄文人は、その労働形態から前かがみの姿勢でいることが多かったと、発掘された遺骨より推測されている。
平均身長は男子で160cm弱で彫りの深い顔立ちである。女子はこれより10cmほど低い。また虫歯が多いことや寄生虫の卵が腹部から見つかっており、でんぷん質のものを多く食べていたと推測されている。現代人の我々も回虫などに悩まされ戦後もサントニンなどの虫下しを飲まされたものである。トイレには虫がたくさんいたものだった。
(水洗式の近代的なトイレはごく最近のことでしかない)
縄文人は人間が便をした後には、食物がよく育つことなどを経験上知りえて、食べられる植物のところに糞尿をまき散らして寄生虫のサイクルが出来ていったなどのことも考えられる。(昭和30年頃まで野菜の肥料にはダラと呼ぶこんな形態での使用がされていた)
縄文時代からごく近代までの長い植物栽培の歴史を感じるのである。
主食に近かったのが栗やクルミだったのだろう。貯蔵していた跡もみつかり、後にはこれらの木を集落の周辺で栽培している。
貝や魚を生で食べることも多かった。現代でも貝毒とか川魚に寄生虫の多いことには変わらない。腹痛に苦しんでいた縄文人が浮かぶ。解毒する薬草などもあるはずだと探していたことだろう。人々の住居は草創期の終わるころには竪穴式のものを作り定住が始まったものと考えられる。
稲作が入ってくるまでの長期間、停滞しているかに見える縄文時代だが徐々に進歩をとげている。土木技術や沿岸航海術が発達した。晩期の三内丸山では巨柱建造物を作り、糸魚川でしか産出しないヒスイを青森まで運ぶ交易があったことも推測できる。

実用性というよりも神に捧げるものとして、このような形を作り出したものと考えられる。
山形県では、ビーナスを思わせる人間の造形が発掘された。両者ともに国宝に指定された。

このような縄文人も気候変動には逆らえず、晩期にはやや寒い時期が到来して栗も実らなくなり、南へと移動せざるを得なくなったと思われる。大きな集落が幕を閉じた。
丁度、その頃に大陸から稲作などの高度な技術を持った集団がやってくることとなり、弥生時代の始まりをつげるのである。
西日本は、早々に弥生文化に移行するが、関東以北、特に東北地方では縄文文化との混合した時代がしばらく続くことになる。
本稿の終わりに筆者の勝手な推測をさせていただくと、青森の三内丸山で巨柱技術を持った人々が南下して、長野県諏訪神社の御柱祭りの基となり、また沿岸伝いに南下して島根にたどりついた人たちは巨大な出雲神社を建設する。やがて大陸からの鉄の文化と融合して、近年神社境内で発見された3本の巨柱を鉄輪で結び高さ48mにもおよぶ巨大神殿を立てたのではなかろうか。しかし大和人にはかなわないとして出雲は平和的に国譲りをおこない、
全国の神様のシンボルとしたのではなかろうか。
参考文献 インターネット上の各種縄文資料 (記:鈴木仁)