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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

令和3年6月1日

NPO法人亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石信夫


奈良時代の亘理郡

山元町、亘理町という(くく)呼称は昭和30年(1955)の町村合併で出来たもので、その歴史はまだ65年程度と浅い。

ずっと昔より、この地域は亘理郡として一帯のものであった。和多里→曰理→互理→亘理と文字だけは様々に変化してきた。

ヤマト政権が現在の奈良市付近に首都を移したのが西暦708年のこと。中国の都である「唐」の長安、現在の西安市に習ったものとされる市街地は碁盤の目の如く整然としたものであった。日本で初めての貨幣も出来た。「富本銭」や「和同開珎」である。

西暦700年代の大半を奈良時代とよんでいる。立派な都市はできたが、この時代に疫病が大流行したようだ。原因は遣唐使がもたらしたものともされる。

東北の状況も大きく変わってゆく。

陸奥国府が仙台の郡山から多賀城に移った。神亀元年(724年)のこと。これに伴うかのように亘理郡衙も坂元の「熊の作」から、遭隈の三十三間堂に移転したと推定されている。

多賀城が出来たことを示すのが下の石碑である。


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「西」とは、都が西にあることを表現したのだろう。主要な各地までの距離を書いている。

日本国内の歩けるところは多少の誤差があってもその数字は理解できるが、海を越えた靺鞨(まっかつ)(現在の北朝鮮北部からロシアの沿海地方にあった国)までの距離はどのようにして測定したのだろうかと思うと不思議である。

「西」の解釈については、当時の都からみると陸奥国は「東」と呼ばれていたこともあり、それに対応するものでもあっただろう。すなわち、奈良から東へ向かって真っすぐに歩いて行くと、途中の関東地方から北へと進路が変るはずだが歩いている人には気づかない、そのまま東へ向かって歩いている感覚となる。すなわち陸奥の国は「東」なのである。(河北新報の題字脇に、未来は「東」と記してあるのが興味深い)

これに対して、出羽国(現在の山形県と秋田県)へ行くには、奈良から真っ直に北へ向かうことになる。琵琶湖を通過して日本海沿岸を北上して到着する。すなわち「北」である。

この「多賀城碑」は昔から有名だった。建立から400年後の平安時代末期に歌人の「西行」が「壺の碑」として紹介している。その後地震で倒壊し文字面を下にうつ伏せの状態で倒れていたのを、伊達政宗の時代になって再発見され昔の如く立て直された。

この碑について、奇妙な偽物説のでたことがあった。政宗が観光用に作ったものであると。しかし文字の寸法が奈良時代の天平尺に基づくものなどが判明して、本物であることが確定した。ただ大きな観光資源だったことは間違いなく江戸時代には芭蕉も訪れ、碑文の拓本は大いに売れて、各地に持ち帰られた。拓本を量産するために、碑文の木版が作られ刷り込まれた。石碑から作ったものと微妙な違いがあり判明できるようだ。


この碑文の中に、蝦夷との境界まで現在距離で64kmであるということが記されている。現在の宮城県北部地帯(栗原市付近)までである。これを忠実に守っていれば問題が起きなかったのであろうが、ヤマト政権の北進政策があった。西暦763年が両者紛争の始まりとされる。その後何回かの話合いに不満を抱いた蝦夷の族長である(これ)(はるの) (あざ)麻呂(まろ)は宝亀11(780)に多賀城を焼き討ちしてしまうのである。ヤマト政権側も大軍を派遣することになる。西暦801年に坂上田村麻呂の何度かの遠征で蝦夷の阿弖流(あてる)()母礼(もれ)が降伏するまで、後に38年戦争とも呼ばれる長期に渡る戦乱があった。

近年のことであるが多賀城発掘に伴う一般見学会で、780年に焼き討ちされた時の跡であると礎石の近傍にある黒く焼け焦げたものを示された。

    

蝦夷の抵抗は根強く、なかなか決着がつかなかったので、ヤマト政権では、これに使う武器も大量に必要だった。現在の亘理郡山元町における鉄の生産にも拍車がかかったにちがいない。


製鉄の原料である山元町の砂鉄は必ずしも良質なものではなかった。というよりも陸奥の鉄鉱石が良くなかったと思われる。ずっと後に伊達政宗が日光東照宮に鉄製の灯篭を献上したのは有名であるが、当地で産出した鉄ではうまく作れず、結局はポルトガルの鉄を用いて完成させたとされる。陽明門を入ったところにあり南蛮灯篭と呼ばれている。これに対して、出雲の砂鉄からは玉鋼と呼ばれる良質の鉄が出来、今も日本刀を作る際に用いられる。


参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」  

      各種の発掘調査報告資料より         (記:鈴木仁)
# by tyama2001 | 2021-06-02 10:01 | 亘理・山元ニュース

令和3年5月1日

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

 http://www.watari-yamamoto.com/


飛鳥時代の亘理郡

西暦600年代を飛鳥時代と呼んでいる。亘理郡では坂元地区および山下合戦原で鉄の生産が盛んになる。
 それを裏付ける重要な発見があった。3.11大震災の復興事業に絡む発掘調査で明らかになった。坂元の「熊の作遺跡」および「合戦原遺跡」からである。
 この時代の亘理郡は「思」と呼ばれていたことが「先代旧事本紀」に出ている。当時の陸奥の国府は、現在の仙台市太白区郡山にあったことが知られている。その時に亘理郡衙がどこにあったのかは謎であった。よく知られている逢隈の三十三間堂官衙遺跡は、その後の奈良時代に陸奥国府が仙台から多賀城に移ってからの設置である。
 「熊の作遺跡」の発掘では、太い柱跡が多数見つかり大型の建築物があったことがわかる。これが飛鳥時代の亘理郡衙ではなかったのかと推測されるに至った。
 遺跡からは「坂本願」と壺の底に書かれた破片が見つかった。祭祀用に使用したものであろう。


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 坂本氏という豪族がやってきて支配していた。後に「坂元」の地名ができる由来ともなった。坂本氏の身分はベルトに付けていた「石飾り」から郡長の地位にあったとみられる。では、坂本氏はどこの出身かというと、琵琶湖の南端にある現在は滋賀県大津市坂本地区ではなかったかと筆者は比定している。後世に明智光秀の居城として知られることになる坂本城があった。ここには日吉大社がある。全国4千社の日吉・日枝・山王神社の総大社でもある。いにしえの昔より坂本が存在していたことが伺える。
 現在の大津市坂本地区の人口は1万人を超えており、山元町に匹敵する。
 琵琶湖の坂本を有名にしたのは、最澄が開山した比叡山の入り口でもあることだ。亘理郡坂元のルーツがここにあるとすれば興味深いことである。
 「熊の作遺跡」には鍛冶場の跡もあった。何よりも大きな発見は、当時の住民移動を示す木簡の出土だった。通常、木材は朽ちて腐ってしまうのだが、環境条件が幸いした。低湿地になっていたところにあった。1300年もの間残っていたのである。
 文字を解読した結果、その時代まで特定できるこれまた貴重なものだった。

(下図は宮城県教育庁文化財保護課HPより)

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 信夫郡は現在の福島市とその近郊である。安岐は、今の福島市と川俣町の境界あたりの地域であった。
 安岐里の「里」は西暦701年~717年の間にしか使われなかったものなので、年代特定ができ、東北では最も古い木簡であることがわかった。当時、福島から40km離れた坂元まで4名の人が、おそらくは鉄の増産のために派遣されたことを示すものであろう。(図は、出土した木簡、赤外線カメラで撮影したものさらにそれを読み下したものである) 

これらの人々、さらには高位、高官だった人達もこの地で没したのであろう。 埋葬のための、横穴古墳が数多く存在する。
 最大級の古墳群が山下の合戦原で見つかっている。現在の国立病院機構宮城病院の北側にある丘陵から52個もの横穴古墳が見つかり、そのなかには線刻画のある古墳があった。相当な身分の人を埋葬したのだろう。線刻が何を表すものかはわかっていない。
 また、亘理町桜小路にも同時期の古墳が多数存在する。先年道路工事に先立って発掘調査が行われた。26基が確認され、蕨手刀や勾玉などが出土した。先に確認されているものと併せると51基に上る。桜小路の古墳群は南北に延びており全長は700mほどに及ぶ。蕨手刀は従来、ヤマト王権に帰属した蝦夷の族長に与えられるとされていたが、その人たちも古墳を持つことができたのか謎がまた増えたとされている。
 山元町の古墳は製鉄事業と結び付けられるが、同じ時代に亘理町に住んでいた人たちは、どんなことをやっていたのだろうか。今後の解明が期待される。亘理町桜小路の古墳群は1945年の終戦以前に半数は開封され、浅い洞窟みたいになっていた。町場に近いので我々は防空壕だとして米軍の空襲時に使用した。終戦後は、ホイド(乞食)の住居となっていたこともある。
 さて、飛鳥時代に話を戻すと「駅家制度」が全国に配備された。当時の30里(16km)毎に駅家が設けられた。近年話題になったのが岩沼で発掘された「原遺跡」である。古文書に「玉前駅家」と記載されているが場所が不明だった。それが常磐線を亘理方面から阿武隈川を渡ったところに存在する「原遺跡」が柱跡などから「玉前駅家」であろうとされるに至っている。(駅家とは、馬の乗り換えや宿舎に使われた所)
 「玉前駅家」の次は、仙台市郡山にある陸奥国府となる。柴田町にも「玉前駅家」の一つ前であったろう駅屋がある。偶然かもしれないが、坂元の「熊の作遺跡」は「玉前駅家」から16kmのところである。計画された場所だったのかもしれない。参考文献 菊池文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
  
各種の発掘調査資料より                (記:鈴木仁)  

# by tyama2001 | 2021-05-01 16:16 | 亘理・山元ニュース

令和3年4月1日

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

 http://www.watari-yamamoto.com/





亘理郡での鉄の生産

 21世紀に入るころ、すなわち20年ほど前に茨木県佐倉市にある国立歴史民俗博物館に1枚の大きなポスターが貼られていた。

 「古代日本の鉄生産核心地」として、「出雲地域」と共に現在の「亘理郡山元町地域」が示されていた。古代と言っても長い期間がある。出雲は現在も安来ハガネとして有名だが、山元町には、その名残として風化した茶黒の鉄滓が集中するところが何か所もあり地元では、通称カナグソ山などと呼ばれていた。遺跡だが歴史上も学問的にも大きく注目されることはなかった。

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 正式名称は「カナゴ」(金久曾)という。カナグソとも読めるし、言い得て妙なのである。鉄の生産過程で、動物の体外に排出されるクソ(糞)みたいなものとも言える。
 鉄の生産方式は、古代も近代製鉄も原理的には同じなのである。鉄原料の表面などに含まれる不純物を高い温度で溶かして取り除き純度の高い鉄製品を得るのである。
 原料は、鉄鉱石であるが古代の海岸地域では砂鉄が使われていた。鉄を溶かすには千五百℃もの高い温度が必要である。しかし「たたら製鉄」方式は、少し低い温度でも溶ける利点があった。

 現代の溶鉱炉は、コークスを用いて高温を得るが、「たたら製鉄」では木炭で加熱する。フイゴと呼ぶ送風装置を使い人力で強制的に風を送り木炭を高温にするのだから大変な作業である。三日三晩交代でフイゴを踏み続け、ようやく原料の砂鉄が溶ける温度になる。

 現代の溶鉱炉では、連続して鉄を取り出すが古代では一回ごとに炉を壊して製品となる鉄を取りだすのだから大変な作業なのである。

 砂鉄は表面が黒い。酸化物で覆われているからだ。これを溶かして鉄中の酸素を木炭の炭素と反応させ、一酸化炭素(CO)や二酸化炭素(CO2)として排出させる。このように酸素を奪いとる過程を還元という。高温になった炉の中で還元雰囲気が出来るのである。
 また砂鉄の中に含まれるチタンなどの不純物は炉中で酸素や周囲の鉄と結びつき鉄滓として外に排出する。これがいわゆるカナグソとされるものだ。

 純粋な鉄は、空気にさらされると酸化してやがては腐食し土中に還ってしまうが、鉄滓は高温での酸化物なので、多少の風化はあるが千年以上も過ぎた現在もそのまま残っているのである。

 鉄橋、東京タワーなど現代の鉄の構造物は直接鉄の表面が空気に触れないように「塗装」を施し長持ちさせている。鉄は今や世界文明の主柱であり年間生産は10億トンを超える。CO2は、全産業で排出するうち15%を製鉄が占めており問題視されている。

 水素製鉄など抜本的な変革を求められているが、長い時間がかかるであろう。
 さて、古代の「たたら製鉄」は山の斜面を利用して作られることが多い。

 では、いつの頃に製鉄が日本に入ってきたのかというと西暦100年頃と推定される。朝鮮半島南部から海流に乗ると比較的容易に出雲地方に到達することができる。
 古事記による「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」の「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」退治の伝説は、山の斜面で多数の「たたら製鉄」炉から流れ出る高温の赤い鉄滓が、まるで大蛇の如く見えたのかもしれない。頭はタタラ炉の本体そのもので上に赤い炎を噴き上げている。もともと出雲に住んでいた原日本人の勇者(素戔嗚尊)が朝鮮人と戦った記憶なのだとする説もある。やがて朝鮮人と出雲人は融合して独自の文化を創造してゆく。

 ヤマト王朝に対する出雲の国譲り伝説は、武力統一ではなくその技術を余すところ取り入れるべく、ヤマト・出雲で和平交渉が成立したということであろう。
 近年になって、出雲大社境内から文献上は知られていたが、巨大な金輪で括りつけられた3本の木柱が出土した。高さが48mに達する神殿が存在した証明となる発見だった。

 製鉄技術は、出雲から吉備国(岡山県)へ伝わり、さらには大和地方そして東海を経て鹿島(茨木県)へ、そこから北上して相馬や山元町へと伝わったのが西暦550年頃と推定される。北限は現在のところ亘理町吉田中原地区とされる。最近そこに居住する渥美さん宅の裏山斜面から当時のたたら炉が見つかり話題になった。現地を上ると旭台ニュータウンの団地が広がっている。
 

では、宮城県に中央の大和から最初の入植者が入ったのはいつ頃かというと、西暦300年の終わりころなのだからきわめて古い。従来はもっと後の時期だと思われていたのだが2015年に栗原市で大発見があった。国道4号線のバイパス工事で大規模な当時の集落跡が見つかった。「入の沢」遺跡と呼んでいる。驚くべきことに大和王権の象徴とされる「銅鏡」が出土した。

 わずかな期間のみ住んだような遺跡である。当時の東北人(後に蝦夷とされる)に攻め込まれたのではなかろうか。

 古代東北には、石巻を中心とする「日高国」があったとされるが、明確なものではない。そのうちに遺跡の大発見があるかもしれないと期待しているのである。

考文献 菊池文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」  (記:鈴木仁)   

# by tyama2001 | 2021-04-01 00:00 | 亘理・山元ニュース

令和2年12月1日

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

 http://www.watari-yamamoto.com/


古墳時代の終焉から飛鳥時代へ

西暦500年頃になるともう前方後円墳のような墓は作られなくなり横穴式の古墳となる。墓にも時代の流行がある。

亘理郡では逢隈の竹ノ花横穴古墳がある。大型の「単独横穴古墳」で全国でも珍しいものである。(高さ5m×幅7m×奥行8m)



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一般には横穴古墳「群」と言われるように、多くの横穴が密集している場合が多い。 (山下の合戦原では50基を超える当時の横穴古墳が発見された)

竹ノ花単独古墳の主は地元の豪族だったのか、大和王権の人かは判明していない。(昔は蝦夷穴と呼ばれていた)

その頃の日本は記録されたものや文物に乏しく漠然としたところがある。外国からは「倭」と呼ばれていた。

西暦400年頃作成のもので、北朝鮮に近い満州で発見された高句麗の「好大王碑文」に「倭」が沿岸部を荒らしているというような記述がある。世界最古級の碑文の一つである。

その頃、日本の東北地方は未開の地であったが日高見国があったとされ、それも.次第に大和王権に浸食されてゆく。茨木県の鹿島神宮が「武」の根源たる神様であり、その旗を押し立てて北上し各所に鹿島神宮を建立してゆく。亘理郡の北端に近い三門山頂に鹿島3社が存在した。「鹿島天足和気神社」「鹿島緒名太神社」「鹿島伊都乃比気神社」である。そのうち伊都乃比気神社は現存していない(合祀されてしまったとみられる)。鹿島は祖神様であり、下の文字は子神様を表す。三門山頂からの見晴らしは極めて良く、仙南東部一帯から仙台までを眼下にすることができる。ここに鹿島三社を祀り軍事拠点にしたのは妥当である。(現在はアンテナが立ち長距離無線通信の拠点となっている)。

文献上に東北が出てくるのはヤマトタケルノミコトの「東征」からである。古事記は「倭建命」で日本書記では「日本武尊」とされている。これらの書物編纂は奈良時代に入ってからの西暦720年であり、ヤマトタケルが実在したとしても、そこから遡る事400年も昔の西暦では350年頃のことを記している。

「鹿島天足和気神社」は、創建が景行天皇40年(西暦111年)とある。ヤマトタケルは景行天皇の息子であるから、「東征」が実際にあり鹿島三社を押し立てたとしてもおかしくはない。

但し西暦年がおかしい。これは日本での紀元元年(神武天皇即位)を西暦前660年としたことにある。歴代天皇の寿命を百歳を超えるものとしないと辻褄が合わなくなるという矛盾が生じてしまった。これは西暦540年(第29代欽明天皇即位)の年に、それまで長年続いた異常天候や疫病が収まった年とされ、仏教の伝来と相まって一大慶事の年であった。 

中国から伝わった暦法干支によると、1200年毎に歴史的な異変が起こるとされるので数えると西暦前660年に神武天皇が即位したとするのが妥当だろうと日本の紀元とした。

戦前は戦意高揚もあって「紀元」が大いにもてはやされた。第二次大戦直前の昭和15年(西暦1940年)が紀元2600年に当たるということで盛大な祭典が催され、歌も作られた。

さて、話を飛鳥時代に戻すと聖徳太子が活躍するころである。西暦600年に法隆寺を建立し現在に残っている。この頃はまだ「天皇」という呼称が存在せず、豪族の首長である「大王」と呼ばれていた。聖徳太子も後世の造語であり、厩戸皇子と記録されている。つい数年前に教科書も正式な名称に戻すべきだとの議論が国会でおきたが、現代人は一万円札のシンボルなどとしてあまりになじみ過ぎているので結局はさたやみとなった。

この頃は推古天皇(女帝)の時代だったので、摂政として聖徳太子が縦横に活躍した。中国へ遣隋使を送ったり、17条憲法も定めた。

当時は大王家といえども、絶対的な権力を保持していたわけではなく、各豪族間の争いが激しかった。憲法の第一条に「和をもって尊と為す」と書かざるを得なかった。

ついには、大王と並び立つ勢力を持つに至ったのが「蘇我氏」である。大王(朝廷)側は全国に統一した律令制度を敷きたがったが、豪族側は自分の領地に手をつけられるのは当然ながら反対である。

そのいがみ合いが頂点に達したのが、西暦645年の朝廷側によるクーデターであった蘇我氏暗殺である。ここにおいて朝廷は日本の全実権を握ることになった。

日本最初の年号「大化」が使われる。それ以前は大王(天皇)の在位年数を記したものである。天皇という呼称が用いられるのは、天武天皇(680年頃)からである。

力を得た朝廷は663年に外国遠征をおこなった。朝鮮半島の百済と同盟関係にあったので5万人もの援軍を派遣して、唐と新羅の連合軍と戦ったが全滅するという大惨敗を喫した(白村江の戦い)。これが契機となったのであろうか。国内経営に全力をあげることになった。未征服地の東北北部に目が向けられることとなった。

武器の製造には「鉄」が欠かせない。現地調達するために良質の砂鉄が得られる現在の南相馬市から、亘理郡にかけての一帯が「製鉄所」となった。

その北端が吉田の中原であった。最近も民家に接する裏山の斜面から炉の跡が見つかった。

現代風にいえば重工業地帯だったということになるが、古代ではいずれも人力によるもので、鉄が溶けるまで温度を上げるのに炭火にフイゴから風を送り続けること3日間、休まずに足踏み式の板を交互に踏み続ける重労働でもあった。


 次31号は令和3年4月1日となります。



参考文献  亘理町史(上巻)、山元町史、その他      

                           (記:鈴木仁)

# by tyama2001 | 2020-12-03 09:50 | 亘理・山元ニュース

令和2年11月1日

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

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弥生時代から古墳時代へ<補足>

紀元前500年すなわち今から2500年ほど前に始まったのが「弥生時代」とされる。大きな特徴は、日本人同士の殺し合いが始まるのである。その原因は、当時の中国が「春秋戦国時代」と言われ戦いに明け暮れていた。敗れた人たちが当時の「難民」として日本にどっと押し寄せた。(現代でも戦乱が続く中東のシリアから欧州への難民が大問題である。)

中国からの難民は武器を持っていた。耕した農地を武力で奪うことを日本人は教えられた。

こうなると当然ながら、個人よりも集団で自衛した方が良いとなる。

これまでには考えられなかった「環濠集落」というのができてくる。すなわち集落の外側に堀をめぐらして敵を防ぐのである。(九州の吉野ケ里遺跡が有名)

大陸からの難民は、武器と共に稲作などを持ち込んだとされるが、稲はもっと前に伝わったとされ、主な伝来品は青銅である。約700℃の比較的低い温度で溶けるために、(鉄を溶かすには1400℃の高い温度が必要)当時の技術でも青銅で容易にいろんな物が作られた。武器などと共に銅鐸が有名であるが、東北地方には青銅がおよばなかったらしく、当時のもので発掘された例はいまだない。

その頃の亘理は郡はおろか、みちのくという概念さえなかった時代である。土器の出土例は多いが、面白いものとして木材を加工した丸い棒が逢隈の鹿島吹田の地で旧国道6号線の東側で発掘されている。低湿地だったために偶然に腐らず2千年以上もの長期間存在した。

(耕地整理事業の工事中に水路の底から出土)。

(上図は、出土した残存している部分で長さ60cm、直径3cm程度の細い木の棒で、片端に5cm程度の握りみたいなものがある。他端は朽ちて無くなっているが、全長は1m程度であろう)


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用途は不明とされているが当時の農具なのであろうか。筆者が勝手に推測すると川の水をせき止める際に流れに板を差し込んで、それを支える棒ではなかったろうか。微妙な反りがあり、中央部で大きな力を受けても折れにくいようになっている。当時でもそんな知恵はあったものと思う。

ちょうど発掘場所近くには、胴捨山、愛宕山を水源とする小川が流れており、この水を田んぼに引いたのではなかろうか。

弥生時代に青銅は東北の地まではこなかったものの、稲作はあったと思われる。赤米という古代米である。現代も観光物品として岩手県などで作付けされている。

赤米は赤飯のもとになったとされる。祝いの時に用いられる。最初の栽培米であり、すなわち永年にわたり存続してきたので、これを食べることは目出度いのである。後に赤は祝いの代名詞へ発展したと思われる。

関西地方で見つかった銅鐸に川の堰をはずす人の姿が描かれたものがある。稲作に関連することは記録に残すべきものだったのだろう。

当時の亘理町や山元町は一面の湿地帯で、阿武隈川は大雨の都度自在に流れを変えていた。大きく変わったのが2500年前とされ、それまでの河口だった鳥の海から、現在の位置になったとされている。鳥の海に流れ込む鐙川がそれに相当することを、耕地整理前の昭和の航空写真からも読み取れる。その写真に逢隈の北部地区では円弧上に住宅が点在しているのがみえる。これも当時の自然堤防跡と推定され、人の往来で固められた自然堤防の地盤の強いところを利用し後の世の人たちが家を建てたものである。

弥生時代に大きな集落ができ、敵と戦うようになると当然ながらリーダーが出てくる。豪族の出現である。その力を示すために大きな墓を作るようになる。

亘理郡では、仙台方面から常磐線で浜吉田駅に入る700mほど手前の東側約100mのところに大きな円墳がある。車窓からも見える。直径33m、高さ4mで2段になっている。およそ千トンの浜砂を突き固めたものである。大塚古墳と名付けられているが、通称だんご山古墳と呼ばれている。「大塚」とは大きな古墳がある地なので、そのような地名になったのであろう。周辺からは埴輪も出土したが本格的な発掘調査はされていない。


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通常の前方後円墳とは異なるもので、円であるから高度な測量技術などは必要としない。中心に棒を立て、紐を引けば円である。おそらくは、その位置から見て漁貝類を主要産品とする豪族だったと思われる。当時の海岸線は、その辺りまで来ていたのだろう。現在は田んぼの中にあると言っていい。西暦100年から400年代のものと推定されている。

ほぼ同時代に現れる関西の巨大な前方後円墳と同じ系統と見られる名取の雷神山古墳や仙台の遠見塚古墳などの主は、何らかのつながりをもっていたのであろう。

規模は小さいながらも、山下の合戦原と吉田の長井戸に前方後円墳がある。


参考文献  亘理町史(上巻)、山元町史 


インターネット上の各種縄文・弥生時代資料  (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2020-11-01 11:41 | 亘理・山元ニュース