令和3年6月1日
NPO法人亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石信夫
奈良時代の亘理郡
山元町、亘理町という括りと呼称は昭和30年(1955年)の町村合併で出来たもので、その歴史はまだ65年程度と浅い。
ずっと昔より、この地域は亘理郡として一帯のものであった。和多里→曰理→互理→亘理と文字だけは様々に変化してきた。
ヤマト政権が現在の奈良市付近に首都を移したのが西暦708年のこと。中国の都である「唐」の長安、現在の西安市に習ったものとされる市街地は碁盤の目の如く整然としたものであった。日本で初めての貨幣も出来た。「富本銭」や「和同開珎」である。
西暦700年代の大半を奈良時代とよんでいる。立派な都市はできたが、この時代に疫病が大流行したようだ。原因は遣唐使がもたらしたものともされる。
東北の状況も大きく変わってゆく。
陸奥国府が仙台の郡山から多賀城に移った。神亀元年(724年)のこと。これに伴うかのように亘理郡衙も坂元の「熊の作」から、遭隈の三十三間堂に移転したと推定されている。

「西」とは、都が西にあることを表現したのだろう。主要な各地までの距離を書いている。
日本国内の歩けるところは多少の誤差があってもその数字は理解できるが、海を越えた靺鞨(現在の北朝鮮北部からロシアの沿海地方にあった国)までの距離はどのようにして測定したのだろうかと思うと不思議である。
「西」の解釈については、当時の都からみると陸奥国は「東」と呼ばれていたこともあり、それに対応するものでもあっただろう。すなわち、奈良から東へ向かって真っすぐに歩いて行くと、途中の関東地方から北へと進路が変るはずだが歩いている人には気づかない、そのまま東へ向かって歩いている感覚となる。すなわち陸奥の国は「東」なのである。(河北新報の題字脇に、未来は「東」と記してあるのが興味深い)
これに対して、出羽国(現在の山形県と秋田県)へ行くには、奈良から真っ直に北へ向かうことになる。琵琶湖を通過して日本海沿岸を北上して到着する。すなわち「北」である。
この「多賀城碑」は昔から有名だった。建立から400年後の平安時代末期に歌人の「西行」が「壺の碑」として紹介している。その後地震で倒壊し文字面を下にうつ伏せの状態で倒れていたのを、伊達政宗の時代になって再発見され昔の如く立て直された。
この碑について、奇妙な偽物説のでたことがあった。政宗が観光用に作ったものであると。しかし文字の寸法が奈良時代の天平尺に基づくものなどが判明して、本物であることが確定した。ただ大きな観光資源だったことは間違いなく江戸時代には芭蕉も訪れ、碑文の拓本は大いに売れて、各地に持ち帰られた。拓本を量産するために、碑文の木版が作られ刷り込まれた。石碑から作ったものと微妙な違いがあり判明できるようだ。
この碑文の中に、蝦夷との境界まで現在距離で64kmであるということが記されている。現在の宮城県北部地帯(栗原市付近)までである。これを忠実に守っていれば問題が起きなかったのであろうが、ヤマト政権の北進政策があった。西暦763年が両者紛争の始まりとされる。その後何回かの話合いに不満を抱いた蝦夷の族長である伊治 呰麻呂は宝亀11年(780年)に多賀城を焼き討ちしてしまうのである。ヤマト政権側も大軍を派遣することになる。西暦801年に坂上田村麻呂の何度かの遠征で蝦夷の阿弖流為と母礼が降伏するまで、後に38年戦争とも呼ばれる長期に渡る戦乱があった。
近年のことであるが多賀城発掘に伴う一般見学会で、780年に焼き討ちされた時の跡であると礎石の近傍にある黒く焼け焦げたものを示された。
蝦夷の抵抗は根強く、なかなか決着がつかなかったので、ヤマト政権では、これに使う武器も大量に必要だった。現在の亘理郡山元町における鉄の生産にも拍車がかかったにちがいない。
製鉄の原料である山元町の砂鉄は必ずしも良質なものではなかった。というよりも陸奥の鉄鉱石が良くなかったと思われる。ずっと後に伊達政宗が日光東照宮に鉄製の灯篭を献上したのは有名であるが、当地で産出した鉄ではうまく作れず、結局はポルトガルの鉄を用いて完成させたとされる。陽明門を入ったところにあり南蛮灯篭と呼ばれている。これに対して、出雲の砂鉄からは玉鋼と呼ばれる良質の鉄が出来、今も日本刀を作る際に用いられる。
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」