令和3年7月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興
会発行人・理事長:千石 信夫
http://www.watari-yamamoto.com/
奈良時代から平安時代初期へ
聖武天皇時代(即位期間:西暦724~749年)に奈良の大仏建立をはじめ、現代に伝わるいくつかの大事業があった。
その一つに、諸国に国分寺や国分尼寺を作らせたことがある。陸奥国にも現在の仙台市若林区木ノ下に「陸奥国分寺」を作った。建立当時は壮麗なものであった。七重塔を始め大伽藍が立ち並び、敷地は2万坪以上もあった。
平安時代初期までのおよそ百年間は持ちこたえたが、徐々に国家の庇護が薄れてゆき、自然災害からの回復が出来なくなり廃れてゆく。貞観大地震(869年)で大きなダメージを受け、さらに934年に落雷によって七重塔が焼け落ちてからは荒れるにまかせられた。全国の国分寺でも礎石や発掘調査でしか、当時をしのべないのだが、ここ仙台では1607年に伊達政宗が領内の古刹再興の一環として、瑞巌寺や中尊寺とともに国分寺にも大伽藍を復活させたので、現在も往時の栄華の一端をしのぶことができる。
仙台が今に続く繁栄の礎がここにあったのではなかろうか。

(上図は七重塔のイメージである)
700年代後半の朝廷は、奈良の都を早々に見限り他所へ移転する。桓武天皇の時(784年)に一旦は京都の南部である、現在の長岡京市に「長岡京」と呼ばれる都をつくるが、ここも10年ほどで諦めて京都に「平安京」を作り以後千年の都となる。奈良からの遷都は諸説あるが疫病の蔓延が主な原因ではなかろうか。
当時は蝦夷との内戦も長引いていて決着がついていなかった。前項で38年戦争と記したが、2度に渡る大遠征軍も失敗に終わり、次に坂上田村麻呂を大将軍とする大軍が多賀城に入ったのが796年のことである。
軍勢の一部は太平洋岸の東街道を通っている。当然ながら現在の山元町で大量の「鉄」の供給を受ける。それ以前にも、山元から多賀城へは絶えず鉄を送っていたものと推定される。
一方で、坂元の熊の作にあった亘理郡衙は、遇隈の「三十三間堂遺跡」と呼ばれている場所へと移設される。郡衙の倉庫群があった礎石を見た江戸時代の人々は、正確な伝承がなかったので、その昔に仏堂の三十三間堂でもあったのではとして、その通称がそのまま遺跡の
正式名称として残ることになった。
三十三間堂遺跡の礎石は大きなもので、丸森町で算出されたものとされる。阿武隈川を運んできたのだろうが、古代の巨石運搬技術には驚くしかない。
それにしても、昔の事柄がなかなか後世に伝わらないことが多いのである。
地名にのみその名残を残している。逢隈に「上郡」「下郡」という字名があり、昔の役所と何らかのつながりがあったことが伺えるのである。さらに興味深いのは下郡に「高躰」と呼ばれるところがある。おそらくは高貴な人が住んでいたのではなかろうかとされる。
先日のことであるが「NPO法人亘理山元まちおこし振興会」の会員一同が山下の八重垣神社を参拝した。偶然にも藤波宮司から興味あるお話を伺うことができた。

八重垣神社で確実なのは、室町時代に宮司の先祖である藤波暁雄が、もともと当地に存在した牛頭天王社を引き継いだもので、その昔をはるかに遡る大同2年の棟札は江戸時代に作られた可能性が高いということである。
現在の藤波宮司が神官学校の時に先生から、お前のところの創建はいつだと聞かれ、大同2年と答えたところ、やはりそうかと言われたそうだ。
もし、そうなら西暦900年代に作成された延喜式神社帳に記載されているはずだと。
「八重垣神社」と名称変更されたのが明治時代になってからのことである。牛頭天王社には2つの系統があると宮司はおっしゃる。出雲大社系統と愛知県の津島大社系統ということである。山下の牛頭はもとおと素戔嗚尊を祀っており出雲系統というなので、それにちなみ八重垣神社という名称になったである。
当時の疫病の主体は天然痘である。世界的には疫病で全滅した文明や民族もある。
「牛」がキーワードであるが、逢隈に「牛袋」や「牛頭」という地名がある。何故「牛」なのかを次号で述べることにする。

参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
各種の発掘調査報告資料より (記:鈴木仁)