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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001
令和元年10月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫

明治時代(2) 郵便制度

 日本の近代化に最も必要だったのは、鉄道による輸送手段とともに、郵便を制度化することだった。江戸時代からの「飛脚制度」を近代化することにあった。速さの点においては、明治中期まで人力もしくは早馬であるとか、江戸時代と変わるところがなかったが、明治になってから全国の都市に集配所制度を設けた。 郵便切手を発行したのである。距離によって郵便料金が異なった。100kmを一単位としたのである。明治5年の時点で仙台から東京までは8銭であった。 その後、明治10年に至り、利便性の向上を図るために全国一律で「1銭」とした。 (当時は米1kgが約17銭だった)

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 1銭切手は、明治35年まで25年間も続いたので、その間にいろんな図柄が出現している。 (写真は大日本帝国の一銭切手である)郵便や荷物の運送には、「駅伝」制度による馬での継馬所があった。亘理の街中で馬を継いた後は次は山下まで行くのだった。馬が行ったり来たりしていたことになる。
 「駅伝」といえば、今やマラソンであるが、日本特有のもので由来はここからきている。昔は走るのがスポーツではなく使役の役目をもったものだったのである。東京―箱根駅伝、その他各地の駅伝競技があり、今もその名を残している。

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 現代では「情報通信」という用語を使っており、一瞬にして個人の伝えたいことが、世界中を駆け巡る。アメリカ大統領が使うツイッターが有名になった。だが150年前は大変だったのである。亘理では、明治5年に永田さんが「亘理駅郵便御用取扱書」を開設した。山下では明治7年に三島さんが開設している。仙台までは2銭が必要で、そこから東京へと乗り変えたのである。当時の郵便局は、地域の有力者が自宅に開設したのである。明治13年頃になると各村々にも御用取扱書が出来るようになった。
 その後は、郵便局が貯金とか為替などを扱うようになり、官より委託される形で運営され郵便局と名前が変わり、地方局は三等郵便局と呼ばれ逓信省(郵政省)管轄となった。亘理郵便局や山下郵便局となった。田舎では特定郵便局となって行ったものもある。
 手紙は届くまでに数日をようするが、迅速性が大事なことも多くなった。亘理郡でも「電信の開通」を要望していたのである。これが出来たのは、常磐線の開通と同じ頃の明治30年になってからである。
 「電報」が可能になった。

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 それまでは、スピードを要求される手段として、長期間に渡りハトが使われていた。現在では、趣味として飼育している方がいるに過ぎないが、伝書鳩は一説によると紀元前からあったというのである。 200km程度は軽く飛んで行く。昭和35年頃までは使っていた。新聞社が電話も無い山間僻地から記事を送るとか、軍事用などに利用していた。ハトの足に小さな軽い筒を取り付け、それに書類を入れて飛ばすのである。ごく軽い荷物を背中に乗せて運ぶこともあった。ただ、飛行中にタカやワシなどの猛禽類に襲われることがあるので、複数のハトを飛ばすのだった。このようなことから農林水産省が統轄する使役動物に指定されていた。
 通信手段が極端に発達してしまった現在からみると信じがたことである。戦国時代頃によくつかわれたのが、ノロシによる(敵が来た)など信号の伝達だった。時代劇でおなじみである。昔の人たちから見ると現代人は恐ろしく便利な時代に生活している。
 現在は、亘理・山元町とそれぞれ別の行政区分感覚で物事を捉えているが、明治22年までは亘理郡内に30ケ村が存在して、それぞれにかなりの自由度があった。その中でも小堤村(亘理)が中心的な役割を果たしていたのである。現在は、消防・ゴミなど再び大きな広域行政が効率的だと、そんな傾向になっている。郵便制度などの近代化が進むにつれて、小さな村単位では行政上の不便があるということで、明治の大合併が行われることになった。小堤村はそのままの規模で亘理町となり、他は大きくまとまり、昭和29年まで続く6町村体制が出来上がるのである。郡長が宮城県から派遣され大正末まで亘理郡の一体行政が行われることになった。 昭和に入ってからは各町村が力をつけたこともあって、独自の施策が実施されるようになったのである。電信より少し遅れて明治44年には電話が開通した。亘理では大商人の12軒が加入して番号1番は当時郵便局を運営していた門沢味噌屋さんだった。12番は新井町の武田亀吉商店(薬局)まで名だたる店が名を連ねていた。

参考文献 山元町誌 亘理町史(下巻) (記:鈴木仁)

 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。   
     

# by tyama2001 | 2019-10-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
令和元年9月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫

明治時代(1) 鉄道開通

 文明開化で日本人は沢山の恩恵を受けたが、最も大きかったのは鉄道ではないだろうか。
 それまで移動手段として人々は歩いていた、荷物は馬車を使うしかなかった。東京(江戸)までは7日間を要した。亘理―仙台も5時間以上かかった。
 明治5年に東京―横浜間の鉄道が開通し、主要都市に向けて徐々に広がっていった。
 仙台まで東北本線が開通したのは明治20年のことである。常磐線はさらに10年遅れて明治30年になる。
 鉄道路線をどういうルートにするのかとか、駅の設置について様々なことがあった。
 仙台駅も本来なら、長町駅を出てから人家の少ないところを通過して、現在の宮城野原貨物駅(楽天球場付近)に予定されていた。
 しかし、市街地を遠く離れたところに設置されては仙台の繁栄はあり得ないとして、当時の政財界を上げて猛烈な陳情を行った。その結果、現在にみるような線路がグニャリと曲がる形で市街地に入り込み仙台駅ができた。

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 すなわち、当時からすでに町の繁栄と鉄道は切っても切れない関係にあることが認識されていたのである。
 さて、常磐線の場合はどうであったのか、上野から始まり最終区間である相馬―岩沼間のルートを旧国道6号線沿いに坂元・山下の市街地近くを通す案があった。しかし残念ながら鉄道開通に関する地元の熱意がなかったとされる。
 鉄道事業は、現在のごとくJRに一本化したものではなく、工事会社が別にあった。
 そうなると、建設は勢い楽な方向へと流れる。人家の無いところを直線で結ぶことになってしまう。駅の数も少ない方がよい。
 新地駅を出てから坂元駅そして浜吉田駅まで直線で11km、さらに直線が続き亘理駅は荒浜街道の鳥屋崎付近、さらに真っ直ぐに進み阿武隈川を渡ってから、東北本線の岩沼駅に曲がるという設計図のようだった。

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 しかし、それでは困ると猛反対して亘理市街地に持ってくるべく、時の町長武田万次郎をはじめとして、亘理の商工人が一体となり陳情を重ねた結果、浜吉田駅を過ぎてから亘理へと大きく曲がる現在の如きルートができたのである。
 山下村では駅を作ることもなく、50年もそのままに放置されてしまったのである。
 戦後の昭和24年に至り、ようやく山下駅ができたのだった。
 新しく駅を作るには、工事費用のみならず単線なので駅の部分を二股線路にしなければならず、周辺に広い土地を必要とするのである。
 山下駅開設には、大きなエネルギーが必要であった。リーダーに立ったのは、その周辺に土地を持った「斎藤忠人」であった。郵便局長をしていた。彼の所有する土地を無償で提供した。郵便物も鉄道で運ばれてくるのだから駅がないのは不便なことこの上ない。
 駅ができてずっと後になってからのことだが、彼の功績を顕彰しようという機運が出てきて、胸像が立てられた。しかし不幸にして3.11大震災により倒されてしまった。
 新しい山下駅は、ずっと内陸部に移設され高架の線路が建設され、従来のルートは忘れ去られたようになっている。新駅の周辺は「つばめの杜」として山下の中心街を形成しつつある。
 さて旧山下駅の恩人たる「斎藤忠人」の胸像は、旧駅舎トイレの裏にポツンと置かれたままである。大震災後8年半が過ぎた現在、あまりにもわびしいことである。
 山元町役場も新築になり、目に見える形で復旧・復興が進んでいる現在、胸像はしかるべき場所に設置しなおして、その歴史をきちんと伝えるべきであろう。
 鉄道が通らなかった不便さはどこでも同様であった。福島まで来ていた当初の東北本線の計画は平坦地である角田・丸森地区を通る予定だった。ところが、白石・大河原・船岡などの誘致活動が勝ったのである。日本でも有数の急勾配がある国見峠を蒸気機関車があえぎながら走っていた。
 角田・丸森地区では、桑の生育に影響があるので反対したとされるが、負け惜しみでしかない。当時すでに鉄道の優位性は広く知られていたからである。桑に影響の無い事も先に鉄道が通ったところで実証済のことだった。
 稀には情報に疎く、蒸気機関車反対のところも全国の一部にはあったとされる。
 さて、亘理では東北本線に10年遅れだったので、その間は鉄道駅のあるところまで行かなければならない。現在の常識では岩沼駅であるが、実際には槻木駅が近いのである。逢隈の箕輪峠を越えての道が意外と近くトンネルも作った。亘理は槻木駅管内であった。
 つい最近の平成27年頃だった。農業センサスという調査票が亘理の各区長当てに来た。それに最寄りの駅が槻木駅とあり、そこまで何分かかりますかという設問があり、区長さん方は驚いたものだった。当時の名残りが農水省の文書にあったということになる。槻木の方々で、亘理は近いという認識をもった人々も多かったとされる。

参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)(記:鈴木仁)


  の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。   

    

# by tyama2001 | 2019-09-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
                    令和元 年8月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫

大正の頃(5) 電灯がつく

 現代人は近代文明の種々な恩恵を受けているが、電灯もその一つである。
 明治12年(1890年)に発明王エジソンのなかで最も偉大だとされる「白熱電球」を作りだした。瞬く間に世界中に普及していった。光りを出すフィラメントに、京都の嵯峨野にある竹が最も良い材料だったというのは、あまりにも有名な話である。
 東京では電気を使用した「アーク灯」の時代があり道路を照らしていたが、明治19年に電灯がとって変わった。仙台では紡績工場に電動モーターを採用し、その駆動に明治21年に三居沢水力発電所が出来た。電灯のことが伝わると、市内には火力発電所ができ、現在の大倉ダムのあたりにも水力発電所ができて、仙台では多くの家庭に電灯がともった。
 亘理郡に電気がくるまでには若干の時間を要した。大正に入る前年の明治44年(1911年)に亘理の町中に電灯がついた。
 阿武隈川を電力の電線を渡すのに苦労したのである。岩沼の玉崎と亘理逢隈の田沢との間に巨大な電柱を建てた。これが現代の如く鉄骨を組み立てたものか、巨木を立てたものなのかを筆者は知らない。
(ご存じの方がいたら教えてほしい)東北電力もわからないの回答。 旧国道6号線沿いにコールタールを塗った木材の電柱が立てられ、亘理の南町まで電気が通じた。亘理で最初の契約戸数は380戸であった。電気料金は10燭光(10ワット)の月間契約で55銭だった。
 (当時は1円で米が6Kg買えた時代である)当時の家屋の、天井に近い柱には、電線を導くための、円筒の小さな白い碍子が2m程度の間隔で取り付けられていたのを記憶されている方も多いであろう。
 現在の如く、塩化ビニールに覆われた並行電線などの無い時代だったので電線が2本、別々の碍子をたどって、天井からぶらさがる電球ソケットへとつながった。 電気が当時の吉田村を通り山下村へ通じるのには、さらに時間を要した。大正10年1月1日が開通日だった。
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 亘理では、国道沿いでなかった家には、なかなか電気が行かなかった。他家の軒下に碍子をつけさせてもらったり、自費で電柱を立てたりの苦労があった。
 しかし、ランプでの生活から電灯へは夜の生活を一変させたのである。
 その後、明治41年(1908年)にタングステン線によるフィラメント白熱電球が発明され電灯の寿命は飛躍的にのびたのである。
 亘理に電灯がついた明治44年頃には、このタングステン電球だったのかもしれない。この裸電球はとにかく熱かった。昭和30年頃でも同様な電球だった。100ワットともなると素手で掴むことができなかった。
 光に変換される電力はごくわずかで、大半は熱のエネルギーとして使われ効率の悪いことはなはだしかった。
 その後に蛍光灯ができ、同じワット数ながら格段に明るかった。 現在はLED電球へと進歩して、寿命は比べものにならないくらいに長くなったし、電力料金も格段に安くなった。究極の明りではないかとさえ思える。
 昭和の終わり頃まで、電柱の上には大きなトランスがのっていた。これも徐々に進歩して、今は当時とは見違えるほどに小型化された。家庭用に電圧を変換するトランスも熱をもつので放熱するために外観がヒダヒダのものだった。さらに冷却オイルには有害なPCBを含むものだったのである。これも現在は丸いつるつるのトランスとなっている。
 下に紹介するのは当会理事長千石信夫宅にある「明治末頃」との記述がある、山下村牛橋の写真である。その頃山下には未だ電気が通じていないはずだが、電柱らしきものが見えている(楕円内)。拡大すると電線のようなものまで見えるのである。公式記録では大正10年に山下の町場にようやく電気が通るのでそれより10年も早いミステリーな写真である。

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参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)    (記:鈴木仁)  

 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。   


# by tyama2001 | 2019-08-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
 山元町の古民家に、薬用に用いる植物、キハダ(写真1)が栽培されております。かねてより山元町の「伊達むらさき」に注目して研究を行っている東北福祉大学の小野木准教授は薬剤師の資格を有しており、キハダの周皮(黄色い皮の部分)に関心があるとのことでしたので、当NPOがキハダの伐採・周皮の観察会を企画し、7月20日に実施いたしました。

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写真1. キハダが栽培されている様子

 キハダの周皮は梅雨明けの前後に伐採すると剥ぎ易いとの情報を小野木准教授から聞いていたため、この時期の伐採となりました。また今回の企画には、同じく「伊達むらさき」を研究している城西大学生薬研究室の研究者(白瀧教授、鈴木准教授、北村助教及び大学院生2名)も参加し、大いに賑わいました。周皮(黄色い皮の部分)を採取(写真2~4)し、表皮が一部残った周皮(写真5)を観察すると、皆、不思議がっておりました。小野木准教授によると、キハダの周皮は天日乾燥されて「オウバク」という生薬として用いられること、大学の研究者でも実際に木を伐採して周皮を採取する体験をすることは稀ではないか、とのことでした。

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   写真2. 伐採木より周皮を剥ぐ

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   写真3. 表皮と周皮の様子 

   
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写真4. NPOメンバーと大学の研究者が協力して周皮を採取 


  
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写真5. 表皮が一部残った周皮


 キハダの伐採と周皮の採取・観察会の後、NPOの月例会(写真6)が行われ、東北福祉大学と城西大学の研究者もオブザーバーとして参加してもらいました。月例会では山元町の農家さんよりご提供いただいた朝採りの伊達むらさきのお浸し(写真7)を試食しながら、伊達むらさきの話や山元町の農業、生薬植物などの情報を共有するなど、活発な意見交換ができました。また、伊達むらさきに限らず、山元町の古民家という、新たな街の魅力に気づかされた企画でした。


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写真6. NPO月例会の様子


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写真7. 伊達むらさきのお浸し

# by tyama2001 | 2019-07-27 09:52 | 亘理・山元ニュース
元年年7月 1日
 NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫

大正の頃(4) 養蚕 <後>

 日本の養蚕業が全盛期に向かった大正期に、最も問題とされたのは品質のバラツキであった。宮城県内には多数の蚕種製造業者がいて、病気を持った蚕種や粗悪品も出回っていた。
 これらの業者に、病原菌もなく優れた蚕種を製造させるために「原蚕種」を配布するのが喫緊の課題とされたのである。
 この「原蚕種」製造所の設置を巡って、県内各地から猛烈な誘致の陳情合戦が行われた。 養蚕学校があったことにもよるが、時あたかも宮城県会議長が亘理の武田吉平(酒造業者)だった。その手腕もあって、大正6年11月の県議会において、「宮城県原蚕種製造所」が亘理に設置することが可決された。
 大正8年に亘理町館南の養蚕学校近くに250坪もの大型木造建築物ができた。蚕室、事務室などを含むものである。その後、大正13年には名前を「宮城県養蚕試験場」と改めた。
 原蚕種製造以外にも蚕業技術員の講習や試験研究なども併せもつことになった。
 さらに昭和7年に「原蚕種国家管理法」が施行され、蚕種検査室なども設けられた。
 下の写真帳は、その頃に発行されたものと思われる。





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 「宮城県蚕業取締所亘理支所」の文字が見える。難しい漢字で、現在とは逆向きで文字がかいてある。また右の写真は多数の女子検査工員が拡大鏡を用いて、蚕種紙を検査している様子である。
 この頃になると、京都からも高級技師が赴任してくるようになった。
 赴任者の中には、家族ともどもそのまま亘理に住み着いた人もいた。
 その技師一家の息子さんには、嫁さんは京都人でないといけないと、わざわざこの田舎に輿入れいただいたご婦人もいる。
 亘理町館南一帯は、宮城県きっての一大養蚕基地となったのである。旧亘理城(要害)の大手門から南西の広い土地に蚕業関連の各種建物が存在していた。官舎もあった。ここで昭和11年に生まれ仙台に住む知人は、わずか生後数ケ月で父親が転勤となったが、亘理に限りないシンパシーを持っているとのことだった。
 仙台から通勤していた県庁職員の方が、そのまま亘理に婿入りしてしまった人もいる。
 話がやや昭和に逆戻りしてしまったが、大正初期(2年)の亘理郡での蚕種業者と金額は以下の通りで、山下村に勢いのあったことがわかる。 ( )内は製造者戸数

   山下村    30,598円 (14戸)
   坂元村     263円 ( 1戸)
   亘理町    2,265円 ( 3戸)
   吉田村     -----
   逢隈村    4,652円 ( 8戸)
   荒浜村     -----

   亘理郡合計  37,769円 (26戸)

 ここで吉田村が抜けているのは統計ミスだったとされる。明治22年に亘理郡に近代養蚕をもたらしたとされる吉田村の鈴木吉太郎さん他1軒が、昭和12年まで絶えることなく操業を続けてきていたというのである。
 さて「蚕種」とは何かということだが、文字通り蚕の卵で、それを厚手の和紙に多数産みつけた「蚕種紙」というのが販売されていたのである。大きさは現代のA4版程度であった。この卵から生まれるのが「さなぎ」である。さなぎの保育器であり成長の場所でもあるのが 蚕棚と呼ばれるのが下の写真である。

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竹で編まれた直径1m程度、高さ5cmくらいの薄い籠である。ここで「さなぎ」は桑の葉を与えられ育っていく。
 ある時期になると、さなぎは白色から微妙に色が変化して糸を吐き出す時期がきたことがわかる。
 自らの体の周囲に繭を作っていくのである。 繭の光沢が品質を決めた。この段階で普通は仲買人に買いとられ、伊具郡の金山にあった佐野製糸場に運ばれた。馬の背に荷物を振り分けて、山下村の明通峠を越えて行くのである。この生繭は時期が遅れると中のさなぎが羽化して飛び立つときに繭が壊れるので、速やかに高温で処理して中のさなぎを殺すのである。1個のさなぎからは約1kmもの糸がとれ、これを数本より合わせて1本の絹糸となるのである。
 この仲買人には、当初亘理郡でも名のある商人がやっていたが、大変な利益が出る事から我も我もと新規参入が相次いだことより、大正末には免許制となった。
 「蚕」のことは、現在では忘れられつつあるが、伝統を残さんと丸森の大張小学校では教育に取り入れられ、皇居では上皇后美智子さまが育てられていることがニュースになっている。

 参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)        (記:鈴木仁)

 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。

# by tyama2001 | 2019-07-01 00:00 | 亘理・山元ニュース