令和3年9月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
http://www.watari-yamamoto.com/
平安時代中期の出来事
逢隈駅に隣接して西側の丘陵一帯に広がるのが「三十三間堂官衙遺跡」である。
整然と立ちならぶ、大きな礎石群は、江戸時代から注目されていたのだが、平安時代からの伝承が全く途切れていて、礎石の上に何が建っていたのかがわからなくなっていた。昔から各人各様の説が唱えていた。石の並びから三十三間堂の如き仏教施設があったものと推測され、いつしか通称となっていたのである。
礎石群は、いくつかのグループがありその上には高床式の倉庫が立ち並んでいたとされる。
これとは別に、郡衙の役所そのものは礎石が無く「掘ったて柱」方式のものであるが、建物は立派な様式のものであったようだ。中央からの役人も多くきていたのであろう。先号に古今集の歌を示したが、それ以外にも多くの和歌が作られた。後の世の新古今集などにも採択されている。現代はといえば、同所を地元の人々が絶好の墓所として利用している。百軒もの方々の墓石がたちならんでいる。「史跡」と現代人の墓が共存している。
この時代に中央の宮廷では、藤原氏が最高権力を握り実質的に日本を支配した。大化改新を主導した藤原鎌足の息子である不比等が娘を聖武天皇の妃(光明皇后)とした奈良時代中期から、藤原氏は妃となった娘の産んだ子供を天皇につけて、外祖父となった藤原氏が実権を握ると言う、摂関政治と呼ばれるものである。
その権力が頂点に達したのが1000年頃の「藤原道長」の時代である。その娘(彰子)を同様に天皇の妃として、その宴席で披露した歌がこれまた歴史に残っている。
「この世をば我が世とぞおもふ満月の欠けたることもなしと思えば」
あまりにも傲慢な作句であるが、居並ぶ朝廷の役人は、これを賛美するしかなかったとのことである。
「藤原道長」は966年に生まれている。丁度同じ年に「清少納言」も誕生し、「紫式部」もほぼ近い時期に生まれている。
道長の偉かったのは、これら才能ある女性を宮廷に召し出し、存分に活躍させたことにある。古代文学の黄金期を作ったことにあるとされる。
在野にあった和泉式部も恋多き女性として当時は有名な存在だったとされるが、貴女の経験は貴重なものであるとして勧め、当時は貴重品であった和紙を提供して「和泉式部日記」を書かせている。日本古代文学のパトロン的役割を果たしている。
道長自身も没するまで、自分自身の日記を書いている。62才で病没するが、病状を書いた部分から「糖尿病」だったことがわかるということだ。糖尿病を患った人の最古の記録でもあるとされている。
藤原氏一族も鎌足から300年が経過して、子孫の数も多くなると当然ながら内部抗争も多くなってくるし、冷や飯を食う分家も出てくる。その一人が藤原実方中将である。
当時から和歌の大家として知られていたが、権力闘争に敗れて「陸奥守」として左遷されることになった。995年のことである。その多賀城に赴任して4年後に名取の視察に出かけたさいに愛島の道祖神前を馬から降りずに通り過ぎた天罰とされるが、落馬して死亡するのである。話が出来すぎているので、現地の豪族に暗殺されたという推察もある。
うっそうたる竹林の中に墓所がある。現在は名取市の観光名所となっている。
国守である「陸奥守」もそんな状況だったので、郡衙である小さな役所にすぎないところ
に都からの官人が来たがらなくなったのはなかろうか。亘理郡衙が廃所となったいきさつ
ではなかろうか。本当に廃所になってしまったのか、坂元から逢隈に移転した如く、他所に
郡衙が移った可能性も否定しきれない。役人は任命されても都にとどまってしまったのか。
ここから百年後に活躍する「亘理権大夫藤原経清」は、亘理郡司に任命されている。その
館はどこにあったのか、亘理郡史上の謎とされている。
さて、この時期に活躍した人物で陰陽師として有名な「安倍晴明」がいる。993年に時の
一条天皇の重い病を祈祷で快癒させたことで名をあげる。元々、宮廷には陰陽を司る役所が
あった。五行(火・水・木・金・土)と陰・陽の組み合わせ、さらに天体の動きなどを総合
して占いや、朝廷に邪気が入らないようにする結界をはる仕事をしていた。
現代でも、五行・陰陽に従った占いの小冊子がお寺さんや神社から配布・販売されている。
直接に関係のない話であるが、フィギュアスケートでオリンピック2連覇の偉業を達成した羽生弓弦選手は「セイメイ」という雅楽の如き曲を用いた。
安倍晴明は死後に祀られ「晴明神社」がある。千年後も霊験あらたかだと参拝者が増えて話題になった。(余談である)
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
山元、亘理町史など (記:鈴木仁)