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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001
令和2年8月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長 千石 信夫 

                           http://www.watari-yamamoto.com/

江戸時代(その5)
<戦国末期から江戸初期の頃へ>

 鎌倉時代より室町時代を経て戦国期へと、亘理郡をおよそ400年間支配していたのは、千葉の豪族だった武石氏(後にこの領地の地名にちなんで「亘理氏」と改めた)である。

 鎌倉幕府が平泉の藤原政権を滅亡させた戦いで、恩賞として亘理郡などを与えられた。同じ戦いの時に伊達氏も恩賞地に福島県北部の伊達郡を与えられ、その当時の鎌倉時代には領地・勢力ともに、亘理氏も.伊達氏も.同じ程度だったのである。

 しかし、伊達氏は着々と領地経営に励み、9代目の政宗の時代に飛躍的に領土を.拡大した。ずっと後年の仙台藩祖・政宗は、この英傑だった先祖の名前にあやかったものである。 (仙台藩祖・政宗公は、初代朝宗から数えると14代目になる)

一方の亘理氏は内紛が起きてしまい.衰退をたどることになった。伊達氏11代目の稙宗の時代には、亘理氏は伊達氏に.完全に屈服することになる。亘理氏は.稙宗に娘を差し出し、その生まれた男子を自分の後継ぎとするのである。「綱宗」である。だが早死にしたので次の子供である「元宗」が亘理氏を継いだ。「元宗」の子で伊達稙宗の孫となる「重宗」もまた伊達家の大きな戦力となった。「綱宗」「元宗」の兄弟が伊達郡から亘理に出発するに際して稙宗は二人の従者を与えた。その一人が千石大炊助(当NPO理事長千石信夫の遠祖)である。

 日本の戦国時代が終息したのは豊臣秀吉の時代である。その時、大名として伊達家初代となった藩祖・政宗は本拠地福島から岩出山に転封させられた。天正19年(1591年)のことであった。宮城県中央部から福島県中通り一帯を支配することになったのである。各地に重臣を配置するのだが、亘理郡には、「片倉小十郎」が配され、亘理氏は涌谷に移された。
 亘理の南隣には、相馬氏がいて「稙宗」の時代から激しく戦っていた。戦国時代が終息したとはいえ、まだまだ油断のできない状況であり、相馬氏と対抗するのに、亘理氏に全幅の信頼を置くというわけにゆかなかったのだろう。
 涌谷に移った亘理氏は、その後「伊達」の姓を賜り完全に伊達氏の一族となったのである。

 時は移り明治となってから、涌谷伊達氏は亘理氏の姓に戻った。400年間も亘理郡を支配した殿様なのであるが、不思議なことにその墓が一つも見つからないのである。亘理の歴史上、最大の謎として残っている。涌谷に運んだわけでもなく、涌谷の郷土史家も殿様の子孫もわかりませんというだけである。(但し、山元町小平の鳳仙寺に亘理氏より分家の墓がある)

 亘理に来る以前の武石氏の墓は千葉市の寺に残っている。東京と千葉を結ぶ京葉高速道路にも「武石インター」という名称が残っている。

 亘理郡には、戦国時代まで亘理氏と並びもう一人の豪族がいた。十文字氏である。亘理郡逢隈の十文字に館があった。(現在の十文字神社付近)先祖は源左衛門綱安である。源義経の平泉下りに京都から同行してきた。綱安は平泉陥落の際に落ち延びて、亘理郡十文字に館を定めたのである。綱安は鬼退治で有名な渡辺綱の子孫であると称していた。
 現在は大雄寺となっている亘理氏の城だった「小堤城」と直線距離にして10kmほどしか離れていないところで、十文字氏は対峙していたのである。小さな勢力だったので、海岸線を行き来して相馬氏と結び亘理氏を牽制していたのである。だが、戦国末期に伊達成実が十文字氏を攻めて滅亡させたとされる。どのような因果なのか十文字氏は涌谷に落ち延びて、涌谷伊達氏の客分となり明治まで留まるのである。
 明治以降に東京に出た十文字氏は、十文字学園という学校を開設して女子教育に貢献することになる。現在の亘理にもその卒業生がいる。

 さて、豊臣秀吉の死後に関ヶ原合戦が起こり(慶長5年:1600年)勝利した徳川方についた政宗は、仙台に居城をもらい宮城県と岩手県南部一帯を領有することとなり、伊達家重臣の配置換えが行われた。亘理には伊達成実である。新地までの30余村の領地で後に2万4千石となる。成実は伊達一門にあってもきっての猛将といわれたが、「成実記」という戦国末期の伊達軍の行動を記録しており、今や第一級の史料とされている。武勇のみならず、文筆にも優れた武将だったのである。

 亘理領地に包含されるように坂元村のみが大條氏4千石をもらう。大條氏は、以前に紹介したように伊達家9代目政宗の弟を祖先としている。坂元は蓑首城と言う。明治以降に東京に出た大條氏一族の一人は、世田谷区に日幸電機を起こす。現在は亘理町吉田さらに山元町坂元にも工場をもつ。近年、山元町長を勤めた大條氏も一族のひとりである。

 これまで現代から500年ほどを遡る戦国期まで書いてきたが、次号からは一挙に1500年ほどを飛んで、亘理郡で製鉄が始まったころのことから書き下してくることにする。

文献  山元町誌  亘理町史上巻   (記:鈴木仁)   

# by tyama2001 | 2020-08-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
令和2年7月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長 千石 信夫 

                           http://www.watari-yamamoto.com/


江戸時代(4)唐船番所

 江戸幕府はキリシタンを厳しく取り締まった。外国人の出入りは長崎の出島だけで許され国内沿岸地域での.接触を禁止された。そのためには外国船の発見が必要であるとして、日本各地に「唐船番所」が設けられた。

(当時の日本人の世界観というのは、外国とはすなわち中国であり歴代王朝の中でも盛名の高かった「唐」が外国を表すものとなった。欧州人は、南からやってくる野蛮人のたぐいということで「南蛮人」と区分されていた。ただ、将軍家や大名クラスは世界情勢にも通じていたのだが、一般人に世界は、わからないことだった)



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 さて、仙台藩では「唐船番所」が五か所に設けられた。最南端が山元町坂元にある。磯浜漁港の南西方向にある。海岸近くに突き出た小高い丘の先端にある。高さ20mくらいしかないのだが、眺望がよく晴れた日には牡鹿半島から金華山までもが肉眼でもくっきりと見える。ここに遠眼鏡(望遠鏡)を設置した。誰が監視にあたったのかというと、仙台藩直属の足軽詰所が丸森町の金山にあり43名がいた。そこから2名で1組となり5日間の交代勤務だった。
 設置されたのは正保3年(1646年)のことである。以来、遠眼鏡に映るのは海と和船のみでほぼ100年近くにわたり外国船を見つけることは無かったのである。
 ようやく元文4年(1739年)に至り、異国船団3隻の通過をみるのだった。これはロシアのベーリング卿が率いるものだった。幕府に通商を求めるも拒否されて帰国の途中だった。あらかじめ船が通ることは知らされており、確認したようなものだった。それを知らせるべく早馬が仙台へ向かった。ベーリング卿は、最北の海を見ようとカムチャッカ半島沿岸を北上してロシアとアラスカの間に海峡があることを知った。近代人では最初の発見であり、自分の名前が海峡名として地図上に記載されることになった。

 後に「大航海時代」と言われるように、先進各国は競って太洋に船を出した。航海技術が大幅に進歩したからである。
 有名なのは、イギリスのジェームス・クック船長で、太平洋の真ん中にハワイ諸島を発見することになる。1800年代まで7つの海を支配したとされる大英帝国ができる。
 


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 これに負けまいとロシアも盛んに動いていた。船以外にも陸上から千島列島を南下してきた。
 徳川幕府は、これに危機感を抱いた。蝦夷(北海道)は日本の領土であると認識しながらも、領主は函館近くに松前藩があるだけで、北の守りは極めて薄い。
 そこで幕府は、東北地方の大名に警備を命じた。仙台伊達家は北海道の南東海岸と南千島列島が当てられた。1799年に出兵を開始して1821年には最大2千名もの仙台藩士が駐屯している。択捉島にも600名もの藩士が渡ったが、寒さに対する備えが弱かったのであろう。わずか半年余りの間に100名以上もの死者を出して、この島を引き上げた。
 しかし、その後も幕府からの命令で北海道の三分の一に相当する海岸線の警護を仙台藩が担うことになった。北海道総括支所ともいうべき「陣屋」を白老町に設けたのである。(現在は史跡に指定)。そこには塩釜神社もあり仙台の人たちの心のよりどころとしたのだろう。

今は立派な資料館がある。

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 南下を続けるロシアとのいざこざは、さらに続き幕府はとうとう条約を結ぶことにしたのである。1855年に「日露和親条約」を締結した。国境線を択捉島と次の島の中間点とした。これが現在も北方領土問題として未解決の歯舞群島と色丹島さらに国後島、択捉島が日本固有の領土であるとする根拠ともなっている。
 仙台藩の出兵時に亘理伊達家や坂元大條家から参加しているのかどうかは定かではない。ただ北海道の情報は得られていて、後の亘理藩士移住地の選定とも関連すると考えられる。江戸幕府は鎖国政策を取っていて、日本の船が外国には行けないようにと、甲板のある船の建造を禁じたのである。 大きなものでも千石船と言われるもので、帆が一枚のみで、多数の漕ぎ手が動かしていた。

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米を主とする日本の沿岸地域の交易のためである。荒浜港もその拠点の一つだった。この程度の船だったので難破することも多く、遠い中国やフィリッピンとか、ロシアのカムチャッカ半島まで流されるものも多かった。難破の末に世界一周をしてしまったという、石巻の若宮丸の乗組員が有名である。また、ロシアにそのまま永住してしまった方々もいる。

文献  山元町誌  亘理町史上巻   (記:鈴木仁)

# by tyama2001 | 2020-07-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
令和2年6月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長 千石 信夫 

                           http://www.watari-yamamoto.com/


江戸時代(3)伊達騒動と亘理郡


 江戸時代(3)伊達騒動と亘理郡伊達騒動の主役である「原田甲斐」実母の墓が亘理・山元町共同火葬場の西へ約500mの小高い山の頂にある。


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 事件後に原田一族の男子はことごとく斬首されたが、実母は亘理伊達氏にあずかりとなった。

 彼女は不名誉この上ないと絶食して果てた。享年74歳。原田甲斐の実母は、伊達政宗と豊臣秀吉の側室である「香の前」の間にできた娘なのである。

どのような経緯があったのかというと、戦国時代末期の豊臣政権初期の段階で、政宗がまだ宮城県一帯を支配していない頃だが大崎・葛西一揆が起きた。現在のおおさき市のあたりだ。

  この一揆は政宗が仕掛けた陰謀であるとの噂が広がってしまい、秀吉よりどういうことか説明に来いといわれ、京都の伏見城へ政宗が重臣を引き連れて参上した。その中に茂庭周防(後におおさき市松山に1万石を領する)がいて、茂庭の言上を聞いた秀吉はすっかり気に入ってしまった。直属の家来にしたくなり、伏見に大名並みの屋敷を与えると言われた。しかし茂庭は二君にまみえずとして断った。

 あきらめきれない秀吉は、「囲碁」で決着をつけようとした。負けたら秀吉に従い、茂庭が勝ったら側室の一人をくれてやるというのである。この頃の戦国武将は皆な囲碁が強かった。信長・秀吉・家康・信玄など、現在のアマチュア高段者並みの実力があったらしい。

 茂庭は負けたら切腹のつもりでいた。しかし秀吉に勝ってしまった。

 側室筆頭の淀君をもらうわけにもゆかないので、末席の「香の前」を頂戴した。

 だが、茂庭は「香の前」をそのまま政宗に差し出したのである。秀吉との関係もあるので私有すると政宗からあらぬ疑いをかけられぬと思ったらしい。「香の前」は、政宗との間に女子1人と男子1人を生んだところで、政宗は「香の前」をあらためて茂庭につかわした。茂庭はその子供をも自分の子供として引き取ったのである。

 その女子は長じて、原田家に嫁し「原田甲斐」を生んだのである。


 そもそもの伊達騒動の発端は、仙台藩3代目の綱宗が酒色におぼれ「不作法の儀あり」として幕府より若くして強制的に隠居させられたことによる。

 仙台藩そのものが危機となった。長男の亀千代君はまだ幼少であるが、4代目を継がせるべく、仙台藩の重臣14名が揃って連判した嘆願書を幕府老中に提出して認められた。その中に伊達安房(亘理)や奉行職にあった坂元・大條氏などの署名もある。

 幼君の後見には、一関当主で政宗の息子で一族筆頭の伊達兵部がつき、奉行には原田甲斐が当たることになった。


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 近年になって伊達騒動が注目されたのは、昭和45年にNHKの大河ドラマ「樅の木は残った」で、原田甲斐があたかも己を犠牲にした大忠臣であるとされたことによる。原作者・山本周五郎の小説が見事すぎて、従来の定説・史実が逆になるような現象が起きてしまった。

 作者の山本の先妻が亘理の出身なので、仙南地区の歴史にも興味を持って歩いていたようだ。船岡城址に現在の柴田町の観光資源でもある「樅の木」の若木を見たのだろう。

 時あたかも、亘理では「町史」上巻の編集作業が行われていた。またNHKでは大河ドラマの関連資料を全国的に調査していて、青森に住む人が大量に史料を保管しているのがわかった。志賀さんという方で亘理伊達家の首席家老だった志賀六郎兵衛の子孫である。明治初期に北海道に移住したものの、その後青森に移った。亘理からも史料調査隊が出かけたのである。伊達騒動に関するものも多く残っていた。

 注目されたのは、甲斐が亘理に対して借金の保証人になることを依頼した文書である。自分(甲斐)は誰もが知る「すれっからし」(貧乏人)である。今般江戸屋敷詰めを仰せつけられたが、2千両は必要である。京都の豪商から借用するが、自分の領有する5千石の分限では千両しか借りることができない。残り千両の保証を亘理にお願いされたものだった。

 亘理から返事は出さないままだったが、やがて借用書そのものを船岡から持参してきて、承諾を求められた。たまたま、志賀は江戸に行き留守の時だった。応対に当たったのは家老の一人である佐野甚解由だった。彼は借用書に押印したのである。後に志賀から咎めを受けた。彼の言い訳は亘理伊達家の若き3代目未亡人と甲斐は「首尾之有る中」でという口上が文書に残っている。(承諾しないわけにはゆかなかったというのだ)

 原田甲斐は、派手好きで金離れがよかったようだ。現代でいうプレーボーイ的なところがあったのだろう。ただ甲斐の家臣たちにも惜しみなく金を与えていたようだ。慕われてもいたのである。甲斐の没後7回忌が東陽寺で行われた際に.散り散りになっていた百余名の家臣がお寺に集まってきたのである。お互いに連絡を取り合って.いたのだろう。

 伊達騒動そのものは、仙台藩内の登米伊達氏と涌谷伊達氏との境界争いに端を発している。

 仙台本藩の後見役である伊達兵部や原田甲斐には調停能力がなく、登米伊達氏は幕府に訴えた。関係者が幕府の酒井老中の屋敷に集められ、これから評定という時に甲斐が刃傷に及んだ。当時、借金地獄に苦しんでいた甲斐は、さらに責任を負うのではと.考えて行動したのであろうと推察される。


 文献  山元町誌  亘理町史上巻   (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2020-06-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
令和2年5月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長 千石 信夫 

                           http://www.watari-yamamoto.com/


江戸時代(2)大條道直公(坂元領主:伊達家重臣)の活躍


 いつの時代にも最高権力者・権威者となると必ず付きまとうのが世継ぎ問題である。

 江戸時代の徳川家も、代々の後継者に苦労した。ところが11代将軍・家斉には子供ができすぎてしまった。16人の側室に53人もの子供を産ませ、半数は夭折したが、成人に達した女子には嫁入り先を、男子には将軍家にふさわしい大名家の養子先を見つけなければならないという、新たな問題が出てきた。

 ちょうどその頃に、仙台の伊達家では11代目の藩主斉義公が、文政10年(1828年)若死し世継ぎ問題が出ていた。そこに幕府が介入してきた。有力な養子先を見つけたのである。だが、仙台藩にとっては大問題だった。

 政宗の血統を守らなければと、時の幕府筆頭老中であった水野忠成を説得しなければならなかったのだが、並み居る重臣たちは尻込みした。

 その時、敢然として藩の若年寄りの地位にあった坂元領主の大條道直が立ち上がった。

 説得が成功して12代目藩主には、政宗に最も近い血筋である登米伊達家から斉邦が迎えられることになった。  

 その功績に対する褒美を問われ、青葉城内にある「茶室」を所望した。

      

この茶室は、もともと豊臣秀吉の京都伏見城にあったものを伊達政宗が拝領したといういわれを持ったものである。

大條道直は、その茶室を大條氏の仙台屋敷である現在の国際センターのところに移築した。

この茶室は、そのご数奇な運命をたどる。

明治維新後になると、政府は軍用地として大條氏の屋敷を取り上げ、仙台市支倉に家を与えたので、この茶室もそこに移転した。

さらに昭和17年になると、戦時下ともなり今度は、大條氏の居城であった坂元要害の三の丸跡地に移築されたので、仙台空襲による火 

災からは免れた。



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 しかし令和の現在、この茶室は上記写真の如き無残な姿をさらしている。往時への再建を果たすべく、いろんな活動が行われている。

江戸時代にこの茶室が仙台の大條氏邸内にあった時には、茶会のみならず仙台の文人たちが集まり論談した一種の文化サロン的な役割も果たしたとされる。

仙台藩四大画家の一人である東東洋など、江戸時代中期から後期にかけての墨客などが多数訪れていた。


東東洋の絵

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大條氏は、同じ亘理郡内にあっても伊達成実以降の

亘理伊達家に比べて知名度こそ劣るが、古い由緒をもった家柄なのである。

伊達本家自体の発祥は、1189年に源頼朝が平泉の藤原氏と戦った際に戦功があったとして、現在の福島県北部の伊達郡(現在は伊達市)に領地をもらった。後の戦国時代を経て.62万石となる.大名ではなく、当時は東北の一豪族に過ぎなかったのである。

ところが、室町時代に現れた9代目の政宗(我々が知る仙台藩祖ではない)が、英傑であり周囲を次々と進攻して領地を拡大し奥羽の有力大名となったのである。

その政宗が弟を分家させ、伊達郡の梁川に領地を与えたのが大條氏の始まりなのである。

ずっと後年になり、戦国時代も終盤を迎えた頃に、本家の16代目である輝宗が長男の梵天丸が幼少の頃から人に秀でた資質を備えているのを見て、9代目の如く活躍することを願って元服時「政宗」の名を与えたとされる。

大條家は戦国時代を通じても、さしたる武勲を上げることもなかったが、伊達家の分かれでもあり江戸時代になると坂元に4千石を頂き仙台本藩の節目に活躍しているのである。

大條氏一族の末裔で歴史的遺物を多数所有する方がおり、それらの公開が検討されている。

余話

時代が停滞を続けると、いつの世にも賭け事が幅をきかせてくる。現代では「IR」というカジノ、一種の「賭場」をつくり日本の再活性化を図ろうとする試みがある。

江戸時代の後期にも、現代と似たような状況があったと.思われる。渡世人が亘理に来て.「鉄火場」を開設したのである。公認だったのかおそらくは隠れて行われていたのだろう。

しかし、この賽の目にはまった大豪農がいた。数十町歩を所有し500年にも渡って続いてきた家である。それらの田畑・財産をまき上げられるのに、いくらの時間もかからなかったようだ。その方は.自宅とその周辺が残ったに過ぎなかったのである。

 それからもう2百年に近い時が過ぎて、渡世人の7代目くらいになる。事情を全く知らない人は、この家が多くの土地を有することから昔からの名家だと思ってしまっている。しかし血は争えず一族の中には競馬に夢中な困った人.もいるのだということだ。

参考文献  山元町誌   郷土わたり(121号)      (記:鈴木仁)


# by tyama2001 | 2020-05-07 09:07 | 亘理・山元ニュース
令和2年4月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長 千石 信夫 

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江戸時代(1) 幕末のこと 

 歴史上の転換点となった年が過去に幾度かあるが1868年(明治元年=慶応4年)も、そのひとつであった。600年近くも続いてきた武家社会である幕府が日本を支配した封建制度が崩れた。
 朝廷(天皇)に権力を取り戻そうとする動きが、公家の岩倉具視を中心に活発化して長州藩を巻きこんで、後には薩摩藩も加わり日本中が騒然となった。京都守護職だった会津藩など幕府を擁護する側は当時の首都であった京都において社会秩序を保つ為ではあったが、長州などに徹底した弾圧をおこなった。
  風雲急を告げる情勢は、仙台藩主に変わって江戸の警備に当たっていた亘理の伊達邦実も肌で感じ取っていた。薩摩藩が武力蜂起すべく乱暴狼藉を江戸市中で行っていたからである。遠く仙台でも議論が沸騰していた。
 幕府は、前年の1867年の10月朝廷に大政奉還して、形式上は王政復古となっていたが実権は幕府が握っていた。
 仙台藩は、どうするのか態度を明確にするように朝廷側から圧力がかかった。藩主の慶邦自ら上洛して説明することを求められた。しかし藩主は健康上のことなどで動かなかった。あまりに時期を失してはということで、坂元の領主であり仙台藩の奉行職にあった大條道徳が建白書を持参して京都に向かった。運命の年、1968年1月だった。

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 しかし時、すでに遅く京都の鳥羽・伏見において、戦いがはじまっており「錦旗」を掲げた薩摩・長州軍が会津などの軍勢を破り、一挙に会津は朝敵となってしまうのである。  勢いを得た「朝廷軍」は江戸を目指した。3月には江戸城の無血開城に至る。
 会津は必死に、朝廷に敵するものではないと訴えたが、聞き入れてはもらえない。
 同じころ、仙台にも九条総督をはじめ官軍参謀がやってきて、会津討伐を督促した。
 仙台藩はやむなく軍勢を整え出陣した。亘理軍は稲荷山に集結して湯の原口へ向かった。会津藩と仙台藩は、いわき方面で先陣同士で戦闘がありわずかだが死者もでた。
 そのうちに、この戦いはどうもおかしいという機運が東北各地の藩に出て来た。奥羽の各藩が一同に会して、話し合いをしようということになった。これに尽力したのが仙台藩士の玉虫左大夫である。後世には仙台の坂元竜馬ともいわれる俊英であった。1860年の咸臨丸で西欧に派遣された勝海舟など77名のうちの1人である。
 5月に奥羽各藩家老が白石に集まり、最終的には越後の長岡藩も加わるなど31藩もの大同盟ができあがった。盟主には江戸にいた輪王寺宮を迎えた。(明治の前の孝明天皇の従兄弟である)
 同時に「奥羽列藩建白書」を朝廷に提出した。我々は「王政復古」を支持するものであり、朝廷を敵とするものではない。鳥羽・伏見の戦いも偶発的なものである。九条殿下の命令によって仙台藩は会津と一戦を交えたが、藩主の松平容保は恐縮している。徳川氏も謹慎している。皇国の末長い繁栄を願っております。このような事情を踏まえて穏便なる処置をお願いしたいというようなもので宣戦布告とは異なるものだった。
 しかし、折悪しく官軍参謀だった世良修蔵が、奥羽は皆敵であるとして軍勢の増援を要請する密書を届ける途中で奪われ世良は惨殺されてしまった。
 これがきっかけで、奥羽列藩同盟は軍事同盟と化したのである。

 官軍側は会津への攻撃を強め8月には陥落する。
 仙台藩もいわき口などで戦わざるを得なくなった。小さな藩には応援の軍勢を差し向けた。しかし、近代装備に勝る官軍にはたちうちできず敗戦に次ぐ敗戦だった。劣勢の奥羽同盟は寝返る藩が出たりで決裂も同然となった。
 相馬口でも敗れた。内陸部では現在の丸森町南部の旗巻峠で激戦となったがこれも敗れた。浜通りの戦場は駒ヶ嶺となったが、雨のために火縄銃が使えなかったことが原因とされるがここも敗れ軍議所を坂元館に移して、挽回作戦を立てると同時に、講和の意志のあることを伝える為に山下の百姓、長左エ門・彦兵衛が大活躍することは、山元町役場内にある「記念碑」に詳細があるので省略する。仙台藩主伊達慶邦は降伏を決意することになった。
 降伏式は、亘理城において行われた。賊軍とされた。勝てば官軍だったのである。
 仙台藩の総責任は、但木土佐と坂英力の2人が、江戸から東京と変わる明治となってから、切腹することによって終結した。亘理の戦死者は城址の西端に石碑がある。坂元では、徳本寺に葬られている。

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参考文献  仙臺藩戊辰殉難者五十年弔祭誌(大正7年)山元町誌 亘理町史(上巻)        (記:鈴木仁)   

# by tyama2001 | 2020-04-05 10:29 | 亘理・山元ニュース