令和4年5月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
平安時代末期の出来事(下)
「黄金の国ジパング・・」と西欧に日本を紹介したのが、イタリアの商人であり冒険家でもあったマルコポーロである。それを記した「東方見聞録」を1300年頃に出版した。
中国の東方にジパング国があり、金を大量に産出して、宮殿は床から屋根まで金で作られていると述べている。
前九年合戦、後3年合戦と戦乱に明け暮れた奥州を最終的に勝ち残ったのは、亘理権太夫経清の息子である藤原清衡であった。福島県白河から青森までを勢力範囲として、丁度その中間地点に当たる平泉に拠点を置いた。
戦乱で多くの命が失われ、また自分の家族も亡くした清衡は、仏教による統治を目指したのであろう。中尊寺を建立した。経蔵には膨大な経典が今に残っている。
偶然にも北上山脈は、金の鉱脈の多いところであった。最初は奈良時代に山脈の南端である宮城県の涌谷地方で金が発見され大仏建立に大きな役割を果たした。なぜ北上山地に金が多いのかは地質学的に説明されているが、採掘は明治時代まで続くのである。世界最大級の100kgを超える金塊も発見されている。
平泉藤原氏はこの産金により繁栄するのである。金色堂にはフィリッピン付近まで行かないと生息していない貝を使った螺鈿を散りばめた柱がある。
直接、南方諸国と交易していたのか、中国などを介していたのかはわからないが、驚愕することである。
金色堂須弥壇の下には藤原氏四代がミイラとなって眠っている。この頃の日本にはまだ遺体をミイラ化することは行われていない。日本最古のミイラということになる。
なぜ、どのようにしてミイラとなったのか謎である。
平泉の栄華は、8百年後の日本が第二次大戦による荒廃から立ち上がり、繁栄を遂げる過程に似ているのかもしれない。平泉藤原氏は四代百年に渡る平和を東北地方にもたらすが、最後には源頼朝の策略と軍事力によって滅ぼされてしまう。
百年の間でしかなかったが、平泉文化は大きく花開いた跡が今に残っている。
三代目秀衡の時代になると、その繁栄はピークに達する。京都宇治にある平等院鳳凰堂を模してはいるが、規模はそれよりも大きな無量光院を建立して.いたことが発掘調査から明らかになっている。
写真は美しすぎる建築とさえ言われ極楽浄土を表現したとされる現存の京都鳳凰堂で、さらに雄大なものが平泉に存在していたのである。
(三筆とは日本書道史上に輝く3名の能書家を指す。空海、嵯峨天皇、橘逸勢)
天皇の真筆は「宸翰」と呼ばれ、現存するものは少ない。
この時代の歴史書で現代に残る「吾妻鑑」がある。
1180年から1266年までの出来事が細かく記載されている。鎌倉時代の正史を記録するために編纂されたものである。
このなかに当然ながら1192年の平泉滅亡の様子も書かれている。
源頼朝の全国統一は、各地の独立勢力を許さないというもので、平泉勢力をも敵とした。
頼朝に追われて平泉に逃げ込んだ義経を擁して、秀衡は頼朝と一戦を交えようとしていたが、ほどなくして秀衡が病死してしまう。
頼朝は跡を継いだ泰衡に圧力をかけて、義経の首を要求する。
泰衡の攻撃を受けて義経は自害するのである。
頼朝の策略に嵌ってしまったのである。戦闘に天才的な能力を持っていた義経がいなければ平泉攻略は容易だと考えて大軍を発した。
浜通りに軍を進めたのが、千葉常胤を大将とするその一族郎党で、戦後に功として次男が相馬を三男胤盛が亘理郡を領地として拝領するのである。
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
山元、亘理町史など (記:鈴木仁)