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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

令和4年5月1日 

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

平安時代末期の出来事(下)

「黄金の国ジパング・・」と西欧に日本を紹介したのが、イタリアの商人であり冒険家でもあったマルコポーロである。それを記した「東方見聞録」を1300年頃に出版した。

中国の東方にジパング国があり、金を大量に産出して、宮殿は床から屋根まで金で作られていると述べている。

奥州、平泉の「藤原清衡」が建立した中尊寺金色堂(1124年建立)を見た中国の商人がいたのかもしれない。マルコポーロは、そんな人達からの話を伝え聞いたのであろう。



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前九年合戦、後3年合戦と戦乱に明け暮れた奥州を最終的に勝ち残ったのは、亘理権太夫経清の息子である藤原清衡であった。福島県白河から青森までを勢力範囲として、丁度その中間地点に当たる平泉に拠点を置いた。

戦乱で多くの命が失われ、また自分の家族も亡くした清衡は、仏教による統治を目指したのであろう。中尊寺を建立した。経蔵には膨大な経典が今に残っている。

偶然にも北上山脈は、金の鉱脈の多いところであった。最初は奈良時代に山脈の南端である宮城県の涌谷地方で金が発見され大仏建立に大きな役割を果たした。なぜ北上山地に金が多いのかは地質学的に説明されているが、採掘は明治時代まで続くのである。世界最大級の100kgを超える金塊も発見されている。

平泉藤原氏はこの産金により繁栄するのである。金色堂にはフィリッピン付近まで行かないと生息していない貝を使った螺鈿を散りばめた柱がある。

直接、南方諸国と交易していたのか、中国などを介していたのかはわからないが、驚愕することである。

金色堂須弥壇の下には藤原氏四代がミイラとなって眠っている。この頃の日本にはまだ遺体をミイラ化することは行われていない。日本最古のミイラということになる。

なぜ、どのようにしてミイラとなったのか謎である。

平泉の栄華は、8百年後の日本が第二次大戦による荒廃から立ち上がり、繁栄を遂げる過程に似ているのかもしれない。平泉藤原氏は四代百年に渡る平和を東北地方にもたらすが、最後には源頼朝の策略と軍事力によって滅ぼされてしまう。

百年の間でしかなかったが、平泉文化は大きく花開いた跡が今に残っている。

二代目の基衡は、これまた壮大な毛越寺を建立した。庭園内に大きな池を作り、舟遊びを愛でるという豪華なものから、庭園の丘よりジグザグの細い水路をつくり、ササ船が流れ下るまで一句を作るという優雅な遊びは京都から伝わったものであろう。現代にも観光用に再現されている。

三代目秀衡の時代になると、その繁栄はピークに達する。京都宇治にある平等院鳳凰堂を模してはいるが、規模はそれよりも大きな無量光院を建立して.いたことが発掘調査から明らかになっている。


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写真は美しすぎる建築とさえ言われ極楽浄土を表現したとされる現存の京都鳳凰堂で、さらに雄大なものが平泉に存在していたのである。





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左写真は亘理郡の隣、伊具郡角田には秀衡の妻が建立したとされる高蔵寺の阿弥陀堂が今に残っている。1177年に作られ中には5mを超える阿弥陀像がある。また日本三筆の一人である嵯峨天皇の書(高蔵寺と記す)が額になっている。

(三筆とは日本書道史上に輝く3名の能書家を指す。空海、嵯峨天皇、橘逸勢)

天皇の真筆は「宸翰」と呼ばれ、現存するものは少ない。

この時代の歴史書で現代に残る「吾妻(あずま)(かがみ)」がある。

1180年から1266年までの出来事が細かく記載されている。鎌倉時代の正史を記録するために編纂されたものである。

このなかに当然ながら1192年の平泉滅亡の様子も書かれている。

源頼朝の全国統一は、各地の独立勢力を許さないというもので、平泉勢力をも敵とした。

頼朝に追われて平泉に逃げ込んだ義経を擁して、秀衡は頼朝と一戦を交えようとしていたが、ほどなくして秀衡が病死してしまう。

 頼朝は跡を継いだ泰衡に圧力をかけて、義経の首を要求する。

泰衡の攻撃を受けて義経は自害するのである。

頼朝の策略に嵌ってしまったのである。戦闘に天才的な能力を持っていた義経がいなければ平泉攻略は容易だと考えて大軍を発した。

浜通りに軍を進めたのが、千葉常胤を大将とするその一族郎党で、戦後に功として次男が相馬を三男胤盛が亘理郡を領地として拝領するのである。

参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」 

山元、亘理町史など   (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2022-05-13 21:31 | 亘理・山元ニュース

令和4年4月1日 

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

平安時代末期の出来事(中)

(おご)る平家は久しからず・・」と、物語にも書かれるように、清盛の死と共に平家は急速に勢いを失ってゆく。最初に都から平家を追い出したのは木曽義仲である。

平氏は勢いを盛り返そうと、安徳天皇を伴って福原(神戸)に落ちのびた。

ところが、後白河上皇は今度は乱暴気極まりない木曽義仲の追放に乗り出した。関東の源頼朝は兵を挙げていた。頼朝軍は先に平氏と一戦を交えたことがあった。清盛の孫である維盛を総大将にして、大軍を関東に派遣し対陣したが、平家は一説によると鳥の羽音に驚いたとされ、戦を交えずして都に逃げ帰ってしまった。

後白河上皇は頼朝軍に期待するところが大きかった。源義経を大将とする軍勢は都に上がり木曽義仲軍を破る。この戦いで義仲の奥方で武勇に秀でた巴御前の奮闘が有名である。

都を制した源義経は、勢いを得て平家追討の宣旨を受けて、平氏の立てこもる福原を目指した。そこは要害の地でもあった。背後に六甲山脈を背負い、攻めるとすれば海からしかないような地形だったのである。

ところが、義経は奇襲作戦に出た。不可能と思われていた山を駆け下りたのである。後に「一の谷合戦」と呼ばれるもので、不意をつかれた平家は惨敗して、四国の「屋島」に落ちのびることになった。

義経の追撃は止むことがなかった。

陸上と海上の両方から攻め立てた。陸では地元民しか知らない険しい裏道をたどったとされ、海では、これまた物語で有名な義経軍の「那須与一」が平家の女性が掲げる扇の的に矢を命中させたという逸話がある。

屋島を失った平家は、壇之浦(現在の関門海峡付近)で、最後の決戦を挑むことになった。

ここでも瀬戸内海の水軍を味方につけた海軍力が平家を上回り、平氏は壊滅する。

この時に、安徳天皇の母親である平清盛の娘徳子(建礼門院)は、我が子である8歳の天皇を抱いて海に飛び込んだ。

これをみた源氏の兵士達は、海の中に熊手を突っ込んだ。幸か不幸か建礼門院の髪の毛がひっ掛かり引き揚げられた。しかし天皇はそのまま沈んでしまったのである。

建礼門院は京都の寂光院で天寿を全うすることになるが、平家は完全に滅亡した。その落人は、全国各地の山間僻地に住まい平家の落人伝説の残る集落が各地にある。

由緒正しい落人というのもおかしいが、平氏の重臣であった平(さだ)(よし)が、平家の秘宝や仏像と安徳天皇の遺物をたすさえ、仙台市郊外の人里離れた僻地である「定義山」に落ち着いた。その一族もまたその周辺の山地に住みついた。




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「定義如来」をいただいたこの地は特殊な温泉の湧出も相まって800年以上の時を経た今も仙台の有名観光地の一つである。現在は市営バスの終点でもある。

さて源平合戦での逸話の一つに、源義経と梶原景時の逆櫓(さかろ)論争がある。戦に当たって船を前後に動かすよう梶原は逆櫓の取り付けを義経に進言するが、義経は前進あるのみとしてこれを受け付けなかった。これは後世の初代亘理領主の伊達成実の毛虫を形取った兜の前立てを思わせることである。

 完璧ともいえる勝利を遂げた義経は、都に凱旋すると後白河法皇は「検非違使」の位を授けるのである。(検非違使とは現代の警視総監に相当する役職)

 ところが、これは鎌倉にいる頼朝を怒らせた。自分に無断で官職を受けるのはけしからんとしたのである。後白河法皇の陰謀で兄弟の分断を計ろうとしたことだとみたからである。義経は直ちに職を辞して、頼朝に弁明すべく鎌倉に向かった。しかし頼朝は義経が鎌倉に入ることを許さずに、郊外の腰越に留めて梶原景時を使者として義経と会見させた。

 梶原は平家との合戦で逆櫓(さかろ)論争をして義経には含みを持っているので、義経が必至で頼朝へ書いた「腰越状」を無視したのである。

 やむなく義経は、京都に戻るしかなかった。だが無位無官となった義経の首を狙い鎌倉の恩賞に預かろうとするものが出てきて京都は騒がしくなる。

 このあたりのことが、当時の公家である九条兼実が日記に書いたものが現在に残っている「玉葉」とよばれ生々しい史料である。

京都に居ずらくなった義経主従は九州に逃れて再起を計ろうと船出するのである。

 ところが、瀬戸内海に出てすぐに暴風雨に遭遇し船は難破してしまう。

 義経一行は、やむなく陸路をたどり、奥州の藤原秀衡を頼るべく北上してゆく。

 日本海側の現在は石川県小松市にある「安宅関」を通過する時の苦労話が、後に歌舞伎の弁慶勧進帳として広く知られることになる。

 苦難の末に平泉に到着するが、朝敵の汚名を着ることになった。

 いずれにしても、源義経は日本史上最大のヒーローである。NHK大河ドラマで取り上げられる回数が最も多いのではなかろうか。2022年も「鎌倉殿の13人」で活躍することであろう。

 この13人外だが、後に亘理郡などを支配することになる千葉常胤も登場してくる。

参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」 

山元、亘理町史など   (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2022-04-01 00:00 | 亘理・山元ニュース

令和3年12月1日 

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

http://www.watari-yamamoto.com/


平安時代末期の出来事(前)

源氏と平氏の両者は天皇の子孫であり、武力を持つ存在でもあったのだが、政治的な力はなく、長らく朝廷や貴族の用心棒的な地位に甘んじていた。

しかし新たに「武士」という地位と官位も獲得するのがこの時代である。

そのきっかけが、1155年に始まる保元・平治の乱と呼ばれる戦いであった。

時の朝廷では後白河院と崇徳院が次の天皇を誰にするかで争っていた。警護に当たっていた源氏と平氏の同族内部でも分裂があり親子でも敵味方に分かれて戦わざるを得なかった。 

後白河院側の勢力が優勢だった。平氏の実力者清盛や源氏の義朝がついていた。しかし源義朝の父である源為義は過去のしがらみもあり崇徳院側についた。

戦いは後白河院の勝利となり、源義朝は父親の為義を斬首したのである。

(この辺りは大河ドラマで何度も出てきているので、ご存知の方も多いであろう。)

崇徳院は四国の讃岐に配所となり死後に怨霊になったとされ、関係者が次々と死んだのである。歴史的にも日本三大怨霊(菅原道真・平将門と共に)として知られることになる。

現代になってからも、昭和39年に崇徳院800回忌に天皇は勅使を四国に遣わしている。

さて、この戦乱で源氏側は親子同士が戦ったこともあり、大きく勢力を失い、勝者側だったものの源義朝には焦りがあった。清盛が熊野神社参詣に出ている留守を狙って挙兵するのであるが、義朝の戦力は弱く、実力に勝る清盛に敗れてしまう。

破れた義朝には子供がいた。頼朝、義経の兄弟である。斬首されるところであったが清盛の母である池禅尼が可哀そうであると、清盛に懇願し助けてやった。

頼朝は伊豆へ、義経は幼少時を鞍馬で過ごし、やがて奥州藤原氏に庇護されるのはあまりに有名である。だが20年後の源平合戦の因をつくってしまい、平氏は滅亡することになる。

この当時の奥州はというと、朝廷の混乱を外に平泉の藤原氏は100年に及ぶ繁栄の最中にあった。清衡に続く二代目の基衡は「毛越寺」を建立した。

「毛越寺」は、現在もなお往時の面影をとどめているところがあり、国の「特別名勝」「特別史跡」になっている。名勝と史跡が同時に指定されているのは、全国でここ一か所のみである。

ところで亘理郡はどうであったかというと、平泉藤原氏の父祖が住んでいたところということで、特別な扱いを受けていた「郡」である。

昭和40年頃の河北新報に日本歴史学会元会長の高柳光寿氏が「藤原三代」という読み物を連載していた。亘理郡と平泉との間には使者が行き来していた。亘理からは献上品を持参して、平泉からは下賜品をいただくという往来があったようだ。

現在、それらのことを物語る史料や遺跡は亘理では何も発見されてはいない。

亘理権現大夫経清が拠点としていたところや、平泉時代の亘理に存在したであろう施設などは未だ見つかっていない。唯一その候補として名乗りを上げているのが、山元町合戦原の中島館跡が亘理権現大夫経清の館であったろうと名乗りをあげている。しかし800名もの私兵を有していた支配者の館にしては規模が小さいように感じられる。今後の発見に期待したい。

一方、都では勝者となった平氏一族が栄華を誇るのである。平清盛は官位を極め太政大臣となって、国家権力の頂点に立った。その娘を天皇に嫁して、産んだ男子を次の天皇にするのである(安徳天皇)。かつての藤原氏同様の権力を手にしたのである。

「平家にあらずんば人にあらず」とさえ言われた。

清盛には、奥州にまで侵攻して国家統一というような野望はもっておらず、自らの防御力を高めることと、もっぱら海外貿易に関心が向いていたのである。

奥州藤原氏に対しては、御身は奥六郡の主であると認めていた。

だが、京都は元々要害の地ではなく、外から攻められると弱い地形である。そこで清盛は都を福原(現在の神戸)に移したのである。六甲山脈を背にして敵からは攻めにくく、また瀬戸内海に面しているので、中国との貿易にも適している。

しかし、京都の公家たちは猛反対した。福原は田舎過ぎると移住を拒否したのである。最後には、娘を嫁にやった高倉天皇までものが反対して、清盛は福原遷都を一年足らずで諦めざるを得なかった。

それでも清盛は、瀬戸内海一円に強大な勢力をきづき上げた。厳島神社に壮大な神殿を奉納した。



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 当時にあって、平家のあまりの独善的な繁栄ぶりを苦々しく思っていたのが朝廷側である。全国には源氏の残党勢力もまだまだ残っていたので、後白河法皇は密かに平家追討の令旨を以仁王に持たせて諸国を駆け巡った。

京都に近かった木曽義仲が挙兵してまたたく間に、最初に京都の占領を果たすのである。ところが義仲は源氏の一族ではあったが、従う兵は木曽の山中育ちなので、都では傍若侮人な乱暴狼藉を働き、これまた手に負えない混乱をきたすことになった。朝廷側は、関東で兵をあげている源頼朝に期待するしかなくなっていた。

参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」 

山元、亘理町史など   (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2021-12-07 11:28 | 亘理・山元ニュース

令和3年11月1日 

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

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 平安時代中期の出来事(後)

「前九年合戦」は、源頼義・義家親子が出羽国の盟主であった清原武貞の助勢を受けて安倍一族に勝利した。
 戦後処理の一環として清原武貞は、戦利品ということでもあるまいが、亘理権大夫藤原経清の妻と息子の清衡を受け取り、自分の後妻となし、7才の清衡を養子とするのである。亘理権大夫の妻は安倍氏の娘でもあるので、これは清原氏が奥州の安定を願ってのこととされるが、さらなる合戦の原因となってゆく。
 清原武貞には、先妻との間に「真衡」という長男がいた。
 そこに武貞は、後妻となった亘理権大夫の妻、すなわち安倍氏の娘との間に男子「家衡」が産まれるのである。
 そんなこんながありながらも、20年ほどが平和裏に過ぎた。
 ところが、清原武貞が没して「真衡」が清原家を相続すると、真衡には男子がなかったので養子に平氏出身の「成衡」を迎え、その妻に源氏出身の娘を添わせて清原氏の家格を高めようとしたのである。真衡の父母が異なるとはいえ弟でもある清衡・家衡にとっては面白くないことである。

      源頼義―義家・・義朝―頼朝(鎌倉幕府創設)
                 義経(頼朝の弟)
*安倍頼時―貞任(前九年合戦で敗戦し四国に配流)

亘理権大夫藤原経清 
       |―清衡―基衡―秀衡―泰衡
      *妻(安倍頼時の娘)
       |―家衡
     清原武貞―真衡――――成衡(養子)
           妻(源氏の家系)

 ※赤色の人物3名が、後三年合戦の当事者である。このうち最後の決戦を行う清衡と家衡の母親は同じである。安倍頼時の娘なのである。


 後日「真衡」の叔父が、「成衡」を養子に迎え妻をも娶ったことを祝い、砂金を持参し祝いの言上をしようとしたのだが、その時、囲碁に夢中だった「真衡」は砂金をそのへんに置いてくれと言い、叔父を無視してしまったのである。怒った叔父は「清衡」と「家衡」を味方につけて合戦におよぶことになったのである。1083年のことである。
 時に「真衡」は、陸奥守となっていた源義家に清原家後継者の承認を得るべく多賀城に出向いたのである。莫大な献上品を贈呈して帰途についていたのだが途中で真衡が急死するという事態が起きてしまった。
 清原一族内の反乱ともいうべき、叔父・清衡・家衡などの連合軍は、真衡軍の残留部隊と戦うが敗れるのである。しかし総師の真衡を失った残留部隊は次第に崩れてゆく。
 最終的に勝利した清衡と家衡には、陸奥守源義家の裁定で、岩手県中通りの奥六郡の地を半分ずつ受領することになった。
 ただ、これには家衡が不満を抱くことになる。清衡が清原氏の血統から外れていることもあったのだろう。
 1086年に至り、家衡が清衡の館に急襲をかけたのである。「清衡」本人は生き残ったが妻と子供は焼死してしまった。
 怒りに燃えた清衡は反撃にでる。幸いに源義家の助力を得ることになった。
 一方の家衡は、堅固な要塞である「金澤柵」(現在の秋田県横手市)に籠って戦うことになった。
 激戦となったのであるが、清衡・源義家の連合軍が戦力において勝り、家衡側は滅亡するのである。歴史上、「後3年合戦」と言われるようになる戦いであった。
 戦勝した源義家は京都に行き、陸奥と羽州の戦乱を鎮定したと報告し、褒賞を得られるものだと期待したのである。奥州一帯が源氏の支配下になったものと信じた。
 しかし、朝廷側はこれは源義家の「私戦」であると断じてしまったのである。陸奥守を解任された。
 源義家は、やむなく戦に加わった坂東の武者たちに対して私費で戦功金を出したのである。
 事情を知った武者たちは大いに感激するのだった。代々に伝わったのであろう。およそ百年後に挙兵することになった源義家の玄孫になる源頼朝が挙兵するときには坂東武者たちが、頼朝の元に参集するきっかけになったのである。

 さて、源義家の退場に伴って藤原清衡は、奥州、羽州全域の覇者となった。
 南は福島県白河より青森(昔は外ヶ浜と称す)までが、勢力範囲となるのである。
 清衡は、平泉に本拠地を構えることになるが、これは白河と外ヶ浜の丁度中間点に位置するのである。
 平泉に壮大な都市を作った。柳の御所が政務を司り、中尊寺を宗教の中心とした。
これは、戦乱で失った清衡の妻子や多くの戦死者を弔い、仏教による統治を目指したものとされる。
 現在に残る国宝の中尊寺梵鐘には「北夷の酋長、敬って申す・・・」という文言が刻まれている。当時の朝廷に対して、敬意を表しておいた方がよいという都の学者の撰文を採用した。後年になって金色堂に残る清衡のミイラ骨格を調査結果、蝦夷人ではなく、京都人と同じであると鑑定されている。

    参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」 
         山元、亘理町史など     (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2021-11-04 09:15 | 亘理・山元ニュース

令和3年10月1日 

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

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平安時代中期の出来事(中)

亘理権大夫藤原経清が活躍する時代である。

1014年に生まれたと推定され、1062年に「前九年合戦」に敗れ斬首された。

元々は関東の上総(現在の千葉県北部)に住んでいた。ところが1031年に同地の豪族である平定常が反乱を起こす。これを鎮定すべく17才の経清は父親の藤原頼遠と共に定常と戦うが破れてしまう。この時にかけつけたのが源頼義で定常の乱を平定する。頼義は経清にとって恩人となるのである。

やや後のことになるが、源頼義は陸奥守に任ぜられる。この時に藤原頼遠と経清の親子に亘理郡を領地として与えたのである。経清は頼義にさらなる恩を受けたことになる。





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源頼義は多賀城に入り陸奥守となったものの、東北で最も豊かなのは現在の岩手県中央の奥六郡の地であった。ここを押さえていたのは当時の豪族安倍頼時である。前の陸奥守であった藤原登任との間で安倍氏は1053年頃より鬼首の辺りで小競り合いを起こしていたが大きな戦いにはならなかった。

源頼義は赴任するや、当然ながらこの地を狙った。しかし安倍氏は徹底した恭順の姿勢を貫き通したのである。業を煮やした頼義は1056年に阿久利川(現在:一迫川)で謀略をしかけた。頼時の息子である安倍貞任に自分の陣営が襲われたと宣戦を布告した。ここから本格的な戦いが始まることになった。

(古今を問わず戦争を仕掛けたい方は、謀略事件を起こすのが常である。近代になって1937年日本陸軍は中国で盧溝橋事件を起こし、日中戦争が起こり第二次大戦へとつながってゆく)

さて、源頼義は配下にあった亘理権大夫藤原経清や伊具十郎平永衡などを引き連れて戦陣へと向かう。当初の戦いには勝利するものの問題が起こる。

亘理権大夫と伊具十郎は、安倍氏とすでに交流があり、その娘を両者が娶っていることであった。頼義はそういうことも十分に承知のうえではあったが、両者は自分の配下であり、戦の上で何の問題もないと考えていた。

しかし最初の戦いが終わってから、伊具十郎平永衡の兜がおかしいとなった。銀製で大きく派手なもので、どこからでも目立つものだった。これは敵方から狙われないようにするためのものだと、頼義方の武将から文句がでて、頼義は永衡を殺してしまうのである。

これを見た経清は身の危険を感じたのである。自分の妻も安倍氏の娘であり、何時、疑いをかけられるかもしれないと安倍氏側に寝返るのである。

この時、亘理権現大夫藤原経清は、800名の私兵を従えていたとされる。





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これだけの兵力を養うには、多大な財力を必要とする。亘理郡にいたわずかな期間で、これだけの富をえるのは並大抵のことではない。

下記、参考文献の著者である菊池文武氏は、その富の源泉が鉄生産にあったのではないのかとみている。

 この経清が寝返った1056年に、後に平泉初代となる「藤原清衡」が経清と安倍氏娘との間に誕生するのである。

 経清には、諸説あるが先妻との間に2人の男子があり、その子供達も合戦に加わったとされる。先妻の男子2人の内、一人が生き乗り後に白石氏の祖になったとされている。白石氏は後年、戦国時代になると伊達氏の麾下となり登米を与えられ登米伊達氏を名乗る。

 亘理権現大夫藤原経清が、公式の記録に登場しているのが奈良の興福寺再建時の寄付者の名簿である。興福寺は藤原氏一族の氏寺である。幾度かの火災がありその都度再建されている。寄付者に「従五位下亘理権現大夫藤原経清」の名前がある。

 従五位とは、当時にあっては「郡長」の地位を表している。

 さて、経清が安倍氏側に寝返ったことで、戦力が拮抗し長期戦になってゆくのである。

しびれを切らした、源頼義・義家親子は出羽(秋田)の豪族である清原氏に助力を頼むことになる。

 次第に追い詰められた安倍氏一族は、衣川の館で最後を迎えることになるが、源義家と

安倍貞任の間にかわした次の詩が有名である。後世の誰かが作ったものであろうが、現代に残っている。攻め立てる館に向かって。

  源義家 : 衣のたてはほころびにけり       と叫ぶ

安倍貞任 : 年を経し糸の乱れの苦しさに    と返した。

「衣のたて」とは衣川の館であり、また衣の盾としての鎧のほころびをかけたもの。

対して、長い年月が過ぎて鎧の糸も擦り切れた貞任が返した。安倍氏が降伏した後に

藤原経清は斬首されたが、貞任は四国に配所となる。世に言う「前九年合戦」である。

参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」 

山元、亘理町史など   (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2021-10-01 00:00 | 亘理・山元ニュース