令和3年10月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
http://www.watari-yamamoto.com/
平安時代中期の出来事(中)
亘理権大夫藤原経清が活躍する時代である。
1014年に生まれたと推定され、1062年に「前九年合戦」に敗れ斬首された。
元々は関東の上総(現在の千葉県北部)に住んでいた。ところが1031年に同地の豪族である平定常が反乱を起こす。これを鎮定すべく17才の経清は父親の藤原頼遠と共に定常と戦うが破れてしまう。この時にかけつけたのが源頼義で定常の乱を平定する。頼義は経清にとって恩人となるのである。

源頼義は多賀城に入り陸奥守となったものの、東北で最も豊かなのは現在の岩手県中央の奥六郡の地であった。ここを押さえていたのは当時の豪族安倍頼時である。前の陸奥守であった藤原登任との間で安倍氏は1053年頃より鬼首の辺りで小競り合いを起こしていたが大きな戦いにはならなかった。
源頼義は赴任するや、当然ながらこの地を狙った。しかし安倍氏は徹底した恭順の姿勢を貫き通したのである。業を煮やした頼義は1056年に阿久利川(現在:一迫川)で謀略をしかけた。頼時の息子である安倍貞任に自分の陣営が襲われたと宣戦を布告した。ここから本格的な戦いが始まることになった。
(古今を問わず戦争を仕掛けたい方は、謀略事件を起こすのが常である。近代になって1937年日本陸軍は中国で盧溝橋事件を起こし、日中戦争が起こり第二次大戦へとつながってゆく)
さて、源頼義は配下にあった亘理権大夫藤原経清や伊具十郎平永衡などを引き連れて戦陣へと向かう。当初の戦いには勝利するものの問題が起こる。
亘理権大夫と伊具十郎は、安倍氏とすでに交流があり、その娘を両者が娶っていることであった。頼義はそういうことも十分に承知のうえではあったが、両者は自分の配下であり、戦の上で何の問題もないと考えていた。
これを見た経清は身の危険を感じたのである。自分の妻も安倍氏の娘であり、何時、疑いをかけられるかもしれないと安倍氏側に寝返るのである。
この時、亘理権現大夫藤原経清は、800名の私兵を従えていたとされる。

これだけの兵力を養うには、多大な財力を必要とする。亘理郡にいたわずかな期間で、これだけの富をえるのは並大抵のことではない。
下記、参考文献の著者である菊池文武氏は、その富の源泉が鉄生産にあったのではないのかとみている。
この経清が寝返った1056年に、後に平泉初代となる「藤原清衡」が経清と安倍氏娘との間に誕生するのである。
経清には、諸説あるが先妻との間に2人の男子があり、その子供達も合戦に加わったとされる。先妻の男子2人の内、一人が生き乗り後に白石氏の祖になったとされている。白石氏は後年、戦国時代になると伊達氏の麾下となり登米を与えられ登米伊達氏を名乗る。
亘理権現大夫藤原経清が、公式の記録に登場しているのが奈良の興福寺再建時の寄付者の名簿である。興福寺は藤原氏一族の氏寺である。幾度かの火災がありその都度再建されている。寄付者に「従五位下亘理権現大夫藤原経清」の名前がある。
従五位とは、当時にあっては「郡長」の地位を表している。
さて、経清が安倍氏側に寝返ったことで、戦力が拮抗し長期戦になってゆくのである。
しびれを切らした、源頼義・義家親子は出羽(秋田)の豪族である清原氏に助力を頼むことになる。
次第に追い詰められた安倍氏一族は、衣川の館で最後を迎えることになるが、源義家と
安倍貞任の間にかわした次の詩が有名である。後世の誰かが作ったものであろうが、現代に残っている。攻め立てる館に向かって。
源義家 : 衣のたてはほころびにけり と叫ぶ
安倍貞任 : 年を経し糸の乱れの苦しさに と返した。
「衣のたて」とは衣川の館であり、また衣の盾としての鎧のほころびをかけたもの。
対して、長い年月が過ぎて鎧の糸も擦り切れた貞任が返した。安倍氏が降伏した後に
藤原経清は斬首されたが、貞任は四国に配所となる。世に言う「前九年合戦」である。
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
山元、亘理町史など (記:鈴木仁)
令和3年9月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
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平安時代中期の出来事
逢隈駅に隣接して西側の丘陵一帯に広がるのが「三十三間堂官衙遺跡」である。
整然と立ちならぶ、大きな礎石群は、江戸時代から注目されていたのだが、平安時代からの伝承が全く途切れていて、礎石の上に何が建っていたのかがわからなくなっていた。昔から各人各様の説が唱えていた。石の並びから三十三間堂の如き仏教施設があったものと推測され、いつしか通称となっていたのである。
礎石群は、いくつかのグループがありその上には高床式の倉庫が立ち並んでいたとされる。

これとは別に、郡衙の役所そのものは礎石が無く「掘ったて柱」方式のものであるが、建物は立派な様式のものであったようだ。中央からの役人も多くきていたのであろう。先号に古今集の歌を示したが、それ以外にも多くの和歌が作られた。後の世の新古今集などにも採択されている。現代はといえば、同所を地元の人々が絶好の墓所として利用している。百軒もの方々の墓石がたちならんでいる。「史跡」と現代人の墓が共存している。
この時代に中央の宮廷では、藤原氏が最高権力を握り実質的に日本を支配した。大化改新を主導した藤原鎌足の息子である不比等が娘を聖武天皇の妃(光明皇后)とした奈良時代中期から、藤原氏は妃となった娘の産んだ子供を天皇につけて、外祖父となった藤原氏が実権を握ると言う、摂関政治と呼ばれるものである。
その権力が頂点に達したのが1000年頃の「藤原道長」の時代である。その娘(彰子)を同様に天皇の妃として、その宴席で披露した歌がこれまた歴史に残っている。
「この世をば我が世とぞおもふ満月の欠けたることもなしと思えば」
あまりにも傲慢な作句であるが、居並ぶ朝廷の役人は、これを賛美するしかなかったとのことである。
「藤原道長」は966年に生まれている。丁度同じ年に「清少納言」も誕生し、「紫式部」もほぼ近い時期に生まれている。
道長の偉かったのは、これら才能ある女性を宮廷に召し出し、存分に活躍させたことにある。古代文学の黄金期を作ったことにあるとされる。

在野にあった和泉式部も恋多き女性として当時は有名な存在だったとされるが、貴女の経験は貴重なものであるとして勧め、当時は貴重品であった和紙を提供して「和泉式部日記」を書かせている。日本古代文学のパトロン的役割を果たしている。
道長自身も没するまで、自分自身の日記を書いている。62才で病没するが、病状を書いた部分から「糖尿病」だったことがわかるということだ。糖尿病を患った人の最古の記録でもあるとされている。
藤原氏一族も鎌足から300年が経過して、子孫の数も多くなると当然ながら内部抗争も多くなってくるし、冷や飯を食う分家も出てくる。その一人が藤原実方中将である。
当時から和歌の大家として知られていたが、権力闘争に敗れて「陸奥守」として左遷されることになった。995年のことである。その多賀城に赴任して4年後に名取の視察に出かけたさいに愛島の道祖神前を馬から降りずに通り過ぎた天罰とされるが、落馬して死亡するのである。話が出来すぎているので、現地の豪族に暗殺されたという推察もある。
うっそうたる竹林の中に墓所がある。現在は名取市の観光名所となっている。
国守である「陸奥守」もそんな状況だったので、郡衙である小さな役所にすぎないところ
に都からの官人が来たがらなくなったのはなかろうか。亘理郡衙が廃所となったいきさつ
ではなかろうか。本当に廃所になってしまったのか、坂元から逢隈に移転した如く、他所に
郡衙が移った可能性も否定しきれない。役人は任命されても都にとどまってしまったのか。
ここから百年後に活躍する「亘理権大夫藤原経清」は、亘理郡司に任命されている。その
館はどこにあったのか、亘理郡史上の謎とされている。
さて、この時期に活躍した人物で陰陽師として有名な「安倍晴明」がいる。993年に時の
一条天皇の重い病を祈祷で快癒させたことで名をあげる。元々、宮廷には陰陽を司る役所が
あった。五行(火・水・木・金・土)と陰・陽の組み合わせ、さらに天体の動きなどを総合
して占いや、朝廷に邪気が入らないようにする結界をはる仕事をしていた。
現代でも、五行・陰陽に従った占いの小冊子がお寺さんや神社から配布・販売されている。
直接に関係のない話であるが、フィギュアスケートでオリンピック2連覇の偉業を達成した羽生弓弦選手は「セイメイ」という雅楽の如き曲を用いた。
安倍晴明は死後に祀られ「晴明神社」がある。千年後も霊験あらたかだと参拝者が増えて話題になった。(余談である)
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
山元、亘理町史など (記:鈴木仁)
令和3年8月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
http://www.watari-yamamoto.com/
平安時代初期~中期
古代から疫病というと「天然痘」が主なものだった。感染力・致死率共に非常に高い。日本では疫病の退散を願い「牛頭天王社」が全国各地に数多く設けられ江戸時代の末期には数千社に及ぶとされた。
昔から、牛を扱っている人に天然痘が少ないことは欧州や天竺(北部インド)では知られていた。一度牛痘に罹かると天然痘の免疫ができるということである。
ずっと後の世になって1801年にジェンナーが牛痘を人間に接種することで予防できることを発見した。急速に普及して1980年には世界から感染症で唯一、天然痘を撲滅したとの発表がWHO(国連保険機構)から発表された。
インドでは牛を聖なるものとして扱われている。ヒンズー教の教えからといわれるが牛痘関連のことが由来ではなかろうか。
現代では科学技術に若干の遅れがでているインドは、今回のコロナに対して、全身に牛糞を塗りまくると言う迷信まがいのことも出ているようだ。
ワクチンの語源は、英語などの基になっている「ラテン語」で牛を示すワッカ(vacca)から来たとされる。ジェンナー自身が名付けたとも。
日本の「牛頭天王社」は神仏習合されたものであり、明治維新になってから神仏分離令がでて、神社になったものやお寺になったものがあったことは前号で述べた。
平安初期の大きな出来事は貞観11年(869年)の大地震と大津波である、
多賀城国府から都への報告によると、死者千名、牛馬にも多大の被害ありとされる。
当然ながら亘理郡(山元町、亘理町)にも大きな被害があったはずで、亘理郡衙の逢隈三十三間堂からも見えたはずであるが、その記録はなく、多賀城報告の千名の中に含まれているのであろう。
この頃、紀貫之編纂の「古今集」に次の有名な歌がある。亘理郡衙の官人の作とされる。
「阿武隈に霧立ちくもり明けぬとも君をばやらじ待てばすべなし」
意訳: 阿武隈川に霧が立ち、あたりがくもり、夜が明けたとしても、あなたを行かせたくはありません、一度待つ身となれば、もうどうしようもありませんから、という恋歌
古来、阿武隈川は歌枕としても知られている。
岩沼の竹駒神社は、承和9年(842年)に小野篁が陸奥国司として赴任した際、京都の伏見稲荷を勧請したものである。浜通りを岩沼に向かったが吉田の近辺で道に迷った。その時、童子が現れ道案内してくれた。別れに童子は狐の使いであると変身して消えた。
御礼として建てられたのが、尊久老稲荷神社の由来である。
天慶2年(939年)に関東で平将門の乱が起きる。
平将門は桓武天皇5世の子孫に当たる。桓武天皇には40人もの子供がいたとされる。朝廷では孫の代までは面倒を見るが、それ以降の子孫は地方に下って自活するようにとなったので「平」の氏姓をもらい地方豪族となったのである。
上総の国(現在の千葉県北部から茨木県南部)を所有することになるが、やがて一族内に抗争が起きることになる。それらを制したのが平将門である。
関東の多くを手中に収めると、将門は「新皇」を名乗ったのである。これには朝廷も捨ておけないと討伐軍の準備にかかったが、現地にあった藤原秀郷がいち早く、将門を打ち遂げた。
この時に、将門の部下たちは北へと逃れた。阿武隈川を前にして、ここに留まろうと現在の逢隈に住みついた。旧家には、これを先祖と伝えられる家がある。
余談になるが、桓武天皇から6代下った清和天皇も30人もの子供がいたので、子孫は野に下ることになり「源」の氏性をもらうことになる。後に両者は次第に力をつけて、1100年代には有名な源平合戦が起きることになる。
後代になっても、源平の両氏は名門として藤原氏と並び権威を持つにいたる。
徳川家康は由緒正しい者だと「源氏」を名乗り、伊達政宗は「藤原氏」の末裔であるとしている。
この時代(西暦930年頃)に記された古文書には、亘理郡には4つの「郷」ありとしている。坂本・菱沼・日理・望多である。
「郷」というのは、住居が百戸程度あるところを呼んでいた。昔の一戸には多くの家族がいたので住人は郷に千~2千名程度いたのだろう。
菱沼は、現在の山下を指すとみられている。当時は低湿地で沼が多く、菱がたくさんあったのではなかろうか。貴重な食糧でもあったろう。
現在山元町の深山山麓を菱沼の郷と呼んでいる。
山下には「頭無」という奇妙な地名がある。これは水が湧く時に普通は出水場所がわかるので、そこを頭と呼ぶが、大水の時にはどこが頭なのかわからない状態になってしまうので、そのような地名ができたとされている。泥沼の地名もある。
延喜15年(915年)には十和田湖の大噴火があり、東北一円に火山灰が降り注いだ。冷害による大飢饉などが起こり、多数の餓死者が出て不安定な世の中でもあったとされている。
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
山元、亘理町史など (記:鈴木仁)




講師の橋本康範さんは、2002年から3年間中村哲医師のもと、PMS(ペシャワール会医療サービス)の現地ワーカーとして主に農業事業・灌漑事業に従事。橋本さんは、私の住んでいる山元町からすぐ近くの大河原町にお住まいのことからこの講演会が実現した。
2000年に大干ばつに見舞われたアフガニスタンにて医療活動に携わっていた中村医師は水不足により多くの命が失われていく中、何よりも水が必要だと自ら大型の重機を動かし水源確保事業を進め何十万のアフガンの人々の命と生活守った。知れば知るほど桁外れの大きな、人となりを見た思いがする。
橋本さんの話には、アフガニスタンの子供たちの様子や、普段の生活環境や食生活など、あまり知られていない貴重な話も聞くことができた。

私は、50年も前のことですが、登山隊の一員としてヒンドゥクッシュ山脈の高峰を目指して訪れたことがありますが、感じたことは、当時の私が見た風景、現地の人たちの姿はほとんど変わっていない。それが良いのか意見が分かれるところだが、町にはコンビニなどはあるし、携帯などもかなり普及しているそうだが、少し山に入ると衣食住などはあまりにも変わっていないことに驚きを禁じえないことでした。大干ばつや紛争の中で食糧もなく生きていく事がいかに苦しいことか、食べるものがあれば兵隊なんかにはならない、食べるものがないから戦争に行くのだと。言っていた老人の話もそれが現実なのだ。
紺碧の空に雪を頂いた山々の風景が懐かしく思い出される。

(文責 千石信夫)