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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

令和4年7月1日 

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

鎌倉時代の出来事(2)十文字氏、武石氏

 1189年の平泉藤原氏陥落の際に、亘理郡にたどり着いた一族で後に十文字氏を名乗ることになった渡辺左衛門綱安がいる。

 阿武隈川を渡った逢隈の十文字に館を構えたのである。館の大きさは南北218m、東西73mの大きなものだった。場所は現在の十文字神社の東側一帯である。

 館内には、2本の防御用とみられる溝が存在する。館の北面には深さ3mの濠があり、北西部には沼のある要害をこしらえたのである。

 さて、渡辺左衛門綱安は何者かというと、西暦1000年頃に酒呑童子を討伐したことで知られる渡辺綱(元々、源氏の系統だが渡辺氏の始祖となる)の子孫であるとされる。義経に付き従って、平泉に行った一人と言われる。

 平泉敗戦後に亘理郡で土着して「十文字氏」を名乗ることになり、それ以来戦国時代の末期まで400年間住み続けることになる。その後、江戸時代には涌谷伊達家の客分となり、明治以降には末孫が東京で会社を創立したり、十文字学園を創設したのは先に述べている。

 平成になって、その館跡が発掘調査されたのであるが、往時を物語るものが殆ど出土していないのである。

 鎌倉時代に亘理郡を統治したのは武石氏である。

 源頼朝は、平泉藤原氏を軍事力で攻め滅ぼそうとして、三方面からの陣立てを行った。その一つが浜街道軍で千葉常胤を総大将とした。その子である6名の男子も付き従った。

 平泉陥落後に恩賞として、男子6名にそれぞれ一郡を賜った。次男には相馬郡を、三男胤盛には亘理郡というようなことである。

 そもそも千葉氏とは、平家の一族なのである。桓武天皇の子孫が関東に土地を与えられ分家した流れをくむものである。先祖に平将門(939年に天慶の乱を起こす)がいる。

 住んでいる土地(下総国千葉郡)から「千葉氏」に改めた。源頼朝が旗揚げするにあたり、千葉氏も有力な支援者となったのである。

 さて千葉常胤の三男が「武石氏」を名乗るのは、現在の千葉市武石地区を与えられたからとされる。

 しかし、興味ある異説を紹介する。それは、源平合戦の前に同じ源氏である木曽義仲が先に上洛を果たしたので、それを打ち破るべく頼朝が発した軍の中に千葉常胤の三男の胤盛がおり、恩賞として義仲の領地の一部だった現在の長野県武石郷を拝領して武石の名前に変えたというのである。

 従って、武石胤盛は武石郷と亘理郡の2つの所領を有することになったというのである。

だが、胤盛自身はどちらの領地にも行くことはなかった。現在の千葉市花見川区武石に孫の代まで留まるのである。千葉市の武石地区は、おそらく武石胤盛が居住するようになってから命名されたものであろうという説である。京葉道路に武石インターチェンジがある。





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 上の写真は、千葉市武石地区にある真言宗のお寺さん「真蔵院」にある「武石氏の板碑」である。

もともと、このお寺にあったのではなくて、同地区の古い墓地にあったものを、江戸時代中期の1753年に、土地を開墾するために、この寺に移された。

大きい方の板碑は2m以上あり、文字通りの「真言」が記されているとされる。

作られたのは永仁2年(1294)と記されているようで、胤盛の曾孫になる宗胤が武石氏初代の胤盛の母親の為の供養碑とされている。背の低い碑は武石の文字が読み取れる。曾孫が亘理郡の「小堤城」(現在の大雄寺)に移住してくるのは1302年のことなので、その少し前に、この板碑が作られたことになる。

さて、長野県の武石村のことであるが現在は美ヶ原高原で有名なところで平成18年まで存在していた。合併によって今は上田市に併合されている。

そこには室町時代に「武石」の地名が出て来るが、鎌倉時代に存在したのかは、まだ明らかになっていない。判明すれば上記異説も真実性をおびてくる。

源頼朝の平泉征討に参戦した一員で後の伊達家の祖先になるのが常陸国真壁郡伊佐荘の豪族だった中村氏である。(北条政子の従兄弟になるとされる)

恩賞としていただいたのが「伊達郡」(福島県北部)である。中村氏は「伊達朝宗」と名を変えて初代となったのである。

相馬氏も武石氏も所領を得ながら、現地への赴任が百年も遅れてしまい代官にまかせておいたので所領の拡大はなかったが、伊達氏は活発に所領の運営と拡大に努めており、後に大きく差が開くこととなった。

参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」 

山元、亘理町史           (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2022-07-06 15:48 | 亘理・山元ニュース

令和4年6月1日 

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫


鎌倉時代の出来事(1)七騎の浜、他

山元町の花釜は「七騎の浜」と呼ばれたことがある。

文治5年(1189年)に、平泉が源頼朝によって滅ぼされた時に逃れてきた7人の武士とその家族が住みついたことによる。(以下:山元町「ふるさと地名考」による。

               (2011年大震災前の花釜居住の同姓者戸数)

  岩佐八郎太左エ門 義適        49名

  田所 十郎エ門  国重        17名

  太田 平内    光春         6名

  菊地 杢野亟   国安        54名

  渋谷 長左エ門  重義        12名

  鞠子 雅楽助   義信         4名

  渡辺太郎左エ門  綱行        80名

 子孫の方々は、花釜のみならず広く山元町内、亘理町にも及んでいると思われ、上記の数字はその一部である。7名の方の内で明らかに子孫だと判明.しているのは、岩佐さんと鞠子さんの家があるのみだ。

落ち武者である7名とその家族の方々が、どうして花釜に住みついたのか諸説あるが、その先祖は亘理権大夫藤原経清が前九年合戦(10501062年)に、私兵800名を引き連れて参戦した折に、これら7名の先祖も含まれていて、その方々は平泉藤原氏の繁栄と共に留まり、その陥落に際して先祖より伝えられてきた地を目指したのではなかろうか。

<花釜由来記抄録>:「ふるさと地名考」295頁の抜粋を以下に記す。

 どのようにして、この地が「花釜」と呼ばれるようになったのかが記述してある。

 西暦800年代初頭の大同年間に、名取に住んでいた3人の兄弟が塩釜に行き「塩焼」の修行を行った。その後に長兄が北釜(名取市)、次兄が相の釜(名取市)、そして3男が「南釜」を創設したということである。南釜が後に「花釜」となるのであるが、ここで出来た塩が「華」のようであるとか、あるいは西暦1100年頃に塩を「浪の花」と称するようになったことから、「花釜」に改称されたと言われている。

 ただ、現在の地名を見ると相馬に「原釜」がある。4男がいたのだろうかと思う?

 初期の「塩焼」は、「藻海式製塩法」と言っていた。

具体的な製法は、古代の製造方法とは若干異なるのかもしれないが、現在、広島県呉市で再現されている。1982年に土器の一部が発見されたことがきっかけである。

 海の浅場に群生しているホンダワラという、ひじきに近い海藻を集めてきれいな海水と共に容器に入れて浸す。



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海藻を引き揚げ、水分を切ってから再び浸す作業を何度か繰り返すと、塩分濃度が濃く、海藻のうま味を含んだ茶色の海水となる。

海藻を最後には乾燥させて焼いてしまい、その炭灰を濃くなった海水と混ぜて布でろ過する。

その液体を釜で煮詰めてゆくと、塩の結晶が出て来る。現代の塩に比べてまろやかで旨いとされる。この製塩方法は地域で若干の差異があるとされている。

呉市では体験学習館があり、さらにはこの製法を近代化し、栄養満点の高価な塩として販売している方々もいるのである。元祖の宮城県塩釜にもその業者が今も存在している。

さて古代の宮城県の浜では、釜は海岸地帯に自生する篠竹を割り、それを編んでなべ形にして周囲に粘土を塗り固めたものである。

 後に釜は、鉄で作られるようになる。直径174cm、厚さ3cm、深さ15cmの平たい大型の鉄釜が作られ、中世にかけて大量生産が可能となった。

 3.11大震災当時に花釜の海岸のすぐそばに菊池忠勝氏の家があり、地元では釜前(方言でカンメイ)と言っていた。古代より塩焼きをする釜があったところなのである。その宅地周りを1mほど掘ると黒ずんだ土が出て来る。長い年月に渡り塩焼のカマドから、かき出した残火が炭化して土と混じった土壌である。菊池氏の奥様は村田町から嫁して会計事務所を開いておられたのでご記憶の方も多いと思う。残念なことにご夫妻は津波により亡くなられた。その屋敷跡の近くには、けやきの大木がある。

 鎌倉時代の直前である1190年に、花釜の七騎以外に、高瀬の山にたどり着いた平家の落人がいた。藤原四郎右衛門成長の一族である。彼らは地元の人々に農業を勧めた。藤原を名乗っているので、京都の人であったろうとされる。やがて藤原四郎右衛門は農業の恩人として神様に祀られる。「四郎権現様」となる。地元では「おっしょさま」と呼ばれていたそうで、「お四郎さま」のことだと近年になって判明したそうだ。



参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」

山元町教育委員会「ふるさと地名考」平成6年刊行

呉市「藻塩の会」ホームページ。令和4年5月2日河北新報朝刊 

山元、亘理町史 

          (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2022-06-05 16:38 | 亘理・山元ニュース

令和4年5月1日 

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

平安時代末期の出来事(下)

「黄金の国ジパング・・」と西欧に日本を紹介したのが、イタリアの商人であり冒険家でもあったマルコポーロである。それを記した「東方見聞録」を1300年頃に出版した。

中国の東方にジパング国があり、金を大量に産出して、宮殿は床から屋根まで金で作られていると述べている。

奥州、平泉の「藤原清衡」が建立した中尊寺金色堂(1124年建立)を見た中国の商人がいたのかもしれない。マルコポーロは、そんな人達からの話を伝え聞いたのであろう。



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前九年合戦、後3年合戦と戦乱に明け暮れた奥州を最終的に勝ち残ったのは、亘理権太夫経清の息子である藤原清衡であった。福島県白河から青森までを勢力範囲として、丁度その中間地点に当たる平泉に拠点を置いた。

戦乱で多くの命が失われ、また自分の家族も亡くした清衡は、仏教による統治を目指したのであろう。中尊寺を建立した。経蔵には膨大な経典が今に残っている。

偶然にも北上山脈は、金の鉱脈の多いところであった。最初は奈良時代に山脈の南端である宮城県の涌谷地方で金が発見され大仏建立に大きな役割を果たした。なぜ北上山地に金が多いのかは地質学的に説明されているが、採掘は明治時代まで続くのである。世界最大級の100kgを超える金塊も発見されている。

平泉藤原氏はこの産金により繁栄するのである。金色堂にはフィリッピン付近まで行かないと生息していない貝を使った螺鈿を散りばめた柱がある。

直接、南方諸国と交易していたのか、中国などを介していたのかはわからないが、驚愕することである。

金色堂須弥壇の下には藤原氏四代がミイラとなって眠っている。この頃の日本にはまだ遺体をミイラ化することは行われていない。日本最古のミイラということになる。

なぜ、どのようにしてミイラとなったのか謎である。

平泉の栄華は、8百年後の日本が第二次大戦による荒廃から立ち上がり、繁栄を遂げる過程に似ているのかもしれない。平泉藤原氏は四代百年に渡る平和を東北地方にもたらすが、最後には源頼朝の策略と軍事力によって滅ぼされてしまう。

百年の間でしかなかったが、平泉文化は大きく花開いた跡が今に残っている。

二代目の基衡は、これまた壮大な毛越寺を建立した。庭園内に大きな池を作り、舟遊びを愛でるという豪華なものから、庭園の丘よりジグザグの細い水路をつくり、ササ船が流れ下るまで一句を作るという優雅な遊びは京都から伝わったものであろう。現代にも観光用に再現されている。

三代目秀衡の時代になると、その繁栄はピークに達する。京都宇治にある平等院鳳凰堂を模してはいるが、規模はそれよりも大きな無量光院を建立して.いたことが発掘調査から明らかになっている。


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写真は美しすぎる建築とさえ言われ極楽浄土を表現したとされる現存の京都鳳凰堂で、さらに雄大なものが平泉に存在していたのである。





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左写真は亘理郡の隣、伊具郡角田には秀衡の妻が建立したとされる高蔵寺の阿弥陀堂が今に残っている。1177年に作られ中には5mを超える阿弥陀像がある。また日本三筆の一人である嵯峨天皇の書(高蔵寺と記す)が額になっている。

(三筆とは日本書道史上に輝く3名の能書家を指す。空海、嵯峨天皇、橘逸勢)

天皇の真筆は「宸翰」と呼ばれ、現存するものは少ない。

この時代の歴史書で現代に残る「吾妻(あずま)(かがみ)」がある。

1180年から1266年までの出来事が細かく記載されている。鎌倉時代の正史を記録するために編纂されたものである。

このなかに当然ながら1192年の平泉滅亡の様子も書かれている。

源頼朝の全国統一は、各地の独立勢力を許さないというもので、平泉勢力をも敵とした。

頼朝に追われて平泉に逃げ込んだ義経を擁して、秀衡は頼朝と一戦を交えようとしていたが、ほどなくして秀衡が病死してしまう。

 頼朝は跡を継いだ泰衡に圧力をかけて、義経の首を要求する。

泰衡の攻撃を受けて義経は自害するのである。

頼朝の策略に嵌ってしまったのである。戦闘に天才的な能力を持っていた義経がいなければ平泉攻略は容易だと考えて大軍を発した。

浜通りに軍を進めたのが、千葉常胤を大将とするその一族郎党で、戦後に功として次男が相馬を三男胤盛が亘理郡を領地として拝領するのである。

参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」 

山元、亘理町史など   (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2022-05-13 21:31 | 亘理・山元ニュース

令和4年4月1日 

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

平安時代末期の出来事(中)

(おご)る平家は久しからず・・」と、物語にも書かれるように、清盛の死と共に平家は急速に勢いを失ってゆく。最初に都から平家を追い出したのは木曽義仲である。

平氏は勢いを盛り返そうと、安徳天皇を伴って福原(神戸)に落ちのびた。

ところが、後白河上皇は今度は乱暴気極まりない木曽義仲の追放に乗り出した。関東の源頼朝は兵を挙げていた。頼朝軍は先に平氏と一戦を交えたことがあった。清盛の孫である維盛を総大将にして、大軍を関東に派遣し対陣したが、平家は一説によると鳥の羽音に驚いたとされ、戦を交えずして都に逃げ帰ってしまった。

後白河上皇は頼朝軍に期待するところが大きかった。源義経を大将とする軍勢は都に上がり木曽義仲軍を破る。この戦いで義仲の奥方で武勇に秀でた巴御前の奮闘が有名である。

都を制した源義経は、勢いを得て平家追討の宣旨を受けて、平氏の立てこもる福原を目指した。そこは要害の地でもあった。背後に六甲山脈を背負い、攻めるとすれば海からしかないような地形だったのである。

ところが、義経は奇襲作戦に出た。不可能と思われていた山を駆け下りたのである。後に「一の谷合戦」と呼ばれるもので、不意をつかれた平家は惨敗して、四国の「屋島」に落ちのびることになった。

義経の追撃は止むことがなかった。

陸上と海上の両方から攻め立てた。陸では地元民しか知らない険しい裏道をたどったとされ、海では、これまた物語で有名な義経軍の「那須与一」が平家の女性が掲げる扇の的に矢を命中させたという逸話がある。

屋島を失った平家は、壇之浦(現在の関門海峡付近)で、最後の決戦を挑むことになった。

ここでも瀬戸内海の水軍を味方につけた海軍力が平家を上回り、平氏は壊滅する。

この時に、安徳天皇の母親である平清盛の娘徳子(建礼門院)は、我が子である8歳の天皇を抱いて海に飛び込んだ。

これをみた源氏の兵士達は、海の中に熊手を突っ込んだ。幸か不幸か建礼門院の髪の毛がひっ掛かり引き揚げられた。しかし天皇はそのまま沈んでしまったのである。

建礼門院は京都の寂光院で天寿を全うすることになるが、平家は完全に滅亡した。その落人は、全国各地の山間僻地に住まい平家の落人伝説の残る集落が各地にある。

由緒正しい落人というのもおかしいが、平氏の重臣であった平(さだ)(よし)が、平家の秘宝や仏像と安徳天皇の遺物をたすさえ、仙台市郊外の人里離れた僻地である「定義山」に落ち着いた。その一族もまたその周辺の山地に住みついた。




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「定義如来」をいただいたこの地は特殊な温泉の湧出も相まって800年以上の時を経た今も仙台の有名観光地の一つである。現在は市営バスの終点でもある。

さて源平合戦での逸話の一つに、源義経と梶原景時の逆櫓(さかろ)論争がある。戦に当たって船を前後に動かすよう梶原は逆櫓の取り付けを義経に進言するが、義経は前進あるのみとしてこれを受け付けなかった。これは後世の初代亘理領主の伊達成実の毛虫を形取った兜の前立てを思わせることである。

 完璧ともいえる勝利を遂げた義経は、都に凱旋すると後白河法皇は「検非違使」の位を授けるのである。(検非違使とは現代の警視総監に相当する役職)

 ところが、これは鎌倉にいる頼朝を怒らせた。自分に無断で官職を受けるのはけしからんとしたのである。後白河法皇の陰謀で兄弟の分断を計ろうとしたことだとみたからである。義経は直ちに職を辞して、頼朝に弁明すべく鎌倉に向かった。しかし頼朝は義経が鎌倉に入ることを許さずに、郊外の腰越に留めて梶原景時を使者として義経と会見させた。

 梶原は平家との合戦で逆櫓(さかろ)論争をして義経には含みを持っているので、義経が必至で頼朝へ書いた「腰越状」を無視したのである。

 やむなく義経は、京都に戻るしかなかった。だが無位無官となった義経の首を狙い鎌倉の恩賞に預かろうとするものが出てきて京都は騒がしくなる。

 このあたりのことが、当時の公家である九条兼実が日記に書いたものが現在に残っている「玉葉」とよばれ生々しい史料である。

京都に居ずらくなった義経主従は九州に逃れて再起を計ろうと船出するのである。

 ところが、瀬戸内海に出てすぐに暴風雨に遭遇し船は難破してしまう。

 義経一行は、やむなく陸路をたどり、奥州の藤原秀衡を頼るべく北上してゆく。

 日本海側の現在は石川県小松市にある「安宅関」を通過する時の苦労話が、後に歌舞伎の弁慶勧進帳として広く知られることになる。

 苦難の末に平泉に到着するが、朝敵の汚名を着ることになった。

 いずれにしても、源義経は日本史上最大のヒーローである。NHK大河ドラマで取り上げられる回数が最も多いのではなかろうか。2022年も「鎌倉殿の13人」で活躍することであろう。

 この13人外だが、後に亘理郡などを支配することになる千葉常胤も登場してくる。

参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」 

山元、亘理町史など   (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2022-04-01 00:00 | 亘理・山元ニュース

令和3年12月1日 

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

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平安時代末期の出来事(前)

源氏と平氏の両者は天皇の子孫であり、武力を持つ存在でもあったのだが、政治的な力はなく、長らく朝廷や貴族の用心棒的な地位に甘んじていた。

しかし新たに「武士」という地位と官位も獲得するのがこの時代である。

そのきっかけが、1155年に始まる保元・平治の乱と呼ばれる戦いであった。

時の朝廷では後白河院と崇徳院が次の天皇を誰にするかで争っていた。警護に当たっていた源氏と平氏の同族内部でも分裂があり親子でも敵味方に分かれて戦わざるを得なかった。 

後白河院側の勢力が優勢だった。平氏の実力者清盛や源氏の義朝がついていた。しかし源義朝の父である源為義は過去のしがらみもあり崇徳院側についた。

戦いは後白河院の勝利となり、源義朝は父親の為義を斬首したのである。

(この辺りは大河ドラマで何度も出てきているので、ご存知の方も多いであろう。)

崇徳院は四国の讃岐に配所となり死後に怨霊になったとされ、関係者が次々と死んだのである。歴史的にも日本三大怨霊(菅原道真・平将門と共に)として知られることになる。

現代になってからも、昭和39年に崇徳院800回忌に天皇は勅使を四国に遣わしている。

さて、この戦乱で源氏側は親子同士が戦ったこともあり、大きく勢力を失い、勝者側だったものの源義朝には焦りがあった。清盛が熊野神社参詣に出ている留守を狙って挙兵するのであるが、義朝の戦力は弱く、実力に勝る清盛に敗れてしまう。

破れた義朝には子供がいた。頼朝、義経の兄弟である。斬首されるところであったが清盛の母である池禅尼が可哀そうであると、清盛に懇願し助けてやった。

頼朝は伊豆へ、義経は幼少時を鞍馬で過ごし、やがて奥州藤原氏に庇護されるのはあまりに有名である。だが20年後の源平合戦の因をつくってしまい、平氏は滅亡することになる。

この当時の奥州はというと、朝廷の混乱を外に平泉の藤原氏は100年に及ぶ繁栄の最中にあった。清衡に続く二代目の基衡は「毛越寺」を建立した。

「毛越寺」は、現在もなお往時の面影をとどめているところがあり、国の「特別名勝」「特別史跡」になっている。名勝と史跡が同時に指定されているのは、全国でここ一か所のみである。

ところで亘理郡はどうであったかというと、平泉藤原氏の父祖が住んでいたところということで、特別な扱いを受けていた「郡」である。

昭和40年頃の河北新報に日本歴史学会元会長の高柳光寿氏が「藤原三代」という読み物を連載していた。亘理郡と平泉との間には使者が行き来していた。亘理からは献上品を持参して、平泉からは下賜品をいただくという往来があったようだ。

現在、それらのことを物語る史料や遺跡は亘理では何も発見されてはいない。

亘理権現大夫経清が拠点としていたところや、平泉時代の亘理に存在したであろう施設などは未だ見つかっていない。唯一その候補として名乗りを上げているのが、山元町合戦原の中島館跡が亘理権現大夫経清の館であったろうと名乗りをあげている。しかし800名もの私兵を有していた支配者の館にしては規模が小さいように感じられる。今後の発見に期待したい。

一方、都では勝者となった平氏一族が栄華を誇るのである。平清盛は官位を極め太政大臣となって、国家権力の頂点に立った。その娘を天皇に嫁して、産んだ男子を次の天皇にするのである(安徳天皇)。かつての藤原氏同様の権力を手にしたのである。

「平家にあらずんば人にあらず」とさえ言われた。

清盛には、奥州にまで侵攻して国家統一というような野望はもっておらず、自らの防御力を高めることと、もっぱら海外貿易に関心が向いていたのである。

奥州藤原氏に対しては、御身は奥六郡の主であると認めていた。

だが、京都は元々要害の地ではなく、外から攻められると弱い地形である。そこで清盛は都を福原(現在の神戸)に移したのである。六甲山脈を背にして敵からは攻めにくく、また瀬戸内海に面しているので、中国との貿易にも適している。

しかし、京都の公家たちは猛反対した。福原は田舎過ぎると移住を拒否したのである。最後には、娘を嫁にやった高倉天皇までものが反対して、清盛は福原遷都を一年足らずで諦めざるを得なかった。

それでも清盛は、瀬戸内海一円に強大な勢力をきづき上げた。厳島神社に壮大な神殿を奉納した。



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 当時にあって、平家のあまりの独善的な繁栄ぶりを苦々しく思っていたのが朝廷側である。全国には源氏の残党勢力もまだまだ残っていたので、後白河法皇は密かに平家追討の令旨を以仁王に持たせて諸国を駆け巡った。

京都に近かった木曽義仲が挙兵してまたたく間に、最初に京都の占領を果たすのである。ところが義仲は源氏の一族ではあったが、従う兵は木曽の山中育ちなので、都では傍若侮人な乱暴狼藉を働き、これまた手に負えない混乱をきたすことになった。朝廷側は、関東で兵をあげている源頼朝に期待するしかなくなっていた。

参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」 

山元、亘理町史など   (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2021-12-07 11:28 | 亘理・山元ニュース