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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

令和2年11月1日

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

 http://www.watari-yamamoto.com/


弥生時代から古墳時代へ<補足>

紀元前500年すなわち今から2500年ほど前に始まったのが「弥生時代」とされる。大きな特徴は、日本人同士の殺し合いが始まるのである。その原因は、当時の中国が「春秋戦国時代」と言われ戦いに明け暮れていた。敗れた人たちが当時の「難民」として日本にどっと押し寄せた。(現代でも戦乱が続く中東のシリアから欧州への難民が大問題である。)

中国からの難民は武器を持っていた。耕した農地を武力で奪うことを日本人は教えられた。

こうなると当然ながら、個人よりも集団で自衛した方が良いとなる。

これまでには考えられなかった「環濠集落」というのができてくる。すなわち集落の外側に堀をめぐらして敵を防ぐのである。(九州の吉野ケ里遺跡が有名)

大陸からの難民は、武器と共に稲作などを持ち込んだとされるが、稲はもっと前に伝わったとされ、主な伝来品は青銅である。約700℃の比較的低い温度で溶けるために、(鉄を溶かすには1400℃の高い温度が必要)当時の技術でも青銅で容易にいろんな物が作られた。武器などと共に銅鐸が有名であるが、東北地方には青銅がおよばなかったらしく、当時のもので発掘された例はいまだない。

その頃の亘理は郡はおろか、みちのくという概念さえなかった時代である。土器の出土例は多いが、面白いものとして木材を加工した丸い棒が逢隈の鹿島吹田の地で旧国道6号線の東側で発掘されている。低湿地だったために偶然に腐らず2千年以上もの長期間存在した。

(耕地整理事業の工事中に水路の底から出土)。

(上図は、出土した残存している部分で長さ60cm、直径3cm程度の細い木の棒で、片端に5cm程度の握りみたいなものがある。他端は朽ちて無くなっているが、全長は1m程度であろう)


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用途は不明とされているが当時の農具なのであろうか。筆者が勝手に推測すると川の水をせき止める際に流れに板を差し込んで、それを支える棒ではなかったろうか。微妙な反りがあり、中央部で大きな力を受けても折れにくいようになっている。当時でもそんな知恵はあったものと思う。

ちょうど発掘場所近くには、胴捨山、愛宕山を水源とする小川が流れており、この水を田んぼに引いたのではなかろうか。

弥生時代に青銅は東北の地まではこなかったものの、稲作はあったと思われる。赤米という古代米である。現代も観光物品として岩手県などで作付けされている。

赤米は赤飯のもとになったとされる。祝いの時に用いられる。最初の栽培米であり、すなわち永年にわたり存続してきたので、これを食べることは目出度いのである。後に赤は祝いの代名詞へ発展したと思われる。

関西地方で見つかった銅鐸に川の堰をはずす人の姿が描かれたものがある。稲作に関連することは記録に残すべきものだったのだろう。

当時の亘理町や山元町は一面の湿地帯で、阿武隈川は大雨の都度自在に流れを変えていた。大きく変わったのが2500年前とされ、それまでの河口だった鳥の海から、現在の位置になったとされている。鳥の海に流れ込む鐙川がそれに相当することを、耕地整理前の昭和の航空写真からも読み取れる。その写真に逢隈の北部地区では円弧上に住宅が点在しているのがみえる。これも当時の自然堤防跡と推定され、人の往来で固められた自然堤防の地盤の強いところを利用し後の世の人たちが家を建てたものである。

弥生時代に大きな集落ができ、敵と戦うようになると当然ながらリーダーが出てくる。豪族の出現である。その力を示すために大きな墓を作るようになる。

亘理郡では、仙台方面から常磐線で浜吉田駅に入る700mほど手前の東側約100mのところに大きな円墳がある。車窓からも見える。直径33m、高さ4mで2段になっている。およそ千トンの浜砂を突き固めたものである。大塚古墳と名付けられているが、通称だんご山古墳と呼ばれている。「大塚」とは大きな古墳がある地なので、そのような地名になったのであろう。周辺からは埴輪も出土したが本格的な発掘調査はされていない。


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通常の前方後円墳とは異なるもので、円であるから高度な測量技術などは必要としない。中心に棒を立て、紐を引けば円である。おそらくは、その位置から見て漁貝類を主要産品とする豪族だったと思われる。当時の海岸線は、その辺りまで来ていたのだろう。現在は田んぼの中にあると言っていい。西暦100年から400年代のものと推定されている。

ほぼ同時代に現れる関西の巨大な前方後円墳と同じ系統と見られる名取の雷神山古墳や仙台の遠見塚古墳などの主は、何らかのつながりをもっていたのであろう。

規模は小さいながらも、山下の合戦原と吉田の長井戸に前方後円墳がある。


参考文献  亘理町史(上巻)、山元町史 


インターネット上の各種縄文・弥生時代資料  (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2020-11-01 11:41 | 亘理・山元ニュース

令和2年10月1日

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

 http://www.watari-yamamoto.com/


縄文時代<補足>

今から1万2千年前より、諸説あるが紀元前3百年(2400年前)頃までの、およそ1万年間を縄文時代と呼んでいる。日本列島は地球の温暖化による海面の上昇で、大陸より隔絶されて世界にも類例を見ない独自の縄文文化をはぐくんでいった。

[]日本人が形成したとされる時期でもある。あまりに長い期間に渡るので、6つの時期に分類して語られている。(草創期・・・晩期)

比較的暖かったので、北海道から九州まで広範囲での生活痕跡(遺跡)がある。

亘理郡では吉田の八幡神社近くに、1万年前の「西遺跡」が存在している。発掘品からの年代推定である。

北海道伊達市には6千年前の「北黄金貝塚遺跡」があり、国の史跡に指定され整備ができて立派な公園博物館となっている。明治以降の亘理郡からの移住者により同市とのつながりができ、往来することも多くなった。

青森の津軽半島には亀ケ岡遺跡があり遮光土偶と言われる、不思議な人間の形をした土偶が有名である。


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三内丸山遺跡などこれらを含めて北東北、北海道縄文遺跡群として世界遺産登録への申請が準備されている。

まだ何なのか解析されていないものの、同時代のストーンサークルと呼ばれている、石を円状に並べた不思議な遺跡もある。

縄文時代には人間の上下関係もなく、また争いによる殺し合いなども起きておらず、現代人からみると一見して平和な良い時代にも見えるが、実情は人口も少なく食べてゆくためには、共同生活が必要不可欠だったものと推測される。

生産手段が少なく、野山の植物を採取したり、獣を罠にかけて殺したり、海辺で貝を取ったり、魚を釣ったり、銛でつくなどして生活を支えていた。狩猟は石器時代より継続していたものだが、新たに、植物採取・植物栽培・漁労の3つの生産手段が加わり豊かさが増した時代でもある。縄文人は、その労働形態から前かがみの姿勢でいることが多かったと、発掘された遺骨より推測されている。

平均身長は男子で160cm弱で彫りの深い顔立ちである。女子はこれより10cmほど低い。また虫歯が多いことや寄生虫の卵が腹部から見つかっており、でんぷん質のものを多く食べていたと推測されている。現代人の我々も回虫などに悩まされ戦後もサントニンなどの虫下しを飲まされたものである。トイレには虫がたくさんいたものだった。

(水洗式の近代的なトイレはごく最近のことでしかない)

縄文人は人間が便をした後には、食物がよく育つことなどを経験上知りえて、食べられる植物のところに糞尿をまき散らして寄生虫のサイクルが出来ていったなどのことも考えられる。(昭和30年頃まで野菜の肥料にはダラと呼ぶこんな形態での使用がされていた)

縄文時代からごく近代までの長い植物栽培の歴史を感じるのである。

主食に近かったのが栗やクルミだったのだろう。貯蔵していた跡もみつかり、後にはこれらの木を集落の周辺で栽培している。

貝や魚を生で食べることも多かった。現代でも貝毒とか川魚に寄生虫の多いことには変わらない。腹痛に苦しんでいた縄文人が浮かぶ。解毒する薬草などもあるはずだと探していたことだろう。人々の住居は草創期の終わるころには竪穴式のものを作り定住が始まったものと考えられる。

稲作が入ってくるまでの長期間、停滞しているかに見える縄文時代だが徐々に進歩をとげている。土木技術や沿岸航海術が発達した。晩期の三内丸山では巨柱建造物を作り、糸魚川でしか産出しないヒスイを青森まで運ぶ交易があったことも推測できる。

また縄文人は芸術的な感性に秀でていた。火炎式土器と呼ばれる装飾土器は、1970年、大阪万博シンボルタワー「太陽の塔」をデザインした岡本太郎氏が激賞している。




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実用性というよりも神に捧げるものとして、このような形を作り出したものと考えられる。

山形県では、ビーナスを思わせる人間の造形が発掘された。両者ともに国宝に指定された。


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このような縄文人も気候変動には逆らえず、晩期にはやや寒い時期が到来して栗も実らなくなり、南へと移動せざるを得なくなったと思われる。大きな集落が幕を閉じた。

丁度、その頃に大陸から稲作などの高度な技術を持った集団がやってくることとなり、弥生時代の始まりをつげるのである。

西日本は、早々に弥生文化に移行するが、関東以北、特に東北地方では縄文文化との混合した時代がしばらく続くことになる。

本稿の終わりに筆者の勝手な推測をさせていただくと、青森の三内丸山で巨柱技術を持った人々が南下して、長野県諏訪神社の御柱祭りの基となり、また沿岸伝いに南下して島根にたどりついた人たちは巨大な出雲神社を建設する。やがて大陸からの鉄の文化と融合して、近年神社境内で発見された3本の巨柱を鉄輪で結び高さ48mにもおよぶ巨大神殿を立てたのではなかろうか。しかし大和人にはかなわないとして出雲は平和的に国譲りをおこない、

全国の神様のシンボルとしたのではなかろうか。


参考文献  インターネット上の各種縄文資料 (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2020-10-09 08:41 | 亘理・山元ニュース

令和2年9月1日

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

 http://www.watari-yamamoto.com/


石器時代から縄文・弥生時代へ<初期の人間活動>

今から2万年ほど前、地球は最後の氷河期時代で、海面が現在よりも百メートル以上も下がっていたとされ、どんな光景が広がっていたのだろう。

日本列島と朝鮮半島や大陸は陸続きになっていて、北からも南からも人間や動植物が渡ってきたとされる。

 <氷河の最盛期には日本海は巨大な湖だった>

              

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人間は石器を使い、動植物を食べて生活していた。

亘理郡の北端にある大森山から1960年(昭和35年)頃に開墾中に石器が出土して話題になった。しかし周辺地域の十分な調査はなされず3万年前とされる石器一個のみが残った。

亘理郡でも石器時代に人々が野山を駆け巡り生活していた。これからも新たな発見があることを期待したい。


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1990年頃のことだったが、仙台市富沢で工事現場から石器時代の「焚き火跡」が見つかった。重要な発見とされ大規模な発掘が行われ、一帯がそのまま「地底の森ミュウジアム」(富沢遺跡保存館)として残されている。約2万年前のものとされ、当時の環境・生活状況などをそのまま見ることができる。

当時の気温は、現在より7~8℃低かったとされ、今のシベリアの如き状況で、針葉樹の森が広がっていた。

氷河期は一万年前に終わり、地球は暖かくなって海面は上昇し、7000年頃前に海は現在の平野とされる部分を覆いつくすまでになる。角田盆地も浅くて大きな内海になる。阿武隈山脈は亘理郡のところで海の中に半島の如く突き出す地形を作った。

その後、川が吐き出す砂利や泥によって海は徐々に後退してゆく。阿武隈川は日本でも有数の大河であり、上流から大量の土砂を運んできた。

現在のような堤防もないので、大雨の都度、川は自在に流れを変える。すなわち水は低いところへと流れるので、流域は平坦化されてゆく。2500年前には鳥の海が河口であった。

亘理郡の阿武隈山地そのものからも、大小の澤が流れ出て大雨が降ると山肌を削り海を埋めてゆく。

5千年前には海の下だった亘理から山元町へかけての平野が徐々に出来上がって来た。現代人の記憶する「地名」が出てくる。典型的なものが吉田にある。山麓に「上大畑」、平地に「下大畑」、海岸近くが「大畑浜」である。陸地の拡大に伴い名前を分けたと想像される。

海岸線の後退とともに、山地よりも海辺に近いところが生活し易いと気がつくようになる。それと同時に食物を保存する容器が必要となり、粘土で器を作り焼いて作ることを知る。土器は石器に続く人間の大発明品となる。

石器も土器も時代と共に進歩して、現代人はいろんな名前をつけている。

(打製石器、磨製石器、・・須恵器、土師器・・など)

さて、海岸近くに住みついた人間は貝を食べ、さらには魚を捕獲する。貝殻や魚の骨を、ところかまわずに捨てるというようなことをせず、一か所に集中して積み上げておくようになる。これが何世代にも渡ると巨大な貝塚となり現在に残ることになった。

逢隈の「椿貝塚」、吉田の「畑仲貝塚」、山下の「中島貝塚」などが知られている。これらは3500年ほど前のものとされる。時代区分では縄文時代晩期である。

椿貝塚は巨大なもので貝殻が分布する底辺が1万㎡以上もある

人々は集落を形成して居住するように.なった。

山下の涌沢で、縄文時代の大きな集落跡が発掘された。常磐自動車道の工事に掛かった場所で中央に集会場とみられる広場を中心として円形にいくつかの建物が存在していた柱跡が確認された。この当時の大規模なものとしては、青森の三内丸山遺跡が有名である。当時の日本は現在よりもかなり暖かかったものと思われる。



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時代はさらに下り、弥生時代を迎える。この頃になると稲作が大陸から伝わってくることになる。山下の国道6号線と常磐自動車道が交差する西側に2000千年前(キリスト誕生の頃)のものと推定される小さな田んぼが見つかっている。

稲穂を収穫するのは、この時代はまだ、石の包丁であり、稲籾だけを取る平板な石に溝をつけた石器も見つかっている。

生活が安定し人口が急激に増加してゆく。日本全国では縄文晩期の10万人から弥生時代には60万人へと増えてゆく。亘理郡には300人ぐらいだろうか。(現在の比率から推定)


文献  山元町誌  亘理町史上巻   (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2020-09-03 10:15 | 亘理・山元ニュース
令和2年8月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長 千石 信夫 

                           http://www.watari-yamamoto.com/

江戸時代(その5)
<戦国末期から江戸初期の頃へ>

 鎌倉時代より室町時代を経て戦国期へと、亘理郡をおよそ400年間支配していたのは、千葉の豪族だった武石氏(後にこの領地の地名にちなんで「亘理氏」と改めた)である。

 鎌倉幕府が平泉の藤原政権を滅亡させた戦いで、恩賞として亘理郡などを与えられた。同じ戦いの時に伊達氏も恩賞地に福島県北部の伊達郡を与えられ、その当時の鎌倉時代には領地・勢力ともに、亘理氏も.伊達氏も.同じ程度だったのである。

 しかし、伊達氏は着々と領地経営に励み、9代目の政宗の時代に飛躍的に領土を.拡大した。ずっと後年の仙台藩祖・政宗は、この英傑だった先祖の名前にあやかったものである。 (仙台藩祖・政宗公は、初代朝宗から数えると14代目になる)

一方の亘理氏は内紛が起きてしまい.衰退をたどることになった。伊達氏11代目の稙宗の時代には、亘理氏は伊達氏に.完全に屈服することになる。亘理氏は.稙宗に娘を差し出し、その生まれた男子を自分の後継ぎとするのである。「綱宗」である。だが早死にしたので次の子供である「元宗」が亘理氏を継いだ。「元宗」の子で伊達稙宗の孫となる「重宗」もまた伊達家の大きな戦力となった。「綱宗」「元宗」の兄弟が伊達郡から亘理に出発するに際して稙宗は二人の従者を与えた。その一人が千石大炊助(当NPO理事長千石信夫の遠祖)である。

 日本の戦国時代が終息したのは豊臣秀吉の時代である。その時、大名として伊達家初代となった藩祖・政宗は本拠地福島から岩出山に転封させられた。天正19年(1591年)のことであった。宮城県中央部から福島県中通り一帯を支配することになったのである。各地に重臣を配置するのだが、亘理郡には、「片倉小十郎」が配され、亘理氏は涌谷に移された。
 亘理の南隣には、相馬氏がいて「稙宗」の時代から激しく戦っていた。戦国時代が終息したとはいえ、まだまだ油断のできない状況であり、相馬氏と対抗するのに、亘理氏に全幅の信頼を置くというわけにゆかなかったのだろう。
 涌谷に移った亘理氏は、その後「伊達」の姓を賜り完全に伊達氏の一族となったのである。

 時は移り明治となってから、涌谷伊達氏は亘理氏の姓に戻った。400年間も亘理郡を支配した殿様なのであるが、不思議なことにその墓が一つも見つからないのである。亘理の歴史上、最大の謎として残っている。涌谷に運んだわけでもなく、涌谷の郷土史家も殿様の子孫もわかりませんというだけである。(但し、山元町小平の鳳仙寺に亘理氏より分家の墓がある)

 亘理に来る以前の武石氏の墓は千葉市の寺に残っている。東京と千葉を結ぶ京葉高速道路にも「武石インター」という名称が残っている。

 亘理郡には、戦国時代まで亘理氏と並びもう一人の豪族がいた。十文字氏である。亘理郡逢隈の十文字に館があった。(現在の十文字神社付近)先祖は源左衛門綱安である。源義経の平泉下りに京都から同行してきた。綱安は平泉陥落の際に落ち延びて、亘理郡十文字に館を定めたのである。綱安は鬼退治で有名な渡辺綱の子孫であると称していた。
 現在は大雄寺となっている亘理氏の城だった「小堤城」と直線距離にして10kmほどしか離れていないところで、十文字氏は対峙していたのである。小さな勢力だったので、海岸線を行き来して相馬氏と結び亘理氏を牽制していたのである。だが、戦国末期に伊達成実が十文字氏を攻めて滅亡させたとされる。どのような因果なのか十文字氏は涌谷に落ち延びて、涌谷伊達氏の客分となり明治まで留まるのである。
 明治以降に東京に出た十文字氏は、十文字学園という学校を開設して女子教育に貢献することになる。現在の亘理にもその卒業生がいる。

 さて、豊臣秀吉の死後に関ヶ原合戦が起こり(慶長5年:1600年)勝利した徳川方についた政宗は、仙台に居城をもらい宮城県と岩手県南部一帯を領有することとなり、伊達家重臣の配置換えが行われた。亘理には伊達成実である。新地までの30余村の領地で後に2万4千石となる。成実は伊達一門にあってもきっての猛将といわれたが、「成実記」という戦国末期の伊達軍の行動を記録しており、今や第一級の史料とされている。武勇のみならず、文筆にも優れた武将だったのである。

 亘理領地に包含されるように坂元村のみが大條氏4千石をもらう。大條氏は、以前に紹介したように伊達家9代目政宗の弟を祖先としている。坂元は蓑首城と言う。明治以降に東京に出た大條氏一族の一人は、世田谷区に日幸電機を起こす。現在は亘理町吉田さらに山元町坂元にも工場をもつ。近年、山元町長を勤めた大條氏も一族のひとりである。

 これまで現代から500年ほどを遡る戦国期まで書いてきたが、次号からは一挙に1500年ほどを飛んで、亘理郡で製鉄が始まったころのことから書き下してくることにする。

文献  山元町誌  亘理町史上巻   (記:鈴木仁)   

# by tyama2001 | 2020-08-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
令和2年7月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長 千石 信夫 

                           http://www.watari-yamamoto.com/


江戸時代(4)唐船番所

 江戸幕府はキリシタンを厳しく取り締まった。外国人の出入りは長崎の出島だけで許され国内沿岸地域での.接触を禁止された。そのためには外国船の発見が必要であるとして、日本各地に「唐船番所」が設けられた。

(当時の日本人の世界観というのは、外国とはすなわち中国であり歴代王朝の中でも盛名の高かった「唐」が外国を表すものとなった。欧州人は、南からやってくる野蛮人のたぐいということで「南蛮人」と区分されていた。ただ、将軍家や大名クラスは世界情勢にも通じていたのだが、一般人に世界は、わからないことだった)



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 さて、仙台藩では「唐船番所」が五か所に設けられた。最南端が山元町坂元にある。磯浜漁港の南西方向にある。海岸近くに突き出た小高い丘の先端にある。高さ20mくらいしかないのだが、眺望がよく晴れた日には牡鹿半島から金華山までもが肉眼でもくっきりと見える。ここに遠眼鏡(望遠鏡)を設置した。誰が監視にあたったのかというと、仙台藩直属の足軽詰所が丸森町の金山にあり43名がいた。そこから2名で1組となり5日間の交代勤務だった。
 設置されたのは正保3年(1646年)のことである。以来、遠眼鏡に映るのは海と和船のみでほぼ100年近くにわたり外国船を見つけることは無かったのである。
 ようやく元文4年(1739年)に至り、異国船団3隻の通過をみるのだった。これはロシアのベーリング卿が率いるものだった。幕府に通商を求めるも拒否されて帰国の途中だった。あらかじめ船が通ることは知らされており、確認したようなものだった。それを知らせるべく早馬が仙台へ向かった。ベーリング卿は、最北の海を見ようとカムチャッカ半島沿岸を北上してロシアとアラスカの間に海峡があることを知った。近代人では最初の発見であり、自分の名前が海峡名として地図上に記載されることになった。

 後に「大航海時代」と言われるように、先進各国は競って太洋に船を出した。航海技術が大幅に進歩したからである。
 有名なのは、イギリスのジェームス・クック船長で、太平洋の真ん中にハワイ諸島を発見することになる。1800年代まで7つの海を支配したとされる大英帝国ができる。
 


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 これに負けまいとロシアも盛んに動いていた。船以外にも陸上から千島列島を南下してきた。
 徳川幕府は、これに危機感を抱いた。蝦夷(北海道)は日本の領土であると認識しながらも、領主は函館近くに松前藩があるだけで、北の守りは極めて薄い。
 そこで幕府は、東北地方の大名に警備を命じた。仙台伊達家は北海道の南東海岸と南千島列島が当てられた。1799年に出兵を開始して1821年には最大2千名もの仙台藩士が駐屯している。択捉島にも600名もの藩士が渡ったが、寒さに対する備えが弱かったのであろう。わずか半年余りの間に100名以上もの死者を出して、この島を引き上げた。
 しかし、その後も幕府からの命令で北海道の三分の一に相当する海岸線の警護を仙台藩が担うことになった。北海道総括支所ともいうべき「陣屋」を白老町に設けたのである。(現在は史跡に指定)。そこには塩釜神社もあり仙台の人たちの心のよりどころとしたのだろう。

今は立派な資料館がある。

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 南下を続けるロシアとのいざこざは、さらに続き幕府はとうとう条約を結ぶことにしたのである。1855年に「日露和親条約」を締結した。国境線を択捉島と次の島の中間点とした。これが現在も北方領土問題として未解決の歯舞群島と色丹島さらに国後島、択捉島が日本固有の領土であるとする根拠ともなっている。
 仙台藩の出兵時に亘理伊達家や坂元大條家から参加しているのかどうかは定かではない。ただ北海道の情報は得られていて、後の亘理藩士移住地の選定とも関連すると考えられる。江戸幕府は鎖国政策を取っていて、日本の船が外国には行けないようにと、甲板のある船の建造を禁じたのである。 大きなものでも千石船と言われるもので、帆が一枚のみで、多数の漕ぎ手が動かしていた。

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米を主とする日本の沿岸地域の交易のためである。荒浜港もその拠点の一つだった。この程度の船だったので難破することも多く、遠い中国やフィリッピンとか、ロシアのカムチャッカ半島まで流されるものも多かった。難破の末に世界一周をしてしまったという、石巻の若宮丸の乗組員が有名である。また、ロシアにそのまま永住してしまった方々もいる。

文献  山元町誌  亘理町史上巻   (記:鈴木仁)

# by tyama2001 | 2020-07-01 00:00 | 亘理・山元ニュース