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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

                             2022年730日(土)
                             山元町鷲足地区にて

 生薬の原料となるキハダの採取を、城西大学と東北福祉大学の研究者のみなさんと行いました。


キハダはミカン科の樹木です。成長したキハダの表皮と内部の木質部との間に黄色の内皮があります。その黄色い内皮を乾燥させ、粉末状にしたものは、胃腸薬などに用いられてきました。

2019年にNPOの会員、城西大学、東北福祉大学の研究者の皆さんとキハダの黄色い内皮の採取を行いましたが、今回は2回目となります。城西大学からは天然物化学研究室の鈴木 龍一郎 准教授、生薬学研究室の北村 雅史 准教授と横川 貴美 助教のほか、大学院生1名、学部生3名の計7名が参加しました。東北福祉大学からは健康科学部の小野木弘志 准教授が参加しました。



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写真1. キハダは数日前に伐採し、輪切りにしておきます


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写真2. 黄色い内皮が確認できます

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写真3. 黄色い内皮を採取

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写真4. 採取したキハダを手に取る学生


キハダの黄色い内皮の採取は、6~7月の梅雨~梅雨明けの時期、木に水分が豊富な時期に行うと良いそうです。この日は午前中から採取を開始しましたが、非常に蒸し暑く、汗だくになりながらの作業となりました。




 キハダの採取が終了した後、昼食休憩をはさんで、NPO会員と研究者、学生の交流が行われました。研究者のみなさんにキハダや伊達むらさきの研究について説明していただき、NPO会員からの多くの質問にも答えていただきました。



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写真6. 城西大学研究者の鈴木さんから、キハダについて説明していただきました


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   写真7. 天然物化学の魅力について話す鈴木さん。NPO会員も聞き入ります

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写真8. 城西大学の北村さん。伊達むらさきの研究成果について説明していただきました


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写真10. 城西大学の学生も積極的に発言していました


 当NPOでは今後もこのような交流を積極的に行っていきます。





# by tyama2001 | 2022-08-11 15:18 | 亘理・山元ニュース

令和4年8月1日 

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

鎌倉時代の出来事(3)日本の情勢

 西暦1200年から1300年の百年間に渡る亘理郡の記録が殆どない。領主である武石氏が関東から動かないので仕方がない。

 しかし、日本国と鎌倉幕府は激振に見舞われる。幕府を開設した源頼朝から3代目実朝までわずか30年足らずで源氏の正統が途絶えてしまう。2代目頼家の息子公暁が、3代目を殺害(1219)と言う骨肉の争いがあった。実朝は28歳でしかなく子供もいなかった。政治的にはともかくとしても、天才的な歌人に数えられている。

  山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

 (実朝が後鳥羽上皇に贈った和歌である。意味は例え天変地異があろうとも、天皇に対する忠誠心は変わりません。ということで、君とは上皇のことである。)

 この頃の朝廷は実権を全て鎌倉に奪われてしまい。朝廷の権威が損なわれるとの危機感があり、上皇から実朝にそれとなく伝えられており実朝はそんなことはありませんという和歌。

鎌倉の御家人同士にも争いが絶えなかった。合議制の13人の御家人が互いに戦闘を繰り返し、最終的に勝ち残ったのは北条義時とその同盟者であった。

 京都に実朝の死亡が伝えられると、朝廷は実権を取り返す機会だと画策する。後鳥羽上皇と鎌倉側には対立が生じた。鎌倉は義時が実質的な支配者であるとして朝敵とするのである。朝廷側は令旨を出して兵をあげた。この時、鎌倉では政権全体を潰しにきたと考えたのである。危機感をもった鎌倉側は後に尼将軍と言われた頼朝の妻である北条政子が結束を呼びかけ、朝廷軍に立ち向かう。この時に奇妙な命令を下す。朝廷軍に上皇や天皇がいるのであれば、これに矢をかけてはならない。本当の「朝敵」となるからである。ただし戦には勝利せよというのである。

 源平合戦など激戦を繰り返してきた鎌倉軍に、朝廷軍は簡単に敗れてしまう。

 「承久の変」と呼ばれる内乱だった。

 首謀者の後鳥羽上皇は隠岐の島に、同調した順徳天皇は佐渡に流されるのである。

 鎌倉政権には北条家が執権として君臨する。なかでも北条義時は「得宗」とも呼ばれていたことがあって、その系統は「得宗家」と呼ばれた。鎌倉による全国支配体制が固まったのである。

 その頃、中国大陸では蒙古出身のチンギス・ハンが現れ周囲を攻めまくり、中東から遠くは現在の東欧諸国まで遠征していた。「元」という巨大な国家が成立することになった。

 チンギス・ハンの孫、フビライ・ハンの時代ともなると世界史上最大の大帝国となる。

 日本を戦わずして支配下に入れようとして、隷属するようにと使者を送って来た。

時の鎌倉政権は「北条家」の時代で義時の玄孫になる「北条時宗」が執権だった。鎌倉の体制が最も充実した時期でもある。

時宗はフビライの要求を拒否する。「元」よりは都合6度の使者を送って来るが、最後の使者団を切り捨ててしまった。怒ったフビライは日本攻略の軍を発した。

 第一回目が文永11年(1174年)に朝鮮半島経由で当時の朝鮮の支配者高麗の軍と連合を組んで、大船団を発し対馬経由で九州に上陸しようとした。総勢4万とされる。

 日本軍は頑強に抵抗して追い返したのである。


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上は元寇の図より、馬に乗った日本武士と、弓を構える蒙古軍の兵士。

 蒙古軍敗北の要因として、軍船が高麗様式の平底船だったために海上での揺れが激しく、乗せて来た馬が船酔いして使い物にならなかった為、大陸では精強な騎馬軍団も機能しなかったのである。

 一方、大陸の支配者であるフビライは、中国で最後まで抵抗していた長江の南側にあった南宋を攻め滅ぼし、「大元」帝国と称するようになった。

 ここにきて、フビライは再度の日本侵攻命令を発する。第二回目は弘安4(1281年)のことである。

 南宋があった大陸の東南部より、直接日本へ巨大船団を組んで攻めようというものだった。その数は10万人を超えた。当時にあっては世界最大の艦隊と言うべきものだった。

 出港の時期はモンスーンと呼ばれる風が北西に向って吹く季節である。当然ながらその後には台風がやってくることになる。

 日本では第一回目の経験から、浜辺に石垣を構築するなど体制を整えていた。九州の武士団も必死に戦い。そのため上陸することができなかった・

 長期化の様相が見えた時に(神風:台風)が来て、巨大船団が壊滅状態となった。

 怒ったフビライ皇帝は、第3回目の侵攻命令を発しだが自身が死亡して取りやめとなった。

 (元寇と呼ばれる外国からの侵攻に対して戦った事例であるが、ずっと後年の第二次世界大戦において、日本にはいつか神風が吹いて勝利するという悪い事例に使われたりした)

<余話>

チンギス・ハンは源義経であると信じられたことがある。義経が平泉で殺害されず脱出して大陸に渡ったというのである。東北地方には義経北向伝説が各所に残っている。戦の巧みさも似ていた。日本人のいわゆる判官贔屓が生じたものである。勿論伝説でしかない。


参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」 


山元、亘理町史           (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2022-08-04 08:52 | 亘理・山元ニュース
講演会のご案内
 
 誰もが死別という悲しみに向き合うとき、どのような ケアが必要なのか、グリーフケアをご専門とする
宮林幸江先生にご講演頂き、
皆さんと共に学んでみたいと思います。


開催日 2022年 9月10日 13:30~

場 所 山元町防災拠点・山下地域交流センター

    「つばめの杜ひだまりホール」 3階 会議室5


講 師  宮林幸江 先生

     一般社団法人日本グリーフケア協会 会

     東北福祉大学教授(健康科学部 保健看護学科)  

            略  歴

       東京医科歯科大学大学院修了(博士)

       福島県立医科大学講師

       自治医科大学教授を経て現職

       悲嘆回復ワークショップ代表


☆ 主 催

特定非営利活動法人

亘理山元まちおこし振興会


☆ 協力

山元町教育委員会


亘理山元まちおこし振興会

受講申し込み先

住所・氏名・電話番号を記入し

Faxかメールにて申込ください

Fax 0223-37-0010

Mail qbypf12912@yahoo.co.jp

定員になり次第締め切ります。


※お問合せ先

 携帯090-3120-3936 千石


ご案内チラシは下記の施設に置いてあります。

・山元町防災拠点・山下地域交流センター

・山元町中央公民館

・山元町防災拠点・坂元地域交流センター


 講演会のご案内   テーマ『家族を亡くした後の心のケア』_e0102418_16114977.jpg
 講演会のご案内   テーマ『家族を亡くした後の心のケア』_e0102418_16130274.jpg




# by tyama2001 | 2022-07-21 16:13 | 講演会のご案内

令和4年7月1日 

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

鎌倉時代の出来事(2)十文字氏、武石氏

 1189年の平泉藤原氏陥落の際に、亘理郡にたどり着いた一族で後に十文字氏を名乗ることになった渡辺左衛門綱安がいる。

 阿武隈川を渡った逢隈の十文字に館を構えたのである。館の大きさは南北218m、東西73mの大きなものだった。場所は現在の十文字神社の東側一帯である。

 館内には、2本の防御用とみられる溝が存在する。館の北面には深さ3mの濠があり、北西部には沼のある要害をこしらえたのである。

 さて、渡辺左衛門綱安は何者かというと、西暦1000年頃に酒呑童子を討伐したことで知られる渡辺綱(元々、源氏の系統だが渡辺氏の始祖となる)の子孫であるとされる。義経に付き従って、平泉に行った一人と言われる。

 平泉敗戦後に亘理郡で土着して「十文字氏」を名乗ることになり、それ以来戦国時代の末期まで400年間住み続けることになる。その後、江戸時代には涌谷伊達家の客分となり、明治以降には末孫が東京で会社を創立したり、十文字学園を創設したのは先に述べている。

 平成になって、その館跡が発掘調査されたのであるが、往時を物語るものが殆ど出土していないのである。

 鎌倉時代に亘理郡を統治したのは武石氏である。

 源頼朝は、平泉藤原氏を軍事力で攻め滅ぼそうとして、三方面からの陣立てを行った。その一つが浜街道軍で千葉常胤を総大将とした。その子である6名の男子も付き従った。

 平泉陥落後に恩賞として、男子6名にそれぞれ一郡を賜った。次男には相馬郡を、三男胤盛には亘理郡というようなことである。

 そもそも千葉氏とは、平家の一族なのである。桓武天皇の子孫が関東に土地を与えられ分家した流れをくむものである。先祖に平将門(939年に天慶の乱を起こす)がいる。

 住んでいる土地(下総国千葉郡)から「千葉氏」に改めた。源頼朝が旗揚げするにあたり、千葉氏も有力な支援者となったのである。

 さて千葉常胤の三男が「武石氏」を名乗るのは、現在の千葉市武石地区を与えられたからとされる。

 しかし、興味ある異説を紹介する。それは、源平合戦の前に同じ源氏である木曽義仲が先に上洛を果たしたので、それを打ち破るべく頼朝が発した軍の中に千葉常胤の三男の胤盛がおり、恩賞として義仲の領地の一部だった現在の長野県武石郷を拝領して武石の名前に変えたというのである。

 従って、武石胤盛は武石郷と亘理郡の2つの所領を有することになったというのである。

だが、胤盛自身はどちらの領地にも行くことはなかった。現在の千葉市花見川区武石に孫の代まで留まるのである。千葉市の武石地区は、おそらく武石胤盛が居住するようになってから命名されたものであろうという説である。京葉道路に武石インターチェンジがある。





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 上の写真は、千葉市武石地区にある真言宗のお寺さん「真蔵院」にある「武石氏の板碑」である。

もともと、このお寺にあったのではなくて、同地区の古い墓地にあったものを、江戸時代中期の1753年に、土地を開墾するために、この寺に移された。

大きい方の板碑は2m以上あり、文字通りの「真言」が記されているとされる。

作られたのは永仁2年(1294)と記されているようで、胤盛の曾孫になる宗胤が武石氏初代の胤盛の母親の為の供養碑とされている。背の低い碑は武石の文字が読み取れる。曾孫が亘理郡の「小堤城」(現在の大雄寺)に移住してくるのは1302年のことなので、その少し前に、この板碑が作られたことになる。

さて、長野県の武石村のことであるが現在は美ヶ原高原で有名なところで平成18年まで存在していた。合併によって今は上田市に併合されている。

そこには室町時代に「武石」の地名が出て来るが、鎌倉時代に存在したのかは、まだ明らかになっていない。判明すれば上記異説も真実性をおびてくる。

源頼朝の平泉征討に参戦した一員で後の伊達家の祖先になるのが常陸国真壁郡伊佐荘の豪族だった中村氏である。(北条政子の従兄弟になるとされる)

恩賞としていただいたのが「伊達郡」(福島県北部)である。中村氏は「伊達朝宗」と名を変えて初代となったのである。

相馬氏も武石氏も所領を得ながら、現地への赴任が百年も遅れてしまい代官にまかせておいたので所領の拡大はなかったが、伊達氏は活発に所領の運営と拡大に努めており、後に大きく差が開くこととなった。

参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」 

山元、亘理町史           (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2022-07-06 15:48 | 亘理・山元ニュース

令和4年6月1日 

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫


鎌倉時代の出来事(1)七騎の浜、他

山元町の花釜は「七騎の浜」と呼ばれたことがある。

文治5年(1189年)に、平泉が源頼朝によって滅ぼされた時に逃れてきた7人の武士とその家族が住みついたことによる。(以下:山元町「ふるさと地名考」による。

               (2011年大震災前の花釜居住の同姓者戸数)

  岩佐八郎太左エ門 義適        49名

  田所 十郎エ門  国重        17名

  太田 平内    光春         6名

  菊地 杢野亟   国安        54名

  渋谷 長左エ門  重義        12名

  鞠子 雅楽助   義信         4名

  渡辺太郎左エ門  綱行        80名

 子孫の方々は、花釜のみならず広く山元町内、亘理町にも及んでいると思われ、上記の数字はその一部である。7名の方の内で明らかに子孫だと判明.しているのは、岩佐さんと鞠子さんの家があるのみだ。

落ち武者である7名とその家族の方々が、どうして花釜に住みついたのか諸説あるが、その先祖は亘理権大夫藤原経清が前九年合戦(10501062年)に、私兵800名を引き連れて参戦した折に、これら7名の先祖も含まれていて、その方々は平泉藤原氏の繁栄と共に留まり、その陥落に際して先祖より伝えられてきた地を目指したのではなかろうか。

<花釜由来記抄録>:「ふるさと地名考」295頁の抜粋を以下に記す。

 どのようにして、この地が「花釜」と呼ばれるようになったのかが記述してある。

 西暦800年代初頭の大同年間に、名取に住んでいた3人の兄弟が塩釜に行き「塩焼」の修行を行った。その後に長兄が北釜(名取市)、次兄が相の釜(名取市)、そして3男が「南釜」を創設したということである。南釜が後に「花釜」となるのであるが、ここで出来た塩が「華」のようであるとか、あるいは西暦1100年頃に塩を「浪の花」と称するようになったことから、「花釜」に改称されたと言われている。

 ただ、現在の地名を見ると相馬に「原釜」がある。4男がいたのだろうかと思う?

 初期の「塩焼」は、「藻海式製塩法」と言っていた。

具体的な製法は、古代の製造方法とは若干異なるのかもしれないが、現在、広島県呉市で再現されている。1982年に土器の一部が発見されたことがきっかけである。

 海の浅場に群生しているホンダワラという、ひじきに近い海藻を集めてきれいな海水と共に容器に入れて浸す。



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海藻を引き揚げ、水分を切ってから再び浸す作業を何度か繰り返すと、塩分濃度が濃く、海藻のうま味を含んだ茶色の海水となる。

海藻を最後には乾燥させて焼いてしまい、その炭灰を濃くなった海水と混ぜて布でろ過する。

その液体を釜で煮詰めてゆくと、塩の結晶が出て来る。現代の塩に比べてまろやかで旨いとされる。この製塩方法は地域で若干の差異があるとされている。

呉市では体験学習館があり、さらにはこの製法を近代化し、栄養満点の高価な塩として販売している方々もいるのである。元祖の宮城県塩釜にもその業者が今も存在している。

さて古代の宮城県の浜では、釜は海岸地帯に自生する篠竹を割り、それを編んでなべ形にして周囲に粘土を塗り固めたものである。

 後に釜は、鉄で作られるようになる。直径174cm、厚さ3cm、深さ15cmの平たい大型の鉄釜が作られ、中世にかけて大量生産が可能となった。

 3.11大震災当時に花釜の海岸のすぐそばに菊池忠勝氏の家があり、地元では釜前(方言でカンメイ)と言っていた。古代より塩焼きをする釜があったところなのである。その宅地周りを1mほど掘ると黒ずんだ土が出て来る。長い年月に渡り塩焼のカマドから、かき出した残火が炭化して土と混じった土壌である。菊池氏の奥様は村田町から嫁して会計事務所を開いておられたのでご記憶の方も多いと思う。残念なことにご夫妻は津波により亡くなられた。その屋敷跡の近くには、けやきの大木がある。

 鎌倉時代の直前である1190年に、花釜の七騎以外に、高瀬の山にたどり着いた平家の落人がいた。藤原四郎右衛門成長の一族である。彼らは地元の人々に農業を勧めた。藤原を名乗っているので、京都の人であったろうとされる。やがて藤原四郎右衛門は農業の恩人として神様に祀られる。「四郎権現様」となる。地元では「おっしょさま」と呼ばれていたそうで、「お四郎さま」のことだと近年になって判明したそうだ。



参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」

山元町教育委員会「ふるさと地名考」平成6年刊行

呉市「藻塩の会」ホームページ。令和4年5月2日河北新報朝刊 

山元、亘理町史 

          (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2022-06-05 16:38 | 亘理・山元ニュース