令和4年8月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
鎌倉時代の出来事(3)日本の情勢
西暦1200年から1300年の百年間に渡る亘理郡の記録が殆どない。領主である武石氏が関東から動かないので仕方がない。
しかし、日本国と鎌倉幕府は激振に見舞われる。幕府を開設した源頼朝から3代目実朝までわずか30年足らずで源氏の正統が途絶えてしまう。2代目頼家の息子公暁が、3代目を殺害(1219年)と言う骨肉の争いがあった。実朝は28歳でしかなく子供もいなかった。政治的にはともかくとしても、天才的な歌人に数えられている。
山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
(実朝が後鳥羽上皇に贈った和歌である。意味は例え天変地異があろうとも、天皇に対する忠誠心は変わりません。ということで、君とは上皇のことである。)
この頃の朝廷は実権を全て鎌倉に奪われてしまい。朝廷の権威が損なわれるとの危機感があり、上皇から実朝にそれとなく伝えられており実朝はそんなことはありませんという和歌。
鎌倉の御家人同士にも争いが絶えなかった。合議制の13人の御家人が互いに戦闘を繰り返し、最終的に勝ち残ったのは北条義時とその同盟者であった。
京都に実朝の死亡が伝えられると、朝廷は実権を取り返す機会だと画策する。後鳥羽上皇と鎌倉側には対立が生じた。鎌倉は義時が実質的な支配者であるとして朝敵とするのである。朝廷側は令旨を出して兵をあげた。この時、鎌倉では政権全体を潰しにきたと考えたのである。危機感をもった鎌倉側は後に尼将軍と言われた頼朝の妻である北条政子が結束を呼びかけ、朝廷軍に立ち向かう。この時に奇妙な命令を下す。朝廷軍に上皇や天皇がいるのであれば、これに矢をかけてはならない。本当の「朝敵」となるからである。ただし戦には勝利せよというのである。
源平合戦など激戦を繰り返してきた鎌倉軍に、朝廷軍は簡単に敗れてしまう。
「承久の変」と呼ばれる内乱だった。
首謀者の後鳥羽上皇は隠岐の島に、同調した順徳天皇は佐渡に流されるのである。
鎌倉政権には北条家が執権として君臨する。なかでも北条義時は「得宗」とも呼ばれていたことがあって、その系統は「得宗家」と呼ばれた。鎌倉による全国支配体制が固まったのである。
その頃、中国大陸では蒙古出身のチンギス・ハンが現れ周囲を攻めまくり、中東から遠くは現在の東欧諸国まで遠征していた。「元」という巨大な国家が成立することになった。
チンギス・ハンの孫、フビライ・ハンの時代ともなると世界史上最大の大帝国となる。
日本を戦わずして支配下に入れようとして、隷属するようにと使者を送って来た。
時の鎌倉政権は「北条家」の時代で義時の玄孫になる「北条時宗」が執権だった。鎌倉の体制が最も充実した時期でもある。
時宗はフビライの要求を拒否する。「元」よりは都合6度の使者を送って来るが、最後の使者団を切り捨ててしまった。怒ったフビライは日本攻略の軍を発した。
第一回目が文永11年(1174年)に朝鮮半島経由で当時の朝鮮の支配者高麗の軍と連合を組んで、大船団を発し対馬経由で九州に上陸しようとした。総勢4万とされる。
日本軍は頑強に抵抗して追い返したのである。
上は元寇の図より、馬に乗った日本武士と、弓を構える蒙古軍の兵士。 蒙古軍敗北の要因として、軍船が高麗様式の平底船だったために海上での揺れが激しく、乗せて来た馬が船酔いして使い物にならなかった為、大陸では精強な騎馬軍団も機能しなかったのである。
一方、大陸の支配者であるフビライは、中国で最後まで抵抗していた長江の南側にあった南宋を攻め滅ぼし、「大元」帝国と称するようになった。
ここにきて、フビライは再度の日本侵攻命令を発する。第二回目は弘安4年(1281年)のことである。
南宋があった大陸の東南部より、直接日本へ巨大船団を組んで攻めようというものだった。その数は10万人を超えた。当時にあっては世界最大の艦隊と言うべきものだった。
出港の時期はモンスーンと呼ばれる風が北西に向って吹く季節である。当然ながらその後には台風がやってくることになる。
日本では第一回目の経験から、浜辺に石垣を構築するなど体制を整えていた。九州の武士団も必死に戦い。そのため上陸することができなかった・
長期化の様相が見えた時に(神風:台風)が来て、巨大船団が壊滅状態となった。
怒ったフビライ皇帝は、第3回目の侵攻命令を発しだが自身が死亡して取りやめとなった。
(元寇と呼ばれる外国からの侵攻に対して戦った事例であるが、ずっと後年の第二次世界大戦において、日本にはいつか神風が吹いて勝利するという悪い事例に使われたりした)
<余話>
チンギス・ハンは源義経であると信じられたことがある。義経が平泉で殺害されず脱出して大陸に渡ったというのである。東北地方には義経北向伝説が各所に残っている。戦の巧みさも似ていた。日本人のいわゆる判官贔屓が生じたものである。勿論伝説でしかない。
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
山元、亘理町史 (記:鈴木仁)