令和4年9月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
鎌倉時代の出来事(4)小堤城と武石氏
2度に渡る蒙古軍の来襲から鎌倉政権は、日本を守ったものの莫大な戦費を使い、これが引き金になって北条氏を頂点とする鎌倉政権は衰弱してゆく。
亘理郡を領地としながらも、鎌倉政権をバックに関東にとどまっていた武石氏も居づらくなってきたのであろう。1302年に亘理に移住することになった。鎌倉幕府成立後100年以上が過ぎていた。武石氏は亘理に小堤城を築いたのである。(現在の大雄寺)
移住の際に一本の「椎の木」を携えてきて、現在の称名寺のところに植えたとされる。それが現存する国の天然記念物である老木である。当時は光明院という鎌倉を本院とする亘理別院が創設されたのだが、武石氏が改姓して亘理氏となり、さらに戦国時代末期の涌谷移封により光明院も涌谷へ移転した。亘理に残ったのは称名寺となったお寺と椎の木さらに鎌倉時代の制作とされる「黒本尊」という仏像である。
奇妙なことには、本来はここにあるはずの武石氏とその後の亘理氏の墓が見つからないのである。涌谷には運ばれていない。3百年も亘理の領主だった人の墓が無いと言うのは実に不思議なことというしかない。亘理の歴史上最大の謎というべきであろう。
さて当初、武石氏が源頼朝から拝領したのは、亘理・伊具・宇多の3郡と歴史書にあるが、実質的には亘理郡のみと言える
その亘理郡内でも坂元の土豪となっていた、飛鳥から奈良の製鉄時代に都からやってきた坂本氏の子孫は、武石氏の配下となったが、逢隈の十文字氏は従わなかった。
十文字氏は危機感を抱いた。独立を守るために相馬氏を頼った。相馬氏は武石氏に遅れること20年後の1322年に、所領の行方郡(後に相馬郡と改める)の小高城(南相馬市)に移った。よく知られている現在の相馬中村城は、江戸時代に入ってから移転したものである。
相馬氏と十文字氏は70kmも離れていたが、海岸伝いに接触していた。両者は同盟することにしたのである。
相馬氏は同盟の証として、十文字氏に妙見様の信仰を勧め神社を建立させた。
一方の亘理の武石氏も千葉氏から出た一族なので、当然ながら妙見様をあがめているのだが、浄土宗の色合いが濃く、相馬氏の方がより妙見信仰の度合いが強かったのであろう。
武石氏の妙見様は、現在の亘理神社の忠霊塔のある辺りに存在したといわれる。これも涌谷移住の時に移転されている。

さて、もともとは千葉氏の家来だったが、平泉陥落後に岩手県南部地方から宮城県の北部地域に定住してしまった人もかなりいる。家来にも千葉氏を名乗ることを許したのである。ずっと後の世のことになるが江戸時代の末に宮城県の登米地方から江戸に上り、剣豪となった千葉周作がいる。彼は自分が編み出した剣法を「北辰一刀流」と名付けた。先祖が拝した神様を自分が開祖の流派の名前としていただいた。
鎌倉政権が滅んだ直接のきっかけは後醍醐天皇にあったことはよく知られている。
その少し前の朝廷には天皇兄弟の争いで2派閥ができ交互に天皇を立てることにしていた。
1321年に後醍醐天皇は即位するや天皇は自分の息子を皇太子にしようとしたが、別の派閥は当然ながら約束違反とし、鎌倉も許可しないので、天皇は鎌倉打倒の画策をしたが発覚した。だが鎌倉政権も天皇を処罰することができず1324年に側近の日野氏が処刑された。
しかし宮中では後醍醐天皇退位への動きが強まった。1331年、後醍醐天皇は自ら挙兵したのだが鎌倉軍の圧倒的な武力の前にはなすすべがなく敗れ、隠岐の島へと配所になった。
だが鎌倉打倒の決意は揺るがず、1333年に後醍醐帝は島を脱出した。西国の大名や鎌倉から帝の軍の制圧に派遣された足利尊氏をも味方に引き入れて鎌倉政権と対抗した。
時に関東では新田義貞も立ち上がり、弱体化した鎌倉に攻め入り執権である北条高塒が自害しここに鎌倉政権は滅亡することとなった。
後醍醐天皇は、「建武の新政」と呼ばれる直接親政を始めたのであるが、これは公家にも武家にも評判がよくなかった。実力のあった足利尊氏は天皇を無視して独自の行動を取るようになった。尊氏は朝廷に反旗を翻して天皇を追い詰めて「三種の神器」を受け取り、新規に光明天皇を立てた。(これが後に北朝と呼ばれる)
敗北したかに見えた後醍醐帝だが、1335年に密かに吉野山に逃れて「南朝」を設立した。
ここに南北朝の時代がはじまることになる。
現在では、ほとんど無視されているが戦前の教科書には後醍醐帝の忠臣として楠木正成が登場し知らぬ人はいなかった。数百人の兵力で城に籠り数万の足利軍を悩ませ、全国から後醍醐帝への同調者をつのり、亘理の武石氏もはるばる参軍し大阪の戦いで足利軍を破り、一度は九州まで足利尊氏を退却させた。
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
山元、亘理町史 (記:鈴木仁)