令和4年11月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
南北朝から室町時代へ
日本の歴史では、時代が大きく転換する時にはユニークな天皇の現れることが多い。
わけても後醍醐天皇は格別である。時代の歯車を逆回転させようとした。150年にもわたり続いてきた平氏、源氏、鎌倉政権北条氏の武家政治から公家による国家制度に転換させようと試み粘り強く戦ったのである。
半世紀にも渡る南北朝時代が続くことになる。(1335~1392)
後醍醐帝が復権した1333年には忠臣の北畠顕家を陸奥守,鎮守府将軍に任命する。顕家は帝の皇子である義良親王を伴って多賀城に下向することになった。
この時、顕家はわずか15才でしかない。早熟の天才貴公子として知られスピード昇任して、14歳で従3位参議となっている。
しかし着任2年後の1335年に足利尊氏が謀反したと知るや顕家は奥州の南朝に味方する諸勢力を集めた。これには亘理の武石高広(1302年亘理に移住した宗胤の孫)も兵を出した。どの程度の兵力かはわからないが、溯る事300年前に亘理権太夫は私兵800名を養っていたというから、数百名程度の兵は出すことが出来たのであろう。
顕家は、鎌倉を経由し大軍を集め、楠木正成などとも合流し、足利尊氏を打ち破った。
足利氏は九州に逃れ再起を計っていたところ、一年足らずで勢力を盛り返した。後醍醐天皇の治世に不満をもっていた武士団が集まったのである。
足利氏は再び上京の兵を挙げた。顕家には、再度、討てとの帝の命がでたが、今度は勝てないことを自覚した。義良親王を伴い戦場が近くなってから皇子を後醍醐天皇の元へと返した。さらに顕家は、帝に対してこのような事態になったのは帝の政治が良くないからであると6ケ条からなる諫奏文を送った。治世を改めるようにとの内容だが時すでに遅かった。
1337年、顕家は和泉の石津(大阪府阿倍野区)にて戦死する。その時、亘理の武石高広も討ち死したのである。
1338年、足利尊氏は京都の室町に幕府を開設し日本には新体制が出来上がった。
顕家は足利氏と覚悟の戦いに先立ち、本拠地を福島の霊山に移すのである。霊山は険しい山で堅固な要塞である。顕家の死後は弟の顕信が跡を継いで南朝のために尽くすのである。
しかしながら亘理では、戦死した武石高広の息子である広胤の時代になると北朝側より使者がきて、北朝に味方するようになった。広胤は上洛して足利将軍より従来通りに亘理・伊具・宇多の3郡の領地を安堵された。広胤は、この時に武石氏より亘理氏に改名するのである。
さて、室町幕府は順調に機能したかといえばそうではなく、足利尊氏と弟の直義との間に争いが生じた。直義は南朝を頼ったのであるが最後には敗れてしまう。このあたりまでは南朝の存在感があったが次第に衰亡してゆく。室町幕府の三代将軍義光の仲介により1392年に南朝最後の後亀山天皇は北朝と融合して北朝系統による南北朝統一が実現した。
この頃の亘理郡では、1347年に山下の深山山麓に山上院悠山寺が創建された。「山寺」という地名の由来ともなっている。亘理氏は本拠の小堤城(大雄寺)のみならず、領地の各所に館を作っていたとみられる。今次の震災復興で山元町役場より、駅に通じる道路の新設で遺跡の館跡は無くなったが、一族が住んでいたとされる。
ずっと後年の明治政府になってから、歴史の再評価がなされ南朝が正統だったとされるに至った。これは顕家の父親である学者として名の高かった北畠親房が書き残した「神皇正統記」が評価されたのである。当時の楠木正成は大忠臣だったとされ、皇居前に銅像が建てられた。北畠顕家にも霊山神社という壮麗なものができた。明治になってからだけではなく江戸時代に寛政の改革で知られる白河領主だった松平定信が顕家を評価していた。1817年に霊山山頂のすぐ下にあった館跡を整備して周辺に後村上天皇や南朝関係者の碑を建立した。
<余話>
明治政府が南朝を正統としたことで、南朝の後亀山天皇の直系子孫を名乗る男が現れた。
熊沢寛道である。戦前も名乗り出ていたが不敬だとして相手にされなかった。終戦後に米軍占領本部(GHQ)に改めて申し出た。昭和天皇の責任論があり、GHQも興味を示したと
ニューヨークタイムズが報じたので日本の新聞も掲載した。熊沢氏は南朝復興期成同盟を作り、支持者も集まって一時は豪邸に住むようになった。しかし世間からは次第に忘れられてゆく。昭和32年譲位して南朝の上皇を名乗る。だが生活は貧しくなり昭和41年に死去する時は長屋の間借りだった。熊沢天皇死亡の小さな新聞記事があった。
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
山元、亘理町史 (記:鈴木仁)
(9月10日 13:30~15:00)
亘理山元まちおこし振興会主催、山元町教育委員会の協力のもと、山元町防災拠点・山下地域交流センター「つばめの杜ひだまりホール」において、東北福祉大学健康科学部 保健看護学科の宮林幸江(みやばやしさちえ)教授が、『「家族を亡くした後の心のケア」誰もがたどる4つの悲嘆とグリーフケアについて 』と題した講演を行いました。
グリーフgriefとは、人の死などによる深い悲しみ、嘆き、苦悩のことで、宮林教授は日本人のグリーフの特徴とそのケアについて、長年研究やケア活動に取り組んできました。
グリーフの特徴について説明する宮林教授
山元町は東日本大震災時の津波被害により、突然親族や親しい友人・ペットを亡くした経験を有する方も多く、宮林教授はこれまでもグリーフケア活動を実践してきました。震災より10年が経過しても、死別悲嘆による苦しみが続いている方もいます。今回の講演テーマに対する関心も高く、当日は亘理・山元町地域住民48名が参加しました。
宮林教授の長年の研究成果をもとに、死別体験後の経過が説明されました
当会副理事長より閉会の辞
講演後の質疑応答では、参加者より「苦しんでいるのが自分だけではないとわかった。悲しむことや喪失感は、普通の反応なのだとわかった。」「グリーフケアの研究はいつ頃から始まったのか」など、の質問や感想が寄せられました。講演後のアンケート結果からも、良かった、非常に良かった合わせると80%を超え、聞けて良かった、納得されたような評価が多くみられました。やはり、悲しみながら悩んでいる人は少なくないように思います。
宮林教授には今後も同地域におけるグリーフケア活動や教育講演の機会を設けて頂く予定です。
令和4年9月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
鎌倉時代の出来事(4)小堤城と武石氏
2度に渡る蒙古軍の来襲から鎌倉政権は、日本を守ったものの莫大な戦費を使い、これが引き金になって北条氏を頂点とする鎌倉政権は衰弱してゆく。
亘理郡を領地としながらも、鎌倉政権をバックに関東にとどまっていた武石氏も居づらくなってきたのであろう。1302年に亘理に移住することになった。鎌倉幕府成立後100年以上が過ぎていた。武石氏は亘理に小堤城を築いたのである。(現在の大雄寺)
移住の際に一本の「椎の木」を携えてきて、現在の称名寺のところに植えたとされる。それが現存する国の天然記念物である老木である。当時は光明院という鎌倉を本院とする亘理別院が創設されたのだが、武石氏が改姓して亘理氏となり、さらに戦国時代末期の涌谷移封により光明院も涌谷へ移転した。亘理に残ったのは称名寺となったお寺と椎の木さらに鎌倉時代の制作とされる「黒本尊」という仏像である。
奇妙なことには、本来はここにあるはずの武石氏とその後の亘理氏の墓が見つからないのである。涌谷には運ばれていない。3百年も亘理の領主だった人の墓が無いと言うのは実に不思議なことというしかない。亘理の歴史上最大の謎というべきであろう。
さて当初、武石氏が源頼朝から拝領したのは、亘理・伊具・宇多の3郡と歴史書にあるが、実質的には亘理郡のみと言える
その亘理郡内でも坂元の土豪となっていた、飛鳥から奈良の製鉄時代に都からやってきた坂本氏の子孫は、武石氏の配下となったが、逢隈の十文字氏は従わなかった。
十文字氏は危機感を抱いた。独立を守るために相馬氏を頼った。相馬氏は武石氏に遅れること20年後の1322年に、所領の行方郡(後に相馬郡と改める)の小高城(南相馬市)に移った。よく知られている現在の相馬中村城は、江戸時代に入ってから移転したものである。
相馬氏と十文字氏は70kmも離れていたが、海岸伝いに接触していた。両者は同盟することにしたのである。
相馬氏は同盟の証として、十文字氏に妙見様の信仰を勧め神社を建立させた。
一方の亘理の武石氏も千葉氏から出た一族なので、当然ながら妙見様をあがめているのだが、浄土宗の色合いが濃く、相馬氏の方がより妙見信仰の度合いが強かったのであろう。
武石氏の妙見様は、現在の亘理神社の忠霊塔のある辺りに存在したといわれる。これも涌谷移住の時に移転されている。
さて、もともとは千葉氏の家来だったが、平泉陥落後に岩手県南部地方から宮城県の北部地域に定住してしまった人もかなりいる。家来にも千葉氏を名乗ることを許したのである。ずっと後の世のことになるが江戸時代の末に宮城県の登米地方から江戸に上り、剣豪となった千葉周作がいる。彼は自分が編み出した剣法を「北辰一刀流」と名付けた。先祖が拝した神様を自分が開祖の流派の名前としていただいた。
鎌倉政権が滅んだ直接のきっかけは後醍醐天皇にあったことはよく知られている。
その少し前の朝廷には天皇兄弟の争いで2派閥ができ交互に天皇を立てることにしていた。
1321年に後醍醐天皇は即位するや天皇は自分の息子を皇太子にしようとしたが、別の派閥は当然ながら約束違反とし、鎌倉も許可しないので、天皇は鎌倉打倒の画策をしたが発覚した。だが鎌倉政権も天皇を処罰することができず1324年に側近の日野氏が処刑された。
しかし宮中では後醍醐天皇退位への動きが強まった。1331年、後醍醐天皇は自ら挙兵したのだが鎌倉軍の圧倒的な武力の前にはなすすべがなく敗れ、隠岐の島へと配所になった。
だが鎌倉打倒の決意は揺るがず、1333年に後醍醐帝は島を脱出した。西国の大名や鎌倉から帝の軍の制圧に派遣された足利尊氏をも味方に引き入れて鎌倉政権と対抗した。
時に関東では新田義貞も立ち上がり、弱体化した鎌倉に攻め入り執権である北条高塒が自害しここに鎌倉政権は滅亡することとなった。
後醍醐天皇は、「建武の新政」と呼ばれる直接親政を始めたのであるが、これは公家にも武家にも評判がよくなかった。実力のあった足利尊氏は天皇を無視して独自の行動を取るようになった。尊氏は朝廷に反旗を翻して天皇を追い詰めて「三種の神器」を受け取り、新規に光明天皇を立てた。(これが後に北朝と呼ばれる)
敗北したかに見えた後醍醐帝だが、1335年に密かに吉野山に逃れて「南朝」を設立した。
ここに南北朝の時代がはじまることになる。
現在では、ほとんど無視されているが戦前の教科書には後醍醐帝の忠臣として楠木正成が登場し知らぬ人はいなかった。数百人の兵力で城に籠り数万の足利軍を悩ませ、全国から後醍醐帝への同調者をつのり、亘理の武石氏もはるばる参軍し大阪の戦いで足利軍を破り、一度は九州まで足利尊氏を退却させた。
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
山元、亘理町史 (記:鈴木仁)
開催日 2022年 9月10日 13:30~
場 所 山元町防災拠点・山下地域交流センター
「つばめの杜ひだまりホール」 3階 会議室5
講 師 宮林幸江 先生
一般社団法人日本グリーフケア協会 会 長
東北福祉大学教授(健康科学部 保健看護学科)
略 歴
東京医科歯科大学大学院修了(博士)
福島県立医科大学講師
自治医科大学教授を経て現職
悲嘆回復ワークショップ代表
☆ 主 催
特定非営利活動法人
亘理山元まちおこし振興会
☆ 協力
山元町教育委員会
亘理山元まちおこし振興会
※受講申し込み先
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定員になり次第締め切ります。
※お問合せ先
携帯090-3120-3936 千石
ご案内チラシは下記の施設に置いてあります。
・山元町防災拠点・山下地域交流センター
・山元町中央公民館
・山元町防災拠点・坂元地域交流センター