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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001
平成30年9月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人 理事長 千石 信夫


亘理郡の農業 (稲作以外のこと)

昭和50年大晦日、NHK紅白歌合戦の視聴率が圧倒的に高かった頃、司会者から冒頭に亘理郡逢隈農協青年部がトラックを駆って届けてくれた「シクラメン」がステージに飾ってありますとの紹介があり驚いたものだ。

全国的に亘理の花卉農業が知られるキッカケになった。

歌手、布施明さんの「シクラメンのかほり」がミリオンセラーになった頃である。

逢隈では、その他に上郡での大規模なカーネーションのハウス栽培もあった。


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政府は、農業の後継者育成に若い農業者に「4H活動」を推進した(心・頭・手・健康)の英語表記の頭文字である「H」をつけたものである。この文字に懐かしさを覚える年配者も多いと思う。

しかし今や、その方々の後継者がいないのが実情である。

農業には労働に見合う報酬が他の産業に比べて少ないというのが実態のようで、兼業とされている方々も多い。

稲作以外に道を求めて、先に紹介している「ぶどう」や「りんご」なども試みられた。

昭和20年代に愛宕山(亘理)の麓でコンニャク栽培をしていたこともある。しかし出荷までには3年の歳月を要することで、住宅需要の高まりとともに宅地となった例などもある。亘理郡の人たちは、いろんな作物に挑戦している。


馬喰(バクロウ)を平成の最近まで生業としていた方々もいる。

昭和の最盛期には、亘理郡内に20人以上もいたであろう。筆者の集落にも3軒の馬喰がいた。東京には馬喰町があり、現在も地下鉄にその名をとどめている。文字通り馬の売買をしていた人たちであるが、農耕用の需要が少なくなってからは、「牛」を主に扱う業者となった。子牛を市場から調達してきて、肥育農家や自分自身で育てて、成牛を市場に出すのである。宮城県では仙北で今も盛んである。「仙台牛」はブランドなのだ。

仙台夢メッセで今年、「全国和牛大会」が行われたのは記憶に新しい。

亘理駅の南側に国鉄官舎があり、さらに「牛市場」があったことを記憶されている人も多いに違いない。一人の馬喰さんは、たいてい10軒以上もの肥育農家を相手にしていた。

昭和35年の統計データであるが、興味ある数字が並んでいる。

(今も5年毎に、農業センサスという農業調査が行われている)

  区分

  山元町

 (頭、羽)

   亘理町

  (頭、羽)

1100

1501

24

56

1000

831

24000

29077

乳牛

110

81

700

509

山羊

(ヤギ)

200

129

この頃の牛は役肉用である。肉用であると共に、田起こしや田植え時の代掻き用の動力として用いたのである。当時の子供には鼻取りという役目があった。

牛の鼻に金属の輪が付いていて、そこに長さ1m程度の竹の棒を取り付けて、子供が牛を誘導するのである。昭和20年代の後半に鼻どりを一日やると5円の給金だったように記憶している。

また殆どの農家で鶏を10羽ほどは飼っていたものである。当時の人口とほぼ同数の羽数がいた。野菜の屑などを刻んで与えていたものである。現在のような数万単位での大規模養鶏家などは想像もできない時代だった。


家庭の残飯も有効利用され、豚農家が集めて歩いていたものだ。餌代を殆どかけずに育てていたのである。現代の如く均質な肉を求められる時代ではなかったからやれた。

牛がいたり、豚がいたり、当時の集落は臭かった。

牛、豚などの飼育小屋の敷きわらは、堆肥として有効利用され田畑にまかれた。

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鶏の糞は、天日で乾燥され、これまた有用な肥料になった。現在はホームセンターなどで購入する時代になってしまったが、この当時はまだゴミ集積所などはなくて、全てを利用していたのどかな時代でもあった。

 鶏は卵を産まなくなると、潰すのである。年老いた鶏なので肉はガムのようだった。

 豚の屠殺場が、この頃まで南仙台駅のすぐ西側にあった。側を流れる川は赤く染まっていたものだ。現在では信じられないような光景である。

 子供は小遣い稼ぎのために、兎を飼育し太らせて肉屋さんに売るのだった。

タマゴ屋さんと呼ばれる商売もあった。集落を回り買い集めて仙台まで運ぶのである。

少し時代を遡り、昭和10年代には「タヌキ」の飼育が流行したことがあった。

亘理の神宮寺にタヌキを飼育して、大儲けをした方がいる。タヌキ汁ではなくて毛皮が貴重だったのである。「狸御殿」と言われる豪壮な家を建てた。(現存している)

たちまちにして噂は町中に広がった。我も我もとタヌキ飼育に乗り出す家が増えた。

しかし、大半の人が失敗した。

タヌキに化かされたと悔んだ人が多かったのである。

(記:鈴木仁)     ――― 次号に続く


# by tyama2001 | 2018-09-01 00:00 | 亘理・山元ニュース


亘理郡の農業(その2:減反への道)

 昭和40年頃から稲作バブルともいうべきことが起きた。戦後、政府は米の増産を奨励しあらゆる施策を行った。米価も上昇を続け、逆ザヤと言われることまで起きた。農家からの買い入れる米の価格が消費者への販売価格を上回るようになってしまった。
 米価は永遠に上がるのかと思うような状態だった。農林族と言われるような議員もたくさんでてきた。農家も団体で東京に押し掛け国会周辺をデモするのが恒例になった。ところが、デモを終え昼食に農家の人たちが、ラーメン屋さんに入るのである。農家自体が米を食わなくなったと揶揄された。米離れが加速していた。
 発端は終戦直後の食糧不足の時に占領軍がガリオア・エロア援助で、麦粉が大量に入ってきたことにある。パン食が始まった。パンを食べることがハイカラに思えたのである。
 小学生にも「日の丸弁当」の栄養補給にと、麦粉と牛乳が渡された、モサモサして旨いものではなかった記憶がある。米の消費のピークは昭和37年の一人当たり113kgで以降は除々に低下している。
 米の増産は国策として、そんなことにはおかまいなしに進んだ。秋田県では当時の面積では日本第二位の湖だった八郎潟の干拓も終わった。
 農業機械の開発も進んでいた。
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稲刈り機械とか田植え機械なども出始めた。初期の頃は単純なものだった。刈りっ放しで田んぼに放置され、後から人間が束ねて行くのだが、それでも大変な省力化だった。機械は高い値段で飛ぶように売れた。
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 亘理に商売上手な農機具屋さんがいて、沢山の売上実績を重ねていた。メーカーからの海外招待旅行があり世界中を歩いていた。その方とお話をしていたら、北欧以外に外国の知らないところはないのですよと言われたのには驚いたものだ。(写真は初期の頃の田植え機械と稲刈り機です)    
 農家の海外旅行もブームになった。「ノウキョウ」の旗を掲げた団体がロンドン、パリへと繰り出して話題になったものである。米価は60kg(一俵)当たり2万円以上をかなりの期間維持し続けた。
 だが、機械の性能が上がると共に機械の価格も大幅に上昇した。
 次々と新しい機械がでるたびに買い替えるので、農機具貧乏などという言葉も出てきた。
 隣近所の様をみて、自分だけが旧い機械ではだめだという意識が働く。日本人同士の巧みな競争心が利用されたのである。農機具を使うのは一年間のうちのわずかな日数のみである。
 農業機械の進歩は、稲作農家を劇的に減少させた。平成30年の亘理郡内では99戸のみになった。そんなことで現在は一戸平均で数十ヘクタールを請け負っているのである。

稲作に欠かせないのが「水」である。用水と排水は昔からの課題であった。亘理郡の海岸地帯は土地が低く、海抜ゼロm地帯も多い。特に海岸一帯では、潮の干満により海水の影響を受ける。このために、牛橋江や鳥の海周辺は、昭和20年代までは芦の生い茂る海水と淡水の入り混じった荒地であった。高屋辺りには沼のようになった水溜まりが方々にあって、魚釣り特にボラが沢山かかった記憶がある。
 この海水浸入地帯を国策として干拓し、一挙に農地化して米の大増産を計ろうとしたのである。昭和27年に始まり、昭和47年に完了する大規模事業であった。皮肉なことにこの頃から米余りが本格化するのである。
 牛橋(河口)の海岸に面したところに大型の水門が完成した。鳥の海と鐙川の接続点には、それまで16樋関と呼ばれた旧式な水門があったが、現在見るような近代的なものになった。
 農地は一挙に拡大し、亘理郡が本気で米を作れば、昔流に言うと15万石もの生産が可能なようだ。
 だが米の需要減少で、農地も徐々に宅地化されていったのである。
 昔は葦原で、住所などはなかったのだが、干拓後には地番が付けられるようになった。住所に人名がついているのをご存じの方も多いと思う。



 当時、功績のあった方々の「姓」がつけられた。すなわち、荒浜の我妻、横山、星、中野である。農協組合長、県会議員、高級農林官僚であった人たちである。

(写真は「たちばな出版」の住宅地図より)(記:鈴木仁)     ――― 次号に続く

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 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。

# by tyama2001 | 2018-08-01 00:00 | 亘理・山元ニュース

ひだまりマルシェで伊達むらさきが販売されました

宮城県山元町の山下駅に隣接する山元町防災拠点・山下地域交流センター(つばめの杜ひだまりホール)にて、地域イベント「ひだまりマルシェ」が開催され、伊達むらさきも販売されました。

ひだまりマルシェのノボリ         


マルシェの様子。当日はミュージカルも開催され、大勢の山元町民が訪れました


販売された伊達むらさき。緑と紫のユニークなコントラストに、多くの来訪者が足を止めておりました


会場には伊達むらさきに含まれるアントシアニンなどの抗酸化物質に注目して研究活動をしている、東北福祉大学の小野木弘志講師も訪れ、伊達むらさき販売所に来た山元町民へのインタビュー調査をしておりました。小野木講師に伺ったところ、山元町民の伊達むらさきに対する認知度では低く、町内で販売しているのを見たことがないと話す方が多かったそうです。伊達むらさきの販路は現在ほぼ仙台であり、山元町での販売はこのような年数回ほどの地域イベントのみに限られています。伊達むらさき生産農家さんも減少し、流通量の減少も仙台圏のみの販売となっている要因ではないかと思われます。


店頭では伊達むらさきの新聞記事の掲示や試食などが行われました


来訪者は健康によさそう、美味しいと購入し、お昼過ぎには完売してしまいました!


伊達むらさき販売所付近で小野木講師がインタビューを実施中に、山元町防災拠点・山下地域交流センター所長の岩佐勝氏が訪れ、小野木講師にこの施設の説明をしておりました。岩佐氏によるとこの施設は避難所がベースとなっている交流センターであり、全国でも希少な施設だそうです。ひだまりマルシェもはじまったばかりのイベントです。

チラシ

次回は9月16日ですので、ぜひ山元町の防災拠点・山下地域交流センター(つばめの杜ひだまりホール)で開催される「ひだまりマルシェ」にお越しください!



# by tyama2001 | 2018-07-28 16:14 | 亘理・山元ニュース

亘理郡の農業(その1:減反への道)

 昭和45年(1970年) に日本の歴史始まって以来の出来ごとがおきました。米が余ったのである。大阪万博があった年です。今後は米の生産を減らせというのです。
 現代日本人にとっては、食物を捨てるとか、コメが余るのは日常のことになってしまったが、昭和25年頃までは腹一杯ご飯を食べることが、夢にも近いことだった。今やそんな記憶も薄れつつある。何しろ田んぼの40%近くがもはや米を作ってはいない。
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 食糧の増産は、古代よりいつの時代にあっても日本人の悲願であった。主食・コメの生産力は、地域の力だった。江戸時代に亘理伊達氏の2万4千石と坂元の領主大條氏の4千石が、亘理郡と新地町を合わせた生産高である。
 昔は年間に一人1石(150kg)を食べるとされたので、すなわち2万8千人を養える力があった。さらなる増産をすべく、新田の開発に励んでいたのである。

 米の生産力が急激に伸びたのは、終戦後(昭和20年以降)のことである。
 それまでは、一反当たり5俵(300kg)程度だったが、化学肥料や機械化が反収の増加につながった。現在ではほぼ倍の収穫を得ている。コメは日本の主力産業だったのである。米の出来不出来は、日本経済を左右していた。

 今では考えられないことがたくさんあった。
 多くの家が専業農家だった時代には、現金収入があるのは秋の刈入れ時である。供出米の代金だった。逢隈などの農家の多くは、亘理の街中に来て買い物をするのに現金を持たず、通帳(ノートみたいなもの)に書きとめてもらい、秋に一括して支払いに来るのが常だった。
 誰もが貧乏だった。農作業はすべからく人手に頼っていたのである。稲から穂先の米のみをとる脱穀機というのがあったが、これも人間が足を使って踏んで動かすものだった。
 田植えの時には、猫の手も借りたいと言われたものである。
 私が中学生になったのは昭和29年であるが6月1日から3日間田植え休みがあった。農家であろうと、なかろうと係らず全校が休みなのである。卒業まで続いた。
 秋には「イナゴ取り」の行事があった。これも3日間である。授業はなく朝から全員が一斉に田んぼに向かい、刈り取られて乾燥のために「はせがけ」にしてある稲に群がっているイナゴを捕まえて布袋に入れ、弁当は田んぼで食べて午後3頃までに学校に戻り、捕獲したイナゴの計量をうけて帰るのである。
 学校はイナゴをまとめて販売し、図書の購入などに充てたのである。日本はまだイナゴが貴重なタンパク源だった時代である。
 私は3日間で一貫目(3.75kg)を捕獲し7等賞をもらい鉛筆をいただいた記憶がある。
 
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 大きな農家では、人手の確保に手間取りや作男と言われる人を置いていた。
 特殊な例だが、昭和10年生まれのSさん(現存)という男がいる。彼は小学校4年までしか学校に行っていないのだという。終戦直後の混乱もあり名前が落ちてしまったらしいのである。どの学級にも属さず現在なら大騒ぎだが、彼の家ではこれ幸いと大農家の作男として預けてしまったのである。預かった農家も子供に作業は無理だと、しばらくはその家の子守りなどをしていたというのである。
 やがて、農業機械化の第一号ともいうべき「石油発動機」が入ってきた。ダダダダ・・という音にご記憶のある年配の方も多いはずだ。足踏脱穀機の動力となった。ところが故障がはげしい、修理屋を呼んで直すのだが、Sさんはその修理をみていると、故障原因の大半が点火装置の汚れにあると気がついた。それなら自分にも出来ると、雇われ先のものを直し、他の農家からも頼まれて、結構な小遣い稼ぎになったというのである。やがて全体の仕組みも覚えて、使われなくなって捨てられた発動機も修理して売ったこともあったというのである。

(記:鈴木仁)     ――― 次号に続く

# by tyama2001 | 2018-07-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
桔梗長兵衛によるブドウ栽培(その2)
 
「牛橋でブドウを栽培してブドウ液を作り首都東京で販売する。」という構想の実現を目指すことにした長兵衛は、明治34年(1902年。長兵衛29歳)、牛橋に入植し荒地の開墾に着手しました。ブドウ液の製造・販路などでの課題は山積したままですが、開墾・樹園の育成を進めながら考え、準備を進めるつもりでした。明治35年(1902年、長兵衛30歳)、彼はコンコード種(葡萄酒やブドウ液への加工に適した品種)のほか22種のブドウの苗、3000本を植栽しています。 (山元町教育委員会編「山元町ふるさと地名考」より)

東京での販売活動の展開
 大正時代(1912年~)に入り、ブドウの収穫・ブドウ液の生産が始まりました。販売の準備は既に始めていましたが、なにせ東京の人には知られていない山下村の物産です。販売活動は困難を極めました。そのうち大阪の『葡萄酒の寿屋』(サントリーの前身)との接点ができました。寿屋は、葡萄酒製造所増設のためブドウ生産地をさがしていました。長兵衛は寿屋に牛橋を紹介し牛橋進出に協力しました。そのためか、ブドウ液の皇室への献上と、海軍への納付が実現しました。皇室への献上や海軍への納入は、世間の商品や生産者についての安心・信頼が得られます。ほどなく三越に納めることができました。以後、横浜などの都市にも販路が開けました。長兵衛によるブドウ栽培・ブドウ液生産が成功したことから牛橋でのブドウ生産者が増え、さらには花釜・浜吉田方面でも葡萄生産者が増えました。昭和に入ると笠野や新浜方面にも拡大しました。花釜・牛橋でのブドウ液生産者も10軒前後できました。こうして亘理郡は、東北1のブドウ産地になりました。

戦時中も伐採をまぬがれたブドウ園
 昭和6年に満州事変が起り、昭和16年には、太平洋戦争に発展しました。その間も、葡萄は抜かれることはありませんでした。それで1945年8月の敗戦後も継続してブドウは収穫できました。食糧の配給制が敷かれ、甘いお菓子など食べることのなかった戦後の時期、ブドウは貴重でした。亘理郡は相変わらず、東北地方第一のブドウ栽培地でした。この状態は、1960年頃まで続きました。その後のブドウ栽培衰退の経緯は前月号の通りです。

丘陵地帯でのリンゴ栽培
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  1960年、池田内閣は、経済の高度成長を支えるために、農業生産面では果樹・畜産部門の成長に力を入れることにしていました。それで、山元町においては阿武隈高地の麓の丘陵地区でのリンゴ団地の形成に力を入れることになりました。その結果、1965年頃から、八手庭・大平・鷲足・浅生原・高瀬・真庭・久保間・中山などに、リンゴ園の集中する地区『リンゴ団地』が造成されることになりました。国は、消毒用の大型農機である「スピードスプレア」の共同購入などを支援するなどの施策を実施しました。こうして山元町では、リンゴを作付けする農家が1970年頃まで増えました。品種は秋に収穫するスターキング・ゴールデンデリシャスが中心です。ほかに、多くはありませんが、朝日などの早生種がありました。りんご園の場合、収益が出るまで10数年かかります。また、特にリンゴの場合は、売れ筋の品種が時と共に変わるので、接ぎ木などで、品種を更新せざるを得ません。それでも、1980年頃から、宮城県ではトップクラスのリンゴ栽培地に成長しました。しかし、2000年頃から中心的従事者の高齢化などで、経営継続が困難な果樹園が生じ始めました。経営困難で手入れができなくなったリンゴ園は、病虫害の伝染・拡大のもとです。伐採して果樹園を閉じなければなりません。近年は、果樹園は減少しています。
 よく、アメリカのリンゴはまずいと聞きます。アメリカでは、市場での価格競争に対応するために果樹園の大型化と機械化による省力で生産コストを下げてきました。一方、日本のリンゴのおいしさは、剪定・摘果をはじめとする繊細できつい作業の積み上げで維持されています。現在、日本の農業も、農産物の国際化と少子化にさらされています。労働生産性の追求なしでは存立しえなくなって来つつあります。リンゴのおいしさは機械化にはなじまない労働集約型の農作業の結果であるとすると、農家の収益確保と流通のあり方についての公的機関による研究推進が待たれます。   (記:菊地文武 )


お知らせ
 (NPO)亘理・山元町おこし振興会では、農業部門に於いては、金時草の中の 繊維の軟らかい系統の種類の一つに注目し、“伊達むらさき”と命名し商標登録を行い、その普及を追求しています。現在、数軒の農家にその栽培と販売をお願いし、東北福祉大学では伊達むらさきの薬効に注目し薬効成分分析調査を進めています。“伊達むらさき”に関心をお持ちで一緒に活動したいと希望する方は、ご一報ください。(千石信夫迄 0223-37-0010)


 この資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。


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# by tyama2001 | 2018-06-01 00:00 | 亘理・山元ニュース