亘理郡の農業 (稲作以外のこと)
昭和50年大晦日、NHK紅白歌合戦の視聴率が圧倒的に高かった頃、司会者から冒頭に亘理郡逢隈農協青年部がトラックを駆って届けてくれた「シクラメン」がステージに飾ってありますとの紹介があり驚いたものだ。
全国的に亘理の花卉農業が知られるキッカケになった。
歌手、布施明さんの「シクラメンのかほり」がミリオンセラーになった頃である。
逢隈では、その他に上郡での大規模なカーネーションのハウス栽培もあった。
政府は、農業の後継者育成に若い農業者に「4H活動」を推進した(心・頭・手・健康)の英語表記の頭文字である「H」をつけたものである。この文字に懐かしさを覚える年配者も多いと思う。
しかし今や、その方々の後継者がいないのが実情である。
農業には労働に見合う報酬が他の産業に比べて少ないというのが実態のようで、兼業とされている方々も多い。
稲作以外に道を求めて、先に紹介している「ぶどう」や「りんご」なども試みられた。
昭和20年代に愛宕山(亘理)の麓でコンニャク栽培をしていたこともある。しかし出荷までには3年の歳月を要することで、住宅需要の高まりとともに宅地となった例などもある。亘理郡の人たちは、いろんな作物に挑戦している。
馬喰(バクロウ)を平成の最近まで生業としていた方々もいる。
昭和の最盛期には、亘理郡内に20人以上もいたであろう。筆者の集落にも3軒の馬喰がいた。東京には馬喰町があり、現在も地下鉄にその名をとどめている。文字通り馬の売買をしていた人たちであるが、農耕用の需要が少なくなってからは、「牛」を主に扱う業者となった。子牛を市場から調達してきて、肥育農家や自分自身で育てて、成牛を市場に出すのである。宮城県では仙北で今も盛んである。「仙台牛」はブランドなのだ。
仙台夢メッセで今年、「全国和牛大会」が行われたのは記憶に新しい。
亘理駅の南側に国鉄官舎があり、さらに「牛市場」があったことを記憶されている人も多いに違いない。一人の馬喰さんは、たいてい10軒以上もの肥育農家を相手にしていた。
昭和35年の統計データであるが、興味ある数字が並んでいる。
(今も5年毎に、農業センサスという農業調査が行われている)
| 山元町 (頭、羽) | 亘理町 (頭、羽) |
牛 | 1100 | 1501 |
馬 | 24 | 56 |
豚 | 1000 | 831 |
鶏 | 24000 | 29077 |
乳牛 | 110 | 81 |
羊 | 700 | 509 |
山羊 (ヤギ) | 200 | 129 |
この頃の牛は役肉用である。肉用であると共に、田起こしや田植え時の代掻き用の動力として用いたのである。当時の子供には鼻取りという役目があった。
牛の鼻に金属の輪が付いていて、そこに長さ1m程度の竹の棒を取り付けて、子供が牛を誘導するのである。昭和20年代の後半に鼻どりを一日やると5円の給金だったように記憶している。
また殆どの農家で鶏を10羽ほどは飼っていたものである。当時の人口とほぼ同数の羽数がいた。野菜の屑などを刻んで与えていたものである。現在のような数万単位での大規模養鶏家などは想像もできない時代だった。
家庭の残飯も有効利用され、豚農家が集めて歩いていたものだ。餌代を殆どかけずに育てていたのである。現代の如く均質な肉を求められる時代ではなかったからやれた。
牛がいたり、豚がいたり、当時の集落は臭かった。
牛、豚などの飼育小屋の敷きわらは、堆肥として有効利用され田畑にまかれた。
鶏の糞は、天日で乾燥され、これまた有用な肥料になった。現在はホームセンターなどで購入する時代になってしまったが、この当時はまだゴミ集積所などはなくて、全てを利用していたのどかな時代でもあった。
鶏は卵を産まなくなると、潰すのである。年老いた鶏なので肉はガムのようだった。
豚の屠殺場が、この頃まで南仙台駅のすぐ西側にあった。側を流れる川は赤く染まっていたものだ。現在では信じられないような光景である。
子供は小遣い稼ぎのために、兎を飼育し太らせて肉屋さんに売るのだった。
タマゴ屋さんと呼ばれる商売もあった。集落を回り買い集めて仙台まで運ぶのである。
少し時代を遡り、昭和10年代には「タヌキ」の飼育が流行したことがあった。
亘理の神宮寺にタヌキを飼育して、大儲けをした方がいる。タヌキ汁ではなくて毛皮が貴重だったのである。「狸御殿」と言われる豪壮な家を建てた。(現存している)
たちまちにして噂は町中に広がった。我も我もとタヌキ飼育に乗り出す家が増えた。
しかし、大半の人が失敗した。
タヌキに化かされたと悔んだ人が多かったのである。
(記:鈴木仁) ――― 次号に続く