令和元年年5月 1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
大正の頃(2)
第一回の「国勢調査」が行われたのは大正9年(1921年)のことであるが、亘理郡ではそれに先立つこと7年も前の大正2年に「亘理郡統計書」を発行している。 亘理郡は代々、郡長に有能な方が任命されており、第8代目の卯埜さんもその一人で郡の実態をよく調べ上げ、人口のみならず各種の生産額など後世に残る統計書を残している。そのなかから世帯数と人口を見てみよう。( )内は世帯数で、この時代は一戸当たり平均して6人前後の家族だった
(第一表)
|山下村|坂元村|亘理町|吉田村|逢隈村|荒浜村| 郡合計| 備考 |
大正 2年 |6,557|4,000|4,478|3,337|6,451|3,120| 27,943人| |(947)|(583)|(740)|( 520)|(919)|(546)| (4,255)戸|
大正 9年 |6,614|4,001|4,590|3,621|6,426|3,154| 28,406人| 現在に続く、5年ごとの国勢調査始まる
大正14年 |7,068|4,355|5,110|4,090|6,730|3,363| 30,716人|
昭和 5年 |7,346|4,691|5,287|4,423|7,162|3,734| 32,643人|
| ( )内の世帯数は大正2年のみを記す
大正時代には、山下村が人口・世帯数が一番であり、郡内で勢いのよかったことがわかる。
現在の山元町(山下村+坂元村)は、大震災での打撃が大きかったこともあるが、昭和5年の人口とほぼ同じである。(大正時代には亘理郡の人口が約5千人増加したこともわかる) 平成の末から、日本は人口減少の時代を迎えている。次の時代には亘理郡全体でも、大正の昔に戻るかもしれない。
大正2年の統計資料にある亘理郡の本業とする職業別、世帯数である。 (第二表)
職業 |農 業|養蚕業|漁業|工業|商業|官公吏|労働者|其他|資産者|無業者| 計 |
世帯数|2,558| 25 | 329|241|505| 90 | 332 |200| 63 | 2 |4,345|
筆者注:(第一表と第二表とで計が90世帯の差異があるが、重複して数えたものがあると思われる。)
当時のことであるから、副業をされている世帯が多い。特に「養蚕業」を営んでいる方々が多かった。農家のうち約半数の1,232戸が養蚕も兼ねており、他の職業でも126戸が副業としての養蚕を行っていた。
「官公吏」とは現在の公務員であるが、それより農家収入等の方が多かった方が別途65名いて、亘理郡の公務員(官公吏)は計155名であったことがわかる。現在は両町の役場職員や県庁職員、教職員、郵便局、JRなどを合計するとどれほどになるのだろうか。
本業とする公務員90名の中にも、農業や蚕業を副業としていた方々が三分の一ほどはいたのだから普段は家族にやらせ、世帯主は休日も働いていたのであろう。当時の公務員給料は決して高くはなかったのである。
「労働者」は、日雇いの人や作男と呼ばれた方々と考えられる。その日給は30銭であったとされ、年間300日働いたとしても年収90円であった。当時は米一石(150kg)が25円であり、米で換算すると540kgだった。米は時代によって大きく価値が変わるので一概に現在と比較するのは無理であるが生活は相当に厳しかったとおもわれる。現在ならわずか1反歩の収量でしかない。当時の収量は今の半分程度なので、2反歩相当の働きでしかなかったのである。
「資産者」とは、文字通り地主さんである。この地主さん方は63世帯で亘理郡全体の田畑の55%を所有していたのである。
工業とは現在の如きものではなく、酒、味噌、醤油などの醸造業や瓦の製造、蚕に関する種子とか道具の製造などを指す。
以下の表は、上記と同じ大正2年の生産額である。当時の1円では米6Kgが買えた。
(第三表) (単位千円)
| 山下村 | 坂元村 | 亘理町| 吉田村 | 逢隈村| 荒浜村| 郡合計| 備考 |
農産物 | 289 | 112.4 | 89.1| 125.9 | 221.8| 22.9| 860.8|
()は繭産額 |(113.8)|(37.8)| (32.8)| (32.8)|(56.3)| (7.4) | (280.9)|
畜産 | 5,4| 2.2| 1.9| 3.5| 8.6| 1.2| 22.8|
林業 | 14.6| 8.2| 0.4| 7.0| 12.3| 2.4| 44.9|
水産 | 3.6| 8.5| 0| 3.5| 2.3| 54.2| 72.0|
工業 | 28.3| 2.0| 53.5| 6.8| 11.8| 1.3| 103.8|
合計 | 340.5| 133.4| 144.9| 146.6| 256.7| 82.1| 1,104.3|
注①荒浜村の林業生産が気になるが、山が無いのだから海岸の松を切ったのだろうか?
②第三表は、あくまで生産金額を示すもので商業は抜けている。亘理町が少ないのは、このためであろう。当時としては、すばらしい統計であったが、その年(大正2年)に大型台風による大洪水があり秋の収穫に逢隈村と荒浜村が大打撃を受け、通常はもう少し高い生産額だったようだ。
参考文献 山元町誌 亘理町史(下巻) (記:鈴木仁)
この資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。