山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

カテゴリ:亘理・山元まちおこし振興会( 6 )

郷土の歴史を遡って知ろう!
             (ブログ版)

 平成 30年4月1日
                  NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
http://www.watari-yamamoto.com/
発行人・理事長:千石 信夫 
   バブル期

高度成長期からオイルショックを経て、たどり着いたのは昭和の終わりから平成の初めにかけての、バブル期と呼ばれる浮かれた時代であった。

土地と株価が極端な値上がりをした。

特に大都市の土地値上がりが激しく、東京の土地のみで、アメリカ全土が買えると言われた。「ジャパンアズナンバーワン」などと騒がれた頃でもある。

当時は誰も気づかなかったが異常だった。

やがてバブルは弾け、現在に至る日本の失われた20年ともされる時代が続いている。

この頃の亘理・山元町は、幸か不幸か田園地帯でもあったので、浮かれた影響も受けず、ダメージも少なくて済んだ。

 「東北の湘南」とも言われる亘理郡は、温暖で緑も多く都会人には老後の永住の地として人気があった。

特に昔から別荘地として有名だった、山元の新浜地区は脚光を浴びていたのである。

東京や仙台の都会人が買ったとされる。

残念ながら今次震災は、この地区をも壊滅させてしまった。

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 (図はバブルのイメージを表したものです)

山元町政も、緑豊かなこの地域を一層きわだたせようと、深山地区の遊歩道・少年の森・アスレチック施設・モトクロスコース・事務所棟など、緑深い山全体を整備した。

牛橋地区に大規模公園も出来た。

地元住民のみならず、都市部からのハイキングコースとしての期待と仙台のベットタウン化による飛躍を狙っていた。

一方、亘理町は距離・時間的に仙台に近いこともあって、昭和の合併以来微減傾向にあった人口がバブルの前であるが昭和47年より増加しはじめた。

2万5千人から昭和63年には3万人を超え、震災前には3万6千人だった。

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今になってみると、亘理のバブル的建築物が、「悠里館」だった。

竹下内閣時代に「ふるさと創生事業」として、各市長村に一億円が配布された。使途は自由ということで、金塊を購入した町とか、日本のバブルを強く印象づける出来ごとだった。

亘理町は、その一億円を基金として、周辺道路や関連の施設を含めると総額50億円にも達する大規模事業とした。

完成したのは、バブルが終焉した平成6年のことであった。

落成式の祝辞で、時の山元町長だった千石さんは、亘理は大名になったという言葉があった。周辺地域にこんな立派な現代の天守閣はない。亘理のランドマークとなったのは確かである。

これもバブル期のことであるが、逢隈駅も出来た。(昭和63年)

亘理郡に新しい駅が出来たのは、昭和24年の山下駅以来のことである。

新しく駅を作るのは、請願してから長い年月を要し容易なことではない。

しかし駅が出来ると、周辺地域は著しく発展する。

逢隈地区の人口は飛躍的に増加し、開業当初はまばらだった昇降客は著しく伸びている。亘理町の人口増加の大半は逢隈である。

下水道の整備もこの頃から急ピッチで進むことになる。

当時は気づくこともなかったがバブル期に手がけられたものには負の遺産のみならず、現在の発展に貢献したものも結構多いのである。

さらにこの頃に文化活動の一環として、山元町の方々による「田園空間博物館」構想が持ち上がった。山元町から亘理町吉田地区にかけての土地と空を一体として捉え地域振興に資するというものだった。政府の助成金により笠野学堂、合戦原学堂が出来た。当該地域の各所に看板を設置した。

その成果として山元町の主要各地区の冊子を出版している。真庭・鷲足・笠野・磯・浅生原編である。詳細をお知りになりたい方はご連絡ください。

                         (記:鈴木 仁)

 参考文献  山元町誌 亘理町史(下巻) 山元町民(がく)芸員(げいいん)活動資料

 「FMあおぞら」(インターネットラジオ放送)でも紹介されております。
    
の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。
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by tyama2001 | 2018-04-01 17:23 | 亘理・山元まちおこし振興会
郷土の歴史を遡って知ろう!
            (ブログ版)             

                        平成 30年3月1日
                  NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
http://www.watari-yamamoto.com/
発行人・理事長:千石 信夫 
 

高度成長期

 昭和35年、池田首相が「所得倍増政策」を掲げてからは、日本経済は成長に次ぐ成長を遂げて、我々の生活は一変しました。 3C時代とも呼ばれ「カラーテレビ・クーラー・車(カー)」が、またたく間に普及しました。

≪鉄道について≫
 しかし、亘理郡を含む常磐線一帯は近代化が遅れ鉄道の改善が取り残された感があり、蒸気機関車が昭和40年代の中ごろまで走っていたのです。鉄道の電化が遅れたのです。現在も複線化は出来ておりません。
       

 東京駅では、その頃はもうSL(蒸気機関車)が珍しいと、わざわざホームに入ると記念撮影で黒山の人だかりとかの報道もありました。 
 誰もがサラリーマンに憧れた時代でもあったのです。亘理郡からも多くの人が仙台へ通勤する時代となったのです。
 中学校や高校を卒業すると、東京へ就職する人が多く、亘理郡の人口は、残念ながら殆ど増加しませんでした。

《いちご栽培の本格化》
 そんな中で、地場産品で成功したのが「いちご」でした。
 株冷法と言われるものです。いちご苗に一冬が過ぎたと思わせるように、秋に蔵王の高原地帯に運んで冷たさを感じさせて、冬が終わったように勘違いさせるのです。本当の冬になってから、平地のハウスに植えるのです。
 その上で、春が来たと思わせるようにハウスを暖房し、日没が遅くなったかのように電燈をつけて調節し、ハウスをどんどん暖かくして、冬の終わりには暖房で夏が来たように思わせると、「いちご」が実るのです。
 誰もやったことがなかったので、季節はずれの「いちご」は大変に高い値段で売れたのです。
 亘理郡の沿岸部は、大いに儲けて「いちご御殿」とも云われる豪華な家がたくさん出来たのです。

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 昭和40年頃は、まだ大型の冷蔵庫がなかったので、大量のいちご苗を冷やすために蔵王高原まで運ぶという手間のかかる仕事をしておりました。
 亘理の沿岸地帯は「いちご」で一躍有名になったのです。
 残念なことに、3.11(東日本大震災)で壊滅的な打撃を受けましたが、「いちごスピリット」ともいうべきものが残っていたのです。
 「食べる宝石」とまで言われるまでに進化した「いちご」まで作りだしたのです。

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 昭和中期にハウスで大量生産の始った「わたりいちご」は、今次復興の大きな目玉になったのです。

≪開発について≫
 亘理郡は一見して、高度成長期の工業化に乗り遅れたかの感がありましたがチャンスもあったのです。
 当時の通商産業省で「新日本全国総合開発計画」が練られ、コンビナートと言われる工業地帯を全国各地に作り上げようとしていたのです。
 亘理も候補地の一つだったらしく、鳥の海を掘削して、巨大な港湾を作る案があったというのです。
 ちょうど、その頃に通産省に亘理出身の官僚がいたのです。上司より、この案を持って町長の意向を聞いてほしいといわれたのです。
 時の町長は乗り気ではなく、今年の「のり」は豊作なんだよと、言外に断ったという回想が「郷土わたり」誌に掲載されておりました。(記:鈴木仁)

 参考文献  山元町誌 亘理町史(下巻) 郷土わたり誌
「FMあおぞら」(インターネットラジオ放送)でも紹介されております。

の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。


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by tyama2001 | 2018-03-05 11:58 | 亘理・山元まちおこし振興会
郷土の歴史を遡って知ろう!
(ブログ版)
終戦の頃(昭和20年前後:73年前)

 第二次世界大戦で日本が負けたことを知らない人が15%もいると、テレビで放送していたことがありました。驚くべき数字です。「昭和は遠くなりにけり」です。 昭和16年(1941)12月8日に開戦し、昭和20年8月15日まで3年9カ月におよぶ悲惨な戦争を体験致しました。 多くの軍人が戦死しました。(参考までに今次大震災との対比を示します)

        第二次大戦の戦死者  東日本大震災の死者
    亘理町   806名       305名
    山元町   593名       623名  

    ※ 誤りがありましたらご指摘願います。

 大戦での戦死者は、いずれも20代から30代の若い男子です。 このため終戦後から何年かの間には、父親が戦死したという同級生がクラスには常に数人はいたものです。(下の写真は亘理神社境内にある「忠霊塔」です) 1945年の終戦なので、73歳以下の人は親の戦死ということはなくなります。 戦死者のみならずアメリカ軍の空爆により、国内の民間人も多く死亡しました。
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亘理神社境内の(忠霊塔)

 仙台は焼夷弾などの大空襲があり2千人もが亡くなりました。
 亘理町では空からの機銃掃射によって常磐線に乗り合わせていた人など民間人8名が死亡したが、山元町に死者は出なかった。



 逢隈三門山頂に高角砲があり、米軍戦闘機が飛来していたのです。当時は逢隈の西の船岡に陸軍火薬廠(現在は自衛隊船岡駐屯地)があり、三門山高角砲がその防護に当たっていたのです。
 
仙台大空襲があったのは、昭和20年7月10日の夜です。その時に荒浜沖合に米軍艦隊が来て、艦砲射撃があるという噂が流れ、荒浜の人たちが、荷車に家財道具を積んで大挙して、亘理の街中に逃れてきたのです。
 我々、街のものは裏山に逃げ込んだのです。そこから見えた仙台大空襲の惨状はひどかったようで、北の空が一面に真っ赤に染まっておりました。(筆者の体験) では、何故艦砲射撃などという噂が出たのかといえば、荒浜から坂元へと続く平坦な海岸線は、千葉県の九十九里浜と並ぶ、アメリカ軍の本土上陸作戦予定地であったという情報を、日本陸軍が掴み、その予行演習にと「デマ」を流したとされる。
 (戦後に自衛隊官僚となり、旧軍の資料を当たった亘理出身の方の回顧談です) 当時は多くの陸軍々人も亘理に駐在していたのです。大きな民家に宿泊しておりました。千石順平宅(当会理事長の祖父)には、軍幹部が滞在しておりました。

<物資の不足>
 戦前から戦後にかけてのおよそ10年間は、あらゆる品物が不足したのです。  特に終戦が近くなるにつれ欠乏状態はひどくなりました。ほとんどのものが配給制になったのです。主食の「米」には困りました。麦飯はまだ良い方で、大根やジャガイモなどの野菜を混ぜて、ご飯を炊いて膨らませていたのです。
 皆が栄養失調状態になりました。
 終戦後も配給制度は続き、皆が必死になって買い出しに出かけたのです。
 「ヤミ米」は法律違反なのですが、背に腹は代えられず誰もが手を出しました。 戦後のことですが、東京の裁判官が「餓死」するという事態が起きました。法律の番人たる裁判官が、法律違反である「ヤミ米」を食べるわけにはいかないと、かたくなに守った結果なのです。余りにも有名な事件でした。このように律義な人もいたのです。
 
 象徴的だったのは、石油を輸入できずガソリンも無くなり戦闘機も飛べなくなるので「松根油」の製造が奨励されたのです。文字どおり油を松の根から採取するのです。その製造所が山元町に2カ所ありました。山寺赤坂と坂元道合です。製造小屋は機関銃で警護され、小屋の中には20個の釜があり、50名もの作業者が毎日ドラム缶10本を出荷していたのです。日本全体では、終戦までに、その10万倍という膨大な量が作られたのです。
 後日談ですが、それを精製したガソリンで飛行実験したところ、水平飛行は可能なものの急旋回などの戦闘モードでは馬力がでずに結局は、使われることなく捨てられたのです。
 
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「松根油」とは、松の根を釜に入れて300℃程度に加熱乾留すると、松の油が滲み出てくるのです。仙台では、樹齢300年の松並木も伐採されその根が使用されました。
 その博物館が今も岐阜県郡上郡明宝村に存在しております。
 ガソリン不足は、木炭バスなども生み出しました。煙を出しながら走り、登り坂になると乗客が降りてバスを押し上げてやった記憶のあるご年配の方もいると思います。
                         (記:菊地文武、鈴木仁)

参考文献: 山元町誌  亘理町史(下巻)  郷土わたり誌
     「FMあおぞら」(インターネットラジオ放送)でも紹介されております。

の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。


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by tyama2001 | 2018-02-06 17:08 | 亘理・山元まちおこし振興会

郷土の歴史を遡って知ろう!(創刊号)

(ブログ版)

              平成 30年 1月 1日  

NPO法人 亘理山元町おこし振興会

                      発行人・理事長:千石 信夫

創刊に当たってのご挨拶

 私たち「亘理山元まちおこし振興会」では、平成25年に「山元町周辺での鉄の生産に関わる東北の物語」と題して、5回に渡るシンポシュームを開催いたしました。

 その時代には、鉄の大きな供給基地であったことが、再認識され鉄を通して様々な史実が明らかになったように思います。

 私たちが住んでいる故郷の歴史を知るということが、地域の新たな魅力の発見につながり、そしてそれを語り継ぐことによって、この地域を訪れた人達が興味を持ってもらえるような町になればと考えております。

 この度「郷土の歴史を遡って知ろう」と題して、亘理郡の歴史的出来ごとの紹介を皆様にわかりやすく、気軽にお読みいただけるような月刊誌として発行することに致しました。

 多くの方々にお読みいただき故郷の歴史を後世に語り継がれんことを願っております。

平成30年は、昭和で数えると93年となります。激変を遂げた現代史でもあります。

 大半の方々はこの間に生まれ、あるいはこの地に居を定められております。

 断片的な記憶が残る人も多いとは思いますが、この地域に起こった主要なものを整理して、日本での大きな出来事と重ね合わせて現状を再認識すべく、共に学び知り合いたいもと思いました。ご意見や共同執筆者をお待ちしております。順不同ですが下記を予定しております。

 亘理は、日理郡という名で、平安時代の律令国家時代には既に存在しており、地形上からも一つのまとまった地域として認識されつづけ、昭和30年(1955年)までは、

北は亘理郡逢隈村から南の亘理郡坂元村まであり、現在も尚、年配の方々にはそんな地域の意識を持ち続けておられる方々が多いと思います。これからの掲載予定項目です。

      ・町村大合併の頃(昭和30年頃)

      ・終戦の頃(昭和20年頃)

      ・高度成長期の頃

      ・バブル期の頃

      ・昭和の農業

      ・昭和初期の頃                



 (その1)昭和の大合併(亘理郡が2つの町に統合)


 第二次世界大戦の敗戦から戦後10年にして、著しい経済発展を遂げた昭和30年の2月1日に、亘理郡内にあった6町村が2つの町として合併したのです。

 逢隈村・亘理町・荒浜町・吉田村が統合して「亘理町」に、山下村・坂元村が統合し「山元町」ができました。

 これは、上記昭和の合併から遡ること66年前の明治22年に亘理郡内が細かく27の集落単位に分かれていた郷村を6つの町村にまとめて以来のことでした。昭和の大合併は、国と県による主導がありました。時の政府は、全国に存在した膨大な数の市町村を減じて、増大する行政事務を円滑にこなそうとしたのです。

 昭和28年に、3年間の時限立法として人口8千人以下の町村は、積極的に合併を促進すべきというものでした。法律が制定されたものの、町村レベルでは動きがとれず、県が試案を示したのです。

 結果的には、亘理郡は2町にするというモデルに従ったのです。

 しかし、当時は各町村の思惑やそれぞれの財産などがあり、当初は動きの鈍いものでした。逢隈村は、単独で人口8千人をクリアしているとか、荒浜町からは元町長で実業家の阿倍亀吉さんが、この際一挙に6町村が合併したらなどの提案も出されたのですが、結局は県の試案に落ち着いたのです。

 千年もの昔から穏やかな一体感のあった亘理郡が、南北で大きく2つに分割されたような形になりました。亘理では小学校の高学年児童が街中を祝賀の旗行列までさせられた記憶があります。現在でも、亘理郡亘理町、亘理郡山元町の如き形式的な亘理郡が存在致しますが、2つの町は、それぞれに独立性を持った自治体ですので、共通する文化・歴史を持つ隣町ながら、合併後の長年の間には、お互いの進む方向と意識に微妙なずれが生じてくるのは当然のことであります。

 平成の大合併構想は頓挫することになりましたが、当事者が意識するとしないに関わらず底流にうごめく意識の違いは如何ともしがいものでした。

 昭和30年の合併後に行われた新町長選出は旧町村意識が絡む激しい選挙戦が展開され、亘理町では、当時の人口に勝った逢隈村より2名が立候補して一方が当選したのです。

 亘理郡の地形的特徴は、南部で平野が狭くなり山間部が多くなることです。山元町では30%以上を山地が占めております。山林は当時の大きな財産でした。

 坂元に昭和14年まで6町村の共有財産だった森林がありましたが紆余曲折の末に坂元村が全てを買い取り「村有財産」としたのです。

 この「坂元村有林」を昭和30年の大合併を前に「社団法人坂元愛林公益会」を設立して200ヘクタール近くを移管して管理運営してもらうことになったのです。(現在も存続)

 この時代の日本を彩ったのは、白黒テレビの出現です。昭和31年3月にNHK仙台が放送開始すると、爆発的に普及したのです。(記:鈴木仁)

    参考文献: 山元町誌  亘理町史(下巻)  郷土わたり誌

   「FMあおぞら」(インターネットラジオ放送)でも紹介されております。


の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。

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by tyama2001 | 2017-12-28 21:56 | 亘理・山元まちおこし振興会
「亘理・山元まちづくり振興会」のホームページを立ち上げました。

http://www.watari-yamamoto.com/

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掲載して欲しい情報などがありましたら、ご連絡ください。

尚、こちらのホームページは、横浜のホームページ制作スタジオのオフィスジータさんの
ご協力により制作されました。
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by tyama2001 | 2009-07-17 20:59 | 亘理・山元まちおこし振興会
山元町にNPO 亘理山元町おこし振興会が発足いたしました(2009年7月4日)。

ブログ新聞 亘理山元ニュースはNPO 亘理山元町おこし振興会が発行する新聞です。
亘理町と山元町に関する新しいニュースを取り上げて皆さんにお届けいたします。
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by tyama2001 | 2009-07-16 15:55 | 亘理・山元まちおこし振興会