山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001
「郷土の歴史を遡って知ろう!」 (第12号)


NPO法人

亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫


昭和のあれこれ(3)

 昭和4年、亘理町五日町に「旧松浦医院」の今に残る建物が完成した。
 当時は、当然ながら和風建築が主流で、奇抜なデザインの洋風建築が亘理の中心街にできたので、大変な話題になった。90年が過ぎた現在の我々がみてもモダンな感じがする。当時の代表的な亘理郡の医者であった、松浦藤四郎さんが建築したものである。昭和初期はまだ車が通行できる道路も少なく、外国製のオートバイに乗って往診に駆け回っていた。 松浦医院はその後、藤四郎さんの子供さんが眼科を開いていたが、現在は閉院されている。町の文化財に値する建造物だと思っている。
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 山元町では、高瀬の合戦原に昭和14年、「傷痍軍人宮城療養所」として設置された全国18か所のうちの一つがある。広さ東京ドーム4個分程度の広大な敷地に最盛期には1500床もの大病院だった。結核の治療を主体にしていたので、空気清浄なこの地が選ばれた。病院建設当時は何もない原っぱであったが、病院の在職者が住み着き、店ができて国道6号線沿いに町並みができるようになった。
 昭和26年に、職員の全国療養所野球大会があって優勝し病院が大いに活気づいたという記録がある。(亘理郡医師会誌より) しかし結核患者を主な対象とした療養所だったので、ペニシリンなど化学療法の普及で患者数は激減し、昭和45年頃より「脳」関連を主体にした病院に衣替えしている。現在もなお350床の大病院であることに変わりない。
 児童福祉法ができて重度身障児のための県立山下支援学校も構内にある。 広大な敷地も、大震災後に災害公営住宅地として半分近くが供された。その敷地整備の前段階の発掘で、横穴古墳など歴史的な発見が相次いだことは記憶に新しい。

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 昭和期には、数限りないエポックメーキングがあったが、代表的なものは通信と交通ではないのかとおもっている。

 「通信」は、平成が終わろうとする今なお急速な発展を止めていない。現代人は一日のうちでスマホを眺めている時間帯が最も長いのではなかろうかと思う。
 筆者が小学校の頃、すなわち昭和20年代には亘理郡にどれほどの電話があったのだろうか、めずらしいものだった。50人のクラスに一軒のみだった。社会科授業の時に電話のかけかたというので、全員が職員室に連れてゆかれた。今や博物館でしか見られない手回し式発電機のある柱に取り付けるものだった。グルグル回すと電話交換局に発信され電球が点滅する。局内の交換手がジャックをそこに差し込んで、何番ですかと問われる。電話のある生徒の家につないでもらい話が通じることを遠巻きに見ていた。そんな時代だった。電話番号も1番から順にあった。電話交換手は当時の女性の花形職場であった。
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 一般家庭に電話が入るのは昭和33年に「山元町有線放送農業協同組合」が発足し42年から山元町営となるが、昭和55年まで続く有線放送の時代である。
 亘理町では逢隈農協が35年に業務開始、亘理・荒浜・吉田では逢隈とは別に38年に合同で有線放送が開始された。それぞれが独立採算形式で料金を集めていた。
 役場・農協・学校などの公示事項や火災、落し物、迷子の通報まで行われた。この頃から押売りやものもらいが、あとを絶ったと言われている。有線放送とは、普通の家庭では数軒がグループになり、各戸で番号は異なるものの回線はグループに統括されていた。グループの誰かが使っていると話し中になってしまう。おまけに受話器を取り上げると秘話形式でない機器は他人の会話が耳に入ってくるという、今からみると信じがたいものだった。
 亘理の合同有線は昭和46年に電電公社の亘理電報電話局の管下に入った。逢隈のみは地域集団電話として引き継がれた。電話帳に○集と書かれていた時代をご記憶の方も多いと思う。電話料金から必要経費を差し引き、業務委託費を電電公社に支払っていた時代があった。
 この頃の電話料金は距離制でとんでもなく高額であった。昭和37年頃、東京まで一通話3分間200円、大阪400円、九州600円の記憶がある。
 このため電報が大活躍していた。しかしこれも文字数での料金である。「フシツイタ」など、濁点は一文字追加なのでこれで通用した。「ブ ジ ツイタ」と誰もが解釈した。

 昭和40年代にモータリゼーションが起こるまでは、亘理郡でもバスが活躍していた。国道6号線の幹線道路には、坂元から仙台までの仙南交通バス(後に宮城交通)があり停留所も多く便利であった。(昭和30年代~50年代まで)
 鉄道が通らず不便だった角田からは、国鉄バスが亘理駅や山下駅、坂元駅へと峠を越えて来ていた。また、相馬から山元の宮城病院まで福島交通バスが運航していたこともある。荒浜からは仙台行きの直行バスもあった。
 乗合バスの亘理郡での始まりは、昭和2年の山下と亘理間であった。
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 この昭和初めに、坂元の真庭に富田伝助さんという、事業意欲の旺盛な方がいて貨物自動車を購入し亘理と相馬間に定期貨物自動車を走らせた。その後、車を買い増し従業員も10名となったが、昭和16年の開戦後ガソリンが入らず廃業した。

                                (記:鈴木仁)

 尚、恐縮ながら3月までは休刊とします。  4月より大正編を発行予定です。

の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。  






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# by tyama2001 | 2018-12-07 13:56 | 亘理・山元ニュース

平成30年11月1日

                           NPO法人

亘理山元まちおこし振興会

発行人 理事長 千石 信夫

昭和のあれこれ(2)

 昭和30年代頃まで、亘理郡の衛生状態はよくなかった。(日本の大都市以外は、いずれも同じようなレべルだったが)
 トイレの人糞は金肥とも呼ばれ、畑の野菜には貴重な肥料だったのである。トイレは母屋の外側に設けられ、満杯になるとこえ桶に汲み取り、それを、こえ溜に移すべく運んだものだった。この作業を「だらかつぎ」と呼んでいたことをご記憶の方々も多いと思う。(人糞と尿の混じったものを「だら」と呼んでいた)
 昭和20年代の人々は、ほとんどが腹の中に回虫を抱えていたものだ。腹痛を起こすと大概は回虫が動きまわってのことだったので「サントニン」という薬品を飲ませられた。回虫が便と一緒に出てくるのである。トイレの下を覗くと、白い虫が動き回っていた。紙も乏しく新聞用紙を揉んで軟くして使ったものだ。
 これを肥料とするのだから、今度は回虫が野菜に卵を産みつける。食べる前に丁寧に洗っても、完全に除去はできない。人間の腹が、この卵を再び育てるのである。
 はなはだ尾籠(ビロウ)な話になってしまったが、50歳以下の方々はこのような事実を全く知らないでしまうものと思って記している。
  図は「こいおけ」をスマートにイメージした。
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 「堆肥」というものもあった。 一間(1.8m)四方、高さ一尺(30cm)の木枠があった。地面に置いて稲わらを敷き詰め、その上に「だら」を撒く、これを繰り返し踏み固めて数日が過ぎると発酵して、なかのわらが引き締まるので、木枠を持ち上げて同じ作業をして、どんどん高くしてゆき、高さがほぼ一間もの立方体状の「堆肥」ができあがる。今度はこれを崩し田んぼや畑に肥やしとして撒いたり、すき込むのである。殆どが素手での作業だった。

 高級な「肥やし」は、牛・馬小屋や豚など家畜小屋から出てくるものだった。小屋の地面には稲わらを敷いておくので、そこに糞尿が落ちて汚れたものを「堆肥」の枠内に運ぶ。ほどよく発酵して、優れた肥料になるのである。70℃以上で発酵すると人間に害を及ぼす病原菌などは死滅してしまうので、思ったほどに汚いものではなくなる。

  昭和20年代は、子供の小遣い稼ぎに「うさぎ」の飼育が流行した。太らせて肉屋さんに売るのである。 アンゴラうさぎという「毛」を刈り取るうさぎもあった。草を食べさせればよいので飼育は比較的楽だった記憶がある。
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 カスミアミという現代では禁止されているが、この網を使って「すずめ」などを捕獲したこともある。カラスも食肉用に供されていた。「モッチ」というネバネバした接着剤の如きものを棒や竹の先につけ捕えるのである。亘理の上郡の人が街中へ、一羽30円程度で売りにきていたものである。結構ボリュームがあった。なんでも食べていたものである。

 燃料も乏しかった。山で拾ってくる地上に落ちた「杉の葉」や枯れ枝が、「カマド」や風呂の貴重な燃料だった。これも子供の仕事である。山からリヤカーに積んでくるのだった。 「亜炭」というのがあった。石炭になる前のものである。火力は弱いが火持ちがよかった。仙台大年寺山や竜の口で産出した。数百万年前の地殻移動によるもので、億年単位で生成される石炭とは比べるべくもないが、燃えるものは、すべて使ったので当然ながら、ゴミなどはなかったのである。

 昭和30年以降になると、徐々にではあるが衛生思想が普及するようになり、33年には集落毎(現在の行政区に近い)に「衛生組合」ができて、春・夏・秋に各戸のトイレなどの消毒作業などをおこなったものである。
 化学肥料なども発達してきて生肥の使用が減じ、し尿処理の必要性が出てきた。ゴミも出るようになった。当初、亘理では昭和38年頃から割山採石場がゴミ捨て場だった。やがてゴミ焼却場の建設が叫ばれ、山元町では昭和50年に高瀬に完成した。亘理では昭和44年に一号機が49年に2号機が完成した。場所は北新田である。現在は東日本コンクリート工場になっている。通称柴町街道の中ほどである。一日に10トンの焼却能力を持っていた。

 土葬もまた非衛生的とされた。山元の療養所からの結核死亡者は野外で木が積まれて火装とされていた。亘理も伝染病患者は同様だったが、昭和38年に石炭式の火葬場ができた。
 山元町では、亘理と合同で新火葬場を作ろうという機運が出て、昭和49年に現在も稼働する近代的な広域行政による火葬場が出来たのである。
 し尿処理についても、昭和40年に岩沼市の早股に完成した施設を広域で利用することになった。バキュームカーという汲み取り車が大活躍することになる。やがて昭和50年代に下水道ができるに及んで、バキューム車も減少してゆく。
 上水道は、少し早かった。山元町では磯地区に昭和38年に簡易水道が完成し次いで、高瀬や浅生原などに地下水を利用した浄水場ができて昭和52年頃には全域に普及した。
 亘理では荒浜など東地区での井戸水が悪かった。昭和37年の検査では70%が飲料に不敵とされた。岩地蔵から阿武隈川の水をくみ上げ大森山浄水場ができたのが昭和41年だった。配管などに莫大な費用を要したのであった。
(記:鈴木仁) 

 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。  

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# by tyama2001 | 2018-11-01 17:24 | 亘理・山元ニュース

                              平成30年10月1日
                              NPO法人
                              亘理郡山元まちおこし振興会
                              発行人 理事長 千石 信夫

昭和のあれこれ(1)

 昭和元年は7日間しかなかった。昭和64年も偶然に7日間しかなかったのである。 昭和の実質は62年間であったといえる。
 大正天皇の崩御を知っている方は、亘理郡にはもういなくなったであろう。当時はラジオもまだなかった。新聞報道しかなかったのだから、現代からみると信じがたいことである。
 昭和を生き抜いた人には、余りに出来事が多すぎたので数世代を一挙に体験したようなものだという方々も多い。大きな項目を列挙してみたい。

①電波の恩恵を一般の人びとが受けられるようになったこと。
 「ニュースのみならず、娯楽面でも革命的な変化が起こった」
  ラジオ → テレビ → ケイタイ(現代に続く)
 ラジオのNHK仙台放送局の電波発信は昭和3年で、今年90周年を迎えることになった。即時性のあるニュースが聞けるようになったのである。(全国8番目;JOHKである)ただ、当時のラジオ受信機はきわめて高価なものであり持っていた人はごく限られていた。「図は昔のラジオのイメージです」
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 当然ながら真空管がつかわれており故障も多かった、だが全国民には即時に伝わることとなった。敗戦の決定を知らすべく前もってラジオ所有者のところに集まるように伝えられた昭和20年8月15日、昭和天皇玉音放送もあった。
  しかし、昭和30年頃からのテレビの普及に伴いラジオは主役の座を降りることになった。
 それまで映像のあるニュースは、映画館で料金を払って見るものだった。亘理にも駅通りの新町に昭和27年に映画館ができた。ゴジラがきた時などは、学校の先生が引率してクラス毎に見に行ったものである。ドラマ本番の前に、日本国内のニュースが白黒で15分ほど流れるのであった。映像は新鮮なものに見えた。だがテレビの普及は急速で、やがて映画館のニュースも消えていった。映画のドラマは総天然色となり、テレビもカラー化した。


②交通革命
 昭和30年代までは現在の如く、誰もが自由に自動車を運転する時代がこようとは夢のまた夢みたいなことだった。
 当時、亘理と山元町の街中を走る国道6号線は、舗装もされず昭和20年代は通行する自動車が一日に100台程度しかなかったと思う。国道でキャッチボールができた。
 急速な経済発展がモータリセージョンを生みだした。
 昔の道路はもともと自動車が走るようにはできていない。交通量が多くなるに従い、振動などの影響や事故も増えた。車の増大に対応するため国道が街の中を避けて通るバイパスの建設がはじまった。昭和43年のことである。完成には5年を費やし47年に開通した。
 逢隈・亘理・吉田・山下・坂元と山沿いや田んぼの中に新しい道路ができて、郊外に出ると再び元の国道と合流するという現在の新国道6号線ができたのである。 爆発的な車社会に対応できず、交通事故で亡くなる人が多かった。死者の数は急速に増えてゆき、交通戦争などともいわれ昭和45年がピークで日本全体では1万7千人の命が失われた。当時の山元町の人口が毎年消えて行くような状況が続いた。

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 その後、安全運転の意識が高まったことや信号機の増設など交通インフラの整備、救急医療体制ができたことなどで現在では3700人までに減じている。
 昭和30年頃、筆者の近くでトラック1台をもって「便利屋」という商売を始めた人がいる。町内の人から預かった荷物を岩沼・仙台方面に届けるのである。今でいう宅配便のようなものだが、当時は個人では送るべき物資はあまりなく一日一便で十分だった。
 旅行時などの荷物は鉄道貨物で運ばれ「チッキ」と呼ばれたものがあり便利だった。国鉄「切符」を持参していると、土産品などを別に駅まで運んでくれるのであった。
 常磐線の開通は明治30年に遡るが、亘理郡内に3つの駅しかなかった。その後山下駅の開業が昭和24年、逢隈駅の開業は昭和の終わり63年8月だった。如何にモータリゼーションの時代とはいえ、駅が近いと何かと便利である。仙台への通勤客で周辺の宅地開発が急速に進み逢隈地区の人口は急増している。
 山下駅もそれなりに利用客が増えたのであるのが、現在は仙台への近さが決め手になっている。
 昭和30年代まで常磐線の仙台発の最終列車は午後8時19分上野行きであり、通勤・通学には何かと不便だった。ところがその最終列車が亘理や山下駅に着くと、今度は大きな荷物を背負ったオバサン方が乗り込む。日立などへ就職する人が多く、その母親が息子へ食糧などの荷物を届けるのである。各駅停車なので朝の3時頃に日立に到着し、今度は朝一番列車に乗って帰ってくるのだということだった。

                       (記:鈴木仁)     ――― 次号に続く

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 この資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。


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# by tyama2001 | 2018-10-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
平成30年9月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人 理事長 千石 信夫


亘理郡の農業 (稲作以外のこと)

昭和50年大晦日、NHK紅白歌合戦の視聴率が圧倒的に高かった頃、司会者から冒頭に亘理郡逢隈農協青年部がトラックを駆って届けてくれた「シクラメン」がステージに飾ってありますとの紹介があり驚いたものだ。

全国的に亘理の花卉農業が知られるキッカケになった。

歌手、布施明さんの「シクラメンのかほり」がミリオンセラーになった頃である。

逢隈では、その他に上郡での大規模なカーネーションのハウス栽培もあった。


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政府は、農業の後継者育成に若い農業者に「4H活動」を推進した(心・頭・手・健康)の英語表記の頭文字である「H」をつけたものである。この文字に懐かしさを覚える年配者も多いと思う。

しかし今や、その方々の後継者がいないのが実情である。

農業には労働に見合う報酬が他の産業に比べて少ないというのが実態のようで、兼業とされている方々も多い。

稲作以外に道を求めて、先に紹介している「ぶどう」や「りんご」なども試みられた。

昭和20年代に愛宕山(亘理)の麓でコンニャク栽培をしていたこともある。しかし出荷までには3年の歳月を要することで、住宅需要の高まりとともに宅地となった例などもある。亘理郡の人たちは、いろんな作物に挑戦している。


馬喰(バクロウ)を平成の最近まで生業としていた方々もいる。

昭和の最盛期には、亘理郡内に20人以上もいたであろう。筆者の集落にも3軒の馬喰がいた。東京には馬喰町があり、現在も地下鉄にその名をとどめている。文字通り馬の売買をしていた人たちであるが、農耕用の需要が少なくなってからは、「牛」を主に扱う業者となった。子牛を市場から調達してきて、肥育農家や自分自身で育てて、成牛を市場に出すのである。宮城県では仙北で今も盛んである。「仙台牛」はブランドなのだ。

仙台夢メッセで今年、「全国和牛大会」が行われたのは記憶に新しい。

亘理駅の南側に国鉄官舎があり、さらに「牛市場」があったことを記憶されている人も多いに違いない。一人の馬喰さんは、たいてい10軒以上もの肥育農家を相手にしていた。

昭和35年の統計データであるが、興味ある数字が並んでいる。

(今も5年毎に、農業センサスという農業調査が行われている)

  区分

  山元町

 (頭、羽)

   亘理町

  (頭、羽)

1100

1501

24

56

1000

831

24000

29077

乳牛

110

81

700

509

山羊

(ヤギ)

200

129

この頃の牛は役肉用である。肉用であると共に、田起こしや田植え時の代掻き用の動力として用いたのである。当時の子供には鼻取りという役目があった。

牛の鼻に金属の輪が付いていて、そこに長さ1m程度の竹の棒を取り付けて、子供が牛を誘導するのである。昭和20年代の後半に鼻どりを一日やると5円の給金だったように記憶している。

また殆どの農家で鶏を10羽ほどは飼っていたものである。当時の人口とほぼ同数の羽数がいた。野菜の屑などを刻んで与えていたものである。現在のような数万単位での大規模養鶏家などは想像もできない時代だった。


家庭の残飯も有効利用され、豚農家が集めて歩いていたものだ。餌代を殆どかけずに育てていたのである。現代の如く均質な肉を求められる時代ではなかったからやれた。

牛がいたり、豚がいたり、当時の集落は臭かった。

牛、豚などの飼育小屋の敷きわらは、堆肥として有効利用され田畑にまかれた。

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鶏の糞は、天日で乾燥され、これまた有用な肥料になった。現在はホームセンターなどで購入する時代になってしまったが、この当時はまだゴミ集積所などはなくて、全てを利用していたのどかな時代でもあった。

 鶏は卵を産まなくなると、潰すのである。年老いた鶏なので肉はガムのようだった。

 豚の屠殺場が、この頃まで南仙台駅のすぐ西側にあった。側を流れる川は赤く染まっていたものだ。現在では信じられないような光景である。

 子供は小遣い稼ぎのために、兎を飼育し太らせて肉屋さんに売るのだった。

タマゴ屋さんと呼ばれる商売もあった。集落を回り買い集めて仙台まで運ぶのである。

少し時代を遡り、昭和10年代には「タヌキ」の飼育が流行したことがあった。

亘理の神宮寺にタヌキを飼育して、大儲けをした方がいる。タヌキ汁ではなくて毛皮が貴重だったのである。「狸御殿」と言われる豪壮な家を建てた。(現存している)

たちまちにして噂は町中に広がった。我も我もとタヌキ飼育に乗り出す家が増えた。

しかし、大半の人が失敗した。

タヌキに化かされたと悔んだ人が多かったのである。

(記:鈴木仁)     ――― 次号に続く


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# by tyama2001 | 2018-09-01 00:00 | 亘理・山元ニュース


亘理郡の農業(その2:減反への道)

 昭和40年頃から稲作バブルともいうべきことが起きた。戦後、政府は米の増産を奨励しあらゆる施策を行った。米価も上昇を続け、逆ザヤと言われることまで起きた。農家からの買い入れる米の価格が消費者への販売価格を上回るようになってしまった。
 米価は永遠に上がるのかと思うような状態だった。農林族と言われるような議員もたくさんでてきた。農家も団体で東京に押し掛け国会周辺をデモするのが恒例になった。ところが、デモを終え昼食に農家の人たちが、ラーメン屋さんに入るのである。農家自体が米を食わなくなったと揶揄された。米離れが加速していた。
 発端は終戦直後の食糧不足の時に占領軍がガリオア・エロア援助で、麦粉が大量に入ってきたことにある。パン食が始まった。パンを食べることがハイカラに思えたのである。
 小学生にも「日の丸弁当」の栄養補給にと、麦粉と牛乳が渡された、モサモサして旨いものではなかった記憶がある。米の消費のピークは昭和37年の一人当たり113kgで以降は除々に低下している。
 米の増産は国策として、そんなことにはおかまいなしに進んだ。秋田県では当時の面積では日本第二位の湖だった八郎潟の干拓も終わった。
 農業機械の開発も進んでいた。
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稲刈り機械とか田植え機械なども出始めた。初期の頃は単純なものだった。刈りっ放しで田んぼに放置され、後から人間が束ねて行くのだが、それでも大変な省力化だった。機械は高い値段で飛ぶように売れた。
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 亘理に商売上手な農機具屋さんがいて、沢山の売上実績を重ねていた。メーカーからの海外招待旅行があり世界中を歩いていた。その方とお話をしていたら、北欧以外に外国の知らないところはないのですよと言われたのには驚いたものだ。(写真は初期の頃の田植え機械と稲刈り機です)    
 農家の海外旅行もブームになった。「ノウキョウ」の旗を掲げた団体がロンドン、パリへと繰り出して話題になったものである。米価は60kg(一俵)当たり2万円以上をかなりの期間維持し続けた。
 だが、機械の性能が上がると共に機械の価格も大幅に上昇した。
 次々と新しい機械がでるたびに買い替えるので、農機具貧乏などという言葉も出てきた。
 隣近所の様をみて、自分だけが旧い機械ではだめだという意識が働く。日本人同士の巧みな競争心が利用されたのである。農機具を使うのは一年間のうちのわずかな日数のみである。
 農業機械の進歩は、稲作農家を劇的に減少させた。平成30年の亘理郡内では99戸のみになった。そんなことで現在は一戸平均で数十ヘクタールを請け負っているのである。

稲作に欠かせないのが「水」である。用水と排水は昔からの課題であった。亘理郡の海岸地帯は土地が低く、海抜ゼロm地帯も多い。特に海岸一帯では、潮の干満により海水の影響を受ける。このために、牛橋江や鳥の海周辺は、昭和20年代までは芦の生い茂る海水と淡水の入り混じった荒地であった。高屋辺りには沼のようになった水溜まりが方々にあって、魚釣り特にボラが沢山かかった記憶がある。
 この海水浸入地帯を国策として干拓し、一挙に農地化して米の大増産を計ろうとしたのである。昭和27年に始まり、昭和47年に完了する大規模事業であった。皮肉なことにこの頃から米余りが本格化するのである。
 牛橋(河口)の海岸に面したところに大型の水門が完成した。鳥の海と鐙川の接続点には、それまで16樋関と呼ばれた旧式な水門があったが、現在見るような近代的なものになった。
 農地は一挙に拡大し、亘理郡が本気で米を作れば、昔流に言うと15万石もの生産が可能なようだ。
 だが米の需要減少で、農地も徐々に宅地化されていったのである。
 昔は葦原で、住所などはなかったのだが、干拓後には地番が付けられるようになった。住所に人名がついているのをご存じの方も多いと思う。



 当時、功績のあった方々の「姓」がつけられた。すなわち、荒浜の我妻、横山、星、中野である。農協組合長、県会議員、高級農林官僚であった人たちである。

(写真は「たちばな出版」の住宅地図より)(記:鈴木仁)     ――― 次号に続く

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 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。

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# by tyama2001 | 2018-08-01 00:00 | 亘理・山元ニュース

ひだまりマルシェで伊達むらさきが販売されました

宮城県山元町の山下駅に隣接する山元町防災拠点・山下地域交流センター(つばめの杜ひだまりホール)にて、地域イベント「ひだまりマルシェ」が開催され、伊達むらさきも販売されました。

ひだまりマルシェのノボリ         


マルシェの様子。当日はミュージカルも開催され、大勢の山元町民が訪れました


販売された伊達むらさき。緑と紫のユニークなコントラストに、多くの来訪者が足を止めておりました


会場には伊達むらさきに含まれるアントシアニンなどの抗酸化物質に注目して研究活動をしている、東北福祉大学の小野木弘志講師も訪れ、伊達むらさき販売所に来た山元町民へのインタビュー調査をしておりました。小野木講師に伺ったところ、山元町民の伊達むらさきに対する認知度では低く、町内で販売しているのを見たことがないと話す方が多かったそうです。伊達むらさきの販路は現在ほぼ仙台であり、山元町での販売はこのような年数回ほどの地域イベントのみに限られています。伊達むらさき生産農家さんも減少し、流通量の減少も仙台圏のみの販売となっている要因ではないかと思われます。


店頭では伊達むらさきの新聞記事の掲示や試食などが行われました


来訪者は健康によさそう、美味しいと購入し、お昼過ぎには完売してしまいました!


伊達むらさき販売所付近で小野木講師がインタビューを実施中に、山元町防災拠点・山下地域交流センター所長の岩佐勝氏が訪れ、小野木講師にこの施設の説明をしておりました。岩佐氏によるとこの施設は避難所がベースとなっている交流センターであり、全国でも希少な施設だそうです。ひだまりマルシェもはじまったばかりのイベントです。

チラシ

次回は9月16日ですので、ぜひ山元町の防災拠点・山下地域交流センター(つばめの杜ひだまりホール)で開催される「ひだまりマルシェ」にお越しください!



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# by tyama2001 | 2018-07-28 16:14 | 亘理・山元ニュース

亘理郡の農業(その1:減反への道)

 昭和45年(1970年) に日本の歴史始まって以来の出来ごとがおきました。米が余ったのである。大阪万博があった年です。今後は米の生産を減らせというのです。
 現代日本人にとっては、食物を捨てるとか、コメが余るのは日常のことになってしまったが、昭和25年頃までは腹一杯ご飯を食べることが、夢にも近いことだった。今やそんな記憶も薄れつつある。何しろ田んぼの40%近くがもはや米を作ってはいない。
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 食糧の増産は、古代よりいつの時代にあっても日本人の悲願であった。主食・コメの生産力は、地域の力だった。江戸時代に亘理伊達氏の2万4千石と坂元の領主大條氏の4千石が、亘理郡と新地町を合わせた生産高である。
 昔は年間に一人1石(150kg)を食べるとされたので、すなわち2万8千人を養える力があった。さらなる増産をすべく、新田の開発に励んでいたのである。

 米の生産力が急激に伸びたのは、終戦後(昭和20年以降)のことである。
 それまでは、一反当たり5俵(300kg)程度だったが、化学肥料や機械化が反収の増加につながった。現在ではほぼ倍の収穫を得ている。コメは日本の主力産業だったのである。米の出来不出来は、日本経済を左右していた。

 今では考えられないことがたくさんあった。
 多くの家が専業農家だった時代には、現金収入があるのは秋の刈入れ時である。供出米の代金だった。逢隈などの農家の多くは、亘理の街中に来て買い物をするのに現金を持たず、通帳(ノートみたいなもの)に書きとめてもらい、秋に一括して支払いに来るのが常だった。
 誰もが貧乏だった。農作業はすべからく人手に頼っていたのである。稲から穂先の米のみをとる脱穀機というのがあったが、これも人間が足を使って踏んで動かすものだった。
 田植えの時には、猫の手も借りたいと言われたものである。
 私が中学生になったのは昭和29年であるが6月1日から3日間田植え休みがあった。農家であろうと、なかろうと係らず全校が休みなのである。卒業まで続いた。
 秋には「イナゴ取り」の行事があった。これも3日間である。授業はなく朝から全員が一斉に田んぼに向かい、刈り取られて乾燥のために「はせがけ」にしてある稲に群がっているイナゴを捕まえて布袋に入れ、弁当は田んぼで食べて午後3頃までに学校に戻り、捕獲したイナゴの計量をうけて帰るのである。
 学校はイナゴをまとめて販売し、図書の購入などに充てたのである。日本はまだイナゴが貴重なタンパク源だった時代である。
 私は3日間で一貫目(3.75kg)を捕獲し7等賞をもらい鉛筆をいただいた記憶がある。
 
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 大きな農家では、人手の確保に手間取りや作男と言われる人を置いていた。
 特殊な例だが、昭和10年生まれのSさん(現存)という男がいる。彼は小学校4年までしか学校に行っていないのだという。終戦直後の混乱もあり名前が落ちてしまったらしいのである。どの学級にも属さず現在なら大騒ぎだが、彼の家ではこれ幸いと大農家の作男として預けてしまったのである。預かった農家も子供に作業は無理だと、しばらくはその家の子守りなどをしていたというのである。
 やがて、農業機械化の第一号ともいうべき「石油発動機」が入ってきた。ダダダダ・・という音にご記憶のある年配の方も多いはずだ。足踏脱穀機の動力となった。ところが故障がはげしい、修理屋を呼んで直すのだが、Sさんはその修理をみていると、故障原因の大半が点火装置の汚れにあると気がついた。それなら自分にも出来ると、雇われ先のものを直し、他の農家からも頼まれて、結構な小遣い稼ぎになったというのである。やがて全体の仕組みも覚えて、使われなくなって捨てられた発動機も修理して売ったこともあったというのである。

(記:鈴木仁)     ――― 次号に続く

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# by tyama2001 | 2018-07-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
桔梗長兵衛によるブドウ栽培(その2)
 
「牛橋でブドウを栽培してブドウ液を作り首都東京で販売する。」という構想の実現を目指すことにした長兵衛は、明治34年(1902年。長兵衛29歳)、牛橋に入植し荒地の開墾に着手しました。ブドウ液の製造・販路などでの課題は山積したままですが、開墾・樹園の育成を進めながら考え、準備を進めるつもりでした。明治35年(1902年、長兵衛30歳)、彼はコンコード種(葡萄酒やブドウ液への加工に適した品種)のほか22種のブドウの苗、3000本を植栽しています。 (山元町教育委員会編「山元町ふるさと地名考」より)

東京での販売活動の展開
 大正時代(1912年~)に入り、ブドウの収穫・ブドウ液の生産が始まりました。販売の準備は既に始めていましたが、なにせ東京の人には知られていない山下村の物産です。販売活動は困難を極めました。そのうち大阪の『葡萄酒の寿屋』(サントリーの前身)との接点ができました。寿屋は、葡萄酒製造所増設のためブドウ生産地をさがしていました。長兵衛は寿屋に牛橋を紹介し牛橋進出に協力しました。そのためか、ブドウ液の皇室への献上と、海軍への納付が実現しました。皇室への献上や海軍への納入は、世間の商品や生産者についての安心・信頼が得られます。ほどなく三越に納めることができました。以後、横浜などの都市にも販路が開けました。長兵衛によるブドウ栽培・ブドウ液生産が成功したことから牛橋でのブドウ生産者が増え、さらには花釜・浜吉田方面でも葡萄生産者が増えました。昭和に入ると笠野や新浜方面にも拡大しました。花釜・牛橋でのブドウ液生産者も10軒前後できました。こうして亘理郡は、東北1のブドウ産地になりました。

戦時中も伐採をまぬがれたブドウ園
 昭和6年に満州事変が起り、昭和16年には、太平洋戦争に発展しました。その間も、葡萄は抜かれることはありませんでした。それで1945年8月の敗戦後も継続してブドウは収穫できました。食糧の配給制が敷かれ、甘いお菓子など食べることのなかった戦後の時期、ブドウは貴重でした。亘理郡は相変わらず、東北地方第一のブドウ栽培地でした。この状態は、1960年頃まで続きました。その後のブドウ栽培衰退の経緯は前月号の通りです。

丘陵地帯でのリンゴ栽培
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  1960年、池田内閣は、経済の高度成長を支えるために、農業生産面では果樹・畜産部門の成長に力を入れることにしていました。それで、山元町においては阿武隈高地の麓の丘陵地区でのリンゴ団地の形成に力を入れることになりました。その結果、1965年頃から、八手庭・大平・鷲足・浅生原・高瀬・真庭・久保間・中山などに、リンゴ園の集中する地区『リンゴ団地』が造成されることになりました。国は、消毒用の大型農機である「スピードスプレア」の共同購入などを支援するなどの施策を実施しました。こうして山元町では、リンゴを作付けする農家が1970年頃まで増えました。品種は秋に収穫するスターキング・ゴールデンデリシャスが中心です。ほかに、多くはありませんが、朝日などの早生種がありました。りんご園の場合、収益が出るまで10数年かかります。また、特にリンゴの場合は、売れ筋の品種が時と共に変わるので、接ぎ木などで、品種を更新せざるを得ません。それでも、1980年頃から、宮城県ではトップクラスのリンゴ栽培地に成長しました。しかし、2000年頃から中心的従事者の高齢化などで、経営継続が困難な果樹園が生じ始めました。経営困難で手入れができなくなったリンゴ園は、病虫害の伝染・拡大のもとです。伐採して果樹園を閉じなければなりません。近年は、果樹園は減少しています。
 よく、アメリカのリンゴはまずいと聞きます。アメリカでは、市場での価格競争に対応するために果樹園の大型化と機械化による省力で生産コストを下げてきました。一方、日本のリンゴのおいしさは、剪定・摘果をはじめとする繊細できつい作業の積み上げで維持されています。現在、日本の農業も、農産物の国際化と少子化にさらされています。労働生産性の追求なしでは存立しえなくなって来つつあります。リンゴのおいしさは機械化にはなじまない労働集約型の農作業の結果であるとすると、農家の収益確保と流通のあり方についての公的機関による研究推進が待たれます。   (記:菊地文武 )


お知らせ
 (NPO)亘理・山元町おこし振興会では、農業部門に於いては、金時草の中の 繊維の軟らかい系統の種類の一つに注目し、“伊達むらさき”と命名し商標登録を行い、その普及を追求しています。現在、数軒の農家にその栽培と販売をお願いし、東北福祉大学では伊達むらさきの薬効に注目し薬効成分分析調査を進めています。“伊達むらさき”に関心をお持ちで一緒に活動したいと希望する方は、ご一報ください。(千石信夫迄 0223-37-0010)


 この資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。


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# by tyama2001 | 2018-06-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
亘理郡南部の浜通りでのブドウ栽培(その1)

 大正時代から昭和35年頃(1960年頃)にかけての約50年間、常磐線山下駅から浜吉田駅の間は、車窓から連続するぶどう畑の景観を楽しめました。当時、亘理町浜吉田地区・山元町牛橋地区※・花釜地区・笠野・新浜地区は東北地方最大のブドウ産地でした。しかし5年後の昭和40年頃には、これらのブドウ園のほとんどが消滅しました。この頃は、敗戦で壊滅状態になった日本経済が戦前の状態に戻った時期で、日本人の食生活は向上し、果物への需要は高まり始めていました。

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 1960年(昭和35年)に成立した池田内閣は、産業に関しては製鉄業は自立できる段階に達したとして、化学繊維工業・機械工業の振興に努めることにしました。これらの発展で輸出入を増やし、産業全般の底上げを図ったのです。また、農政面では、果樹畜産の振興を謳いました。その結果、機械工業や化学繊維工業が急速に発展して、斜陽化しつつあった絹工業(絹織物業・製糸工業)の衰退が進みました。その結果、養蚕は壊滅しました。養蚕が盛んだった山梨・長野・福島・山形などでは、1965年(昭和40年頃)には、国・県の支援で桑の多くは伐採され、ブドウなどの産地に変わろうとしていました。

 この頃、東北の中心都市仙台の発展が急速に進みました。そのため、亘理郡でも、仙台とその周辺に就労する農家の中心的な担い手が増加しました。その結果、亘理郡のブドウ栽培は、生食用の品種への更新もできなくなり、急速に衰退しはじめました。昭和45年頃には消滅します。

※牛橋地区での農業山元町牛橋地区の農業は、幕末の1861年(文久元年)に、亘理要害配下の農民33名が入植した時から始まりました。入植地は、牛橋干潟の西、県道塩釜・相馬線の両側です。牛橋地区は、草木の生い茂る荒れ地と湿地で土壌は砂地で瘠せていました。その上、台風時の冠水や高潮の被害も多く、明治に入っても用地は余っていました。

青年期までの桔梗長兵衛

 桔梗長兵衛は、明治5年(1872年)に、山下村山下で生まれました。彼の父は、明治に入った頃に山形県上山(かみのやま)から来た人です。屋敷も農地もありません。手間取りの仕事をしていました。長兵衛も、青年期までは、父と同じような仕事をしました。長兵衛が22~23歳だった明治27年に日清戦争が起りました。翌28年に日本が大国の清に勝ったという知らせが片田舎の山下にも届き、村はその話題でもちきりになりました。若い長兵衛も歓喜しました。3年後の明治31年(1898)に村中の話題になる出来事がありました。それは常磐線の開通でした(長兵衛26歳。まだ山下駅はなかった)。
変革の時代の到来を感じた長兵衛は馬を借りて運送業を始めました。当時の言葉で言うと馬車曳き稼業です。中村(現 相馬市)の辺りに馬車で山下地区の味噌などを運んでいました。

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長兵衛の経済的自立への模索
 
 馬車曳き稼業で、明治という新しい時代の動きを肌で感じる機会が多くなりました。多くの人から明治政府が日本の近代化を目指して富国強兵策・欧化政策を推進していることや、東京では欧米からの物資が出回っていて葡萄酒(ワイン)やブドウ液が上流階級による社交界でもてはやされていることも知りました。
 一方、自分の馬車曳きという仕事の実情と将来を見直す機会にもなりました。明治政府が新しい政策を実施していても、山下村での馬車曳き稼業に関係する物資は、その種類も量も、昔と変わってはいないようです。このままだと、馬車曳きでは桔梗家の基礎を生み出すほどの稼ぎにはなりそうもありません。だとすると財(相続すべき土地)を生み出す道は、牛橋への入植しかありません。しかし、江戸末期に牛橋に入植した農民の現状は相変わらず苦労の毎日です。牛橋に入植したとして、無から有が得られるような大きな事業について考えました。『無から有を得る』、これは山形の上山(かみのやま)を出て山下の地に流れ着いた男の息子 桔梗長兵衛の人生目標です。
 ほどなく、「牛橋でブドウを栽培してブドウ液を作り東京で販売する。」という とんでもない構想を思い付きました。この発想は、大きな変革に具体的に直面することのなかった片田舎の山下村では、湧いてこない発想です。よそ者の息子が、馬車曳き稼業での見聞を組み込んで思い付いたものです。

(記:菊地文武)     ――― 次号に続く

 この資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。

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# by tyama2001 | 2018-05-01 22:39 | 亘理・山元ニュース
 東北福祉大学では伊達むらさきに注目し、成分分析調査を進めています。同大学の小野木講師らは「宮城県山元町産Gynura bicolorの成分分析」という研究発表(山元町産Gynura bicolorが、伊達むらさきです!)で、伊達むらさきの成分分析結果を日本薬学会第138年会で発表しました。以下、小野木講師より聴きました研究発表内容です。

【目的】
 Gynura bicolor(標準和名:スイゼンジナ)はキク科ギヌラ属の多年草であり、観音莧(カンノンケン)という生薬名を有する。沖縄ではハンダマ、熊本では水前寺菜、石川では金時草と呼ばれ、多肉質の葉が食用に供される。宮城県亘理郡山元町では近年「伊達むらさき」というブランド名でGynura bicolorを生産、販売しているが、他地域と外観がやや異なり茎も食用に供すことから、成分分析を行い他地域のGynura bicolorと比較検討した。

【方法】
 2017年10月に収穫された山元町産と他地域のGynura bicolorの葉と茎(葉先より17cm程度)を洗浄風乾後、食品分析開発センターSUNATECへ外部委託し成分分析を実施した。また、総アントシアニン量を比色法により測定した。

【結果】
 他地域産と比較し伊達むらさきは100gあたりの水分、ナトリウム、カリウム、ビタミンK1、グルタミン酸、アスパラギン酸、アントシアニン各含有量が多かった。また、脂肪酸総量、食物繊維量は他地域より低かった。

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【考察】
 伊達むらさきは他地域産と外観が異なり茎も食用に供すことから、葉と茎を同程度サンプリングした結果、伊達むらさきの食物繊維量は低かったため、茎も食用に適することが裏付けられた。今回の成分分析結果より他地域産と山元町産のGynura bicolorでは違いが見られた。今後は遺伝子的な違いの他、栽培方法や採取タイミング、土壌調査等も検討する。

【謝辞】
 本研究遂行に際しご協力頂きましたNPO法人亘理山元まちおこし振興会の皆様、宮城県亘理郡山元町の伊達むらさき生産農家の皆様、東北福祉大学健康科学部保健看護学科3年生の菊池香凛氏、佐藤朱莉氏、新倉風香氏に感謝申し上げます。
 本研究は、東北福祉大学感性福祉研究所において、文部科学省の施設運営支援の助成を得て行われた研究プロジェクト『3.11を契機とする地域の健康福祉システムの再構築-「集中復興期間」後の展開-』の研究成果である。

【利益相反】なし
以上


 東北福祉大学の成分分析に関する研究成果から、伊達むらさきの紫色の鮮やかさ、茎まで食べられる理由がわかりました。ナトリウムが多いのは、山元町が太平洋沿岸地域だからでしょうか?
 伊達むらさきへの興味がますます湧いてくる研究成果であり、今後も東北福祉大学の研究成果に注目していこうと思います。

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# by tyama2001 | 2018-04-24 22:23 | 亘理・山元ニュース