郷土の歴史を遡って知ろう!(第49号)
2023年 04月 10日
令和5年3月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
室町時代(後期)
西暦1500年以降になると室町幕府は形骸化してゆく。
一方で地方は群雄割拠の時代となり、各地での戦乱が激しさを増してゆく。東北では伊達氏が抜きんでた存在となり。伊達稙宗(政宗の曽祖父)の時代になると南奥州の覇者となった。
亘理氏は衰弱して、伊達氏の麾下になると史書(亘理郷土史)にはあるが実際には相馬氏が領有していたとみられる。伊達稙宗は娘を相馬氏に嫁がせて実質的に相馬氏も伊達の勢力下に収めたと認識していたので相馬氏による亘理領有も問題はないと思っていたようだ。
稙宗には数名の妻妾がいて14男と7女を産んでおり、娘は相馬などの有力者に嫁がせ、男子は衰退している豪族の養子として勢力を拡大してゆき、実質的には百万石ほどの力があったと思われる。そのまま曾孫の政宗の時代に引き継がれれば天下取りができたのではないかと思われるが、伊達家にもこの時代に内紛が起きてしまう。(次号にも詳細を記す)
伊達稙宗のもとに、名門ではあるが名ばかりとなっていた関東管領である上杉氏から稙宗の一子を養子にもらい受けたいという申し出を受けて了承した。
実元である(後の伊達成実公の父親)を出すことにしたのである。しかし、出発直前になり実元が多くの精鋭を従えて行くことになり、これでは伊達家の勢力が半分に減じてしまうと、稙宗嫡男の晴宗が反対して父親の稙宗を伊達郡桑折の西山城に幽閉してしまいこの養子縁組を破談にしてしまった。
(後に上杉氏の後継は、越後で勢力を拡大していた長尾景虎が上杉謙信となり引き継ぐ)これに怒った稙宗は号令を発して、各地にいる娘婿となった豪族や、養子を出した家々の軍勢によって西山城から助け出され、息子の晴宗軍と長期に渡る戦いに突入してゆく。
両者は譲らず戦は7年間に及んだ。ようやく和睦が成立して、稙宗は丸森城に隠居することとなり、伊達家は嫡男晴宗(政宗の祖父)が引き継いだ。
しかし、この内紛で伊達家の勢力は大きく削がれた。相馬氏とも敵対する関係になった。
この乱の終了後、亘理氏は相馬氏を離れ伊達家の一翼となってゆくのである。
(戦国時代に父親追放で有名なのは武田信玄で、父信虎の留守中に家を乗っ取った)
この頃に、日本各地では巨大な勢力同士がぶつかり合い消耗戦を繰り返していた。川中島での武田信玄と上杉謙信もその一つである。
こんな中で、織田信長が台頭してくる。実力者による天下統一の機運が出て来る。
この時代の模様が記録されたと見られる亘理町の某家に伝わる不思議な古文書を紹介する。古文書が一概に正しいものだとは言い切れないところがあるが、興味深いことが書かれている。下家系図の前書きの一部を示している。
相馬信濃守という人は、相馬史書にも出ていないし、実在したのかもわからない。
冒頭の「相馬信濃守元安公」から類推されるのが、亘理元宗が隠居してからの号を「元安斎」としたことである。亘理元宗は伊達稙宗の子供である。相馬氏を名乗るのもおかしいが、元宗の姉が相馬氏に嫁いでおり、稙宗は亘理を相馬氏の配下におくことを了承していたのではなかろうか。文書の二行目に亘理が相馬領の時に、大雄寺は古い館であったと。(現代の認識もそうである)四行目に慶長8年(1603年)、当所の館は吽館と申す。 成實公着任され・・。
(これまた現代は臥牛城.とも称されているので今の認識と変わる事はない)従って、この文書に違和感があるのは冒頭部分と、二行目の前半部分である。(いずれ解明されることであろう)
亘理氏はやがて、重宗の時代に豊臣秀吉が発した伊達政宗への米沢から岩出山への移封にともない、亘理へは片倉小十郎が入り、亘理重宗は涌谷へと移り、伊達氏に名を変えることになる。
重宗は、伊達稙宗の孫になるわけだから当然かもしれないが、後に政宗に従い相馬氏とも戦い大きな戦果を上げたので一万石クラスの待遇を得ている。だが相馬氏と直接に相対するには知略に優れた片倉小十郎しかなかったのであろう。
涌谷に移ることになった重宗に政宗は丁寧な手紙を書いている。北の地は、災害も少なく住みよい所であるとしている。(政宗もかなりの気遣いを見せている)
参考文献 山元、亘理町史 (記:鈴木仁)