令和5年2月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
室町時代(中期)
中世の豪族が江戸時代にまで生き残った例は数少ない。その多くが内紛で自滅している。
亘理氏も同様である。11代目以降に混乱が生じてしまう。10代目胤茂の後を継いだ子供達の間で内紛が起こったのである。
11代目を継いだ茂連が1447年に39歳で子供を残さず死亡したことから始まる。茂連の弟同士による相続争いが勃発したのである。
先ずは、すぐ下の弟である宗清が継いだのであるが、異母弟の茂元が亘理当主宗清の座を狙っていた。
17年後の1463年に、茂元は伊達氏の支援も受けたのであろう宗清親子を襲撃して自害させた。宗清(48歳)には2人の男子がいたのだが共に自害してしまう。
この内粉で亘理氏は大きく勢力を落としてしまうことになる。独立した豪族の形をてしまうという事態になる。
以降の亘理氏は「茂元」の子や孫と継承されるが、すっかり衰微してしまう。時には伊達氏の支配下に、また南の相馬氏に領有されることもあったようだ。相馬史書のひとつである「奥相秘鑑」にはそのような記述(山元町史)も見られ、亘理の某家の家譜にもそのような記録が残っている。
やがて茂元の曾孫、亘理宗隆の時代になると、家臣の間より当時の伊達家当主「稙宗」に宗隆の娘を差し出し、その間に産まれた男子を亘理家の当主として、伊達氏の完全配下に入り生き残ろうとする策が出て、実行されるのである。
次号に詳細を記述することにする。
一方、都では鎌倉時代末期から室町時代の中期にかけて「徳政令」が頻発される。一切の借金を無かったことにするという命令である。ありがたい法令のようだが、字句からイメージされることとは異なり、幕府御家人の救済策だったのである。幕府は一切の損をせず、御家人が大名や裕福な町人、商人から借金したものをチャラにするというもので、貸した人々はたまったものではない。世の中が大きく乱れる原因となってゆく。
このような中で専制政治を行っていた室町幕府6代目将軍が、播磨(兵庫県)の守護大名である赤松氏に暗殺されるという事件が起きた。1441年のことである。年号は嘉吉元年であったので「嘉吉の変」とも呼ばれている。
しかし赤松氏は、幕府側の勢力によって攻め滅ぼされてしまうことになる、
6代目が死亡すると、やがて7代目将軍も早死にしたので、次には歴史上有名な8代目将軍の足利義政の時代となる。
奥方が日野富子という日本史上の三大悪女(北条政子、淀殿と共に)とされ1400年代後半の室町幕府に多大な影響力をもつことになった。当時の日野氏は公家であった。
富子は義政と結婚すると、男子をもうけたがすぐに死亡し以後5年ほどは子供に恵まれなかったので、9代目の将軍にすべく既に出家していた義政の弟を強引に還俗させてしまう。皮肉なことにその直後に富子は男子を産むのである。
富子は義弟を無視して、我が子を9代目の将軍にしてしまう。そんなことは許されないと有力大名である山名氏が反対し、富子を支持する大名(細川氏)との間に戦乱が起きてしまう。応仁の乱である。11年もの間戦乱に明け暮れた。富子は才覚のある女性で、夫の将軍義政に変わって大いに権力を振るう。各所に関所を増設してその通行料が彼女自身に入ってくるような仕組みを作るなどの蓄財行為を行った。悪女とされる所以でもある。
結局9代目は、富子の息子だったものの、その息子には子供が出なかった。今度は10代目を誰にすべきかとなった。還俗した8代目義政の弟に子供が出来ていたので、10代目としたのである。
これもまた短い期間で将軍職を終わってしまったので、11代目を選ぶのにまた富子が干渉して、戦乱が起こる。1493年(明応2年)のことで明応の乱と呼ばれており、この時から戦国時代に入ったとされる。富子は財力を貯えたことに加えて8代目将軍の義政に嫁して40年近くになるので、かなりの権勢を誇るにいたったのである。
一方の義政は、すっかり政治に関心を無くしてしまい、京都の東山に隠居所を作り俗にいう趣味の世界に浸る。
後には、現在に残る銀閣寺の造営に励む。
義政は為すところがなかったようにみえるが、そ の後の日本文化に多大な影響を与えたのである。
義政の元には、京都の文化人と言われる人々が集まってきていたのでその後の時代に大きな影響を及ぼした。公家に影響を受け華やかさを持つとされる文化を創出した。3代目将軍義満の時代は北山文化と呼ばれ禅を主としたが、8代目義政は銀閣寺そのものに床の間をしつらえるなど日本住宅の原型ともなるべきものができたのである。
参考文献 山元、亘理町史 (記:鈴木仁)