郷土の歴史を遡って知ろう!(第46号)
2022年 11月 16日
令和4年11月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
南北朝から室町時代へ
日本の歴史では、時代が大きく転換する時にはユニークな天皇の現れることが多い。
わけても後醍醐天皇は格別である。時代の歯車を逆回転させようとした。150年にもわたり続いてきた平氏、源氏、鎌倉政権北条氏の武家政治から公家による国家制度に転換させようと試み粘り強く戦ったのである。
半世紀にも渡る南北朝時代が続くことになる。(1335~1392)
後醍醐帝が復権した1333年には忠臣の北畠顕家を陸奥守,鎮守府将軍に任命する。顕家は帝の皇子である義良親王を伴って多賀城に下向することになった。
この時、顕家はわずか15才でしかない。早熟の天才貴公子として知られスピード昇任して、14歳で従3位参議となっている。
しかし着任2年後の1335年に足利尊氏が謀反したと知るや顕家は奥州の南朝に味方する諸勢力を集めた。これには亘理の武石高広(1302年亘理に移住した宗胤の孫)も兵を出した。どの程度の兵力かはわからないが、溯る事300年前に亘理権太夫は私兵800名を養っていたというから、数百名程度の兵は出すことが出来たのであろう。
顕家は、鎌倉を経由し大軍を集め、楠木正成などとも合流し、足利尊氏を打ち破った。
足利氏は九州に逃れ再起を計っていたところ、一年足らずで勢力を盛り返した。後醍醐天皇の治世に不満をもっていた武士団が集まったのである。
足利氏は再び上京の兵を挙げた。顕家には、再度、討てとの帝の命がでたが、今度は勝てないことを自覚した。義良親王を伴い戦場が近くなってから皇子を後醍醐天皇の元へと返した。さらに顕家は、帝に対してこのような事態になったのは帝の政治が良くないからであると6ケ条からなる諫奏文を送った。治世を改めるようにとの内容だが時すでに遅かった。
1337年、顕家は和泉の石津(大阪府阿倍野区)にて戦死する。その時、亘理の武石高広も討ち死したのである。
1338年、足利尊氏は京都の室町に幕府を開設し日本には新体制が出来上がった。
顕家は足利氏と覚悟の戦いに先立ち、本拠地を福島の霊山に移すのである。霊山は険しい山で堅固な要塞である。顕家の死後は弟の顕信が跡を継いで南朝のために尽くすのである。
しかしながら亘理では、戦死した武石高広の息子である広胤の時代になると北朝側より使者がきて、北朝に味方するようになった。広胤は上洛して足利将軍より従来通りに亘理・伊具・宇多の3郡の領地を安堵された。広胤は、この時に武石氏より亘理氏に改名するのである。
さて、室町幕府は順調に機能したかといえばそうではなく、足利尊氏と弟の直義との間に争いが生じた。直義は南朝を頼ったのであるが最後には敗れてしまう。このあたりまでは南朝の存在感があったが次第に衰亡してゆく。室町幕府の三代将軍義光の仲介により1392年に南朝最後の後亀山天皇は北朝と融合して北朝系統による南北朝統一が実現した。

この頃の亘理郡では、1347年に山下の深山山麓に山上院悠山寺が創建された。「山寺」という地名の由来ともなっている。亘理氏は本拠の小堤城(大雄寺)のみならず、領地の各所に館を作っていたとみられる。今次の震災復興で山元町役場より、駅に通じる道路の新設で遺跡の館跡は無くなったが、一族が住んでいたとされる。
ずっと後年の明治政府になってから、歴史の再評価がなされ南朝が正統だったとされるに至った。これは顕家の父親である学者として名の高かった北畠親房が書き残した「神皇正統記」が評価されたのである。当時の楠木正成は大忠臣だったとされ、皇居前に銅像が建てられた。北畠顕家にも霊山神社という壮麗なものができた。明治になってからだけではなく江戸時代に寛政の改革で知られる白河領主だった松平定信が顕家を評価していた。1817年に霊山山頂のすぐ下にあった館跡を整備して周辺に後村上天皇や南朝関係者の碑を建立した。
<余話>
明治政府が南朝を正統としたことで、南朝の後亀山天皇の直系子孫を名乗る男が現れた。
熊沢寛道である。戦前も名乗り出ていたが不敬だとして相手にされなかった。終戦後に米軍占領本部(GHQ)に改めて申し出た。昭和天皇の責任論があり、GHQも興味を示したと
ニューヨークタイムズが報じたので日本の新聞も掲載した。熊沢氏は南朝復興期成同盟を作り、支持者も集まって一時は豪邸に住むようになった。しかし世間からは次第に忘れられてゆく。昭和32年譲位して南朝の上皇を名乗る。だが生活は貧しくなり昭和41年に死去する時は長屋の間借りだった。熊沢天皇死亡の小さな新聞記事があった。
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
山元、亘理町史 (記:鈴木仁)