郷土の歴史を遡って知ろう!(第43号)
2022年 07月 06日
令和4年7月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
鎌倉時代の出来事(2)十文字氏、武石氏
1189年の平泉藤原氏陥落の際に、亘理郡にたどり着いた一族で後に十文字氏を名乗ることになった渡辺左衛門綱安がいる。
阿武隈川を渡った逢隈の十文字に館を構えたのである。館の大きさは南北218m、東西73mの大きなものだった。場所は現在の十文字神社の東側一帯である。
館内には、2本の防御用とみられる溝が存在する。館の北面には深さ3mの濠があり、北西部には沼のある要害をこしらえたのである。
さて、渡辺左衛門綱安は何者かというと、西暦1000年頃に酒呑童子を討伐したことで知られる渡辺綱(元々、源氏の系統だが渡辺氏の始祖となる)の子孫であるとされる。義経に付き従って、平泉に行った一人と言われる。
平泉敗戦後に亘理郡で土着して「十文字氏」を名乗ることになり、それ以来戦国時代の末期まで400年間住み続けることになる。その後、江戸時代には涌谷伊達家の客分となり、明治以降には末孫が東京で会社を創立したり、十文字学園を創設したのは先に述べている。
平成になって、その館跡が発掘調査されたのであるが、往時を物語るものが殆ど出土していないのである。
鎌倉時代に亘理郡を統治したのは武石氏である。
源頼朝は、平泉藤原氏を軍事力で攻め滅ぼそうとして、三方面からの陣立てを行った。その一つが浜街道軍で千葉常胤を総大将とした。その子である6名の男子も付き従った。
平泉陥落後に恩賞として、男子6名にそれぞれ一郡を賜った。次男には相馬郡を、三男胤盛には亘理郡というようなことである。
そもそも千葉氏とは、平家の一族なのである。桓武天皇の子孫が関東に土地を与えられ分家した流れをくむものである。先祖に平将門(939年に天慶の乱を起こす)がいる。
住んでいる土地(下総国千葉郡)から「千葉氏」に改めた。源頼朝が旗揚げするにあたり、千葉氏も有力な支援者となったのである。
さて千葉常胤の三男が「武石氏」を名乗るのは、現在の千葉市武石地区を与えられたからとされる。
しかし、興味ある異説を紹介する。それは、源平合戦の前に同じ源氏である木曽義仲が先に上洛を果たしたので、それを打ち破るべく頼朝が発した軍の中に千葉常胤の三男の胤盛がおり、恩賞として義仲の領地の一部だった現在の長野県武石郷を拝領して武石の名前に変えたというのである。
従って、武石胤盛は武石郷と亘理郡の2つの所領を有することになったというのである。
上の写真は、千葉市武石地区にある真言宗のお寺さん「真蔵院」にある「武石氏の板碑」である。
もともと、このお寺にあったのではなくて、同地区の古い墓地にあったものを、江戸時代中期の1753年に、土地を開墾するために、この寺に移された。
大きい方の板碑は2m以上あり、文字通りの「真言」が記されているとされる。
作られたのは永仁2年(1294年)と記されているようで、胤盛の曾孫になる宗胤が武石氏初代の胤盛の母親の為の供養碑とされている。背の低い碑は武石の文字が読み取れる。曾孫が亘理郡の「小堤城」(現在の大雄寺)に移住してくるのは1302年のことなので、その少し前に、この板碑が作られたことになる。
さて、長野県の武石村のことであるが現在は美ヶ原高原で有名なところで平成18年まで存在していた。合併によって今は上田市に併合されている。
そこには室町時代に「武石」の地名が出て来るが、鎌倉時代に存在したのかは、まだ明らかになっていない。判明すれば上記異説も真実性をおびてくる。
源頼朝の平泉征討に参戦した一員で後の伊達家の祖先になるのが常陸国真壁郡伊佐荘の豪族だった中村氏である。(北条政子の従兄弟になるとされる)
恩賞としていただいたのが「伊達郡」(福島県北部)である。中村氏は「伊達朝宗」と名を変えて初代となったのである。
相馬氏も武石氏も所領を得ながら、現地への赴任が百年も遅れてしまい代官にまかせておいたので所領の拡大はなかったが、伊達氏は活発に所領の運営と拡大に努めており、後に大きく差が開くこととなった。
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
山元、亘理町史 (記:鈴木仁)