郷土の歴史を遡って知ろう!(第42号)
2022年 06月 05日
令和4年6月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
鎌倉時代の出来事(1)七騎の浜、他
山元町の花釜は「七騎の浜」と呼ばれたことがある。
文治5年(1189年)に、平泉が源頼朝によって滅ぼされた時に逃れてきた7人の武士とその家族が住みついたことによる。(以下:山元町「ふるさと地名考」による。
(2011年大震災前の花釜居住の同姓者戸数)
岩佐八郎太左エ門 義適 49名
田所 十郎エ門 国重 17名
太田 平内 光春 6名
菊地 杢野亟 国安 54名
渋谷 長左エ門 重義 12名
鞠子 雅楽助 義信 4名
渡辺太郎左エ門 綱行 80名
子孫の方々は、花釜のみならず広く山元町内、亘理町にも及んでいると思われ、上記の数字はその一部である。7名の方の内で明らかに子孫だと判明.しているのは、岩佐さんと鞠子さんの家があるのみだ。
落ち武者である7名とその家族の方々が、どうして花釜に住みついたのか諸説あるが、その先祖は亘理権大夫藤原経清が前九年合戦(1050~1062年)に、私兵800名を引き連れて参戦した折に、これら7名の先祖も含まれていて、その方々は平泉藤原氏の繁栄と共に留まり、その陥落に際して先祖より伝えられてきた地を目指したのではなかろうか。
<花釜由来記抄録>:「ふるさと地名考」295頁の抜粋を以下に記す。
どのようにして、この地が「花釜」と呼ばれるようになったのかが記述してある。
西暦800年代初頭の大同年間に、名取に住んでいた3人の兄弟が塩釜に行き「塩焼」の修行を行った。その後に長兄が北釜(名取市)、次兄が相の釜(名取市)、そして3男が「南釜」を創設したということである。南釜が後に「花釜」となるのであるが、ここで出来た塩が「華」のようであるとか、あるいは西暦1100年頃に塩を「浪の花」と称するようになったことから、「花釜」に改称されたと言われている。
ただ、現在の地名を見ると相馬に「原釜」がある。4男がいたのだろうかと思う?
初期の「塩焼」は、「藻海式製塩法」と言っていた。
具体的な製法は、古代の製造方法とは若干異なるのかもしれないが、現在、広島県呉市で再現されている。1982年に土器の一部が発見されたことがきっかけである。
海藻を引き揚げ、水分を切ってから再び浸す作業を何度か繰り返すと、塩分濃度が濃く、海藻のうま味を含んだ茶色の海水となる。
海藻を最後には乾燥させて焼いてしまい、その炭灰を濃くなった海水と混ぜて布でろ過する。
その液体を釜で煮詰めてゆくと、塩の結晶が出て来る。現代の塩に比べてまろやかで旨いとされる。この製塩方法は地域で若干の差異があるとされている。
呉市では体験学習館があり、さらにはこの製法を近代化し、栄養満点の高価な塩として販売している方々もいるのである。元祖の宮城県塩釜にもその業者が今も存在している。
さて古代の宮城県の浜では、釜は海岸地帯に自生する篠竹を割り、それを編んでなべ形にして周囲に粘土を塗り固めたものである。
後に釜は、鉄で作られるようになる。直径174cm、厚さ3cm、深さ15cmの平たい大型の鉄釜が作られ、中世にかけて大量生産が可能となった。
3.11大震災当時に花釜の海岸のすぐそばに菊池忠勝氏の家があり、地元では釜前(方言でカンメイ)と言っていた。古代より塩焼きをする釜があったところなのである。その宅地周りを1mほど掘ると黒ずんだ土が出て来る。長い年月に渡り塩焼のカマドから、かき出した残火が炭化して土と混じった土壌である。菊池氏の奥様は村田町から嫁して会計事務所を開いておられたのでご記憶の方も多いと思う。残念なことにご夫妻は津波により亡くなられた。その屋敷跡の近くには、けやきの大木がある。
鎌倉時代の直前である1190年に、花釜の七騎以外に、高瀬の山にたどり着いた平家の落人がいた。藤原四郎右衛門成長の一族である。彼らは地元の人々に農業を勧めた。藤原を名乗っているので、京都の人であったろうとされる。やがて藤原四郎右衛門は農業の恩人として神様に祀られる。「四郎権現様」となる。地元では「おっしょさま」と呼ばれていたそうで、「お四郎さま」のことだと近年になって判明したそうだ。
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
山元町教育委員会「ふるさと地名考」平成6年刊行
呉市「藻塩の会」ホームページ。令和4年5月2日河北新報朝刊
山元、亘理町史
(記:鈴木仁)