人気ブログランキング | 話題のタグを見る

山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

郷土の歴史を遡って知ろう!(第40号)

令和4年4月1日 

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

平安時代末期の出来事(中)

(おご)る平家は久しからず・・」と、物語にも書かれるように、清盛の死と共に平家は急速に勢いを失ってゆく。最初に都から平家を追い出したのは木曽義仲である。

平氏は勢いを盛り返そうと、安徳天皇を伴って福原(神戸)に落ちのびた。

ところが、後白河上皇は今度は乱暴気極まりない木曽義仲の追放に乗り出した。関東の源頼朝は兵を挙げていた。頼朝軍は先に平氏と一戦を交えたことがあった。清盛の孫である維盛を総大将にして、大軍を関東に派遣し対陣したが、平家は一説によると鳥の羽音に驚いたとされ、戦を交えずして都に逃げ帰ってしまった。

後白河上皇は頼朝軍に期待するところが大きかった。源義経を大将とする軍勢は都に上がり木曽義仲軍を破る。この戦いで義仲の奥方で武勇に秀でた巴御前の奮闘が有名である。

都を制した源義経は、勢いを得て平家追討の宣旨を受けて、平氏の立てこもる福原を目指した。そこは要害の地でもあった。背後に六甲山脈を背負い、攻めるとすれば海からしかないような地形だったのである。

ところが、義経は奇襲作戦に出た。不可能と思われていた山を駆け下りたのである。後に「一の谷合戦」と呼ばれるもので、不意をつかれた平家は惨敗して、四国の「屋島」に落ちのびることになった。

義経の追撃は止むことがなかった。

陸上と海上の両方から攻め立てた。陸では地元民しか知らない険しい裏道をたどったとされ、海では、これまた物語で有名な義経軍の「那須与一」が平家の女性が掲げる扇の的に矢を命中させたという逸話がある。

屋島を失った平家は、壇之浦(現在の関門海峡付近)で、最後の決戦を挑むことになった。

ここでも瀬戸内海の水軍を味方につけた海軍力が平家を上回り、平氏は壊滅する。

この時に、安徳天皇の母親である平清盛の娘徳子(建礼門院)は、我が子である8歳の天皇を抱いて海に飛び込んだ。

これをみた源氏の兵士達は、海の中に熊手を突っ込んだ。幸か不幸か建礼門院の髪の毛がひっ掛かり引き揚げられた。しかし天皇はそのまま沈んでしまったのである。

建礼門院は京都の寂光院で天寿を全うすることになるが、平家は完全に滅亡した。その落人は、全国各地の山間僻地に住まい平家の落人伝説の残る集落が各地にある。

由緒正しい落人というのもおかしいが、平氏の重臣であった平(さだ)(よし)が、平家の秘宝や仏像と安徳天皇の遺物をたすさえ、仙台市郊外の人里離れた僻地である「定義山」に落ち着いた。その一族もまたその周辺の山地に住みついた。




郷土の歴史を遡って知ろう!(第40号)_e0102418_09300248.jpg

「定義如来」をいただいたこの地は特殊な温泉の湧出も相まって800年以上の時を経た今も仙台の有名観光地の一つである。現在は市営バスの終点でもある。

さて源平合戦での逸話の一つに、源義経と梶原景時の逆櫓(さかろ)論争がある。戦に当たって船を前後に動かすよう梶原は逆櫓の取り付けを義経に進言するが、義経は前進あるのみとしてこれを受け付けなかった。これは後世の初代亘理領主の伊達成実の毛虫を形取った兜の前立てを思わせることである。

 完璧ともいえる勝利を遂げた義経は、都に凱旋すると後白河法皇は「検非違使」の位を授けるのである。(検非違使とは現代の警視総監に相当する役職)

 ところが、これは鎌倉にいる頼朝を怒らせた。自分に無断で官職を受けるのはけしからんとしたのである。後白河法皇の陰謀で兄弟の分断を計ろうとしたことだとみたからである。義経は直ちに職を辞して、頼朝に弁明すべく鎌倉に向かった。しかし頼朝は義経が鎌倉に入ることを許さずに、郊外の腰越に留めて梶原景時を使者として義経と会見させた。

 梶原は平家との合戦で逆櫓(さかろ)論争をして義経には含みを持っているので、義経が必至で頼朝へ書いた「腰越状」を無視したのである。

 やむなく義経は、京都に戻るしかなかった。だが無位無官となった義経の首を狙い鎌倉の恩賞に預かろうとするものが出てきて京都は騒がしくなる。

 このあたりのことが、当時の公家である九条兼実が日記に書いたものが現在に残っている「玉葉」とよばれ生々しい史料である。

京都に居ずらくなった義経主従は九州に逃れて再起を計ろうと船出するのである。

 ところが、瀬戸内海に出てすぐに暴風雨に遭遇し船は難破してしまう。

 義経一行は、やむなく陸路をたどり、奥州の藤原秀衡を頼るべく北上してゆく。

 日本海側の現在は石川県小松市にある「安宅関」を通過する時の苦労話が、後に歌舞伎の弁慶勧進帳として広く知られることになる。

 苦難の末に平泉に到着するが、朝敵の汚名を着ることになった。

 いずれにしても、源義経は日本史上最大のヒーローである。NHK大河ドラマで取り上げられる回数が最も多いのではなかろうか。2022年も「鎌倉殿の13人」で活躍することであろう。

 この13人外だが、後に亘理郡などを支配することになる千葉常胤も登場してくる。

参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」 

山元、亘理町史など   (記:鈴木仁)   


by tyama2001 | 2022-04-01 00:00 | 亘理・山元ニュース