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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

郷土の歴史を遡って知ろう!(第39号)

令和3年12月1日 

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

http://www.watari-yamamoto.com/


平安時代末期の出来事(前)

源氏と平氏の両者は天皇の子孫であり、武力を持つ存在でもあったのだが、政治的な力はなく、長らく朝廷や貴族の用心棒的な地位に甘んじていた。

しかし新たに「武士」という地位と官位も獲得するのがこの時代である。

そのきっかけが、1155年に始まる保元・平治の乱と呼ばれる戦いであった。

時の朝廷では後白河院と崇徳院が次の天皇を誰にするかで争っていた。警護に当たっていた源氏と平氏の同族内部でも分裂があり親子でも敵味方に分かれて戦わざるを得なかった。 

後白河院側の勢力が優勢だった。平氏の実力者清盛や源氏の義朝がついていた。しかし源義朝の父である源為義は過去のしがらみもあり崇徳院側についた。

戦いは後白河院の勝利となり、源義朝は父親の為義を斬首したのである。

(この辺りは大河ドラマで何度も出てきているので、ご存知の方も多いであろう。)

崇徳院は四国の讃岐に配所となり死後に怨霊になったとされ、関係者が次々と死んだのである。歴史的にも日本三大怨霊(菅原道真・平将門と共に)として知られることになる。

現代になってからも、昭和39年に崇徳院800回忌に天皇は勅使を四国に遣わしている。

さて、この戦乱で源氏側は親子同士が戦ったこともあり、大きく勢力を失い、勝者側だったものの源義朝には焦りがあった。清盛が熊野神社参詣に出ている留守を狙って挙兵するのであるが、義朝の戦力は弱く、実力に勝る清盛に敗れてしまう。

破れた義朝には子供がいた。頼朝、義経の兄弟である。斬首されるところであったが清盛の母である池禅尼が可哀そうであると、清盛に懇願し助けてやった。

頼朝は伊豆へ、義経は幼少時を鞍馬で過ごし、やがて奥州藤原氏に庇護されるのはあまりに有名である。だが20年後の源平合戦の因をつくってしまい、平氏は滅亡することになる。

この当時の奥州はというと、朝廷の混乱を外に平泉の藤原氏は100年に及ぶ繁栄の最中にあった。清衡に続く二代目の基衡は「毛越寺」を建立した。

「毛越寺」は、現在もなお往時の面影をとどめているところがあり、国の「特別名勝」「特別史跡」になっている。名勝と史跡が同時に指定されているのは、全国でここ一か所のみである。

ところで亘理郡はどうであったかというと、平泉藤原氏の父祖が住んでいたところということで、特別な扱いを受けていた「郡」である。

昭和40年頃の河北新報に日本歴史学会元会長の高柳光寿氏が「藤原三代」という読み物を連載していた。亘理郡と平泉との間には使者が行き来していた。亘理からは献上品を持参して、平泉からは下賜品をいただくという往来があったようだ。

現在、それらのことを物語る史料や遺跡は亘理では何も発見されてはいない。

亘理権現大夫経清が拠点としていたところや、平泉時代の亘理に存在したであろう施設などは未だ見つかっていない。唯一その候補として名乗りを上げているのが、山元町合戦原の中島館跡が亘理権現大夫経清の館であったろうと名乗りをあげている。しかし800名もの私兵を有していた支配者の館にしては規模が小さいように感じられる。今後の発見に期待したい。

一方、都では勝者となった平氏一族が栄華を誇るのである。平清盛は官位を極め太政大臣となって、国家権力の頂点に立った。その娘を天皇に嫁して、産んだ男子を次の天皇にするのである(安徳天皇)。かつての藤原氏同様の権力を手にしたのである。

「平家にあらずんば人にあらず」とさえ言われた。

清盛には、奥州にまで侵攻して国家統一というような野望はもっておらず、自らの防御力を高めることと、もっぱら海外貿易に関心が向いていたのである。

奥州藤原氏に対しては、御身は奥六郡の主であると認めていた。

だが、京都は元々要害の地ではなく、外から攻められると弱い地形である。そこで清盛は都を福原(現在の神戸)に移したのである。六甲山脈を背にして敵からは攻めにくく、また瀬戸内海に面しているので、中国との貿易にも適している。

しかし、京都の公家たちは猛反対した。福原は田舎過ぎると移住を拒否したのである。最後には、娘を嫁にやった高倉天皇までものが反対して、清盛は福原遷都を一年足らずで諦めざるを得なかった。

それでも清盛は、瀬戸内海一円に強大な勢力をきづき上げた。厳島神社に壮大な神殿を奉納した。



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 当時にあって、平家のあまりの独善的な繁栄ぶりを苦々しく思っていたのが朝廷側である。全国には源氏の残党勢力もまだまだ残っていたので、後白河法皇は密かに平家追討の令旨を以仁王に持たせて諸国を駆け巡った。

京都に近かった木曽義仲が挙兵してまたたく間に、最初に京都の占領を果たすのである。ところが義仲は源氏の一族ではあったが、従う兵は木曽の山中育ちなので、都では傍若侮人な乱暴狼藉を働き、これまた手に負えない混乱をきたすことになった。朝廷側は、関東で兵をあげている源頼朝に期待するしかなくなっていた。

参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」 

山元、亘理町史など   (記:鈴木仁)   


by tyama2001 | 2021-12-07 11:28 | 亘理・山元ニュース