平安時代中期の出来事(後)
「前九年合戦」は、源頼義・義家親子が出羽国の盟主であった清原武貞の助勢を受けて安倍一族に勝利した。
戦後処理の一環として清原武貞は、戦利品ということでもあるまいが、亘理権大夫藤原経清の妻と息子の清衡を受け取り、自分の後妻となし、7才の清衡を養子とするのである。亘理権大夫の妻は安倍氏の娘でもあるので、これは清原氏が奥州の安定を願ってのこととされるが、さらなる合戦の原因となってゆく。
清原武貞には、先妻との間に「真衡」という長男がいた。
そこに武貞は、後妻となった亘理権大夫の妻、すなわち安倍氏の娘との間に男子「家衡」が産まれるのである。
そんなこんながありながらも、20年ほどが平和裏に過ぎた。
ところが、清原武貞が没して「真衡」が清原家を相続すると、真衡には男子がなかったので養子に平氏出身の「成衡」を迎え、その妻に源氏出身の娘を添わせて清原氏の家格を高めようとしたのである。真衡の父母が異なるとはいえ弟でもある清衡・家衡にとっては面白くないことである。
源頼義―義家・・義朝―頼朝(鎌倉幕府創設)
義経(頼朝の弟)
*安倍頼時―貞任(前九年合戦で敗戦し四国に配流)
亘理権大夫藤原経清
|―清衡―基衡―秀衡―泰衡
*妻(安倍頼時の娘)
|―家衡
清原武貞―真衡――――成衡(養子)
妻(源氏の家系)
※赤色の人物3名が、後三年合戦の当事者である。このうち最後の決戦を行う清衡と家衡の母親は同じである。安倍頼時の娘なのである。
後日「真衡」の叔父が、「成衡」を養子に迎え妻をも娶ったことを祝い、砂金を持参し祝いの言上をしようとしたのだが、その時、囲碁に夢中だった「真衡」は砂金をそのへんに置いてくれと言い、叔父を無視してしまったのである。怒った叔父は「清衡」と「家衡」を味方につけて合戦におよぶことになったのである。1083年のことである。
時に「真衡」は、陸奥守となっていた源義家に清原家後継者の承認を得るべく多賀城に出向いたのである。莫大な献上品を贈呈して帰途についていたのだが途中で真衡が急死するという事態が起きてしまった。
清原一族内の反乱ともいうべき、叔父・清衡・家衡などの連合軍は、真衡軍の残留部隊と戦うが敗れるのである。しかし総師の真衡を失った残留部隊は次第に崩れてゆく。
最終的に勝利した清衡と家衡には、陸奥守源義家の裁定で、岩手県中通りの奥六郡の地を半分ずつ受領することになった。
ただ、これには家衡が不満を抱くことになる。清衡が清原氏の血統から外れていることもあったのだろう。
1086年に至り、家衡が清衡の館に急襲をかけたのである。「清衡」本人は生き残ったが妻と子供は焼死してしまった。
怒りに燃えた清衡は反撃にでる。幸いに源義家の助力を得ることになった。
一方の家衡は、堅固な要塞である「金澤柵」(現在の秋田県横手市)に籠って戦うことになった。
激戦となったのであるが、清衡・源義家の連合軍が戦力において勝り、家衡側は滅亡するのである。歴史上、「後3年合戦」と言われるようになる戦いであった。
戦勝した源義家は京都に行き、陸奥と羽州の戦乱を鎮定したと報告し、褒賞を得られるものだと期待したのである。奥州一帯が源氏の支配下になったものと信じた。
しかし、朝廷側はこれは源義家の「私戦」であると断じてしまったのである。陸奥守を解任された。
源義家は、やむなく戦に加わった坂東の武者たちに対して私費で戦功金を出したのである。
事情を知った武者たちは大いに感激するのだった。代々に伝わったのであろう。およそ百年後に挙兵することになった源義家の玄孫になる源頼朝が挙兵するときには坂東武者たちが、頼朝の元に参集するきっかけになったのである。
さて、源義家の退場に伴って藤原清衡は、奥州、羽州全域の覇者となった。
南は福島県白河より青森(昔は外ヶ浜と称す)までが、勢力範囲となるのである。
清衡は、平泉に本拠地を構えることになるが、これは白河と外ヶ浜の丁度中間点に位置するのである。
平泉に壮大な都市を作った。柳の御所が政務を司り、中尊寺を宗教の中心とした。
これは、戦乱で失った清衡の妻子や多くの戦死者を弔い、仏教による統治を目指したものとされる。
現在に残る国宝の中尊寺梵鐘には「北夷の酋長、敬って申す・・・」という文言が刻まれている。当時の朝廷に対して、敬意を表しておいた方がよいという都の学者の撰文を採用した。後年になって金色堂に残る清衡のミイラ骨格を調査結果、蝦夷人ではなく、京都人と同じであると鑑定されている。
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
山元、亘理町史など (記:鈴木仁)