郷土の歴史を遡って知ろう!(第37号)
2021年 10月 01日
令和3年10月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
http://www.watari-yamamoto.com/
平安時代中期の出来事(中)
亘理権大夫藤原経清が活躍する時代である。
1014年に生まれたと推定され、1062年に「前九年合戦」に敗れ斬首された。
元々は関東の上総(現在の千葉県北部)に住んでいた。ところが1031年に同地の豪族である平定常が反乱を起こす。これを鎮定すべく17才の経清は父親の藤原頼遠と共に定常と戦うが破れてしまう。この時にかけつけたのが源頼義で定常の乱を平定する。頼義は経清にとって恩人となるのである。

源頼義は多賀城に入り陸奥守となったものの、東北で最も豊かなのは現在の岩手県中央の奥六郡の地であった。ここを押さえていたのは当時の豪族安倍頼時である。前の陸奥守であった藤原登任との間で安倍氏は1053年頃より鬼首の辺りで小競り合いを起こしていたが大きな戦いにはならなかった。
源頼義は赴任するや、当然ながらこの地を狙った。しかし安倍氏は徹底した恭順の姿勢を貫き通したのである。業を煮やした頼義は1056年に阿久利川(現在:一迫川)で謀略をしかけた。頼時の息子である安倍貞任に自分の陣営が襲われたと宣戦を布告した。ここから本格的な戦いが始まることになった。
(古今を問わず戦争を仕掛けたい方は、謀略事件を起こすのが常である。近代になって1937年日本陸軍は中国で盧溝橋事件を起こし、日中戦争が起こり第二次大戦へとつながってゆく)
さて、源頼義は配下にあった亘理権大夫藤原経清や伊具十郎平永衡などを引き連れて戦陣へと向かう。当初の戦いには勝利するものの問題が起こる。
亘理権大夫と伊具十郎は、安倍氏とすでに交流があり、その娘を両者が娶っていることであった。頼義はそういうことも十分に承知のうえではあったが、両者は自分の配下であり、戦の上で何の問題もないと考えていた。
これを見た経清は身の危険を感じたのである。自分の妻も安倍氏の娘であり、何時、疑いをかけられるかもしれないと安倍氏側に寝返るのである。
この時、亘理権現大夫藤原経清は、800名の私兵を従えていたとされる。

これだけの兵力を養うには、多大な財力を必要とする。亘理郡にいたわずかな期間で、これだけの富をえるのは並大抵のことではない。
下記、参考文献の著者である菊池文武氏は、その富の源泉が鉄生産にあったのではないのかとみている。
この経清が寝返った1056年に、後に平泉初代となる「藤原清衡」が経清と安倍氏娘との間に誕生するのである。
経清には、諸説あるが先妻との間に2人の男子があり、その子供達も合戦に加わったとされる。先妻の男子2人の内、一人が生き乗り後に白石氏の祖になったとされている。白石氏は後年、戦国時代になると伊達氏の麾下となり登米を与えられ登米伊達氏を名乗る。
亘理権現大夫藤原経清が、公式の記録に登場しているのが奈良の興福寺再建時の寄付者の名簿である。興福寺は藤原氏一族の氏寺である。幾度かの火災がありその都度再建されている。寄付者に「従五位下亘理権現大夫藤原経清」の名前がある。
従五位とは、当時にあっては「郡長」の地位を表している。
さて、経清が安倍氏側に寝返ったことで、戦力が拮抗し長期戦になってゆくのである。
しびれを切らした、源頼義・義家親子は出羽(秋田)の豪族である清原氏に助力を頼むことになる。
次第に追い詰められた安倍氏一族は、衣川の館で最後を迎えることになるが、源義家と
安倍貞任の間にかわした次の詩が有名である。後世の誰かが作ったものであろうが、現代に残っている。攻め立てる館に向かって。
源義家 : 衣のたてはほころびにけり と叫ぶ
安倍貞任 : 年を経し糸の乱れの苦しさに と返した。
「衣のたて」とは衣川の館であり、また衣の盾としての鎧のほころびをかけたもの。
対して、長い年月が過ぎて鎧の糸も擦り切れた貞任が返した。安倍氏が降伏した後に
藤原経清は斬首されたが、貞任は四国に配所となる。世に言う「前九年合戦」である。
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
山元、亘理町史など (記:鈴木仁)