郷土の歴史を遡って知ろう!(第35号)
2021年 08月 01日
令和3年8月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
http://www.watari-yamamoto.com/
平安時代初期~中期
古代から疫病というと「天然痘」が主なものだった。感染力・致死率共に非常に高い。日本では疫病の退散を願い「牛頭天王社」が全国各地に数多く設けられ江戸時代の末期には数千社に及ぶとされた。
昔から、牛を扱っている人に天然痘が少ないことは欧州や天竺(北部インド)では知られていた。一度牛痘に罹かると天然痘の免疫ができるということである。
ずっと後の世になって1801年にジェンナーが牛痘を人間に接種することで予防できることを発見した。急速に普及して1980年には世界から感染症で唯一、天然痘を撲滅したとの発表がWHO(国連保険機構)から発表された。
インドでは牛を聖なるものとして扱われている。ヒンズー教の教えからといわれるが牛痘関連のことが由来ではなかろうか。
現代では科学技術に若干の遅れがでているインドは、今回のコロナに対して、全身に牛糞を塗りまくると言う迷信まがいのことも出ているようだ。
ワクチンの語源は、英語などの基になっている「ラテン語」で牛を示すワッカ(vacca)から来たとされる。ジェンナー自身が名付けたとも。
日本の「牛頭天王社」は神仏習合されたものであり、明治維新になってから神仏分離令がでて、神社になったものやお寺になったものがあったことは前号で述べた。
平安初期の大きな出来事は貞観11年(869年)の大地震と大津波である、
多賀城国府から都への報告によると、死者千名、牛馬にも多大の被害ありとされる。
当然ながら亘理郡(山元町、亘理町)にも大きな被害があったはずで、亘理郡衙の逢隈三十三間堂からも見えたはずであるが、その記録はなく、多賀城報告の千名の中に含まれているのであろう。
この頃、紀貫之編纂の「古今集」に次の有名な歌がある。亘理郡衙の官人の作とされる。
「阿武隈に霧立ちくもり明けぬとも君をばやらじ待てばすべなし」
意訳: 阿武隈川に霧が立ち、あたりがくもり、夜が明けたとしても、あなたを行かせたくはありません、一度待つ身となれば、もうどうしようもありませんから、という恋歌
古来、阿武隈川は歌枕としても知られている。
岩沼の竹駒神社は、承和9年(842年)に小野篁が陸奥国司として赴任した際、京都の伏見稲荷を勧請したものである。浜通りを岩沼に向かったが吉田の近辺で道に迷った。その時、童子が現れ道案内してくれた。別れに童子は狐の使いであると変身して消えた。
御礼として建てられたのが、尊久老稲荷神社の由来である。
天慶2年(939年)に関東で平将門の乱が起きる。
平将門は桓武天皇5世の子孫に当たる。桓武天皇には40人もの子供がいたとされる。朝廷では孫の代までは面倒を見るが、それ以降の子孫は地方に下って自活するようにとなったので「平」の氏姓をもらい地方豪族となったのである。
上総の国(現在の千葉県北部から茨木県南部)を所有することになるが、やがて一族内に抗争が起きることになる。それらを制したのが平将門である。
関東の多くを手中に収めると、将門は「新皇」を名乗ったのである。これには朝廷も捨ておけないと討伐軍の準備にかかったが、現地にあった藤原秀郷がいち早く、将門を打ち遂げた。
この時に、将門の部下たちは北へと逃れた。阿武隈川を前にして、ここに留まろうと現在の逢隈に住みついた。旧家には、これを先祖と伝えられる家がある。
余談になるが、桓武天皇から6代下った清和天皇も30人もの子供がいたので、子孫は野に下ることになり「源」の氏性をもらうことになる。後に両者は次第に力をつけて、1100年代には有名な源平合戦が起きることになる。
後代になっても、源平の両氏は名門として藤原氏と並び権威を持つにいたる。
徳川家康は由緒正しい者だと「源氏」を名乗り、伊達政宗は「藤原氏」の末裔であるとしている。
この時代(西暦930年頃)に記された古文書には、亘理郡には4つの「郷」ありとしている。坂本・菱沼・日理・望多である。
「郷」というのは、住居が百戸程度あるところを呼んでいた。昔の一戸には多くの家族がいたので住人は郷に千~2千名程度いたのだろう。
菱沼は、現在の山下を指すとみられている。当時は低湿地で沼が多く、菱がたくさんあったのではなかろうか。貴重な食糧でもあったろう。
現在山元町の深山山麓を菱沼の郷と呼んでいる。
山下には「頭無」という奇妙な地名がある。これは水が湧く時に普通は出水場所がわかるので、そこを頭と呼ぶが、大水の時にはどこが頭なのかわからない状態になってしまうので、そのような地名ができたとされている。泥沼の地名もある。
延喜15年(915年)には十和田湖の大噴火があり、東北一円に火山灰が降り注いだ。冷害による大飢饉などが起こり、多数の餓死者が出て不安定な世の中でもあったとされている。
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
山元、亘理町史など (記:鈴木仁)