飛鳥時代の亘理郡
西暦600年代を飛鳥時代と呼んでいる。亘理郡では坂元地区および山下合戦原で鉄の生産が盛んになる。
それを裏付ける重要な発見があった。3.11大震災の復興事業に絡む発掘調査で明らかになった。坂元の「熊の作遺跡」および「合戦原遺跡」からである。
この時代の亘理郡は「思」と呼ばれていたことが「先代旧事本紀」に出ている。当時の陸奥の国府は、現在の仙台市太白区郡山にあったことが知られている。その時に亘理郡衙がどこにあったのかは謎であった。よく知られている逢隈の三十三間堂官衙遺跡は、その後の奈良時代に陸奥国府が仙台から多賀城に移ってからの設置である。
「熊の作遺跡」の発掘では、太い柱跡が多数見つかり大型の建築物があったことがわかる。これが飛鳥時代の亘理郡衙ではなかったのかと推測されるに至った。
遺跡からは「坂本願」と壺の底に書かれた破片が見つかった。祭祀用に使用したものであろう。
坂本氏という豪族がやってきて支配していた。後に「坂元」の地名ができる由来ともなった。坂本氏の身分はベルトに付けていた「石飾り」から郡長の地位にあったとみられる。では、坂本氏はどこの出身かというと、琵琶湖の南端にある現在は滋賀県大津市坂本地区ではなかったかと筆者は比定している。後世に明智光秀の居城として知られることになる坂本城があった。ここには日吉大社がある。全国4千社の日吉・日枝・山王神社の総大社でもある。いにしえの昔より坂本が存在していたことが伺える。
現在の大津市坂本地区の人口は1万人を超えており、山元町に匹敵する。
琵琶湖の坂本を有名にしたのは、最澄が開山した比叡山の入り口でもあることだ。亘理郡坂元のルーツがここにあるとすれば興味深いことである。
「熊の作遺跡」には鍛冶場の跡もあった。何よりも大きな発見は、当時の住民移動を示す木簡の出土だった。通常、木材は朽ちて腐ってしまうのだが、環境条件が幸いした。低湿地になっていたところにあった。1300年もの間残っていたのである。
文字を解読した結果、その時代まで特定できるこれまた貴重なものだった。
(下図は宮城県教育庁文化財保護課HPより)
信夫郡は現在の福島市とその近郊である。安岐は、今の福島市と川俣町の境界あたりの地域であった。
安岐里の「里」は西暦701年~717年の間にしか使われなかったものなので、年代特定ができ、東北では最も古い木簡であることがわかった。当時、福島から40km離れた坂元まで4名の人が、おそらくは鉄の増産のために派遣されたことを示すものであろう。(図は、出土した木簡、赤外線カメラで撮影したものさらにそれを読み下したものである)
これらの人々、さらには高位、高官だった人達もこの地で没したのであろう。 埋葬のための、横穴古墳が数多く存在する。
最大級の古墳群が山下の合戦原で見つかっている。現在の国立病院機構宮城病院の北側にある丘陵から52個もの横穴古墳が見つかり、そのなかには線刻画のある古墳があった。相当な身分の人を埋葬したのだろう。線刻が何を表すものかはわかっていない。
また、亘理町桜小路にも同時期の古墳が多数存在する。先年道路工事に先立って発掘調査が行われた。26基が確認され、蕨手刀や勾玉などが出土した。先に確認されているものと併せると51基に上る。桜小路の古墳群は南北に延びており全長は700mほどに及ぶ。蕨手刀は従来、ヤマト王権に帰属した蝦夷の族長に与えられるとされていたが、その人たちも古墳を持つことができたのか謎がまた増えたとされている。
山元町の古墳は製鉄事業と結び付けられるが、同じ時代に亘理町に住んでいた人たちは、どんなことをやっていたのだろうか。今後の解明が期待される。亘理町桜小路の古墳群は1945年の終戦以前に半数は開封され、浅い洞窟みたいになっていた。町場に近いので我々は防空壕だとして米軍の空襲時に使用した。終戦後は、ホイド(乞食)の住居となっていたこともある。
さて、飛鳥時代に話を戻すと「駅家制度」が全国に配備された。当時の30里(16km)毎に駅家が設けられた。近年話題になったのが岩沼で発掘された「原遺跡」である。古文書に「玉前駅家」と記載されているが場所が不明だった。それが常磐線を亘理方面から阿武隈川を渡ったところに存在する「原遺跡」が柱跡などから「玉前駅家」であろうとされるに至っている。(駅家とは、馬の乗り換えや宿舎に使われた所)
「玉前駅家」の次は、仙台市郡山にある陸奥国府となる。柴田町にも「玉前駅家」の一つ前であったろう駅屋がある。偶然かもしれないが、坂元の「熊の作遺跡」は「玉前駅家」から16kmのところである。計画された場所だったのかもしれない。参考文献 菊池文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
各種の発掘調査資料より (記:鈴木仁)