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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

郷土の歴史を遡って知ろう!(第30号)

令和2年12月1日

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

 http://www.watari-yamamoto.com/


古墳時代の終焉から飛鳥時代へ

西暦500年頃になるともう前方後円墳のような墓は作られなくなり横穴式の古墳となる。墓にも時代の流行がある。

亘理郡では逢隈の竹ノ花横穴古墳がある。大型の「単独横穴古墳」で全国でも珍しいものである。(高さ5m×幅7m×奥行8m)



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一般には横穴古墳「群」と言われるように、多くの横穴が密集している場合が多い。 (山下の合戦原では50基を超える当時の横穴古墳が発見された)

竹ノ花単独古墳の主は地元の豪族だったのか、大和王権の人かは判明していない。(昔は蝦夷穴と呼ばれていた)

その頃の日本は記録されたものや文物に乏しく漠然としたところがある。外国からは「倭」と呼ばれていた。

西暦400年頃作成のもので、北朝鮮に近い満州で発見された高句麗の「好大王碑文」に「倭」が沿岸部を荒らしているというような記述がある。世界最古級の碑文の一つである。

その頃、日本の東北地方は未開の地であったが日高見国があったとされ、それも.次第に大和王権に浸食されてゆく。茨木県の鹿島神宮が「武」の根源たる神様であり、その旗を押し立てて北上し各所に鹿島神宮を建立してゆく。亘理郡の北端に近い三門山頂に鹿島3社が存在した。「鹿島天足和気神社」「鹿島緒名太神社」「鹿島伊都乃比気神社」である。そのうち伊都乃比気神社は現存していない(合祀されてしまったとみられる)。鹿島は祖神様であり、下の文字は子神様を表す。三門山頂からの見晴らしは極めて良く、仙南東部一帯から仙台までを眼下にすることができる。ここに鹿島三社を祀り軍事拠点にしたのは妥当である。(現在はアンテナが立ち長距離無線通信の拠点となっている)。

文献上に東北が出てくるのはヤマトタケルノミコトの「東征」からである。古事記は「倭建命」で日本書記では「日本武尊」とされている。これらの書物編纂は奈良時代に入ってからの西暦720年であり、ヤマトタケルが実在したとしても、そこから遡る事400年も昔の西暦では350年頃のことを記している。

「鹿島天足和気神社」は、創建が景行天皇40年(西暦111年)とある。ヤマトタケルは景行天皇の息子であるから、「東征」が実際にあり鹿島三社を押し立てたとしてもおかしくはない。

但し西暦年がおかしい。これは日本での紀元元年(神武天皇即位)を西暦前660年としたことにある。歴代天皇の寿命を百歳を超えるものとしないと辻褄が合わなくなるという矛盾が生じてしまった。これは西暦540年(第29代欽明天皇即位)の年に、それまで長年続いた異常天候や疫病が収まった年とされ、仏教の伝来と相まって一大慶事の年であった。 

中国から伝わった暦法干支によると、1200年毎に歴史的な異変が起こるとされるので数えると西暦前660年に神武天皇が即位したとするのが妥当だろうと日本の紀元とした。

戦前は戦意高揚もあって「紀元」が大いにもてはやされた。第二次大戦直前の昭和15年(西暦1940年)が紀元2600年に当たるということで盛大な祭典が催され、歌も作られた。

さて、話を飛鳥時代に戻すと聖徳太子が活躍するころである。西暦600年に法隆寺を建立し現在に残っている。この頃はまだ「天皇」という呼称が存在せず、豪族の首長である「大王」と呼ばれていた。聖徳太子も後世の造語であり、厩戸皇子と記録されている。つい数年前に教科書も正式な名称に戻すべきだとの議論が国会でおきたが、現代人は一万円札のシンボルなどとしてあまりになじみ過ぎているので結局はさたやみとなった。

この頃は推古天皇(女帝)の時代だったので、摂政として聖徳太子が縦横に活躍した。中国へ遣隋使を送ったり、17条憲法も定めた。

当時は大王家といえども、絶対的な権力を保持していたわけではなく、各豪族間の争いが激しかった。憲法の第一条に「和をもって尊と為す」と書かざるを得なかった。

ついには、大王と並び立つ勢力を持つに至ったのが「蘇我氏」である。大王(朝廷)側は全国に統一した律令制度を敷きたがったが、豪族側は自分の領地に手をつけられるのは当然ながら反対である。

そのいがみ合いが頂点に達したのが、西暦645年の朝廷側によるクーデターであった蘇我氏暗殺である。ここにおいて朝廷は日本の全実権を握ることになった。

日本最初の年号「大化」が使われる。それ以前は大王(天皇)の在位年数を記したものである。天皇という呼称が用いられるのは、天武天皇(680年頃)からである。

力を得た朝廷は663年に外国遠征をおこなった。朝鮮半島の百済と同盟関係にあったので5万人もの援軍を派遣して、唐と新羅の連合軍と戦ったが全滅するという大惨敗を喫した(白村江の戦い)。これが契機となったのであろうか。国内経営に全力をあげることになった。未征服地の東北北部に目が向けられることとなった。

武器の製造には「鉄」が欠かせない。現地調達するために良質の砂鉄が得られる現在の南相馬市から、亘理郡にかけての一帯が「製鉄所」となった。

その北端が吉田の中原であった。最近も民家に接する裏山の斜面から炉の跡が見つかった。

現代風にいえば重工業地帯だったということになるが、古代ではいずれも人力によるもので、鉄が溶けるまで温度を上げるのに炭火にフイゴから風を送り続けること3日間、休まずに足踏み式の板を交互に踏み続ける重労働でもあった。


 次31号は令和3年4月1日となります。



参考文献  亘理町史(上巻)、山元町史、その他      

                           (記:鈴木仁)

by tyama2001 | 2020-12-03 09:50 | 亘理・山元ニュース