<戦国末期から江戸初期の頃へ>
鎌倉時代より室町時代を経て戦国期へと、亘理郡をおよそ400年間支配していたのは、千葉の豪族だった武石氏(後にこの領地の地名にちなんで「亘理氏」と改めた)である。
鎌倉幕府が平泉の藤原政権を滅亡させた戦いで、恩賞として亘理郡などを与えられた。同じ戦いの時に伊達氏も恩賞地に福島県北部の伊達郡を与えられ、その当時の鎌倉時代には領地・勢力ともに、亘理氏も.伊達氏も.同じ程度だったのである。
しかし、伊達氏は着々と領地経営に励み、9代目の政宗の時代に飛躍的に領土を.拡大した。ずっと後年の仙台藩祖・政宗は、この英傑だった先祖の名前にあやかったものである。 (仙台藩祖・政宗公は、初代朝宗から数えると14代目になる)
一方の亘理氏は内紛が起きてしまい.衰退をたどることになった。伊達氏11代目の稙宗の時代には、亘理氏は伊達氏に.完全に屈服することになる。亘理氏は.稙宗に娘を差し出し、その生まれた男子を自分の後継ぎとするのである。「綱宗」である。だが早死にしたので次の子供である「元宗」が亘理氏を継いだ。「元宗」の子で伊達稙宗の孫となる「重宗」もまた伊達家の大きな戦力となった。「綱宗」「元宗」の兄弟が伊達郡から亘理に出発するに際して稙宗は二人の従者を与えた。その一人が千石大炊助(当NPO理事長千石信夫の遠祖)である。
日本の戦国時代が終息したのは豊臣秀吉の時代である。その時、大名として伊達家初代となった藩祖・政宗は本拠地福島から岩出山に転封させられた。天正19年(1591年)のことであった。宮城県中央部から福島県中通り一帯を支配することになったのである。各地に重臣を配置するのだが、亘理郡には、「片倉小十郎」が配され、亘理氏は涌谷に移された。
亘理の南隣には、相馬氏がいて「稙宗」の時代から激しく戦っていた。戦国時代が終息したとはいえ、まだまだ油断のできない状況であり、相馬氏と対抗するのに、亘理氏に全幅の信頼を置くというわけにゆかなかったのだろう。
涌谷に移った亘理氏は、その後「伊達」の姓を賜り完全に伊達氏の一族となったのである。
時は移り明治となってから、涌谷伊達氏は亘理氏の姓に戻った。400年間も亘理郡を支配した殿様なのであるが、不思議なことにその墓が一つも見つからないのである。亘理の歴史上、最大の謎として残っている。涌谷に運んだわけでもなく、涌谷の郷土史家も殿様の子孫もわかりませんというだけである。(但し、山元町小平の鳳仙寺に亘理氏より分家の墓がある)
亘理に来る以前の武石氏の墓は千葉市の寺に残っている。東京と千葉を結ぶ京葉高速道路にも「武石インター」という名称が残っている。
亘理郡には、戦国時代まで亘理氏と並びもう一人の豪族がいた。十文字氏である。亘理郡逢隈の十文字に館があった。(現在の十文字神社付近)先祖は源左衛門綱安である。源義経の平泉下りに京都から同行してきた。綱安は平泉陥落の際に落ち延びて、亘理郡十文字に館を定めたのである。綱安は鬼退治で有名な渡辺綱の子孫であると称していた。
現在は大雄寺となっている亘理氏の城だった「小堤城」と直線距離にして10kmほどしか離れていないところで、十文字氏は対峙していたのである。小さな勢力だったので、海岸線を行き来して相馬氏と結び亘理氏を牽制していたのである。だが、戦国末期に伊達成実が十文字氏を攻めて滅亡させたとされる。どのような因果なのか十文字氏は涌谷に落ち延びて、涌谷伊達氏の客分となり明治まで留まるのである。
明治以降に東京に出た十文字氏は、十文字学園という学校を開設して女子教育に貢献することになる。現在の亘理にもその卒業生がいる。
さて、豊臣秀吉の死後に関ヶ原合戦が起こり(慶長5年:1600年)勝利した徳川方についた政宗は、仙台に居城をもらい宮城県と岩手県南部一帯を領有することとなり、伊達家重臣の配置換えが行われた。亘理には伊達成実である。新地までの30余村の領地で後に2万4千石となる。成実は伊達一門にあってもきっての猛将といわれたが、「成実記」という戦国末期の伊達軍の行動を記録しており、今や第一級の史料とされている。武勇のみならず、文筆にも優れた武将だったのである。
亘理領地に包含されるように坂元村のみが大條氏4千石をもらう。大條氏は、以前に紹介したように伊達家9代目政宗の弟を祖先としている。坂元は蓑首城と言う。明治以降に東京に出た大條氏一族の一人は、世田谷区に日幸電機を起こす。現在は亘理町吉田さらに山元町坂元にも工場をもつ。近年、山元町長を勤めた大條氏も一族のひとりである。
これまで現代から500年ほどを遡る戦国期まで書いてきたが、次号からは一挙に1500年ほどを飛んで、亘理郡で製鉄が始まったころのことから書き下してくることにする。
文献 山元町誌 亘理町史上巻 (記:鈴木仁)