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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

郷土の歴史を遡って知ろう!(第25号)

令和2年7月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長 千石 信夫 

                           http://www.watari-yamamoto.com/


江戸時代(4)唐船番所

 江戸幕府はキリシタンを厳しく取り締まった。外国人の出入りは長崎の出島だけで許され国内沿岸地域での.接触を禁止された。そのためには外国船の発見が必要であるとして、日本各地に「唐船番所」が設けられた。

(当時の日本人の世界観というのは、外国とはすなわち中国であり歴代王朝の中でも盛名の高かった「唐」が外国を表すものとなった。欧州人は、南からやってくる野蛮人のたぐいということで「南蛮人」と区分されていた。ただ、将軍家や大名クラスは世界情勢にも通じていたのだが、一般人に世界は、わからないことだった)



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 さて、仙台藩では「唐船番所」が五か所に設けられた。最南端が山元町坂元にある。磯浜漁港の南西方向にある。海岸近くに突き出た小高い丘の先端にある。高さ20mくらいしかないのだが、眺望がよく晴れた日には牡鹿半島から金華山までもが肉眼でもくっきりと見える。ここに遠眼鏡(望遠鏡)を設置した。誰が監視にあたったのかというと、仙台藩直属の足軽詰所が丸森町の金山にあり43名がいた。そこから2名で1組となり5日間の交代勤務だった。
 設置されたのは正保3年(1646年)のことである。以来、遠眼鏡に映るのは海と和船のみでほぼ100年近くにわたり外国船を見つけることは無かったのである。
 ようやく元文4年(1739年)に至り、異国船団3隻の通過をみるのだった。これはロシアのベーリング卿が率いるものだった。幕府に通商を求めるも拒否されて帰国の途中だった。あらかじめ船が通ることは知らされており、確認したようなものだった。それを知らせるべく早馬が仙台へ向かった。ベーリング卿は、最北の海を見ようとカムチャッカ半島沿岸を北上してロシアとアラスカの間に海峡があることを知った。近代人では最初の発見であり、自分の名前が海峡名として地図上に記載されることになった。

 後に「大航海時代」と言われるように、先進各国は競って太洋に船を出した。航海技術が大幅に進歩したからである。
 有名なのは、イギリスのジェームス・クック船長で、太平洋の真ん中にハワイ諸島を発見することになる。1800年代まで7つの海を支配したとされる大英帝国ができる。
 


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 これに負けまいとロシアも盛んに動いていた。船以外にも陸上から千島列島を南下してきた。
 徳川幕府は、これに危機感を抱いた。蝦夷(北海道)は日本の領土であると認識しながらも、領主は函館近くに松前藩があるだけで、北の守りは極めて薄い。
 そこで幕府は、東北地方の大名に警備を命じた。仙台伊達家は北海道の南東海岸と南千島列島が当てられた。1799年に出兵を開始して1821年には最大2千名もの仙台藩士が駐屯している。択捉島にも600名もの藩士が渡ったが、寒さに対する備えが弱かったのであろう。わずか半年余りの間に100名以上もの死者を出して、この島を引き上げた。
 しかし、その後も幕府からの命令で北海道の三分の一に相当する海岸線の警護を仙台藩が担うことになった。北海道総括支所ともいうべき「陣屋」を白老町に設けたのである。(現在は史跡に指定)。そこには塩釜神社もあり仙台の人たちの心のよりどころとしたのだろう。

今は立派な資料館がある。

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 南下を続けるロシアとのいざこざは、さらに続き幕府はとうとう条約を結ぶことにしたのである。1855年に「日露和親条約」を締結した。国境線を択捉島と次の島の中間点とした。これが現在も北方領土問題として未解決の歯舞群島と色丹島さらに国後島、択捉島が日本固有の領土であるとする根拠ともなっている。
 仙台藩の出兵時に亘理伊達家や坂元大條家から参加しているのかどうかは定かではない。ただ北海道の情報は得られていて、後の亘理藩士移住地の選定とも関連すると考えられる。江戸幕府は鎖国政策を取っていて、日本の船が外国には行けないようにと、甲板のある船の建造を禁じたのである。 大きなものでも千石船と言われるもので、帆が一枚のみで、多数の漕ぎ手が動かしていた。

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米を主とする日本の沿岸地域の交易のためである。荒浜港もその拠点の一つだった。この程度の船だったので難破することも多く、遠い中国やフィリッピンとか、ロシアのカムチャッカ半島まで流されるものも多かった。難破の末に世界一周をしてしまったという、石巻の若宮丸の乗組員が有名である。また、ロシアにそのまま永住してしまった方々もいる。

文献  山元町誌  亘理町史上巻   (記:鈴木仁)

by tyama2001 | 2020-07-01 00:00 | 亘理・山元ニュース