郷土の歴史を遡って知ろう!(第24号)
2020年 06月 01日
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江戸時代(3)伊達騒動と亘理郡
江戸時代(3)伊達騒動と亘理郡伊達騒動の主役である「原田甲斐」実母の墓が亘理・山元町共同火葬場の西へ約500mの小高い山の頂にある。
事件後に原田一族の男子はことごとく斬首されたが、実母は亘理伊達氏にあずかりとなった。
彼女は不名誉この上ないと絶食して果てた。享年74歳。原田甲斐の実母は、伊達政宗と豊臣秀吉の側室である「香の前」の間にできた娘なのである。
どのような経緯があったのかというと、戦国時代末期の豊臣政権初期の段階で、政宗がまだ宮城県一帯を支配していない頃だが大崎・葛西一揆が起きた。現在のおおさき市のあたりだ。
この一揆は政宗が仕掛けた陰謀であるとの噂が広がってしまい、秀吉よりどういうことか説明に来いといわれ、京都の伏見城へ政宗が重臣を引き連れて参上した。その中に茂庭周防(後におおさき市松山に1万石を領する)がいて、茂庭の言上を聞いた秀吉はすっかり気に入ってしまった。直属の家来にしたくなり、伏見に大名並みの屋敷を与えると言われた。しかし茂庭は二君にまみえずとして断った。
あきらめきれない秀吉は、「囲碁」で決着をつけようとした。負けたら秀吉に従い、茂庭が勝ったら側室の一人をくれてやるというのである。この頃の戦国武将は皆な囲碁が強かった。信長・秀吉・家康・信玄など、現在のアマチュア高段者並みの実力があったらしい。
茂庭は負けたら切腹のつもりでいた。しかし秀吉に勝ってしまった。
側室筆頭の淀君をもらうわけにもゆかないので、末席の「香の前」を頂戴した。
だが、茂庭は「香の前」をそのまま政宗に差し出したのである。秀吉との関係もあるので私有すると政宗からあらぬ疑いをかけられぬと思ったらしい。「香の前」は、政宗との間に女子1人と男子1人を生んだところで、政宗は「香の前」をあらためて茂庭につかわした。茂庭はその子供をも自分の子供として引き取ったのである。
その女子は長じて、原田家に嫁し「原田甲斐」を生んだのである。
そもそもの伊達騒動の発端は、仙台藩3代目の綱宗が酒色におぼれ「不作法の儀あり」として幕府より若くして強制的に隠居させられたことによる。
仙台藩そのものが危機となった。長男の亀千代君はまだ幼少であるが、4代目を継がせるべく、仙台藩の重臣14名が揃って連判した嘆願書を幕府老中に提出して認められた。その中に伊達安房(亘理)や奉行職にあった坂元・大條氏などの署名もある。
幼君の後見には、一関当主で政宗の息子で一族筆頭の伊達兵部がつき、奉行には原田甲斐が当たることになった。
近年になって伊達騒動が注目されたのは、昭和45年にNHKの大河ドラマ「樅の木は残った」で、原田甲斐があたかも己を犠牲にした大忠臣であるとされたことによる。原作者・山本周五郎の小説が見事すぎて、従来の定説・史実が逆になるような現象が起きてしまった。
作者の山本の先妻が亘理の出身なので、仙南地区の歴史にも興味を持って歩いていたようだ。船岡城址に現在の柴田町の観光資源でもある「樅の木」の若木を見たのだろう。
時あたかも、亘理では「町史」上巻の編集作業が行われていた。またNHKでは大河ドラマの関連資料を全国的に調査していて、青森に住む人が大量に史料を保管しているのがわかった。志賀さんという方で亘理伊達家の首席家老だった志賀六郎兵衛の子孫である。明治初期に北海道に移住したものの、その後青森に移った。亘理からも史料調査隊が出かけたのである。伊達騒動に関するものも多く残っていた。
注目されたのは、甲斐が亘理に対して借金の保証人になることを依頼した文書である。自分(甲斐)は誰もが知る「すれっからし」(貧乏人)である。今般江戸屋敷詰めを仰せつけられたが、2千両は必要である。京都の豪商から借用するが、自分の領有する5千石の分限では千両しか借りることができない。残り千両の保証を亘理にお願いされたものだった。
亘理から返事は出さないままだったが、やがて借用書そのものを船岡から持参してきて、承諾を求められた。たまたま、志賀は江戸に行き留守の時だった。応対に当たったのは家老の一人である佐野甚解由だった。彼は借用書に押印したのである。後に志賀から咎めを受けた。彼の言い訳は亘理伊達家の若き3代目未亡人と甲斐は「首尾之有る中」でという口上が文書に残っている。(承諾しないわけにはゆかなかったというのだ)
原田甲斐は、派手好きで金離れがよかったようだ。現代でいうプレーボーイ的なところがあったのだろう。ただ甲斐の家臣たちにも惜しみなく金を与えていたようだ。慕われてもいたのである。甲斐の没後7回忌が東陽寺で行われた際に.散り散りになっていた百余名の家臣がお寺に集まってきたのである。お互いに連絡を取り合って.いたのだろう。
伊達騒動そのものは、仙台藩内の登米伊達氏と涌谷伊達氏との境界争いに端を発している。
仙台本藩の後見役である伊達兵部や原田甲斐には調停能力がなく、登米伊達氏は幕府に訴えた。関係者が幕府の酒井老中の屋敷に集められ、これから評定という時に甲斐が刃傷に及んだ。当時、借金地獄に苦しんでいた甲斐は、さらに責任を負うのではと.考えて行動したのであろうと推察される。
文献 山元町誌 亘理町史上巻 (記:鈴木仁)