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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

郷土の歴史を遡って知ろう!(第23号)

令和2年5月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長 千石 信夫 

                           http://www.watari-yamamoto.com/


江戸時代(2)大條道直公(坂元領主:伊達家重臣)の活躍


 いつの時代にも最高権力者・権威者となると必ず付きまとうのが世継ぎ問題である。

 江戸時代の徳川家も、代々の後継者に苦労した。ところが11代将軍・家斉には子供ができすぎてしまった。16人の側室に53人もの子供を産ませ、半数は夭折したが、成人に達した女子には嫁入り先を、男子には将軍家にふさわしい大名家の養子先を見つけなければならないという、新たな問題が出てきた。

 ちょうどその頃に、仙台の伊達家では11代目の藩主斉義公が、文政10年(1828年)若死し世継ぎ問題が出ていた。そこに幕府が介入してきた。有力な養子先を見つけたのである。だが、仙台藩にとっては大問題だった。

 政宗の血統を守らなければと、時の幕府筆頭老中であった水野忠成を説得しなければならなかったのだが、並み居る重臣たちは尻込みした。

 その時、敢然として藩の若年寄りの地位にあった坂元領主の大條道直が立ち上がった。

 説得が成功して12代目藩主には、政宗に最も近い血筋である登米伊達家から斉邦が迎えられることになった。  

 その功績に対する褒美を問われ、青葉城内にある「茶室」を所望した。

      

この茶室は、もともと豊臣秀吉の京都伏見城にあったものを伊達政宗が拝領したといういわれを持ったものである。

大條道直は、その茶室を大條氏の仙台屋敷である現在の国際センターのところに移築した。

この茶室は、そのご数奇な運命をたどる。

明治維新後になると、政府は軍用地として大條氏の屋敷を取り上げ、仙台市支倉に家を与えたので、この茶室もそこに移転した。

さらに昭和17年になると、戦時下ともなり今度は、大條氏の居城であった坂元要害の三の丸跡地に移築されたので、仙台空襲による火 

災からは免れた。



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 しかし令和の現在、この茶室は上記写真の如き無残な姿をさらしている。往時への再建を果たすべく、いろんな活動が行われている。

江戸時代にこの茶室が仙台の大條氏邸内にあった時には、茶会のみならず仙台の文人たちが集まり論談した一種の文化サロン的な役割も果たしたとされる。

仙台藩四大画家の一人である東東洋など、江戸時代中期から後期にかけての墨客などが多数訪れていた。


東東洋の絵

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大條氏は、同じ亘理郡内にあっても伊達成実以降の

亘理伊達家に比べて知名度こそ劣るが、古い由緒をもった家柄なのである。

伊達本家自体の発祥は、1189年に源頼朝が平泉の藤原氏と戦った際に戦功があったとして、現在の福島県北部の伊達郡(現在は伊達市)に領地をもらった。後の戦国時代を経て.62万石となる.大名ではなく、当時は東北の一豪族に過ぎなかったのである。

ところが、室町時代に現れた9代目の政宗(我々が知る仙台藩祖ではない)が、英傑であり周囲を次々と進攻して領地を拡大し奥羽の有力大名となったのである。

その政宗が弟を分家させ、伊達郡の梁川に領地を与えたのが大條氏の始まりなのである。

ずっと後年になり、戦国時代も終盤を迎えた頃に、本家の16代目である輝宗が長男の梵天丸が幼少の頃から人に秀でた資質を備えているのを見て、9代目の如く活躍することを願って元服時「政宗」の名を与えたとされる。

大條家は戦国時代を通じても、さしたる武勲を上げることもなかったが、伊達家の分かれでもあり江戸時代になると坂元に4千石を頂き仙台本藩の節目に活躍しているのである。

大條氏一族の末裔で歴史的遺物を多数所有する方がおり、それらの公開が検討されている。

余話

時代が停滞を続けると、いつの世にも賭け事が幅をきかせてくる。現代では「IR」というカジノ、一種の「賭場」をつくり日本の再活性化を図ろうとする試みがある。

江戸時代の後期にも、現代と似たような状況があったと.思われる。渡世人が亘理に来て.「鉄火場」を開設したのである。公認だったのかおそらくは隠れて行われていたのだろう。

しかし、この賽の目にはまった大豪農がいた。数十町歩を所有し500年にも渡って続いてきた家である。それらの田畑・財産をまき上げられるのに、いくらの時間もかからなかったようだ。その方は.自宅とその周辺が残ったに過ぎなかったのである。

 それからもう2百年に近い時が過ぎて、渡世人の7代目くらいになる。事情を全く知らない人は、この家が多くの土地を有することから昔からの名家だと思ってしまっている。しかし血は争えず一族の中には競馬に夢中な困った人.もいるのだということだ。

参考文献  山元町誌   郷土わたり(121号)      (記:鈴木仁)


by tyama2001 | 2020-05-07 09:07 | 亘理・山元ニュース