令和2年4月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長 千石 信夫
江戸時代(1) 幕末のこと
歴史上の転換点となった年が過去に幾度かあるが1868年(明治元年=慶応4年)も、そのひとつであった。600年近くも続いてきた武家社会である幕府が日本を支配した封建制度が崩れた。
朝廷(天皇)に権力を取り戻そうとする動きが、公家の岩倉具視を中心に活発化して長州藩を巻きこんで、後には薩摩藩も加わり日本中が騒然となった。京都守護職だった会津藩など幕府を擁護する側は当時の首都であった京都において社会秩序を保つ為ではあったが、長州などに徹底した弾圧をおこなった。
風雲急を告げる情勢は、仙台藩主に変わって江戸の警備に当たっていた亘理の伊達邦実も肌で感じ取っていた。薩摩藩が武力蜂起すべく乱暴狼藉を江戸市中で行っていたからである。遠く仙台でも議論が沸騰していた。
幕府は、前年の1867年の10月朝廷に大政奉還して、形式上は王政復古となっていたが実権は幕府が握っていた。
仙台藩は、どうするのか態度を明確にするように朝廷側から圧力がかかった。藩主の慶邦自ら上洛して説明することを求められた。しかし藩主は健康上のことなどで動かなかった。あまりに時期を失してはということで、坂元の領主であり仙台藩の奉行職にあった大條道徳が建白書を持参して京都に向かった。運命の年、1968年1月だった。
しかし時、すでに遅く京都の鳥羽・伏見において、戦いがはじまっており「錦旗」を掲げた薩摩・長州軍が会津などの軍勢を破り、一挙に会津は朝敵となってしまうのである。 勢いを得た「朝廷軍」は江戸を目指した。3月には江戸城の無血開城に至る。
会津は必死に、朝廷に敵するものではないと訴えたが、聞き入れてはもらえない。
同じころ、仙台にも九条総督をはじめ官軍参謀がやってきて、会津討伐を督促した。
仙台藩はやむなく軍勢を整え出陣した。亘理軍は稲荷山に集結して湯の原口へ向かった。会津藩と仙台藩は、いわき方面で先陣同士で戦闘がありわずかだが死者もでた。
そのうちに、この戦いはどうもおかしいという機運が東北各地の藩に出て来た。奥羽の各藩が一同に会して、話し合いをしようということになった。これに尽力したのが仙台藩士の玉虫左大夫である。後世には仙台の坂元竜馬ともいわれる俊英であった。1860年の咸臨丸で西欧に派遣された勝海舟など77名のうちの1人である。
5月に奥羽各藩家老が白石に集まり、最終的には越後の長岡藩も加わるなど31藩もの大同盟ができあがった。盟主には江戸にいた輪王寺宮を迎えた。(明治の前の孝明天皇の従兄弟である)
同時に「奥羽列藩建白書」を朝廷に提出した。我々は「王政復古」を支持するものであり、朝廷を敵とするものではない。鳥羽・伏見の戦いも偶発的なものである。九条殿下の命令によって仙台藩は会津と一戦を交えたが、藩主の松平容保は恐縮している。徳川氏も謹慎している。皇国の末長い繁栄を願っております。このような事情を踏まえて穏便なる処置をお願いしたいというようなもので宣戦布告とは異なるものだった。
しかし、折悪しく官軍参謀だった世良修蔵が、奥羽は皆敵であるとして軍勢の増援を要請する密書を届ける途中で奪われ世良は惨殺されてしまった。
これがきっかけで、奥羽列藩同盟は軍事同盟と化したのである。
官軍側は会津への攻撃を強め8月には陥落する。
仙台藩もいわき口などで戦わざるを得なくなった。小さな藩には応援の軍勢を差し向けた。しかし、近代装備に勝る官軍にはたちうちできず敗戦に次ぐ敗戦だった。劣勢の奥羽同盟は寝返る藩が出たりで決裂も同然となった。
相馬口でも敗れた。内陸部では現在の丸森町南部の旗巻峠で激戦となったがこれも敗れた。浜通りの戦場は駒ヶ嶺となったが、雨のために火縄銃が使えなかったことが原因とされるがここも敗れ軍議所を坂元館に移して、挽回作戦を立てると同時に、講和の意志のあることを伝える為に山下の百姓、長左エ門・彦兵衛が大活躍することは、山元町役場内にある「記念碑」に詳細があるので省略する。仙台藩主伊達慶邦は降伏を決意することになった。
降伏式は、亘理城において行われた。賊軍とされた。勝てば官軍だったのである。
仙台藩の総責任は、但木土佐と坂英力の2人が、江戸から東京と変わる明治となってから、切腹することによって終結した。亘理の戦死者は城址の西端に石碑がある。坂元では、徳本寺に葬られている。
参考文献 仙臺藩戊辰殉難者五十年弔祭誌(大正7年)山元町誌 亘理町史(上巻) (記:鈴木仁)