令和元年11月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
http://www.watari-yamamoto.com/
明治時代(3) 初期の頃
1868年(明治元年)薩長土肥藩などの官軍に東北諸藩が敗北して、仙台藩は大混乱に陥った。62万石を28万石に減らされた。それもごくわずかの期間で、まもなく廃藩置県が追い打ちをかけたのである。
「亘理郡」もまた目まぐるしく変わった。県の南部一帯が1年おきくらいに白石県となったり角田県となったりの思考錯誤があり、明治4年に仙台県に吸収され、翌5年には宮城県となる。ただ一時的に明治9年に半年ほどだが、亘理・宇多・伊具・刈田郡など県の南部が磐城県(福島)に編入されたことがあった。再度宮城県という名前に戻るが、その時に何故か宇多郡(新地・駒ヶ嶺)のみが、福島県になってしまうのであった。
「郡」の範囲も当初は伊具郡と亘理郡が一つの時もあり郡長が角田にいたこともあった。宮城県は、郡名を固有名詞で呼ばす番号を付していたことがあった。亘理郡は第19大区とよばれた、そして小さないくつかの村を併せて小区とした。中央からきた役人には、その方がわかりやすかったのであろう。また小学校の開設も番号順で整理しやすかったと思われる。
いつの時代も同じであるが、政府が機能するには、「税金」が必要である。江戸時代には年貢米があったが、近代国家日本としてはそうはゆかない。「土地」に税金をかけることにしたのである「地租」と呼ばれる制度ができた。その評価額に毎年2.5%の税金を課した。 土地の所有権を証明する「地券」が発行された。
土地の所有権を政府が保証する変わりに、その税金を納入しなさいというものである。
この制度は明治6年に発布され、当初の税率は3%であった。これでは高すぎるというので、明治10年に2.5%に引き下げられた。それでも高率である。ずっと後年の昭和の終戦後にこれらは、固定資産税となる。
この高すぎる税金が、明治15年頃から盛んになる「自由民権運動」の基になったという説がある。前頁の写真は、「大日本帝国政府」の用紙で宮城県が発行した「地券」である。(磐城国亘理郡神宮寺村の耕地である。持主が同国同郡小堤村鈴木傳六である。明治9年に発行され翌10年より地租が引き下げられたことが記されている)、<興味深いのは(磐城国)という表現である。明治9年は上述の如く亘理は一時的に磐城県となっているが当時は昔からの常用語として「磐城」に問題がなかったのであろう。
地券の発行に当たっては、当時は役人の数が少なかったこともあり、「自主申告」であったというのも面白い。
当時の日本は近代国家としての各種制度・政府機関・地方統治体制・憲法・法整備などを、明治23年までに整えることに目標をおいていた。
そんな国家スケジュールのもとで、明治22年には亘理郡の30を超える村が、6町村に統合された。
明治14年には10年後の国会開設を決定した。それと共に政党が興った。中央では板垣退助が明治の元勲(近藤勇を敗北させる)ではあったが自由民権を唱えて自由党を結成し各地に同士をつのった。(板垣は土佐藩士であり、薩長に牛耳られることをきらったこともあったのだろう)
福島県では三春出身の河野広中が中心となり、その力は亘理郡にもおよび、亘理の有力者たちはこぞってそれに名を連れた。その後にこれらの自由民権運動を抑え込むことがおこった。福島県知事になった三島通庸の弾圧は有名である。宮城県は松平正直知事が任命されてきており、この人は福井藩士の出身で土佐の坂本竜馬をよく知っていたとされ、自由民権運動を抑え込むようなことはしなかった。
明治23年の国会開設に当たり、第一回衆議院選挙が行われた。小選挙区制度で亘理郡は県南の各地を含む「宮城2区」であった。現在の選挙区である宮城3区から岩沼と名取を除いた範囲だった。
当時、選挙権があったのは高額納税者にのみ限られていた。国税を15円以上納めている富裕者に限られていた。投票総数は千票程度しかなかった。成人の1%くらいである。
郡別の対抗戦みたいなものにもなった。だが、亘理郡の武者伝二郎氏が当選した。以降連続して4回の当選をはたしている。
さて6町村となった亘理郡は、一般人にどのような町村税金を課していたのであろうか。
亘理町の明治24年では一等級の税金から四十等級の税金まで細かく規定されていた。1等級は山田周蔵(50人前:38円)、27等級(一人前)、40等級(3銭8厘)
一人前とは、米を入れる俵4表を編めるとか、農作業基準で細かく定められていた。
参考文献 山元町誌 亘理町史(下巻) (記:鈴木仁)
この資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。