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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

郷土の歴史を遡って知ろう!(第18号)

令和元年9月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫

明治時代(1) 鉄道開通

 文明開化で日本人は沢山の恩恵を受けたが、最も大きかったのは鉄道ではないだろうか。
 それまで移動手段として人々は歩いていた、荷物は馬車を使うしかなかった。東京(江戸)までは7日間を要した。亘理―仙台も5時間以上かかった。
 明治5年に東京―横浜間の鉄道が開通し、主要都市に向けて徐々に広がっていった。
 仙台まで東北本線が開通したのは明治20年のことである。常磐線はさらに10年遅れて明治30年になる。
 鉄道路線をどういうルートにするのかとか、駅の設置について様々なことがあった。
 仙台駅も本来なら、長町駅を出てから人家の少ないところを通過して、現在の宮城野原貨物駅(楽天球場付近)に予定されていた。
 しかし、市街地を遠く離れたところに設置されては仙台の繁栄はあり得ないとして、当時の政財界を上げて猛烈な陳情を行った。その結果、現在にみるような線路がグニャリと曲がる形で市街地に入り込み仙台駅ができた。

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 すなわち、当時からすでに町の繁栄と鉄道は切っても切れない関係にあることが認識されていたのである。
 さて、常磐線の場合はどうであったのか、上野から始まり最終区間である相馬―岩沼間のルートを旧国道6号線沿いに坂元・山下の市街地近くを通す案があった。しかし残念ながら鉄道開通に関する地元の熱意がなかったとされる。
 鉄道事業は、現在のごとくJRに一本化したものではなく、工事会社が別にあった。
 そうなると、建設は勢い楽な方向へと流れる。人家の無いところを直線で結ぶことになってしまう。駅の数も少ない方がよい。
 新地駅を出てから坂元駅そして浜吉田駅まで直線で11km、さらに直線が続き亘理駅は荒浜街道の鳥屋崎付近、さらに真っ直ぐに進み阿武隈川を渡ってから、東北本線の岩沼駅に曲がるという設計図のようだった。

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 しかし、それでは困ると猛反対して亘理市街地に持ってくるべく、時の町長武田万次郎をはじめとして、亘理の商工人が一体となり陳情を重ねた結果、浜吉田駅を過ぎてから亘理へと大きく曲がる現在の如きルートができたのである。
 山下村では駅を作ることもなく、50年もそのままに放置されてしまったのである。
 戦後の昭和24年に至り、ようやく山下駅ができたのだった。
 新しく駅を作るには、工事費用のみならず単線なので駅の部分を二股線路にしなければならず、周辺に広い土地を必要とするのである。
 山下駅開設には、大きなエネルギーが必要であった。リーダーに立ったのは、その周辺に土地を持った「斎藤忠人」であった。郵便局長をしていた。彼の所有する土地を無償で提供した。郵便物も鉄道で運ばれてくるのだから駅がないのは不便なことこの上ない。
 駅ができてずっと後になってからのことだが、彼の功績を顕彰しようという機運が出てきて、胸像が立てられた。しかし不幸にして3.11大震災により倒されてしまった。
 新しい山下駅は、ずっと内陸部に移設され高架の線路が建設され、従来のルートは忘れ去られたようになっている。新駅の周辺は「つばめの杜」として山下の中心街を形成しつつある。
 さて旧山下駅の恩人たる「斎藤忠人」の胸像は、旧駅舎トイレの裏にポツンと置かれたままである。大震災後8年半が過ぎた現在、あまりにもわびしいことである。
 山元町役場も新築になり、目に見える形で復旧・復興が進んでいる現在、胸像はしかるべき場所に設置しなおして、その歴史をきちんと伝えるべきであろう。
 鉄道が通らなかった不便さはどこでも同様であった。福島まで来ていた当初の東北本線の計画は平坦地である角田・丸森地区を通る予定だった。ところが、白石・大河原・船岡などの誘致活動が勝ったのである。日本でも有数の急勾配がある国見峠を蒸気機関車があえぎながら走っていた。
 角田・丸森地区では、桑の生育に影響があるので反対したとされるが、負け惜しみでしかない。当時すでに鉄道の優位性は広く知られていたからである。桑に影響の無い事も先に鉄道が通ったところで実証済のことだった。
 稀には情報に疎く、蒸気機関車反対のところも全国の一部にはあったとされる。
 さて、亘理では東北本線に10年遅れだったので、その間は鉄道駅のあるところまで行かなければならない。現在の常識では岩沼駅であるが、実際には槻木駅が近いのである。逢隈の箕輪峠を越えての道が意外と近くトンネルも作った。亘理は槻木駅管内であった。
 つい最近の平成27年頃だった。農業センサスという調査票が亘理の各区長当てに来た。それに最寄りの駅が槻木駅とあり、そこまで何分かかりますかという設問があり、区長さん方は驚いたものだった。当時の名残りが農水省の文書にあったということになる。槻木の方々で、亘理は近いという認識をもった人々も多かったとされる。

参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)(記:鈴木仁)


  の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。   

    

by tyama2001 | 2019-09-01 00:00 | 亘理・山元ニュース