人気ブログランキング |

山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

郷土の歴史を遡って知ろう!(第17号)

                    令和元 年8月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫

大正の頃(5) 電灯がつく

 現代人は近代文明の種々な恩恵を受けているが、電灯もその一つである。
 明治12年(1890年)に発明王エジソンのなかで最も偉大だとされる「白熱電球」を作りだした。瞬く間に世界中に普及していった。光りを出すフィラメントに、京都の嵯峨野にある竹が最も良い材料だったというのは、あまりにも有名な話である。
 東京では電気を使用した「アーク灯」の時代があり道路を照らしていたが、明治19年に電灯がとって変わった。仙台では紡績工場に電動モーターを採用し、その駆動に明治21年に三居沢水力発電所が出来た。電灯のことが伝わると、市内には火力発電所ができ、現在の大倉ダムのあたりにも水力発電所ができて、仙台では多くの家庭に電灯がともった。
 亘理郡に電気がくるまでには若干の時間を要した。大正に入る前年の明治44年(1911年)に亘理の町中に電灯がついた。
 阿武隈川を電力の電線を渡すのに苦労したのである。岩沼の玉崎と亘理逢隈の田沢との間に巨大な電柱を建てた。これが現代の如く鉄骨を組み立てたものか、巨木を立てたものなのかを筆者は知らない。
(ご存じの方がいたら教えてほしい)東北電力もわからないの回答。 旧国道6号線沿いにコールタールを塗った木材の電柱が立てられ、亘理の南町まで電気が通じた。亘理で最初の契約戸数は380戸であった。電気料金は10燭光(10ワット)の月間契約で55銭だった。
 (当時は1円で米が6Kg買えた時代である)当時の家屋の、天井に近い柱には、電線を導くための、円筒の小さな白い碍子が2m程度の間隔で取り付けられていたのを記憶されている方も多いであろう。
 現在の如く、塩化ビニールに覆われた並行電線などの無い時代だったので電線が2本、別々の碍子をたどって、天井からぶらさがる電球ソケットへとつながった。 電気が当時の吉田村を通り山下村へ通じるのには、さらに時間を要した。大正10年1月1日が開通日だった。
e0102418_11020300.jpg

 亘理では、国道沿いでなかった家には、なかなか電気が行かなかった。他家の軒下に碍子をつけさせてもらったり、自費で電柱を立てたりの苦労があった。
 しかし、ランプでの生活から電灯へは夜の生活を一変させたのである。
 その後、明治41年(1908年)にタングステン線によるフィラメント白熱電球が発明され電灯の寿命は飛躍的にのびたのである。
 亘理に電灯がついた明治44年頃には、このタングステン電球だったのかもしれない。この裸電球はとにかく熱かった。昭和30年頃でも同様な電球だった。100ワットともなると素手で掴むことができなかった。
 光に変換される電力はごくわずかで、大半は熱のエネルギーとして使われ効率の悪いことはなはだしかった。
 その後に蛍光灯ができ、同じワット数ながら格段に明るかった。 現在はLED電球へと進歩して、寿命は比べものにならないくらいに長くなったし、電力料金も格段に安くなった。究極の明りではないかとさえ思える。
 昭和の終わり頃まで、電柱の上には大きなトランスがのっていた。これも徐々に進歩して、今は当時とは見違えるほどに小型化された。家庭用に電圧を変換するトランスも熱をもつので放熱するために外観がヒダヒダのものだった。さらに冷却オイルには有害なPCBを含むものだったのである。これも現在は丸いつるつるのトランスとなっている。
 下に紹介するのは当会理事長千石信夫宅にある「明治末頃」との記述がある、山下村牛橋の写真である。その頃山下には未だ電気が通じていないはずだが、電柱らしきものが見えている(楕円内)。拡大すると電線のようなものまで見えるのである。公式記録では大正10年に山下の町場にようやく電気が通るのでそれより10年も早いミステリーな写真である。

e0102418_11021552.jpg


参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)    (記:鈴木仁)  

 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。   


by tyama2001 | 2019-08-01 00:00 | 亘理・山元ニュース