元年年7月 1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
大正の頃(4) 養蚕 <後>
日本の養蚕業が全盛期に向かった大正期に、最も問題とされたのは品質のバラツキであった。宮城県内には多数の蚕種製造業者がいて、病気を持った蚕種や粗悪品も出回っていた。
これらの業者に、病原菌もなく優れた蚕種を製造させるために「原蚕種」を配布するのが喫緊の課題とされたのである。
この「原蚕種」製造所の設置を巡って、県内各地から猛烈な誘致の陳情合戦が行われた。 養蚕学校があったことにもよるが、時あたかも宮城県会議長が亘理の武田吉平(酒造業者)だった。その手腕もあって、大正6年11月の県議会において、「宮城県原蚕種製造所」が亘理に設置することが可決された。
大正8年に亘理町館南の養蚕学校近くに250坪もの大型木造建築物ができた。蚕室、事務室などを含むものである。その後、大正13年には名前を「宮城県養蚕試験場」と改めた。
原蚕種製造以外にも蚕業技術員の講習や試験研究なども併せもつことになった。
さらに昭和7年に「原蚕種国家管理法」が施行され、蚕種検査室なども設けられた。
下の写真帳は、その頃に発行されたものと思われる。
「宮城県蚕業取締所亘理支所」の文字が見える。難しい漢字で、現在とは逆向きで文字がかいてある。また右の写真は多数の女子検査工員が拡大鏡を用いて、蚕種紙を検査している様子である。
この頃になると、京都からも高級技師が赴任してくるようになった。
赴任者の中には、家族ともどもそのまま亘理に住み着いた人もいた。
その技師一家の息子さんには、嫁さんは京都人でないといけないと、わざわざこの田舎に輿入れいただいたご婦人もいる。
亘理町館南一帯は、宮城県きっての一大養蚕基地となったのである。旧亘理城(要害)の大手門から南西の広い土地に蚕業関連の各種建物が存在していた。官舎もあった。ここで昭和11年に生まれ仙台に住む知人は、わずか生後数ケ月で父親が転勤となったが、亘理に限りないシンパシーを持っているとのことだった。
仙台から通勤していた県庁職員の方が、そのまま亘理に婿入りしてしまった人もいる。
話がやや昭和に逆戻りしてしまったが、大正初期(2年)の亘理郡での蚕種業者と金額は以下の通りで、山下村に勢いのあったことがわかる。 ( )内は製造者戸数
山下村 30,598円 (14戸)
坂元村 263円 ( 1戸)
亘理町 2,265円 ( 3戸)
吉田村 -----
逢隈村 4,652円 ( 8戸)
荒浜村 -----
亘理郡合計 37,769円 (26戸)
ここで吉田村が抜けているのは統計ミスだったとされる。明治22年に亘理郡に近代養蚕をもたらしたとされる吉田村の鈴木吉太郎さん他1軒が、昭和12年まで絶えることなく操業を続けてきていたというのである。
さて「蚕種」とは何かということだが、文字通り蚕の卵で、それを厚手の和紙に多数産みつけた「蚕種紙」というのが販売されていたのである。大きさは現代のA4版程度であった。この卵から生まれるのが「さなぎ」である。さなぎの保育器であり成長の場所でもあるのが 蚕棚と呼ばれるのが下の写真である。
竹で編まれた直径1m程度、高さ5cmくらいの薄い籠である。ここで「さなぎ」は桑の葉を与えられ育っていく。
ある時期になると、さなぎは白色から微妙に色が変化して糸を吐き出す時期がきたことがわかる。
自らの体の周囲に繭を作っていくのである。 繭の光沢が品質を決めた。この段階で普通は仲買人に買いとられ、伊具郡の金山にあった佐野製糸場に運ばれた。馬の背に荷物を振り分けて、山下村の明通峠を越えて行くのである。この生繭は時期が遅れると中のさなぎが羽化して飛び立つときに繭が壊れるので、速やかに高温で処理して中のさなぎを殺すのである。1個のさなぎからは約1kmもの糸がとれ、これを数本より合わせて1本の絹糸となるのである。
この仲買人には、当初亘理郡でも名のある商人がやっていたが、大変な利益が出る事から我も我もと新規参入が相次いだことより、大正末には免許制となった。
「蚕」のことは、現在では忘れられつつあるが、伝統を残さんと丸森の大張小学校では教育に取り入れられ、皇居では上皇后美智子さまが育てられていることがニュースになっている。
参考文献 山元町誌 亘理町史(下巻) (記:鈴木仁)
この資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。