令和元年 6月 1日
NPO法人
亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
大正の頃(3) 養蚕 <前>
大正時代に日本の主力産業は養蚕業であった。輸出総額の三分の一を占めていた。生糸である。農業のかたわらで糸を作るための軽工業が盛んだった。
亘理郡でも同様に養蚕業が盛んだった。農家の半数が蚕を養っていた。副業としてはもってこいで女子や老人でも作業ができ、貴重な現金収入を得ていたのである。
作業小屋のみならず、母屋にも蚕を置く家が増えて、この頃に建築された家は大型のものが多い。逢隈・亘理・吉田・山下・坂元各地区にはお城の如き大きな家があった。
桑畑も多く、畑地の半分が桑だった時代もある。今なお、荒れた畑に桑の木が自生しているところがある。桑畑があれば誰もが、繭を生産できたのである。
当時の繭相場は、1石(10貫:37.5kg)が米3石(450kg)であるとされた。 1坪(3.3㎡)の繭小屋があると1貫の繭が出来たとされる。
4名の家族が50貫の繭をつくっていた。すなわち5石であり米に換算すると15石の生産であった。結構な金額になった。(写真は桑を食べる蚕と、繭3個と桑の葉である)
蚕は昔からあったが、仙台藩伊達家の4代目すなわち1700年頃に京都から織物師を招き養蚕業を積極的に推奨するようになった。
仙南地方では、伊具郡丸森の金山地区が先進地域だった。蚕の敵はネズミなのである。ネズミ退治に猫を大事にしてきた。このため丸森町全域にわたり猫神社といわれるものが、百にもおよぶ。石に猫を掘った猫石神や神殿を備えたものもある。
だが亘理郡では、ほとんどみない。確認されているのは逢隈の二体のみとされている。これは亘理で蚕業が本格的に盛んになるのが明治期以降であり、もはや近代養蚕業といわれるもので、猫神様に頼る時代ではなくなったからである。
明治10年に仙台市大町に養蚕試験場ができ、12年には「養蚕組合規則」ができ、1郡を1区としてお互いに連携を取り合い、何事も秘匿せず生産と品質の向上に努めるというような内容である。これに基づき明治19年には「亘理蚕糸組合」ができる。
しかし、その後生糸の暴落や組合内部のまとまりを欠いたことで30年に解散してしまう。
養蚕の技術が十分に発達していないことも大きな原因だった。
小堤村(旧亘理)の大半は地味が悪かった。それでも自家生産する人たちがいたのである。 亘理郡の生糸の主力生産地は明治当時では、坂元本郷、鷲足村、長瀞村、浅生原村、高瀬村、八手庭村、真庭村・・など現在の山元町が主力だった。生産量は年間284貫だった。
さて、明治30年に組合が解散したときにその組合長である渡辺作十郎は、原因は教育にありと感じた。奇篤な人だった。亘理郡長に「簡易養蚕学校」設立の申し出を行い、300円を寄付金として設立資金にしてほしいと申し出たのである。郡長は文部大臣に学校設立の許可と同時に国庫補助金を要請したのである。明治32年に「亘理郡立養蚕学校」の設立が認められた。
場所は、亘理伊達家の学問所であった「日就館」跡地である。現在は亘理高校になっている。校舎建設費用として国から5千円、県から2千円、寄付金千円が当てられた。当時としては極めて多額であった。教育期間は2年。初期の卒業生は県内各地より養蚕教師として招かれ、宮城県の養蚕は亘理の卒業生によって発展したとされる。
大正3年の学校の記録によれば
校長、教職員 8名
生徒 一年生 28名 二年生 32名 計60名
教育に要する費用は、職員給与2千円 実習、他費用 3千円 計5千円 収入は国補助6百円、県補助5百円、郡費3千円、収穫物販売など 計5千円
この学校は、大正末に郡立から「県立」となるのだがそこに面白い逸話がある。かつて養蚕では先進地だった伊具郡が亘理郡にすっかりお株を奪われてしまい、残念なことこの上なかったのである。伊具出身の県会議員がこの機会を捉えて、一発逆転の構想を練り、伊具に県立養蚕学校をもってくるべく暗躍し、県議の過半数に根回しを終えたのである。
明日が議会という夜に河北新報の赤坂記者がその情報を得た。飲み仲間であった亘理県議永田万吉の宿に駆けつけた。万吉は一大事とばかり夜中に寝巻姿のまま、各県議の宿を回り説得を続け、ようやく事なきを得たと言う話がある。新聞社も情報管理など問題にしないのどかな時代でもあったのだろう。(郷土わたり12号より)
参考文献 山元町誌 亘理町史(下巻) (記:鈴木仁)
この資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。