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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

郷土の歴史を遡って知ろう!(第13号)

平成31年4月1日
NPO法人亘理山元まちおこし振興会 
発行人・理事長 千石 信夫

郷土の歴史を遡って知ろう!(第13号)

大正の頃(1)亘理郡の時代と終焉

 大正末までは「亘理郡長」さんがいた。亘理郡6町村の上に立つ人で宮城県への請願や県知事からの指示などは、すべからく郡長さんを通じておこなわれていた。
 亘理郡は文字通り一つだったのである。だが郡は現在、住居表示に使われるに過ぎない。
 従って、亘理「郡会議員」もいたのである。明治22年に亘理郡6町村が出来上がったのだが、まだ町村が独自に行政をおこなうには未熟だと考えられたようで明治27年に郡制度の行政単位が発足した。従って「郡役所」もあった。現在の亘理町役場のところである。古い建屋が昭和20年代まで存続していた。町村議会議員・郡会議員・県会議員といたのである。
 だが時代が進むにつれて、中2階的な「郡制度」は不必要だということになり、大正12年に廃止が決まった。郡有財産の残務整理などがあり大正15年に至り消滅した。
 大都会では、大正ロマンなどという言葉もできて、近代日本の幕開けの時代ともいわれたが、郡部ではまだまだ貧しかった。昭和へと続く凶作におそわれていた。
 モダンガールなどと言われた、洋装のハイカラな女性が登場したのもこの頃である。しかし田舎ではモンペ姿の女性が多かったのである。
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 ハンドバックも登場し、和装の美人によく似合うものであった。
 大正12年9月1日(現在は全国防災の日になっている)のお昼に関東大震災が発生した。
 亘理でもかなりの揺れを長時間感じている。県知事から亘理郡長にも救援に関しての召喚があり米穀業者が来庁するようにとのことで分銅商店の伝吉さんが県庁に向かった。報告を受けた郡長は県の意向知り、当時の大地主の代表格だった永田万吉、山田周吉(現亘理町長の曽祖父)を訪問し相談の結果、有力地主や米穀業者・精米業者を集めた会議を持ったのである。白米2000俵を出す事を決めて、県庁に報告したところ玄米もOkとのことだった。

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 9月5日には,亘理駅より白米320表と玄米210俵が貨車に積まれ出発している。途中で坂元駅よりも玄米10俵が加わった。亘理駅には貨物列車の引き込み線が昭和の終わり頃までは存在しており貨車もあった。その引き込み線の西側には、大きな米倉庫があった。現在のカラオケバー「うた蔵ぶ」に建物の名残りがある。仙台からの貨物列車が、それぞれの駅で貨車をつなぎながら走っていったことと思われる。(当時の仙台貨物駅は宮城野原駅だった:現在の楽天スタジアム付近)
 当時としては、かなり迅速な動きだったと言える。
 さらに亘理郡からの青年団員30名が応援隊員として9月6日夕刻に自炊の米・味噌などを背負い上野行きの列車に乗った。7日間ほど活動して帰着している。現代でいうボランティアだ。港についた外国船からの救援物資陸揚げや隅田川の清掃作業を行った。
 だが、救援米には後日談がある。第2回目以降は、県より仙台の第二師団を経由して送るようにとの指示だった。裏に第二師団は軍用米として没収する意図があった。県庁はそれでは困ると軍との間で20日間も揉めたのである。しかし軍の横槍に押し切られてしまった。折角の救援米の大半が東京には届かなかったのである。
 大正時代は都会の繁栄とは別に農村の困窮を代表するものとして、亘理郡坂元村に宮城県では最初の「坂元村公益質庫」が設置された。大正9年(1920年)のことである。10月に徳本寺で村民総会が招集され、村議会で議決された。この年は半作でしかなかった。 金利は月1%である。年利にすると12%になる。 質物は、日用家具・衣類など確実な動産に限るとある。特別な場合には田畑であってもかまわないとあった。
 ずっと後年の昭和10年まで公益質屋は継続し助かった人たちが多くいた。
 宮城県では、2年遅れての大正11年に設置がはじまり、「公益質屋法」が公布されたのはさらに5年が過ぎた昭和2年のことである。 一方で、第一次世界大戦の戦勝国となった日本は好景気に恵まれ、銀行も地方にやってきた。今では誰も記憶していないであろう名前の銀行が3つあった。宮城貯蓄銀行・宮城商業銀行・東北実業銀行である。亘理郡内に進出して営業所を出し互いに競争しながら張り合っていた。だがこれら3行も昭和7年には七十七銀行と合併することになる。
 亘理町新井町に堂々たる銀行があった。東北実業銀行亘理支店として大正13年に新築されたもので、その後昭和を通じて七十七銀行の支店としてなじまれた。若い方々には徳陽相互銀行が知られていると思うが、昭和38年に亘理支店が開設したもので、その消滅の様子は読者の方で詳しい方もいると思うので省略します。

    参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)   (記:鈴木仁)

の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。  
    

by tyama2001 | 2019-04-01 00:00 | 亘理・山元ニュース