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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

「郷土の歴史を遡って知ろう!」 (第12号)

「郷土の歴史を遡って知ろう!」 (第12号)


NPO法人

亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫


昭和のあれこれ(3)

 昭和4年、亘理町五日町に「旧松浦医院」の今に残る建物が完成した。
 当時は、当然ながら和風建築が主流で、奇抜なデザインの洋風建築が亘理の中心街にできたので、大変な話題になった。90年が過ぎた現在の我々がみてもモダンな感じがする。当時の代表的な亘理郡の医者であった、松浦藤四郎さんが建築したものである。昭和初期はまだ車が通行できる道路も少なく、外国製のオートバイに乗って往診に駆け回っていた。 松浦医院はその後、藤四郎さんの子供さんが眼科を開いていたが、現在は閉院されている。町の文化財に値する建造物だと思っている。
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 山元町では、高瀬の合戦原に昭和14年、「傷痍軍人宮城療養所」として設置された全国18か所のうちの一つがある。広さ東京ドーム4個分程度の広大な敷地に最盛期には1500床もの大病院だった。結核の治療を主体にしていたので、空気清浄なこの地が選ばれた。病院建設当時は何もない原っぱであったが、病院の在職者が住み着き、店ができて国道6号線沿いに町並みができるようになった。
 昭和26年に、職員の全国療養所野球大会があって優勝し病院が大いに活気づいたという記録がある。(亘理郡医師会誌より) しかし結核患者を主な対象とした療養所だったので、ペニシリンなど化学療法の普及で患者数は激減し、昭和45年頃より「脳」関連を主体にした病院に衣替えしている。現在もなお350床の大病院であることに変わりない。
 児童福祉法ができて重度身障児のための県立山下支援学校も構内にある。 広大な敷地も、大震災後に災害公営住宅地として半分近くが供された。その敷地整備の前段階の発掘で、横穴古墳など歴史的な発見が相次いだことは記憶に新しい。

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 昭和期には、数限りないエポックメーキングがあったが、代表的なものは通信と交通ではないのかとおもっている。

 「通信」は、平成が終わろうとする今なお急速な発展を止めていない。現代人は一日のうちでスマホを眺めている時間帯が最も長いのではなかろうかと思う。
 筆者が小学校の頃、すなわち昭和20年代には亘理郡にどれほどの電話があったのだろうか、めずらしいものだった。50人のクラスに一軒のみだった。社会科授業の時に電話のかけかたというので、全員が職員室に連れてゆかれた。今や博物館でしか見られない手回し式発電機のある柱に取り付けるものだった。グルグル回すと電話交換局に発信され電球が点滅する。局内の交換手がジャックをそこに差し込んで、何番ですかと問われる。電話のある生徒の家につないでもらい話が通じることを遠巻きに見ていた。そんな時代だった。電話番号も1番から順にあった。電話交換手は当時の女性の花形職場であった。
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 一般家庭に電話が入るのは昭和33年に「山元町有線放送農業協同組合」が発足し42年から山元町営となるが、昭和55年まで続く有線放送の時代である。
 亘理町では逢隈農協が35年に業務開始、亘理・荒浜・吉田では逢隈とは別に38年に合同で有線放送が開始された。それぞれが独立採算形式で料金を集めていた。
 役場・農協・学校などの公示事項や火災、落し物、迷子の通報まで行われた。この頃から押売りやものもらいが、あとを絶ったと言われている。有線放送とは、普通の家庭では数軒がグループになり、各戸で番号は異なるものの回線はグループに統括されていた。グループの誰かが使っていると話し中になってしまう。おまけに受話器を取り上げると秘話形式でない機器は他人の会話が耳に入ってくるという、今からみると信じがたいものだった。
 亘理の合同有線は昭和46年に電電公社の亘理電報電話局の管下に入った。逢隈のみは地域集団電話として引き継がれた。電話帳に○集と書かれていた時代をご記憶の方も多いと思う。電話料金から必要経費を差し引き、業務委託費を電電公社に支払っていた時代があった。
 この頃の電話料金は距離制でとんでもなく高額であった。昭和37年頃、東京まで一通話3分間200円、大阪400円、九州600円の記憶がある。
 このため電報が大活躍していた。しかしこれも文字数での料金である。「フシツイタ」など、濁点は一文字追加なのでこれで通用した。「ブ ジ ツイタ」と誰もが解釈した。

 昭和40年代にモータリゼーションが起こるまでは、亘理郡でもバスが活躍していた。国道6号線の幹線道路には、坂元から仙台までの仙南交通バス(後に宮城交通)があり停留所も多く便利であった。(昭和30年代~50年代まで)
 鉄道が通らず不便だった角田からは、国鉄バスが亘理駅や山下駅、坂元駅へと峠を越えて来ていた。また、相馬から山元の宮城病院まで福島交通バスが運航していたこともある。荒浜からは仙台行きの直行バスもあった。
 乗合バスの亘理郡での始まりは、昭和2年の山下と亘理間であった。
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 この昭和初めに、坂元の真庭に富田伝助さんという、事業意欲の旺盛な方がいて貨物自動車を購入し亘理と相馬間に定期貨物自動車を走らせた。その後、車を買い増し従業員も10名となったが、昭和16年の開戦後ガソリンが入らず廃業した。

                                (記:鈴木仁)

 尚、恐縮ながら3月までは休刊とします。  4月より大正編を発行予定です。

の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。  






by tyama2001 | 2018-12-07 13:56 | 亘理・山元ニュース