山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

「郷土の歴史を遡って知ろう!」 (第11号)

平成30年11月1日

                           NPO法人

亘理山元まちおこし振興会

発行人 理事長 千石 信夫

昭和のあれこれ(2)

 昭和30年代頃まで、亘理郡の衛生状態はよくなかった。(日本の大都市以外は、いずれも同じようなレべルだったが)
 トイレの人糞は金肥とも呼ばれ、畑の野菜には貴重な肥料だったのである。トイレは母屋の外側に設けられ、満杯になるとこえ桶に汲み取り、それを、こえ溜に移すべく運んだものだった。この作業を「だらかつぎ」と呼んでいたことをご記憶の方々も多いと思う。(人糞と尿の混じったものを「だら」と呼んでいた)
 昭和20年代の人々は、ほとんどが腹の中に回虫を抱えていたものだ。腹痛を起こすと大概は回虫が動きまわってのことだったので「サントニン」という薬品を飲ませられた。回虫が便と一緒に出てくるのである。トイレの下を覗くと、白い虫が動き回っていた。紙も乏しく新聞用紙を揉んで軟くして使ったものだ。
 これを肥料とするのだから、今度は回虫が野菜に卵を産みつける。食べる前に丁寧に洗っても、完全に除去はできない。人間の腹が、この卵を再び育てるのである。
 はなはだ尾籠(ビロウ)な話になってしまったが、50歳以下の方々はこのような事実を全く知らないでしまうものと思って記している。
  図は「こいおけ」をスマートにイメージした。
e0102418_17201063.jpg
 「堆肥」というものもあった。 一間(1.8m)四方、高さ一尺(30cm)の木枠があった。地面に置いて稲わらを敷き詰め、その上に「だら」を撒く、これを繰り返し踏み固めて数日が過ぎると発酵して、なかのわらが引き締まるので、木枠を持ち上げて同じ作業をして、どんどん高くしてゆき、高さがほぼ一間もの立方体状の「堆肥」ができあがる。今度はこれを崩し田んぼや畑に肥やしとして撒いたり、すき込むのである。殆どが素手での作業だった。

 高級な「肥やし」は、牛・馬小屋や豚など家畜小屋から出てくるものだった。小屋の地面には稲わらを敷いておくので、そこに糞尿が落ちて汚れたものを「堆肥」の枠内に運ぶ。ほどよく発酵して、優れた肥料になるのである。70℃以上で発酵すると人間に害を及ぼす病原菌などは死滅してしまうので、思ったほどに汚いものではなくなる。

  昭和20年代は、子供の小遣い稼ぎに「うさぎ」の飼育が流行した。太らせて肉屋さんに売るのである。 アンゴラうさぎという「毛」を刈り取るうさぎもあった。草を食べさせればよいので飼育は比較的楽だった記憶がある。
e0102418_17214559.jpg
 カスミアミという現代では禁止されているが、この網を使って「すずめ」などを捕獲したこともある。カラスも食肉用に供されていた。「モッチ」というネバネバした接着剤の如きものを棒や竹の先につけ捕えるのである。亘理の上郡の人が街中へ、一羽30円程度で売りにきていたものである。結構ボリュームがあった。なんでも食べていたものである。

 燃料も乏しかった。山で拾ってくる地上に落ちた「杉の葉」や枯れ枝が、「カマド」や風呂の貴重な燃料だった。これも子供の仕事である。山からリヤカーに積んでくるのだった。 「亜炭」というのがあった。石炭になる前のものである。火力は弱いが火持ちがよかった。仙台大年寺山や竜の口で産出した。数百万年前の地殻移動によるもので、億年単位で生成される石炭とは比べるべくもないが、燃えるものは、すべて使ったので当然ながら、ゴミなどはなかったのである。

 昭和30年以降になると、徐々にではあるが衛生思想が普及するようになり、33年には集落毎(現在の行政区に近い)に「衛生組合」ができて、春・夏・秋に各戸のトイレなどの消毒作業などをおこなったものである。
 化学肥料なども発達してきて生肥の使用が減じ、し尿処理の必要性が出てきた。ゴミも出るようになった。当初、亘理では昭和38年頃から割山採石場がゴミ捨て場だった。やがてゴミ焼却場の建設が叫ばれ、山元町では昭和50年に高瀬に完成した。亘理では昭和44年に一号機が49年に2号機が完成した。場所は北新田である。現在は東日本コンクリート工場になっている。通称柴町街道の中ほどである。一日に10トンの焼却能力を持っていた。

 土葬もまた非衛生的とされた。山元の療養所からの結核死亡者は野外で木が積まれて火装とされていた。亘理も伝染病患者は同様だったが、昭和38年に石炭式の火葬場ができた。
 山元町では、亘理と合同で新火葬場を作ろうという機運が出て、昭和49年に現在も稼働する近代的な広域行政による火葬場が出来たのである。
 し尿処理についても、昭和40年に岩沼市の早股に完成した施設を広域で利用することになった。バキュームカーという汲み取り車が大活躍することになる。やがて昭和50年代に下水道ができるに及んで、バキューム車も減少してゆく。
 上水道は、少し早かった。山元町では磯地区に昭和38年に簡易水道が完成し次いで、高瀬や浅生原などに地下水を利用した浄水場ができて昭和52年頃には全域に普及した。
 亘理では荒浜など東地区での井戸水が悪かった。昭和37年の検査では70%が飲料に不敵とされた。岩地蔵から阿武隈川の水をくみ上げ大森山浄水場ができたのが昭和41年だった。配管などに莫大な費用を要したのであった。
(記:鈴木仁) 

 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。  

[PR]
by tyama2001 | 2018-11-01 17:24 | 亘理・山元ニュース