平成30年10月1日 NPO法人
亘理郡山元まちおこし振興会
発行人 理事長 千石 信夫
昭和のあれこれ(1)
昭和元年は7日間しかなかった。昭和64年も偶然に7日間しかなかったのである。 昭和の実質は62年間であったといえる。
大正天皇の崩御を知っている方は、亘理郡にはもういなくなったであろう。当時はラジオもまだなかった。新聞報道しかなかったのだから、現代からみると信じがたいことである。
昭和を生き抜いた人には、余りに出来事が多すぎたので数世代を一挙に体験したようなものだという方々も多い。大きな項目を列挙してみたい。
①電波の恩恵を一般の人びとが受けられるようになったこと。
「ニュースのみならず、娯楽面でも革命的な変化が起こった」
ラジオ → テレビ → ケイタイ(現代に続く)
ラジオのNHK仙台放送局の電波発信は昭和3年で、今年90周年を迎えることになった。即時性のあるニュースが聞けるようになったのである。(全国8番目;JOHKである)ただ、当時のラジオ受信機はきわめて高価なものであり持っていた人はごく限られていた。「図は昔のラジオのイメージです」
当然ながら真空管がつかわれており故障も多かった、だが全国民には即時に伝わることとなった。敗戦の決定を知らすべく前もってラジオ所有者のところに集まるように伝えられた昭和20年8月15日、昭和天皇玉音放送もあった。
しかし、昭和30年頃からのテレビの普及に伴いラジオは主役の座を降りることになった。
それまで映像のあるニュースは、映画館で料金を払って見るものだった。亘理にも駅通りの新町に昭和27年に映画館ができた。ゴジラがきた時などは、学校の先生が引率してクラス毎に見に行ったものである。ドラマ本番の前に、日本国内のニュースが白黒で15分ほど流れるのであった。映像は新鮮なものに見えた。だがテレビの普及は急速で、やがて映画館のニュースも消えていった。映画のドラマは総天然色となり、テレビもカラー化した。
②交通革命
昭和30年代までは現在の如く、誰もが自由に自動車を運転する時代がこようとは夢のまた夢みたいなことだった。
当時、亘理と山元町の街中を走る国道6号線は、舗装もされず昭和20年代は通行する自動車が一日に100台程度しかなかったと思う。国道でキャッチボールができた。
急速な経済発展がモータリセージョンを生みだした。
昔の道路はもともと自動車が走るようにはできていない。交通量が多くなるに従い、振動などの影響や事故も増えた。車の増大に対応するため国道が街の中を避けて通るバイパスの建設がはじまった。昭和43年のことである。完成には5年を費やし47年に開通した。
逢隈・亘理・吉田・山下・坂元と山沿いや田んぼの中に新しい道路ができて、郊外に出ると再び元の国道と合流するという現在の新国道6号線ができたのである。 爆発的な車社会に対応できず、交通事故で亡くなる人が多かった。死者の数は急速に増えてゆき、交通戦争などともいわれ昭和45年がピークで日本全体では1万7千人の命が失われた。当時の山元町の人口が毎年消えて行くような状況が続いた。
その後、安全運転の意識が高まったことや信号機の増設など交通インフラの整備、救急医療体制ができたことなどで現在では3700人までに減じている。
昭和30年頃、筆者の近くでトラック1台をもって「便利屋」という商売を始めた人がいる。町内の人から預かった荷物を岩沼・仙台方面に届けるのである。今でいう宅配便のようなものだが、当時は個人では送るべき物資はあまりなく一日一便で十分だった。
旅行時などの荷物は鉄道貨物で運ばれ「チッキ」と呼ばれたものがあり便利だった。国鉄「切符」を持参していると、土産品などを別に駅まで運んでくれるのであった。
常磐線の開通は明治30年に遡るが、亘理郡内に3つの駅しかなかった。その後山下駅の開業が昭和24年、逢隈駅の開業は昭和の終わり63年8月だった。如何にモータリゼーションの時代とはいえ、駅が近いと何かと便利である。仙台への通勤客で周辺の宅地開発が急速に進み逢隈地区の人口は急増している。
山下駅もそれなりに利用客が増えたのであるのが、現在は仙台への近さが決め手になっている。
昭和30年代まで常磐線の仙台発の最終列車は午後8時19分上野行きであり、通勤・通学には何かと不便だった。ところがその最終列車が亘理や山下駅に着くと、今度は大きな荷物を背負ったオバサン方が乗り込む。日立などへ就職する人が多く、その母親が息子へ食糧などの荷物を届けるのである。各駅停車なので朝の3時頃に日立に到着し、今度は朝一番列車に乗って帰ってくるのだということだった。
(記:鈴木仁) ――― 次号に続く
この資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。