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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

「郷土の歴史を遡って知ろう!」 (第7号)

亘理郡の農業(その1:減反への道)

 昭和45年(1970年) に日本の歴史始まって以来の出来ごとがおきました。米が余ったのである。大阪万博があった年です。今後は米の生産を減らせというのです。
 現代日本人にとっては、食物を捨てるとか、コメが余るのは日常のことになってしまったが、昭和25年頃までは腹一杯ご飯を食べることが、夢にも近いことだった。今やそんな記憶も薄れつつある。何しろ田んぼの40%近くがもはや米を作ってはいない。
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 食糧の増産は、古代よりいつの時代にあっても日本人の悲願であった。主食・コメの生産力は、地域の力だった。江戸時代に亘理伊達氏の2万4千石と坂元の領主大條氏の4千石が、亘理郡と新地町を合わせた生産高である。
 昔は年間に一人1石(150kg)を食べるとされたので、すなわち2万8千人を養える力があった。さらなる増産をすべく、新田の開発に励んでいたのである。

 米の生産力が急激に伸びたのは、終戦後(昭和20年以降)のことである。
 それまでは、一反当たり5俵(300kg)程度だったが、化学肥料や機械化が反収の増加につながった。現在ではほぼ倍の収穫を得ている。コメは日本の主力産業だったのである。米の出来不出来は、日本経済を左右していた。

 今では考えられないことがたくさんあった。
 多くの家が専業農家だった時代には、現金収入があるのは秋の刈入れ時である。供出米の代金だった。逢隈などの農家の多くは、亘理の街中に来て買い物をするのに現金を持たず、通帳(ノートみたいなもの)に書きとめてもらい、秋に一括して支払いに来るのが常だった。
 誰もが貧乏だった。農作業はすべからく人手に頼っていたのである。稲から穂先の米のみをとる脱穀機というのがあったが、これも人間が足を使って踏んで動かすものだった。
 田植えの時には、猫の手も借りたいと言われたものである。
 私が中学生になったのは昭和29年であるが6月1日から3日間田植え休みがあった。農家であろうと、なかろうと係らず全校が休みなのである。卒業まで続いた。
 秋には「イナゴ取り」の行事があった。これも3日間である。授業はなく朝から全員が一斉に田んぼに向かい、刈り取られて乾燥のために「はせがけ」にしてある稲に群がっているイナゴを捕まえて布袋に入れ、弁当は田んぼで食べて午後3頃までに学校に戻り、捕獲したイナゴの計量をうけて帰るのである。
 学校はイナゴをまとめて販売し、図書の購入などに充てたのである。日本はまだイナゴが貴重なタンパク源だった時代である。
 私は3日間で一貫目(3.75kg)を捕獲し7等賞をもらい鉛筆をいただいた記憶がある。
 
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 大きな農家では、人手の確保に手間取りや作男と言われる人を置いていた。
 特殊な例だが、昭和10年生まれのSさん(現存)という男がいる。彼は小学校4年までしか学校に行っていないのだという。終戦直後の混乱もあり名前が落ちてしまったらしいのである。どの学級にも属さず現在なら大騒ぎだが、彼の家ではこれ幸いと大農家の作男として預けてしまったのである。預かった農家も子供に作業は無理だと、しばらくはその家の子守りなどをしていたというのである。
 やがて、農業機械化の第一号ともいうべき「石油発動機」が入ってきた。ダダダダ・・という音にご記憶のある年配の方も多いはずだ。足踏脱穀機の動力となった。ところが故障がはげしい、修理屋を呼んで直すのだが、Sさんはその修理をみていると、故障原因の大半が点火装置の汚れにあると気がついた。それなら自分にも出来ると、雇われ先のものを直し、他の農家からも頼まれて、結構な小遣い稼ぎになったというのである。やがて全体の仕組みも覚えて、使われなくなって捨てられた発動機も修理して売ったこともあったというのである。

(記:鈴木仁)     ――― 次号に続く

by tyama2001 | 2018-07-01 00:00 | 亘理・山元ニュース