「郷土の歴史を遡って知ろう!」 (第4号)
2018年 04月 01日
高度成長期からオイルショックを経て、たどり着いたのは昭和の終わりから平成の初めにかけての、バブル期と呼ばれる浮かれた時代であった。
土地と株価が極端な値上がりをした。
特に大都市の土地値上がりが激しく、東京の土地のみで、アメリカ全土が買えると言われた。「ジャパンアズナンバーワン」などと騒がれた頃でもある。
当時は誰も気づかなかったが異常だった。
やがてバブルは弾け、現在に至る日本の失われた20年ともされる時代が続いている。
この頃の亘理・山元町は、幸か不幸か田園地帯でもあったので、浮かれた影響も受けず、ダメージも少なくて済んだ。
「東北の湘南」とも言われる亘理郡は、温暖で緑も多く都会人には老後の永住の地として人気があった。
特に昔から別荘地として有名だった、山元の新浜地区は脚光を浴びていたのである。
東京や仙台の都会人が買ったとされる。
残念ながら今次震災は、この地区をも壊滅させてしまった。

(図はバブルのイメージを表したものです)
山元町政も、緑豊かなこの地域を一層きわだたせようと、深山地区の遊歩道・少年の森・アスレチック施設・モトクロスコース・事務所棟など、緑深い山全体を整備した。
牛橋地区に大規模公園も出来た。
地元住民のみならず、都市部からのハイキングコースとしての期待と仙台のベットタウン化による飛躍を狙っていた。
一方、亘理町は距離・時間的に仙台に近いこともあって、昭和の合併以来微減傾向にあった人口がバブルの前であるが昭和47年より増加しはじめた。
2万5千人から昭和63年には3万人を超え、震災前には3万6千人だった。

今になってみると、亘理のバブル的建築物が、「悠里館」だった。
竹下内閣時代に「ふるさと創生事業」として、各市長村に一億円が配布された。使途は自由ということで、金塊を購入した町とか、日本のバブルを強く印象づける出来ごとだった。
亘理町は、その一億円を基金として、周辺道路や関連の施設を含めると総額50億円にも達する大規模事業とした。
完成したのは、バブルが終焉した平成6年のことであった。
落成式の祝辞で、時の山元町長だった千石さんは、亘理は大名になったという言葉があった。周辺地域にこんな立派な現代の天守閣はない。亘理のランドマークとなったのは確かである。
これもバブル期のことであるが、逢隈駅も出来た。(昭和63年)
亘理郡に新しい駅が出来たのは、昭和24年の山下駅以来のことである。
新しく駅を作るのは、請願してから長い年月を要し容易なことではない。
しかし駅が出来ると、周辺地域は著しく発展する。
逢隈地区の人口は飛躍的に増加し、開業当初はまばらだった昇降客は著しく伸びている。亘理町の人口増加の大半は逢隈である。
下水道の整備もこの頃から急ピッチで進むことになる。
当時は気づくこともなかったがバブル期に手がけられたものには負の遺産のみならず、現在の発展に貢献したものも結構多いのである。
さらにこの頃に文化活動の一環として、山元町の方々による「田園空間博物館」構想が持ち上がった。山元町から亘理町吉田地区にかけての土地と空を一体として捉え地域振興に資するというものだった。政府の助成金により笠野学堂、合戦原学堂が出来た。当該地域の各所に看板を設置した。
その成果として山元町の主要各地区の冊子を出版している。真庭・鷲足・笠野・磯・浅生原編である。詳細をお知りになりたい方はご連絡ください。
(記:鈴木 仁)
参考文献 山元町誌 亘理町史(下巻) 山元町民楽芸員活動資料