平成 30年3月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
http://www.watari-yamamoto.com/
発行人・理事長:千石 信夫
高度成長期
昭和35年、池田首相が「所得倍増政策」を掲げてからは、日本経済は成長に次ぐ成長を遂げて、我々の生活は一変しました。 3C時代とも呼ばれ「カラーテレビ・クーラー・車(カー)」が、またたく間に普及しました。
≪鉄道について≫
しかし、亘理郡を含む常磐線一帯は近代化が遅れ鉄道の改善が取り残された感があり、蒸気機関車が昭和40年代の中ごろまで走っていたのです。鉄道の電化が遅れたのです。現在も複線化は出来ておりません。
東京駅では、その頃はもうSL(蒸気機関車)が珍しいと、わざわざホームに入ると記念撮影で黒山の人だかりとかの報道もありました。 誰もがサラリーマンに憧れた時代でもあったのです。亘理郡からも多くの人が仙台へ通勤する時代となったのです。
中学校や高校を卒業すると、東京へ就職する人が多く、亘理郡の人口は、残念ながら殆ど増加しませんでした。
《いちご栽培の本格化》
そんな中で、地場産品で成功したのが「いちご」でした。
株冷法と言われるものです。いちご苗に一冬が過ぎたと思わせるように、秋に蔵王の高原地帯に運んで冷たさを感じさせて、冬が終わったように勘違いさせるのです。本当の冬になってから、平地のハウスに植えるのです。
その上で、春が来たと思わせるようにハウスを暖房し、日没が遅くなったかのように電燈をつけて調節し、ハウスをどんどん暖かくして、冬の終わりには暖房で夏が来たように思わせると、「いちご」が実るのです。
誰もやったことがなかったので、季節はずれの「いちご」は大変に高い値段で売れたのです。
亘理郡の沿岸部は、大いに儲けて「いちご御殿」とも云われる豪華な家がたくさん出来たのです。
昭和40年頃は、まだ大型の冷蔵庫がなかったので、大量のいちご苗を冷やすために蔵王高原まで運ぶという手間のかかる仕事をしておりました。
亘理の沿岸地帯は「いちご」で一躍有名になったのです。
残念なことに、3.11(東日本大震災)で壊滅的な打撃を受けましたが、「いちごスピリット」ともいうべきものが残っていたのです。
「食べる宝石」とまで言われるまでに進化した「いちご」まで作りだしたのです。
昭和中期にハウスで大量生産の始った「わたりいちご」は、今次復興の大きな目玉になったのです。
≪開発について≫
亘理郡は一見して、高度成長期の工業化に乗り遅れたかの感がありましたがチャンスもあったのです。
当時の通商産業省で「新日本全国総合開発計画」が練られ、コンビナートと言われる工業地帯を全国各地に作り上げようとしていたのです。
亘理も候補地の一つだったらしく、鳥の海を掘削して、巨大な港湾を作る案があったというのです。
ちょうど、その頃に通産省に亘理出身の官僚がいたのです。上司より、この案を持って町長の意向を聞いてほしいといわれたのです。
時の町長は乗り気ではなく、今年の「のり」は豊作なんだよと、言外に断ったという回想が「郷土わたり」誌に掲載されておりました。(記:鈴木仁)
参考文献 山元町誌 亘理町史(下巻) 郷土わたり誌
「FMあおぞら」(インターネットラジオ放送)でも紹介されております。
この資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。