郷土の歴史を遡って知ろう!
(ブログ版)
終戦の頃(昭和20年前後:73年前)
第二次世界大戦で日本が負けたことを知らない人が15%もいると、テレビで放送していたことがありました。驚くべき数字です。「昭和は遠くなりにけり」です。 昭和16年(1941)12月8日に開戦し、昭和20年8月15日まで3年9カ月におよぶ悲惨な戦争を体験致しました。 多くの軍人が戦死しました。(参考までに今次大震災との対比を示します)
第二次大戦の戦死者 東日本大震災の死者
亘理町 806名 305名
山元町 593名 623名
※ 誤りがありましたらご指摘願います。
大戦での戦死者は、いずれも20代から30代の若い男子です。 このため終戦後から何年かの間には、父親が戦死したという同級生がクラスには常に数人はいたものです。(下の写真は亘理神社境内にある「忠霊塔」です) 1945年の終戦なので、73歳以下の人は親の戦死ということはなくなります。 戦死者のみならずアメリカ軍の空爆により、国内の民間人も多く死亡しました。

亘理神社境内の(忠霊塔)
仙台は焼夷弾などの大空襲があり2千人もが亡くなりました。
亘理町では空からの機銃掃射によって常磐線に乗り合わせていた人など民間人8名が死亡したが、山元町に死者は出なかった。
逢隈三門山頂に高角砲があり、米軍戦闘機が飛来していたのです。当時は逢隈の西の船岡に陸軍火薬廠(現在は自衛隊船岡駐屯地)があり、三門山高角砲がその防護に当たっていたのです。
仙台大空襲があったのは、昭和20年7月10日の夜です。その時に荒浜沖合に米軍艦隊が来て、艦砲射撃があるという噂が流れ、荒浜の人たちが、荷車に家財道具を積んで大挙して、亘理の街中に逃れてきたのです。
我々、街のものは裏山に逃げ込んだのです。そこから見えた仙台大空襲の惨状はひどかったようで、北の空が一面に真っ赤に染まっておりました。(筆者の体験) では、何故艦砲射撃などという噂が出たのかといえば、荒浜から坂元へと続く平坦な海岸線は、千葉県の九十九里浜と並ぶ、アメリカ軍の本土上陸作戦予定地であったという情報を、日本陸軍が掴み、その予行演習にと「デマ」を流したとされる。
(戦後に自衛隊官僚となり、旧軍の資料を当たった亘理出身の方の回顧談です) 当時は多くの陸軍々人も亘理に駐在していたのです。大きな民家に宿泊しておりました。千石順平宅(当会理事長の祖父)には、軍幹部が滞在しておりました。
<物資の不足>
戦前から戦後にかけてのおよそ10年間は、あらゆる品物が不足したのです。 特に終戦が近くなるにつれ欠乏状態はひどくなりました。ほとんどのものが配給制になったのです。主食の「米」には困りました。麦飯はまだ良い方で、大根やジャガイモなどの野菜を混ぜて、ご飯を炊いて膨らませていたのです。
皆が栄養失調状態になりました。
終戦後も配給制度は続き、皆が必死になって買い出しに出かけたのです。
「ヤミ米」は法律違反なのですが、背に腹は代えられず誰もが手を出しました。 戦後のことですが、東京の裁判官が「餓死」するという事態が起きました。法律の番人たる裁判官が、法律違反である「ヤミ米」を食べるわけにはいかないと、かたくなに守った結果なのです。余りにも有名な事件でした。このように律義な人もいたのです。
象徴的だったのは、石油を輸入できずガソリンも無くなり戦闘機も飛べなくなるので「松根油」の製造が奨励されたのです。文字どおり油を松の根から採取するのです。その製造所が山元町に2カ所ありました。山寺赤坂と坂元道合です。製造小屋は機関銃で警護され、小屋の中には20個の釜があり、50名もの作業者が毎日ドラム缶10本を出荷していたのです。日本全体では、終戦までに、その10万倍という膨大な量が作られたのです。
後日談ですが、それを精製したガソリンで飛行実験したところ、水平飛行は可能なものの急旋回などの戦闘モードでは馬力がでずに結局は、使われることなく捨てられたのです。

「松根油」とは、松の根を釜に入れて300℃程度に加熱乾留すると、松の油が滲み出てくるのです。仙台では、樹齢300年の松並木も伐採されその根が使用されました。
その博物館が今も岐阜県郡上郡明宝村に存在しております。
ガソリン不足は、木炭バスなども生み出しました。煙を出しながら走り、登り坂になると乗客が降りてバスを押し上げてやった記憶のあるご年配の方もいると思います。
(記:菊地文武、鈴木仁)
参考文献: 山元町誌 亘理町史(下巻) 郷土わたり誌
「FMあおぞら」(インターネットラジオ放送)でも紹介されております。
この資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。