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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

令和2年11月1日

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

 http://www.watari-yamamoto.com/


弥生時代から古墳時代へ<補足>

紀元前500年すなわち今から2500年ほど前に始まったのが「弥生時代」とされる。大きな特徴は、日本人同士の殺し合いが始まるのである。その原因は、当時の中国が「春秋戦国時代」と言われ戦いに明け暮れていた。敗れた人たちが当時の「難民」として日本にどっと押し寄せた。(現代でも戦乱が続く中東のシリアから欧州への難民が大問題である。)

中国からの難民は武器を持っていた。耕した農地を武力で奪うことを日本人は教えられた。

こうなると当然ながら、個人よりも集団で自衛した方が良いとなる。

これまでには考えられなかった「環濠集落」というのができてくる。すなわち集落の外側に堀をめぐらして敵を防ぐのである。(九州の吉野ケ里遺跡が有名)

大陸からの難民は、武器と共に稲作などを持ち込んだとされるが、稲はもっと前に伝わったとされ、主な伝来品は青銅である。約700℃の比較的低い温度で溶けるために、(鉄を溶かすには1400℃の高い温度が必要)当時の技術でも青銅で容易にいろんな物が作られた。武器などと共に銅鐸が有名であるが、東北地方には青銅がおよばなかったらしく、当時のもので発掘された例はいまだない。

その頃の亘理は郡はおろか、みちのくという概念さえなかった時代である。土器の出土例は多いが、面白いものとして木材を加工した丸い棒が逢隈の鹿島吹田の地で旧国道6号線の東側で発掘されている。低湿地だったために偶然に腐らず2千年以上もの長期間存在した。

(耕地整理事業の工事中に水路の底から出土)。

(上図は、出土した残存している部分で長さ60cm、直径3cm程度の細い木の棒で、片端に5cm程度の握りみたいなものがある。他端は朽ちて無くなっているが、全長は1m程度であろう)


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用途は不明とされているが当時の農具なのであろうか。筆者が勝手に推測すると川の水をせき止める際に流れに板を差し込んで、それを支える棒ではなかったろうか。微妙な反りがあり、中央部で大きな力を受けても折れにくいようになっている。当時でもそんな知恵はあったものと思う。

ちょうど発掘場所近くには、胴捨山、愛宕山を水源とする小川が流れており、この水を田んぼに引いたのではなかろうか。

弥生時代に青銅は東北の地まではこなかったものの、稲作はあったと思われる。赤米という古代米である。現代も観光物品として岩手県などで作付けされている。

赤米は赤飯のもとになったとされる。祝いの時に用いられる。最初の栽培米であり、すなわち永年にわたり存続してきたので、これを食べることは目出度いのである。後に赤は祝いの代名詞へ発展したと思われる。

関西地方で見つかった銅鐸に川の堰をはずす人の姿が描かれたものがある。稲作に関連することは記録に残すべきものだったのだろう。

当時の亘理町や山元町は一面の湿地帯で、阿武隈川は大雨の都度自在に流れを変えていた。大きく変わったのが2500年前とされ、それまでの河口だった鳥の海から、現在の位置になったとされている。鳥の海に流れ込む鐙川がそれに相当することを、耕地整理前の昭和の航空写真からも読み取れる。その写真に逢隈の北部地区では円弧上に住宅が点在しているのがみえる。これも当時の自然堤防跡と推定され、人の往来で固められた自然堤防の地盤の強いところを利用し後の世の人たちが家を建てたものである。

弥生時代に大きな集落ができ、敵と戦うようになると当然ながらリーダーが出てくる。豪族の出現である。その力を示すために大きな墓を作るようになる。

亘理郡では、仙台方面から常磐線で浜吉田駅に入る700mほど手前の東側約100mのところに大きな円墳がある。車窓からも見える。直径33m、高さ4mで2段になっている。およそ千トンの浜砂を突き固めたものである。大塚古墳と名付けられているが、通称だんご山古墳と呼ばれている。「大塚」とは大きな古墳がある地なので、そのような地名になったのであろう。周辺からは埴輪も出土したが本格的な発掘調査はされていない。


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通常の前方後円墳とは異なるもので、円であるから高度な測量技術などは必要としない。中心に棒を立て、紐を引けば円である。おそらくは、その位置から見て漁貝類を主要産品とする豪族だったと思われる。当時の海岸線は、その辺りまで来ていたのだろう。現在は田んぼの中にあると言っていい。西暦100年から400年代のものと推定されている。

ほぼ同時代に現れる関西の巨大な前方後円墳と同じ系統と見られる名取の雷神山古墳や仙台の遠見塚古墳などの主は、何らかのつながりをもっていたのであろう。

規模は小さいながらも、山下の合戦原と吉田の長井戸に前方後円墳がある。


参考文献  亘理町史(上巻)、山元町史 


インターネット上の各種縄文・弥生時代資料  (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2020-11-01 11:41 | 亘理・山元ニュース

令和2年10月1日

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

 http://www.watari-yamamoto.com/


縄文時代<補足>

今から1万2千年前より、諸説あるが紀元前3百年(2400年前)頃までの、およそ1万年間を縄文時代と呼んでいる。日本列島は地球の温暖化による海面の上昇で、大陸より隔絶されて世界にも類例を見ない独自の縄文文化をはぐくんでいった。

[]日本人が形成したとされる時期でもある。あまりに長い期間に渡るので、6つの時期に分類して語られている。(草創期・・・晩期)

比較的暖かったので、北海道から九州まで広範囲での生活痕跡(遺跡)がある。

亘理郡では吉田の八幡神社近くに、1万年前の「西遺跡」が存在している。発掘品からの年代推定である。

北海道伊達市には6千年前の「北黄金貝塚遺跡」があり、国の史跡に指定され整備ができて立派な公園博物館となっている。明治以降の亘理郡からの移住者により同市とのつながりができ、往来することも多くなった。

青森の津軽半島には亀ケ岡遺跡があり遮光土偶と言われる、不思議な人間の形をした土偶が有名である。


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三内丸山遺跡などこれらを含めて北東北、北海道縄文遺跡群として世界遺産登録への申請が準備されている。

まだ何なのか解析されていないものの、同時代のストーンサークルと呼ばれている、石を円状に並べた不思議な遺跡もある。

縄文時代には人間の上下関係もなく、また争いによる殺し合いなども起きておらず、現代人からみると一見して平和な良い時代にも見えるが、実情は人口も少なく食べてゆくためには、共同生活が必要不可欠だったものと推測される。

生産手段が少なく、野山の植物を採取したり、獣を罠にかけて殺したり、海辺で貝を取ったり、魚を釣ったり、銛でつくなどして生活を支えていた。狩猟は石器時代より継続していたものだが、新たに、植物採取・植物栽培・漁労の3つの生産手段が加わり豊かさが増した時代でもある。縄文人は、その労働形態から前かがみの姿勢でいることが多かったと、発掘された遺骨より推測されている。

平均身長は男子で160cm弱で彫りの深い顔立ちである。女子はこれより10cmほど低い。また虫歯が多いことや寄生虫の卵が腹部から見つかっており、でんぷん質のものを多く食べていたと推測されている。現代人の我々も回虫などに悩まされ戦後もサントニンなどの虫下しを飲まされたものである。トイレには虫がたくさんいたものだった。

(水洗式の近代的なトイレはごく最近のことでしかない)

縄文人は人間が便をした後には、食物がよく育つことなどを経験上知りえて、食べられる植物のところに糞尿をまき散らして寄生虫のサイクルが出来ていったなどのことも考えられる。(昭和30年頃まで野菜の肥料にはダラと呼ぶこんな形態での使用がされていた)

縄文時代からごく近代までの長い植物栽培の歴史を感じるのである。

主食に近かったのが栗やクルミだったのだろう。貯蔵していた跡もみつかり、後にはこれらの木を集落の周辺で栽培している。

貝や魚を生で食べることも多かった。現代でも貝毒とか川魚に寄生虫の多いことには変わらない。腹痛に苦しんでいた縄文人が浮かぶ。解毒する薬草などもあるはずだと探していたことだろう。人々の住居は草創期の終わるころには竪穴式のものを作り定住が始まったものと考えられる。

稲作が入ってくるまでの長期間、停滞しているかに見える縄文時代だが徐々に進歩をとげている。土木技術や沿岸航海術が発達した。晩期の三内丸山では巨柱建造物を作り、糸魚川でしか産出しないヒスイを青森まで運ぶ交易があったことも推測できる。

また縄文人は芸術的な感性に秀でていた。火炎式土器と呼ばれる装飾土器は、1970年、大阪万博シンボルタワー「太陽の塔」をデザインした岡本太郎氏が激賞している。




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実用性というよりも神に捧げるものとして、このような形を作り出したものと考えられる。

山形県では、ビーナスを思わせる人間の造形が発掘された。両者ともに国宝に指定された。


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このような縄文人も気候変動には逆らえず、晩期にはやや寒い時期が到来して栗も実らなくなり、南へと移動せざるを得なくなったと思われる。大きな集落が幕を閉じた。

丁度、その頃に大陸から稲作などの高度な技術を持った集団がやってくることとなり、弥生時代の始まりをつげるのである。

西日本は、早々に弥生文化に移行するが、関東以北、特に東北地方では縄文文化との混合した時代がしばらく続くことになる。

本稿の終わりに筆者の勝手な推測をさせていただくと、青森の三内丸山で巨柱技術を持った人々が南下して、長野県諏訪神社の御柱祭りの基となり、また沿岸伝いに南下して島根にたどりついた人たちは巨大な出雲神社を建設する。やがて大陸からの鉄の文化と融合して、近年神社境内で発見された3本の巨柱を鉄輪で結び高さ48mにもおよぶ巨大神殿を立てたのではなかろうか。しかし大和人にはかなわないとして出雲は平和的に国譲りをおこない、

全国の神様のシンボルとしたのではなかろうか。


参考文献  インターネット上の各種縄文資料 (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2020-10-09 08:41 | 亘理・山元ニュース

令和2年9月1日

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫

 http://www.watari-yamamoto.com/


石器時代から縄文・弥生時代へ<初期の人間活動>

今から2万年ほど前、地球は最後の氷河期時代で、海面が現在よりも百メートル以上も下がっていたとされ、どんな光景が広がっていたのだろう。

日本列島と朝鮮半島や大陸は陸続きになっていて、北からも南からも人間や動植物が渡ってきたとされる。

 <氷河の最盛期には日本海は巨大な湖だった>

              

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人間は石器を使い、動植物を食べて生活していた。

亘理郡の北端にある大森山から1960年(昭和35年)頃に開墾中に石器が出土して話題になった。しかし周辺地域の十分な調査はなされず3万年前とされる石器一個のみが残った。

亘理郡でも石器時代に人々が野山を駆け巡り生活していた。これからも新たな発見があることを期待したい。


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1990年頃のことだったが、仙台市富沢で工事現場から石器時代の「焚き火跡」が見つかった。重要な発見とされ大規模な発掘が行われ、一帯がそのまま「地底の森ミュウジアム」(富沢遺跡保存館)として残されている。約2万年前のものとされ、当時の環境・生活状況などをそのまま見ることができる。

当時の気温は、現在より7~8℃低かったとされ、今のシベリアの如き状況で、針葉樹の森が広がっていた。

氷河期は一万年前に終わり、地球は暖かくなって海面は上昇し、7000年頃前に海は現在の平野とされる部分を覆いつくすまでになる。角田盆地も浅くて大きな内海になる。阿武隈山脈は亘理郡のところで海の中に半島の如く突き出す地形を作った。

その後、川が吐き出す砂利や泥によって海は徐々に後退してゆく。阿武隈川は日本でも有数の大河であり、上流から大量の土砂を運んできた。

現在のような堤防もないので、大雨の都度、川は自在に流れを変える。すなわち水は低いところへと流れるので、流域は平坦化されてゆく。2500年前には鳥の海が河口であった。

亘理郡の阿武隈山地そのものからも、大小の澤が流れ出て大雨が降ると山肌を削り海を埋めてゆく。

5千年前には海の下だった亘理から山元町へかけての平野が徐々に出来上がって来た。現代人の記憶する「地名」が出てくる。典型的なものが吉田にある。山麓に「上大畑」、平地に「下大畑」、海岸近くが「大畑浜」である。陸地の拡大に伴い名前を分けたと想像される。

海岸線の後退とともに、山地よりも海辺に近いところが生活し易いと気がつくようになる。それと同時に食物を保存する容器が必要となり、粘土で器を作り焼いて作ることを知る。土器は石器に続く人間の大発明品となる。

石器も土器も時代と共に進歩して、現代人はいろんな名前をつけている。

(打製石器、磨製石器、・・須恵器、土師器・・など)

さて、海岸近くに住みついた人間は貝を食べ、さらには魚を捕獲する。貝殻や魚の骨を、ところかまわずに捨てるというようなことをせず、一か所に集中して積み上げておくようになる。これが何世代にも渡ると巨大な貝塚となり現在に残ることになった。

逢隈の「椿貝塚」、吉田の「畑仲貝塚」、山下の「中島貝塚」などが知られている。これらは3500年ほど前のものとされる。時代区分では縄文時代晩期である。

椿貝塚は巨大なもので貝殻が分布する底辺が1万㎡以上もある

人々は集落を形成して居住するように.なった。

山下の涌沢で、縄文時代の大きな集落跡が発掘された。常磐自動車道の工事に掛かった場所で中央に集会場とみられる広場を中心として円形にいくつかの建物が存在していた柱跡が確認された。この当時の大規模なものとしては、青森の三内丸山遺跡が有名である。当時の日本は現在よりもかなり暖かかったものと思われる。



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時代はさらに下り、弥生時代を迎える。この頃になると稲作が大陸から伝わってくることになる。山下の国道6号線と常磐自動車道が交差する西側に2000千年前(キリスト誕生の頃)のものと推定される小さな田んぼが見つかっている。

稲穂を収穫するのは、この時代はまだ、石の包丁であり、稲籾だけを取る平板な石に溝をつけた石器も見つかっている。

生活が安定し人口が急激に増加してゆく。日本全国では縄文晩期の10万人から弥生時代には60万人へと増えてゆく。亘理郡には300人ぐらいだろうか。(現在の比率から推定)


文献  山元町誌  亘理町史上巻   (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2020-09-03 10:15 | 亘理・山元ニュース
令和2年8月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長 千石 信夫 

                           http://www.watari-yamamoto.com/

江戸時代(その5)
<戦国末期から江戸初期の頃へ>

 鎌倉時代より室町時代を経て戦国期へと、亘理郡をおよそ400年間支配していたのは、千葉の豪族だった武石氏(後にこの領地の地名にちなんで「亘理氏」と改めた)である。

 鎌倉幕府が平泉の藤原政権を滅亡させた戦いで、恩賞として亘理郡などを与えられた。同じ戦いの時に伊達氏も恩賞地に福島県北部の伊達郡を与えられ、その当時の鎌倉時代には領地・勢力ともに、亘理氏も.伊達氏も.同じ程度だったのである。

 しかし、伊達氏は着々と領地経営に励み、9代目の政宗の時代に飛躍的に領土を.拡大した。ずっと後年の仙台藩祖・政宗は、この英傑だった先祖の名前にあやかったものである。 (仙台藩祖・政宗公は、初代朝宗から数えると14代目になる)

一方の亘理氏は内紛が起きてしまい.衰退をたどることになった。伊達氏11代目の稙宗の時代には、亘理氏は伊達氏に.完全に屈服することになる。亘理氏は.稙宗に娘を差し出し、その生まれた男子を自分の後継ぎとするのである。「綱宗」である。だが早死にしたので次の子供である「元宗」が亘理氏を継いだ。「元宗」の子で伊達稙宗の孫となる「重宗」もまた伊達家の大きな戦力となった。「綱宗」「元宗」の兄弟が伊達郡から亘理に出発するに際して稙宗は二人の従者を与えた。その一人が千石大炊助(当NPO理事長千石信夫の遠祖)である。

 日本の戦国時代が終息したのは豊臣秀吉の時代である。その時、大名として伊達家初代となった藩祖・政宗は本拠地福島から岩出山に転封させられた。天正19年(1591年)のことであった。宮城県中央部から福島県中通り一帯を支配することになったのである。各地に重臣を配置するのだが、亘理郡には、「片倉小十郎」が配され、亘理氏は涌谷に移された。
 亘理の南隣には、相馬氏がいて「稙宗」の時代から激しく戦っていた。戦国時代が終息したとはいえ、まだまだ油断のできない状況であり、相馬氏と対抗するのに、亘理氏に全幅の信頼を置くというわけにゆかなかったのだろう。
 涌谷に移った亘理氏は、その後「伊達」の姓を賜り完全に伊達氏の一族となったのである。

 時は移り明治となってから、涌谷伊達氏は亘理氏の姓に戻った。400年間も亘理郡を支配した殿様なのであるが、不思議なことにその墓が一つも見つからないのである。亘理の歴史上、最大の謎として残っている。涌谷に運んだわけでもなく、涌谷の郷土史家も殿様の子孫もわかりませんというだけである。(但し、山元町小平の鳳仙寺に亘理氏より分家の墓がある)

 亘理に来る以前の武石氏の墓は千葉市の寺に残っている。東京と千葉を結ぶ京葉高速道路にも「武石インター」という名称が残っている。

 亘理郡には、戦国時代まで亘理氏と並びもう一人の豪族がいた。十文字氏である。亘理郡逢隈の十文字に館があった。(現在の十文字神社付近)先祖は源左衛門綱安である。源義経の平泉下りに京都から同行してきた。綱安は平泉陥落の際に落ち延びて、亘理郡十文字に館を定めたのである。綱安は鬼退治で有名な渡辺綱の子孫であると称していた。
 現在は大雄寺となっている亘理氏の城だった「小堤城」と直線距離にして10kmほどしか離れていないところで、十文字氏は対峙していたのである。小さな勢力だったので、海岸線を行き来して相馬氏と結び亘理氏を牽制していたのである。だが、戦国末期に伊達成実が十文字氏を攻めて滅亡させたとされる。どのような因果なのか十文字氏は涌谷に落ち延びて、涌谷伊達氏の客分となり明治まで留まるのである。
 明治以降に東京に出た十文字氏は、十文字学園という学校を開設して女子教育に貢献することになる。現在の亘理にもその卒業生がいる。

 さて、豊臣秀吉の死後に関ヶ原合戦が起こり(慶長5年:1600年)勝利した徳川方についた政宗は、仙台に居城をもらい宮城県と岩手県南部一帯を領有することとなり、伊達家重臣の配置換えが行われた。亘理には伊達成実である。新地までの30余村の領地で後に2万4千石となる。成実は伊達一門にあってもきっての猛将といわれたが、「成実記」という戦国末期の伊達軍の行動を記録しており、今や第一級の史料とされている。武勇のみならず、文筆にも優れた武将だったのである。

 亘理領地に包含されるように坂元村のみが大條氏4千石をもらう。大條氏は、以前に紹介したように伊達家9代目政宗の弟を祖先としている。坂元は蓑首城と言う。明治以降に東京に出た大條氏一族の一人は、世田谷区に日幸電機を起こす。現在は亘理町吉田さらに山元町坂元にも工場をもつ。近年、山元町長を勤めた大條氏も一族のひとりである。

 これまで現代から500年ほどを遡る戦国期まで書いてきたが、次号からは一挙に1500年ほどを飛んで、亘理郡で製鉄が始まったころのことから書き下してくることにする。

文献  山元町誌  亘理町史上巻   (記:鈴木仁)   

# by tyama2001 | 2020-08-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
令和2年7月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長 千石 信夫 

                           http://www.watari-yamamoto.com/


江戸時代(4)唐船番所

 江戸幕府はキリシタンを厳しく取り締まった。外国人の出入りは長崎の出島だけで許され国内沿岸地域での.接触を禁止された。そのためには外国船の発見が必要であるとして、日本各地に「唐船番所」が設けられた。

(当時の日本人の世界観というのは、外国とはすなわち中国であり歴代王朝の中でも盛名の高かった「唐」が外国を表すものとなった。欧州人は、南からやってくる野蛮人のたぐいということで「南蛮人」と区分されていた。ただ、将軍家や大名クラスは世界情勢にも通じていたのだが、一般人に世界は、わからないことだった)



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 さて、仙台藩では「唐船番所」が五か所に設けられた。最南端が山元町坂元にある。磯浜漁港の南西方向にある。海岸近くに突き出た小高い丘の先端にある。高さ20mくらいしかないのだが、眺望がよく晴れた日には牡鹿半島から金華山までもが肉眼でもくっきりと見える。ここに遠眼鏡(望遠鏡)を設置した。誰が監視にあたったのかというと、仙台藩直属の足軽詰所が丸森町の金山にあり43名がいた。そこから2名で1組となり5日間の交代勤務だった。
 設置されたのは正保3年(1646年)のことである。以来、遠眼鏡に映るのは海と和船のみでほぼ100年近くにわたり外国船を見つけることは無かったのである。
 ようやく元文4年(1739年)に至り、異国船団3隻の通過をみるのだった。これはロシアのベーリング卿が率いるものだった。幕府に通商を求めるも拒否されて帰国の途中だった。あらかじめ船が通ることは知らされており、確認したようなものだった。それを知らせるべく早馬が仙台へ向かった。ベーリング卿は、最北の海を見ようとカムチャッカ半島沿岸を北上してロシアとアラスカの間に海峡があることを知った。近代人では最初の発見であり、自分の名前が海峡名として地図上に記載されることになった。

 後に「大航海時代」と言われるように、先進各国は競って太洋に船を出した。航海技術が大幅に進歩したからである。
 有名なのは、イギリスのジェームス・クック船長で、太平洋の真ん中にハワイ諸島を発見することになる。1800年代まで7つの海を支配したとされる大英帝国ができる。
 


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 これに負けまいとロシアも盛んに動いていた。船以外にも陸上から千島列島を南下してきた。
 徳川幕府は、これに危機感を抱いた。蝦夷(北海道)は日本の領土であると認識しながらも、領主は函館近くに松前藩があるだけで、北の守りは極めて薄い。
 そこで幕府は、東北地方の大名に警備を命じた。仙台伊達家は北海道の南東海岸と南千島列島が当てられた。1799年に出兵を開始して1821年には最大2千名もの仙台藩士が駐屯している。択捉島にも600名もの藩士が渡ったが、寒さに対する備えが弱かったのであろう。わずか半年余りの間に100名以上もの死者を出して、この島を引き上げた。
 しかし、その後も幕府からの命令で北海道の三分の一に相当する海岸線の警護を仙台藩が担うことになった。北海道総括支所ともいうべき「陣屋」を白老町に設けたのである。(現在は史跡に指定)。そこには塩釜神社もあり仙台の人たちの心のよりどころとしたのだろう。

今は立派な資料館がある。

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 南下を続けるロシアとのいざこざは、さらに続き幕府はとうとう条約を結ぶことにしたのである。1855年に「日露和親条約」を締結した。国境線を択捉島と次の島の中間点とした。これが現在も北方領土問題として未解決の歯舞群島と色丹島さらに国後島、択捉島が日本固有の領土であるとする根拠ともなっている。
 仙台藩の出兵時に亘理伊達家や坂元大條家から参加しているのかどうかは定かではない。ただ北海道の情報は得られていて、後の亘理藩士移住地の選定とも関連すると考えられる。江戸幕府は鎖国政策を取っていて、日本の船が外国には行けないようにと、甲板のある船の建造を禁じたのである。 大きなものでも千石船と言われるもので、帆が一枚のみで、多数の漕ぎ手が動かしていた。

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米を主とする日本の沿岸地域の交易のためである。荒浜港もその拠点の一つだった。この程度の船だったので難破することも多く、遠い中国やフィリッピンとか、ロシアのカムチャッカ半島まで流されるものも多かった。難破の末に世界一周をしてしまったという、石巻の若宮丸の乗組員が有名である。また、ロシアにそのまま永住してしまった方々もいる。

文献  山元町誌  亘理町史上巻   (記:鈴木仁)

# by tyama2001 | 2020-07-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
令和2年6月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長 千石 信夫 

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江戸時代(3)伊達騒動と亘理郡


 江戸時代(3)伊達騒動と亘理郡伊達騒動の主役である「原田甲斐」実母の墓が亘理・山元町共同火葬場の西へ約500mの小高い山の頂にある。


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 事件後に原田一族の男子はことごとく斬首されたが、実母は亘理伊達氏にあずかりとなった。

 彼女は不名誉この上ないと絶食して果てた。享年74歳。原田甲斐の実母は、伊達政宗と豊臣秀吉の側室である「香の前」の間にできた娘なのである。

どのような経緯があったのかというと、戦国時代末期の豊臣政権初期の段階で、政宗がまだ宮城県一帯を支配していない頃だが大崎・葛西一揆が起きた。現在のおおさき市のあたりだ。

  この一揆は政宗が仕掛けた陰謀であるとの噂が広がってしまい、秀吉よりどういうことか説明に来いといわれ、京都の伏見城へ政宗が重臣を引き連れて参上した。その中に茂庭周防(後におおさき市松山に1万石を領する)がいて、茂庭の言上を聞いた秀吉はすっかり気に入ってしまった。直属の家来にしたくなり、伏見に大名並みの屋敷を与えると言われた。しかし茂庭は二君にまみえずとして断った。

 あきらめきれない秀吉は、「囲碁」で決着をつけようとした。負けたら秀吉に従い、茂庭が勝ったら側室の一人をくれてやるというのである。この頃の戦国武将は皆な囲碁が強かった。信長・秀吉・家康・信玄など、現在のアマチュア高段者並みの実力があったらしい。

 茂庭は負けたら切腹のつもりでいた。しかし秀吉に勝ってしまった。

 側室筆頭の淀君をもらうわけにもゆかないので、末席の「香の前」を頂戴した。

 だが、茂庭は「香の前」をそのまま政宗に差し出したのである。秀吉との関係もあるので私有すると政宗からあらぬ疑いをかけられぬと思ったらしい。「香の前」は、政宗との間に女子1人と男子1人を生んだところで、政宗は「香の前」をあらためて茂庭につかわした。茂庭はその子供をも自分の子供として引き取ったのである。

 その女子は長じて、原田家に嫁し「原田甲斐」を生んだのである。


 そもそもの伊達騒動の発端は、仙台藩3代目の綱宗が酒色におぼれ「不作法の儀あり」として幕府より若くして強制的に隠居させられたことによる。

 仙台藩そのものが危機となった。長男の亀千代君はまだ幼少であるが、4代目を継がせるべく、仙台藩の重臣14名が揃って連判した嘆願書を幕府老中に提出して認められた。その中に伊達安房(亘理)や奉行職にあった坂元・大條氏などの署名もある。

 幼君の後見には、一関当主で政宗の息子で一族筆頭の伊達兵部がつき、奉行には原田甲斐が当たることになった。


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 近年になって伊達騒動が注目されたのは、昭和45年にNHKの大河ドラマ「樅の木は残った」で、原田甲斐があたかも己を犠牲にした大忠臣であるとされたことによる。原作者・山本周五郎の小説が見事すぎて、従来の定説・史実が逆になるような現象が起きてしまった。

 作者の山本の先妻が亘理の出身なので、仙南地区の歴史にも興味を持って歩いていたようだ。船岡城址に現在の柴田町の観光資源でもある「樅の木」の若木を見たのだろう。

 時あたかも、亘理では「町史」上巻の編集作業が行われていた。またNHKでは大河ドラマの関連資料を全国的に調査していて、青森に住む人が大量に史料を保管しているのがわかった。志賀さんという方で亘理伊達家の首席家老だった志賀六郎兵衛の子孫である。明治初期に北海道に移住したものの、その後青森に移った。亘理からも史料調査隊が出かけたのである。伊達騒動に関するものも多く残っていた。

 注目されたのは、甲斐が亘理に対して借金の保証人になることを依頼した文書である。自分(甲斐)は誰もが知る「すれっからし」(貧乏人)である。今般江戸屋敷詰めを仰せつけられたが、2千両は必要である。京都の豪商から借用するが、自分の領有する5千石の分限では千両しか借りることができない。残り千両の保証を亘理にお願いされたものだった。

 亘理から返事は出さないままだったが、やがて借用書そのものを船岡から持参してきて、承諾を求められた。たまたま、志賀は江戸に行き留守の時だった。応対に当たったのは家老の一人である佐野甚解由だった。彼は借用書に押印したのである。後に志賀から咎めを受けた。彼の言い訳は亘理伊達家の若き3代目未亡人と甲斐は「首尾之有る中」でという口上が文書に残っている。(承諾しないわけにはゆかなかったというのだ)

 原田甲斐は、派手好きで金離れがよかったようだ。現代でいうプレーボーイ的なところがあったのだろう。ただ甲斐の家臣たちにも惜しみなく金を与えていたようだ。慕われてもいたのである。甲斐の没後7回忌が東陽寺で行われた際に.散り散りになっていた百余名の家臣がお寺に集まってきたのである。お互いに連絡を取り合って.いたのだろう。

 伊達騒動そのものは、仙台藩内の登米伊達氏と涌谷伊達氏との境界争いに端を発している。

 仙台本藩の後見役である伊達兵部や原田甲斐には調停能力がなく、登米伊達氏は幕府に訴えた。関係者が幕府の酒井老中の屋敷に集められ、これから評定という時に甲斐が刃傷に及んだ。当時、借金地獄に苦しんでいた甲斐は、さらに責任を負うのではと.考えて行動したのであろうと推察される。


 文献  山元町誌  亘理町史上巻   (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2020-06-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
令和2年5月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長 千石 信夫 

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江戸時代(2)大條道直公(坂元領主:伊達家重臣)の活躍


 いつの時代にも最高権力者・権威者となると必ず付きまとうのが世継ぎ問題である。

 江戸時代の徳川家も、代々の後継者に苦労した。ところが11代将軍・家斉には子供ができすぎてしまった。16人の側室に53人もの子供を産ませ、半数は夭折したが、成人に達した女子には嫁入り先を、男子には将軍家にふさわしい大名家の養子先を見つけなければならないという、新たな問題が出てきた。

 ちょうどその頃に、仙台の伊達家では11代目の藩主斉義公が、文政10年(1828年)若死し世継ぎ問題が出ていた。そこに幕府が介入してきた。有力な養子先を見つけたのである。だが、仙台藩にとっては大問題だった。

 政宗の血統を守らなければと、時の幕府筆頭老中であった水野忠成を説得しなければならなかったのだが、並み居る重臣たちは尻込みした。

 その時、敢然として藩の若年寄りの地位にあった坂元領主の大條道直が立ち上がった。

 説得が成功して12代目藩主には、政宗に最も近い血筋である登米伊達家から斉邦が迎えられることになった。  

 その功績に対する褒美を問われ、青葉城内にある「茶室」を所望した。

      

この茶室は、もともと豊臣秀吉の京都伏見城にあったものを伊達政宗が拝領したといういわれを持ったものである。

大條道直は、その茶室を大條氏の仙台屋敷である現在の国際センターのところに移築した。

この茶室は、そのご数奇な運命をたどる。

明治維新後になると、政府は軍用地として大條氏の屋敷を取り上げ、仙台市支倉に家を与えたので、この茶室もそこに移転した。

さらに昭和17年になると、戦時下ともなり今度は、大條氏の居城であった坂元要害の三の丸跡地に移築されたので、仙台空襲による火 

災からは免れた。



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 しかし令和の現在、この茶室は上記写真の如き無残な姿をさらしている。往時への再建を果たすべく、いろんな活動が行われている。

江戸時代にこの茶室が仙台の大條氏邸内にあった時には、茶会のみならず仙台の文人たちが集まり論談した一種の文化サロン的な役割も果たしたとされる。

仙台藩四大画家の一人である東東洋など、江戸時代中期から後期にかけての墨客などが多数訪れていた。


東東洋の絵

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大條氏は、同じ亘理郡内にあっても伊達成実以降の

亘理伊達家に比べて知名度こそ劣るが、古い由緒をもった家柄なのである。

伊達本家自体の発祥は、1189年に源頼朝が平泉の藤原氏と戦った際に戦功があったとして、現在の福島県北部の伊達郡(現在は伊達市)に領地をもらった。後の戦国時代を経て.62万石となる.大名ではなく、当時は東北の一豪族に過ぎなかったのである。

ところが、室町時代に現れた9代目の政宗(我々が知る仙台藩祖ではない)が、英傑であり周囲を次々と進攻して領地を拡大し奥羽の有力大名となったのである。

その政宗が弟を分家させ、伊達郡の梁川に領地を与えたのが大條氏の始まりなのである。

ずっと後年になり、戦国時代も終盤を迎えた頃に、本家の16代目である輝宗が長男の梵天丸が幼少の頃から人に秀でた資質を備えているのを見て、9代目の如く活躍することを願って元服時「政宗」の名を与えたとされる。

大條家は戦国時代を通じても、さしたる武勲を上げることもなかったが、伊達家の分かれでもあり江戸時代になると坂元に4千石を頂き仙台本藩の節目に活躍しているのである。

大條氏一族の末裔で歴史的遺物を多数所有する方がおり、それらの公開が検討されている。

余話

時代が停滞を続けると、いつの世にも賭け事が幅をきかせてくる。現代では「IR」というカジノ、一種の「賭場」をつくり日本の再活性化を図ろうとする試みがある。

江戸時代の後期にも、現代と似たような状況があったと.思われる。渡世人が亘理に来て.「鉄火場」を開設したのである。公認だったのかおそらくは隠れて行われていたのだろう。

しかし、この賽の目にはまった大豪農がいた。数十町歩を所有し500年にも渡って続いてきた家である。それらの田畑・財産をまき上げられるのに、いくらの時間もかからなかったようだ。その方は.自宅とその周辺が残ったに過ぎなかったのである。

 それからもう2百年に近い時が過ぎて、渡世人の7代目くらいになる。事情を全く知らない人は、この家が多くの土地を有することから昔からの名家だと思ってしまっている。しかし血は争えず一族の中には競馬に夢中な困った人.もいるのだということだ。

参考文献  山元町誌   郷土わたり(121号)      (記:鈴木仁)


# by tyama2001 | 2020-05-07 09:07 | 亘理・山元ニュース
令和2年4月1日
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発行人・理事長 千石 信夫 

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江戸時代(1) 幕末のこと 

 歴史上の転換点となった年が過去に幾度かあるが1868年(明治元年=慶応4年)も、そのひとつであった。600年近くも続いてきた武家社会である幕府が日本を支配した封建制度が崩れた。
 朝廷(天皇)に権力を取り戻そうとする動きが、公家の岩倉具視を中心に活発化して長州藩を巻きこんで、後には薩摩藩も加わり日本中が騒然となった。京都守護職だった会津藩など幕府を擁護する側は当時の首都であった京都において社会秩序を保つ為ではあったが、長州などに徹底した弾圧をおこなった。
  風雲急を告げる情勢は、仙台藩主に変わって江戸の警備に当たっていた亘理の伊達邦実も肌で感じ取っていた。薩摩藩が武力蜂起すべく乱暴狼藉を江戸市中で行っていたからである。遠く仙台でも議論が沸騰していた。
 幕府は、前年の1867年の10月朝廷に大政奉還して、形式上は王政復古となっていたが実権は幕府が握っていた。
 仙台藩は、どうするのか態度を明確にするように朝廷側から圧力がかかった。藩主の慶邦自ら上洛して説明することを求められた。しかし藩主は健康上のことなどで動かなかった。あまりに時期を失してはということで、坂元の領主であり仙台藩の奉行職にあった大條道徳が建白書を持参して京都に向かった。運命の年、1968年1月だった。

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 しかし時、すでに遅く京都の鳥羽・伏見において、戦いがはじまっており「錦旗」を掲げた薩摩・長州軍が会津などの軍勢を破り、一挙に会津は朝敵となってしまうのである。  勢いを得た「朝廷軍」は江戸を目指した。3月には江戸城の無血開城に至る。
 会津は必死に、朝廷に敵するものではないと訴えたが、聞き入れてはもらえない。
 同じころ、仙台にも九条総督をはじめ官軍参謀がやってきて、会津討伐を督促した。
 仙台藩はやむなく軍勢を整え出陣した。亘理軍は稲荷山に集結して湯の原口へ向かった。会津藩と仙台藩は、いわき方面で先陣同士で戦闘がありわずかだが死者もでた。
 そのうちに、この戦いはどうもおかしいという機運が東北各地の藩に出て来た。奥羽の各藩が一同に会して、話し合いをしようということになった。これに尽力したのが仙台藩士の玉虫左大夫である。後世には仙台の坂元竜馬ともいわれる俊英であった。1860年の咸臨丸で西欧に派遣された勝海舟など77名のうちの1人である。
 5月に奥羽各藩家老が白石に集まり、最終的には越後の長岡藩も加わるなど31藩もの大同盟ができあがった。盟主には江戸にいた輪王寺宮を迎えた。(明治の前の孝明天皇の従兄弟である)
 同時に「奥羽列藩建白書」を朝廷に提出した。我々は「王政復古」を支持するものであり、朝廷を敵とするものではない。鳥羽・伏見の戦いも偶発的なものである。九条殿下の命令によって仙台藩は会津と一戦を交えたが、藩主の松平容保は恐縮している。徳川氏も謹慎している。皇国の末長い繁栄を願っております。このような事情を踏まえて穏便なる処置をお願いしたいというようなもので宣戦布告とは異なるものだった。
 しかし、折悪しく官軍参謀だった世良修蔵が、奥羽は皆敵であるとして軍勢の増援を要請する密書を届ける途中で奪われ世良は惨殺されてしまった。
 これがきっかけで、奥羽列藩同盟は軍事同盟と化したのである。

 官軍側は会津への攻撃を強め8月には陥落する。
 仙台藩もいわき口などで戦わざるを得なくなった。小さな藩には応援の軍勢を差し向けた。しかし、近代装備に勝る官軍にはたちうちできず敗戦に次ぐ敗戦だった。劣勢の奥羽同盟は寝返る藩が出たりで決裂も同然となった。
 相馬口でも敗れた。内陸部では現在の丸森町南部の旗巻峠で激戦となったがこれも敗れた。浜通りの戦場は駒ヶ嶺となったが、雨のために火縄銃が使えなかったことが原因とされるがここも敗れ軍議所を坂元館に移して、挽回作戦を立てると同時に、講和の意志のあることを伝える為に山下の百姓、長左エ門・彦兵衛が大活躍することは、山元町役場内にある「記念碑」に詳細があるので省略する。仙台藩主伊達慶邦は降伏を決意することになった。
 降伏式は、亘理城において行われた。賊軍とされた。勝てば官軍だったのである。
 仙台藩の総責任は、但木土佐と坂英力の2人が、江戸から東京と変わる明治となってから、切腹することによって終結した。亘理の戦死者は城址の西端に石碑がある。坂元では、徳本寺に葬られている。

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参考文献  仙臺藩戊辰殉難者五十年弔祭誌(大正7年)山元町誌 亘理町史(上巻)        (記:鈴木仁)   

# by tyama2001 | 2020-04-05 10:29 | 亘理・山元ニュース
令和元年12月1日
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発行人・理事長:千石 信夫
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明治時代(4) 維新後のこと

 明治維新まで、仙台藩内の亘理郡(新地村を含む)には2人の殿様と家臣団がいた。 亘理要害の伊達邦成公(2万4千石)と坂元要害の大條道徳公(4千石)である。維新後には殿様自身の処置と家臣の身の振り方を考えなければならなかった。
 新政府からは、武士を捨て農民・町人となることを勧められた。これに応じたのは、坂元の大條公だった。
 大條直徳公は、この時まだ30歳だったが隠居することを決めた。名前を直系に限り「伊達」とすることを許され、伊達宗亮と変えて86歳まで56年もの間、日本の歴史上で最も長い隠居生活を送るのである。
 平成21年に(10年前のことだが)、山元歴史民俗資料館において「大條道徳公」の企画展が行われた。書画などを趣味として長い余生を過ごしている。引退後も多くの子供にも恵まれて、裁判官や銀行員など多彩な人材を輩出した。直系で曾孫の伊達宗行氏は日本物理学会長を努めた(現在は仙台藩士会長)。異色の分野では、お笑い芸人サンドイッチマンの「伊達みきお」さんが道徳公の玄孫に当たる。
 今や一世を風靡している有名人だが、父親からは栄誉ある「伊達」を芸名につけるのは反対されたそうだ。(NHKファミリーヒストリーより)

 
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最後の将軍だった若き徳川慶喜公もまた45年間もの隠居生活を送り、大正2年の死亡記事はわずか、新聞一段見出しの写真はあるものの小さな記事にすぎなかった。
 赤痢菌の発見で有名な志賀潔さんも、坂元村の出身である。
 母親が大條公の家臣である志賀家から、仙台藩家臣の佐藤家に嫁ぎ、その息子の一人である潔さんを実家の養子としたのだ。
 学問で身を立てるべく、東京帝国大学を出て医師になる。
 野口英世さん(写真左)がアフリカにゆくようになった、きっかけを作ったりもしている。(写真右)が志賀さん
 志賀潔さんの回顧録を持っている人も少なくなった。
 今は無くなった坂元藩士会の会員でもあった。


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 一方の亘理では、坂元とは全く異なる事態が進んでいた。先祖が武勇に優れた「伊達成実公」ということもあったのだろうか。単なる農民となるのを潔しとしなかったのである。本音と建前ということはあるのだろうが、亘理残留に家臣団から誰ひとりとして手を上げなかったそうである。時の殿様であった「伊達邦成公」が北海道移住を決断していたこともあったのだろう。(結果的にはかなりの人が亘理に残ることになったが)
 北海道の有珠郡(現在の伊達市)に土地をもらい、北方の武力警備を兼ねた開拓農民となる苦難の道を選択したのである。
 亘理と山下からの家族を含めた家臣団合計2600人が明治14年まで合計9回に渡って、移住したのである。
 現在は、明治の壮大なこの亘理プロジェクトを小学生でも教えている。あまりにも知られ過ぎている話なので詳細な記載は省略する。特筆すべきは第三回目の移住団約500名が種まきの時期を逸して食料に困り餓死の寸前のところを、北海道開拓使の山田至人(四国の旧松山藩士)さんが緊急支援米を送り難を免れたことだった。その恩義を感じて伊達村となった明治33年に山田さんを村長として迎えている。また、原住民だったアイヌ人を紳士的に扱ったとして、現在は多大な評価を受けたりしている。(現当主:伊達元成氏講演より)
 なかには開拓に失敗して亘理に戻り、再度北海道の別の場所を目指す人などもいた。
 丁度、同じ頃の明治7年に政府の肝いりで北海道の琴似地区(現在の札幌市西区琴似)に屯田兵が置かれることになった。最初は200戸だった。その半数が旧亘理藩士だった。これは有珠に移住した中から、さらに琴似に移った旧武士の方々である。
 その方々が、心のよりどころとして作ったのが「琴似神社」で伊達成実公を祀ったものである。
 琴似の子孫の方々は、亘理に強い懐旧の念を抱いている。


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 幾度か訪問団が亘理を訪れている。
 同じく伊達成実公を神としている「亘理神社」に限りない郷愁を感じているようだ。


 亘理の北海道移住は、家老であった田村(常盤)顕充によるところが大きい。田村の献策を邦成公が全面的に聞き入れ、自ら率先して北海道に渡った。ただ実務面では田村が何度も東京と亘理を往復して政府との折衝に当たったのである。しかし実際に家臣団を動かせたのは殿様だった邦成公しかいない。殿様あっての武士なのである。
 だが政府は、新時代なので田村に功績ありと、殿様より先に叙勲させようとしたが、田村は頑なにこれを断った。(そんなことをされたら切腹せねばならぬと)
 田村は政府より代替の恩賞として千万坪(現亘理町の半分の面積に匹敵)をもらった。
 余話だが、未開地の開拓には鍛冶屋や大工なども必要だ。その職人の一人が、北海道へ行く船が松島の寒風沢から出港直前に気が変わり亘理に逃げ戻った。その子孫も現存している。

参考文献 山元町誌 亘理町史(上逃げ出し巻) (記:鈴木仁)  


 尚、恐縮ながら3月までは休刊とします。


 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。    

# by tyama2001 | 2019-12-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
令和元年11月1日  
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明治時代(3) 初期の頃

 1868年(明治元年)薩長土肥藩などの官軍に東北諸藩が敗北して、仙台藩は大混乱に陥った。62万石を28万石に減らされた。それもごくわずかの期間で、まもなく廃藩置県が追い打ちをかけたのである。
「亘理郡」もまた目まぐるしく変わった。県の南部一帯が1年おきくらいに白石県となったり角田県となったりの思考錯誤があり、明治4年に仙台県に吸収され、翌5年には宮城県となる。ただ一時的に明治9年に半年ほどだが、亘理・宇多・伊具・刈田郡など県の南部が磐城県(福島)に編入されたことがあった。再度宮城県という名前に戻るが、その時に何故か宇多郡(新地・駒ヶ嶺)のみが、福島県になってしまうのであった。
 「郡」の範囲も当初は伊具郡と亘理郡が一つの時もあり郡長が角田にいたこともあった。宮城県は、郡名を固有名詞で呼ばす番号を付していたことがあった。亘理郡は第19大区とよばれた、そして小さないくつかの村を併せて小区とした。中央からきた役人には、その方がわかりやすかったのであろう。また小学校の開設も番号順で整理しやすかったと思われる。
 いつの時代も同じであるが、政府が機能するには、「税金」が必要である。江戸時代には年貢米があったが、近代国家日本としてはそうはゆかない。「土地」に税金をかけることにしたのである「地租」と呼ばれる制度ができた。その評価額に毎年2.5%の税金を課した。 土地の所有権を証明する「地券」が発行された。


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 土地の所有権を政府が保証する変わりに、その税金を納入しなさいというものである。
 この制度は明治6年に発布され、当初の税率は3%であった。これでは高すぎるというので、明治10年に2.5%に引き下げられた。それでも高率である。ずっと後年の昭和の終戦後にこれらは、固定資産税となる。
 この高すぎる税金が、明治15年頃から盛んになる「自由民権運動」の基になったという説がある。前頁の写真は、「大日本帝国政府」の用紙で宮城県が発行した「地券」である。(磐城国亘理郡神宮寺村の耕地である。持主が同国同郡小堤村鈴木傳六である。明治9年に発行され翌10年より地租が引き下げられたことが記されている)、<興味深いのは(磐城国)という表現である。明治9年は上述の如く亘理は一時的に磐城県となっているが当時は昔からの常用語として「磐城」に問題がなかったのであろう。
 地券の発行に当たっては、当時は役人の数が少なかったこともあり、「自主申告」であったというのも面白い。
 当時の日本は近代国家としての各種制度・政府機関・地方統治体制・憲法・法整備などを、明治23年までに整えることに目標をおいていた。


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 そんな国家スケジュールのもとで、明治22年には亘理郡の30を超える村が、6町村に統合された。
 明治14年には10年後の国会開設を決定した。それと共に政党が興った。中央では板垣退助が明治の元勲(近藤勇を敗北させる)ではあったが自由民権を唱えて自由党を結成し各地に同士をつのった。(板垣は土佐藩士であり、薩長に牛耳られることをきらったこともあったのだろう)
 福島県では三春出身の河野広中が中心となり、その力は亘理郡にもおよび、亘理の有力者たちはこぞってそれに名を連れた。その後にこれらの自由民権運動を抑え込むことがおこった。福島県知事になった三島通庸の弾圧は有名である。宮城県は松平正直知事が任命されてきており、この人は福井藩士の出身で土佐の坂本竜馬をよく知っていたとされ、自由民権運動を抑え込むようなことはしなかった。
 明治23年の国会開設に当たり、第一回衆議院選挙が行われた。小選挙区制度で亘理郡は県南の各地を含む「宮城2区」であった。現在の選挙区である宮城3区から岩沼と名取を除いた範囲だった。
 当時、選挙権があったのは高額納税者にのみ限られていた。国税を15円以上納めている富裕者に限られていた。投票総数は千票程度しかなかった。成人の1%くらいである。
 郡別の対抗戦みたいなものにもなった。だが、亘理郡の武者伝二郎氏が当選した。以降連続して4回の当選をはたしている。
 さて6町村となった亘理郡は、一般人にどのような町村税金を課していたのであろうか。
 亘理町の明治24年では一等級の税金から四十等級の税金まで細かく規定されていた。1等級は山田周蔵(50人前:38円)、27等級(一人前)、40等級(3銭8厘)
  一人前とは、米を入れる俵4表を編めるとか、農作業基準で細かく定められていた。

参考文献  山元町誌 亘理町史(下巻) (記:鈴木仁)     

の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。   

# by tyama2001 | 2019-11-01 00:00 | 亘理・山元ニュース