令和5年4月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
戦国時代の終焉
親子・兄弟さらには親戚同士で戦っていた時代もようやく終息へと向かう。
南奥州で減権を握ったかに見えた伊達氏にも内紛が起きて、7年間(1542年~1548年)に及ぶ戦闘が和睦すると伊達氏の勢力は三分の一程度にまで落ち込んだ。
それまで敵と味方に分かれて戦っていた豪族も分散して、再度の結集が図られることになった。亘理元宗は伊達稙宗の子供であり、相馬氏も正室が稙宗の長女だったので、当然ながら相馬・亘理氏は稙宗軍に属し相馬は義弟、亘理氏は兄である伊達晴宗と戦ったのだが、稙宗・晴宗の親子が和睦して、伊達家は晴宗が後継者になると亘理元宗は伊達軍に付く。
ここで、すなわち相馬氏と亘理氏は完全に敵対することになったのである。
相馬氏は、亘理元宗の配下にあった坂元の愛宕山要害にある阪元大善を急襲して、立てこもる兵士と共に殺害してしまう。相馬氏は館を燃やしたものの亘理氏が動き出し全面対決になるのはまずいと引き揚げてしまう。この時に13歳であった坂元大膳の息子は人買いによって関東の農家に売り飛ばされて行方知れずになってしまう。ところが数年後に偶然発見されて坂元城主に復帰することになった。坂元三河と名乗ったのである。山城は不便であるとして、現在の蓑の首城に移り坂元城としたのである。
相馬氏は、亘理氏との再度の友好を求めて、娘を元宗の息子である重宗に嫁したのであるが、両者の対立は収まらなかった。伊達本軍の輝宗(晴宗の息子)は伊具郡(現在の丸森町)に陣をしき、相馬軍と対時していた。相馬軍は亘理と丸森の二方面で戦わねばならなかった。
亘理美濃守となった重宗は、積極的に駒ヶ嶺城を攻めようとして、伊達輝宗からの加勢も得て総勢180名で坂元城に入った。同時に城の堀などの護りも強化した。
一方の相馬軍は、情報不足で坂元城が手薄とみて軍勢を差し向けてきたのである。
先陣は堀の近くまできて驚くことになる。結局相馬軍は敗退してゆくことになった。重宗は追撃を始めた。混乱に陥り撤退する相馬軍のなかでしんがりを務めんとして一騎の武者が残った。散々に亘理軍を悩ませたが遠矢に当たり勇士は討ち死する。相馬軍は無事に逃げた。
敵ながら天晴と坂元氏は塚を作った。相馬側の子孫は、平和になった江戸時代以降約2百年間に渡り命日には、坂元の塚への墓参りを欠かさなかったということである。
相馬軍と伊達軍の攻防は、その後も続いた。相馬軍は磯濱山に陣を築いたりしたこともある。そんな激戦のなかで坂元三河も命を落とし、その子が坂元氏を継いだが、亘理重宗の涌谷移住に従い去った。重宗は妻の実家の一族相馬隆胤を討ったことで相馬とも縁が切れた。
そんな中、伊達政宗は1567年に米沢で産まれた。1579年には数え年13歳にて、伊具郡での相馬氏との戦いに初陣を飾る。やがては相馬氏を破り山伝いに坂元の磯濱に出て政宗は初めて海を見たとされる。やがて新地の谷地小屋要害や駒ヶ嶺をも陥落させる。
この頃、1582年に京都では全国統一までにあと一歩と迫っていた織田信長が家臣の明智光秀に討たれる歴史上の大事件が起きている。
政宗は18歳で家督になると領地を拡大すべく果敢に動いて行くが、1586年政宗が20
才の時に人生最大のピンチに襲われる。「人取橋の合戦」(福島の安達郡本宮)である。南奥州の全ての豪族に加えて常陸の佐竹氏も加わった大軍と戦うことになってしまった。この危機を救ったのが片倉小十郎の知略と伊達成実の武勇であった。
以降の政宗は、勢いに乗り勢力を拡大し現在の宮城県南部から福島の中通りや会津などまでピーク時には115万石程度の領有があった。
しかし、豊臣秀吉が小田原攻略時に遅参をとがめられ、半分ほどに減封させられ本拠地を米沢から岩出山に移す命令を受けた。その時1591年、亘理氏も涌谷に移った。
やがて1600年に「関ヶ原合戦」が起こると、政宗は家康側に味方することで「百万石のお墨付き」といわれる加増の絵図をもらう。しかし政宗が内密に陸奥で策動していたことが家康に悟られてしまい。白石周辺のわずか5万石の増加にとどまった。幕末まで62万石のままで終わることになる。この時に政宗は本拠地を岩出山から現在の仙台青葉城に移した。
政宗は家臣団の再配置をおこなうことになる。1602年、白石には片倉小十郎、亘理には伊達成実が入った。片倉氏は12年間に及ぶ亘理支配で新たな家臣もできていて、白石移住に従った。それらの人々が住みついたのが現在の白石市亘理町である。
一方、坂元には1591年に後藤孫兵衛信康が配されたが、その後、津田豊前景康が入り、大條長三郎宗綱の坂元入りは、大坂の陣の後で1616年のことである。それ以後、明治維新まで坂元の領主となる。
大條氏は、伊達家より分家して以降長い期間に渡り伊達郡の大條村の館に住んでいたが、7代目宗綱の時に動きがでる。1588年に政宗出陣の際に召し出され、1591年には伊具郡大蔵村に移住し、翌年には名取郡北目に、さらに志田郡そして気仙郡で2千石を得る。
豊臣秀吉の朝鮮出兵時には、16名の家臣と共に政宗軍の一翼を担う。秀吉の伏見城下にも3年間滞在している。坂元に移ってからは徐々に加増して4千石となる。
伊達政宗の治世方針として、徳川幕府に倣い大録の者には要職に就かせずとして、数千石程度の家臣を重用したので大條氏も仙台藩奉行などの地位に就いていることが多く、仙台屋敷を離れることが少なく、坂元にはあまり居なかったとされる。
伊達成実は、父実元がその兄晴宗の娘を嫁として産んだ子供である。従って姪御との近親婚であり現代では禁止されている。天才も出るが障害者もでるとされる。成実は天才だった。
戦場のみならず、後に書いた「成実記」は第一級の史料とされている。
以上をもって終了と致します。50号以降は、既刊の26、25・・と続き現代へと至ります。当初は「遡って・・」の標題に従い、続ける予定でしたが途切れたこをお詫びします。誤りなども多いかと思いますが5年の長期に渡る御目通しを感謝申し上げます。やや偏りがあるものの亘理郡(山元町、亘理町)の通史となっていれば幸いです。 (記:鈴木仁)