令和5年2月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
令和5年2月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
令和4年12月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
室町時代(前期)
南北朝初期頃までの亘理地域周辺の主な豪族をあげると鎌倉幕府を開設した頼朝によって配置された亘理郡地頭の武石氏(亘理氏)や南の相馬氏、現在の仙台に拠点を置く国分氏、さらには福島県の中通り北部を支配する伊達氏がほぼ均等な勢力を保っていた。
だが伊達氏は、豪勇を誇る8世宗遠に至ると、その息子である9世政宗も英邁を謳われたこともあって、親子で周辺地域である山形県南部の置賜地方に侵入を始めた。さらには勢い余って宮城県の刈田郡まで進出してきたのである。これには亘理・伊具・宇多郡を支配下に収める亘理行胤が、見過ごすことは出来ぬと兵を出したが1381年に刈田で戦うも行胤は敗れる。同じ年に行胤の父である広胤(足利尊氏から3郡領土を安堵された)も病没する。
亘理氏と伊達氏が戦った刈田戦の2年後、1383年に行胤は荒浜の高須賀に今に残る「湊神社」を建立した。武運長久を願ったのであろうか。
一方の伊達氏は、九世の政宗の時代になると、さらに領地を広げてゆく。(有名な戦国時代の政宗は17世である。英傑で知られた九世政宗にあやかろうと、後世になって16世の輝宗が自分の息子に名付けたのである。政宗は期待にたがわぬ活躍をして仙台藩祖となったことはご存じのとおりである。)
また、江戸時代に坂元領主になった大條氏の先祖は、9世政宗の弟である。初期の大條氏は現在の福島県柳川に館を構えていた。
九世政宗は1404年に死亡するが墓所がわからなくなっていた。伊達氏が戦で領地を広げると拠点を移したので、後世になるとわからなくなってしまった。ただ死亡した場所が記録に残っているので推定はついていた。
明治21年に至り当時の伊達家が、先祖の墓所を確定させようと旧寺があった山形県高畠町東光寺の奥まった雑木林を切り開いて政宗夫妻の墓を見つけたのである。
明治37年(1904年)に9世政宗の500回遠忌が行われたのである。
当時、亘理氏は戦に弱かった。亘理行胤が1393年に病亡すると、息子の重胤が9世の亘理氏を継いだ。しかし重胤は1412年に仙台の国分氏との戦いで戦死してしまう。
その4年後の1416年のことになるが、10世の亘理氏を継いだ胤茂が、国分氏を攻撃してこれを殺し復讐を遂げたのである。胤茂の代に、名取郡や柴田郡をも一時的には配下に収めるのである。だが、この勢いは長く続かなかった。
胤茂が死亡すると亘理氏には深刻な内紛が起きて、一挙に衰亡してしまうのであるが後号に記載する。
<前述した、約100年間の武石(亘理氏)を下にまとめた。>
当時の豪族間の勢力争いを別に、亘理郡の出来事として、1409年に陸奥国府の役人(按察使)として派遣されていた藤波尭雄が2年間の陸奥調査結果を1411年に都に戻り詳細に報告したことが評価され、亘理郡に百町歩を与えられ山下の笠野に神社を設けた。尭雄は伊勢神宮に参詣して素戔嗚尊の神符をいただき牛頭天王社を創建したのである。
(現在の八重垣神社であるが、古札には大同2年(807年)もあり、古社を再建したものとするのが妥当であろう。藤波氏は以来、代々の神職を務め現在に至る)
神社は、周辺地域の人々から深く尊崇され、参詣する人も多く、祭典ともなると大変な賑わいとなり近隣町村の商店も門前に店を広げ市が立ったとされた。
御神輿が浜辺から海中に出御する勇壮な神事でも知られている。
また、この時代の京都では、現代にも残る幽玄な「能」が「世阿弥」によって完成された。
勝ち残ったのが世阿弥の一座であった。現代で言う原作、脚本、演出、役者まで一座で行っていた。能に使う面に特徴がある。殆ど表情を持たないものが多いが、夜叉の面などもある。演者の体の動きや舞いによって演目の内容を表現するので、幽玄さを醸し出すのである。神話などの悲劇に題材を求めることが多い。これと対をなすのが狂言であり、日常生活から拾い上げたコントというべきものである。能と狂言を合わせて能楽と表現している。これらを演ずる場所が能舞台である。
宮城県には残念ながら現存する能舞台は白石市の碧水園と登米市の2ケ所のみである。
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
山元、亘理町史 (記:鈴木仁)
令和4年11月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
南北朝から室町時代へ
日本の歴史では、時代が大きく転換する時にはユニークな天皇の現れることが多い。
わけても後醍醐天皇は格別である。時代の歯車を逆回転させようとした。150年にもわたり続いてきた平氏、源氏、鎌倉政権北条氏の武家政治から公家による国家制度に転換させようと試み粘り強く戦ったのである。
半世紀にも渡る南北朝時代が続くことになる。(1335~1392)
後醍醐帝が復権した1333年には忠臣の北畠顕家を陸奥守,鎮守府将軍に任命する。顕家は帝の皇子である義良親王を伴って多賀城に下向することになった。
この時、顕家はわずか15才でしかない。早熟の天才貴公子として知られスピード昇任して、14歳で従3位参議となっている。
しかし着任2年後の1335年に足利尊氏が謀反したと知るや顕家は奥州の南朝に味方する諸勢力を集めた。これには亘理の武石高広(1302年亘理に移住した宗胤の孫)も兵を出した。どの程度の兵力かはわからないが、溯る事300年前に亘理権太夫は私兵800名を養っていたというから、数百名程度の兵は出すことが出来たのであろう。
顕家は、鎌倉を経由し大軍を集め、楠木正成などとも合流し、足利尊氏を打ち破った。
足利氏は九州に逃れ再起を計っていたところ、一年足らずで勢力を盛り返した。後醍醐天皇の治世に不満をもっていた武士団が集まったのである。
足利氏は再び上京の兵を挙げた。顕家には、再度、討てとの帝の命がでたが、今度は勝てないことを自覚した。義良親王を伴い戦場が近くなってから皇子を後醍醐天皇の元へと返した。さらに顕家は、帝に対してこのような事態になったのは帝の政治が良くないからであると6ケ条からなる諫奏文を送った。治世を改めるようにとの内容だが時すでに遅かった。
1337年、顕家は和泉の石津(大阪府阿倍野区)にて戦死する。その時、亘理の武石高広も討ち死したのである。
1338年、足利尊氏は京都の室町に幕府を開設し日本には新体制が出来上がった。
顕家は足利氏と覚悟の戦いに先立ち、本拠地を福島の霊山に移すのである。霊山は険しい山で堅固な要塞である。顕家の死後は弟の顕信が跡を継いで南朝のために尽くすのである。
しかしながら亘理では、戦死した武石高広の息子である広胤の時代になると北朝側より使者がきて、北朝に味方するようになった。広胤は上洛して足利将軍より従来通りに亘理・伊具・宇多の3郡の領地を安堵された。広胤は、この時に武石氏より亘理氏に改名するのである。
さて、室町幕府は順調に機能したかといえばそうではなく、足利尊氏と弟の直義との間に争いが生じた。直義は南朝を頼ったのであるが最後には敗れてしまう。このあたりまでは南朝の存在感があったが次第に衰亡してゆく。室町幕府の三代将軍義光の仲介により1392年に南朝最後の後亀山天皇は北朝と融合して北朝系統による南北朝統一が実現した。
この頃の亘理郡では、1347年に山下の深山山麓に山上院悠山寺が創建された。「山寺」という地名の由来ともなっている。亘理氏は本拠の小堤城(大雄寺)のみならず、領地の各所に館を作っていたとみられる。今次の震災復興で山元町役場より、駅に通じる道路の新設で遺跡の館跡は無くなったが、一族が住んでいたとされる。
ずっと後年の明治政府になってから、歴史の再評価がなされ南朝が正統だったとされるに至った。これは顕家の父親である学者として名の高かった北畠親房が書き残した「神皇正統記」が評価されたのである。当時の楠木正成は大忠臣だったとされ、皇居前に銅像が建てられた。北畠顕家にも霊山神社という壮麗なものができた。明治になってからだけではなく江戸時代に寛政の改革で知られる白河領主だった松平定信が顕家を評価していた。1817年に霊山山頂のすぐ下にあった館跡を整備して周辺に後村上天皇や南朝関係者の碑を建立した。
<余話>
明治政府が南朝を正統としたことで、南朝の後亀山天皇の直系子孫を名乗る男が現れた。
熊沢寛道である。戦前も名乗り出ていたが不敬だとして相手にされなかった。終戦後に米軍占領本部(GHQ)に改めて申し出た。昭和天皇の責任論があり、GHQも興味を示したと
ニューヨークタイムズが報じたので日本の新聞も掲載した。熊沢氏は南朝復興期成同盟を作り、支持者も集まって一時は豪邸に住むようになった。しかし世間からは次第に忘れられてゆく。昭和32年譲位して南朝の上皇を名乗る。だが生活は貧しくなり昭和41年に死去する時は長屋の間借りだった。熊沢天皇死亡の小さな新聞記事があった。
参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」
山元、亘理町史 (記:鈴木仁)
(9月10日 13:30~15:00)
亘理山元まちおこし振興会主催、山元町教育委員会の協力のもと、山元町防災拠点・山下地域交流センター「つばめの杜ひだまりホール」において、東北福祉大学健康科学部 保健看護学科の宮林幸江(みやばやしさちえ)教授が、『「家族を亡くした後の心のケア」誰もがたどる4つの悲嘆とグリーフケアについて 』と題した講演を行いました。
グリーフgriefとは、人の死などによる深い悲しみ、嘆き、苦悩のことで、宮林教授は日本人のグリーフの特徴とそのケアについて、長年研究やケア活動に取り組んできました。
グリーフの特徴について説明する宮林教授
山元町は東日本大震災時の津波被害により、突然親族や親しい友人・ペットを亡くした経験を有する方も多く、宮林教授はこれまでもグリーフケア活動を実践してきました。震災より10年が経過しても、死別悲嘆による苦しみが続いている方もいます。今回の講演テーマに対する関心も高く、当日は亘理・山元町地域住民48名が参加しました。
宮林教授の長年の研究成果をもとに、死別体験後の経過が説明されました
当会副理事長より閉会の辞
講演後の質疑応答では、参加者より「苦しんでいるのが自分だけではないとわかった。悲しむことや喪失感は、普通の反応なのだとわかった。」「グリーフケアの研究はいつ頃から始まったのか」など、の質問や感想が寄せられました。講演後のアンケート結果からも、良かった、非常に良かった合わせると80%を超え、聞けて良かった、納得されたような評価が多くみられました。やはり、悲しみながら悩んでいる人は少なくないように思います。
宮林教授には今後も同地域におけるグリーフケア活動や教育講演の機会を設けて頂く予定です。
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