令和7年4月 6日
特定非営利活動法人
亘理山元まちおこし振興会
理事長 千石 信夫
私たち亘理山元まちおこし振興会では、平成二十五年に「山元町周辺での鉄の生産に関わる東北の物語」と題し、五回にわたるシンポジウムを開催いたしました。
古代において、私たちが暮らす亘理・山元地域は、全国的にも鉄の主要な供給基地であったことが再認識されました。シンポジウムを契機に、私たちはこの山元・亘理地域を身近な生活にかかわる視点で捉え、歴史を繙いてみようと考えました。
そこで、「郷土の歴史を遡って知ろう」と題し、亘理郡の歴史的出来事を紹介する月刊紙を発行いたしました。皆さまに分かりやすく、気軽にお読みいただけるよう工夫しながら、平成三十年から令和四年までの間に全五〇号を発行いたしました。
本冊子は、その五年間の連載内容に大幅な加筆修正を加えたものです。多くの方々にご覧いただき、この亘理地域の成り立ちを知り、より一層の愛着を感じていただければ幸いです。
五年間にわたって執筆してくださった鈴木仁様には心より感謝申し上げます。
8月26日(土)、NPO法人 亘理山元まちおこし振興会の主催、山元町教育委員会の協力のもと、山元町防災拠点・坂元地域交流センター「ふるさとおもだか館」の防災研修室において、東北福祉大学健康科学部保健看護学科の小野木弘志准教授による『「食とくすり・病とくすり』くすりと健康について考えてみよう!』と題した教育講演が開催されました。
講演会には亘理・山元町地域住民49名が参加しました。講演でははじめに、山元町の特産野菜「伊達むらさき」に関する小野木准教授の研究が紹介されました。

山元町の特産野菜「伊達むらさき」に関する研究の紹介
講演では、普段食べている食品の栄養素が体の中でどのように利用されているのか、また、その栄養素がどのような医薬品に応用されているのか、参加者にクイズ形式で説明されました。クイズの答え合わせをすると、参加者から「あのCM等でよく聞く成分か」「化粧品のあの成分か」などの声があがりました。


普段食べている食品の栄養素の説明 サバの写真は小野木准教授の釣果だそうです
講演の後半は食に関連する病(やまい)と、病に用いられるくすりの話がありました。
講演後の質疑応答では、参加者より「目からうろこでした。このようなことを学んでいる学生がうらやましいと思いました」「サプリメントは効果があるのか」「お酒はどのくらいなら飲んでも良いのか」などの質問や感想が寄せられました。

食べ物からくすりまで、盛りだくさんの講演内容でした
小野木准教授は2017年より山元町におけるさまざまな調査研究を開始し、2023年5月からはNPO法人 亘理山元まちおこし振興会の顧問として、社会活動に取り組んでいます。
令和5年4月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
戦国時代の終焉
親子・兄弟さらには親戚同士で戦っていた時代もようやく終息へと向かう。
南奥州で減権を握ったかに見えた伊達氏にも内紛が起きて、7年間(1542年~1548年)に及ぶ戦闘が和睦すると伊達氏の勢力は三分の一程度にまで落ち込んだ。
それまで敵と味方に分かれて戦っていた豪族も分散して、再度の結集が図られることになった。亘理元宗は伊達稙宗の子供であり、相馬氏も正室が稙宗の長女だったので、当然ながら相馬・亘理氏は稙宗軍に属し相馬は義弟、亘理氏は兄である伊達晴宗と戦ったのだが、稙宗・晴宗の親子が和睦して、伊達家は晴宗が後継者になると亘理元宗は伊達軍に付く。
ここで、すなわち相馬氏と亘理氏は完全に敵対することになったのである。
相馬氏は、亘理元宗の配下にあった坂元の愛宕山要害にある阪元大善を急襲して、立てこもる兵士と共に殺害してしまう。相馬氏は館を燃やしたものの亘理氏が動き出し全面対決になるのはまずいと引き揚げてしまう。この時に13歳であった坂元大膳の息子は人買いによって関東の農家に売り飛ばされて行方知れずになってしまう。ところが数年後に偶然発見されて坂元城主に復帰することになった。坂元三河と名乗ったのである。山城は不便であるとして、現在の蓑の首城に移り坂元城としたのである。
相馬氏は、亘理氏との再度の友好を求めて、娘を元宗の息子である重宗に嫁したのであるが、両者の対立は収まらなかった。伊達本軍の輝宗(晴宗の息子)は伊具郡(現在の丸森町)に陣をしき、相馬軍と対時していた。相馬軍は亘理と丸森の二方面で戦わねばならなかった。
亘理美濃守となった重宗は、積極的に駒ヶ嶺城を攻めようとして、伊達輝宗からの加勢も得て総勢180名で坂元城に入った。同時に城の堀などの護りも強化した。
一方の相馬軍は、情報不足で坂元城が手薄とみて軍勢を差し向けてきたのである。
先陣は堀の近くまできて驚くことになる。結局相馬軍は敗退してゆくことになった。重宗は追撃を始めた。混乱に陥り撤退する相馬軍のなかでしんがりを務めんとして一騎の武者が残った。散々に亘理軍を悩ませたが遠矢に当たり勇士は討ち死する。相馬軍は無事に逃げた。
敵ながら天晴と坂元氏は塚を作った。相馬側の子孫は、平和になった江戸時代以降約2百年間に渡り命日には、坂元の塚への墓参りを欠かさなかったということである。
相馬軍と伊達軍の攻防は、その後も続いた。相馬軍は磯濱山に陣を築いたりしたこともある。そんな激戦のなかで坂元三河も命を落とし、その子が坂元氏を継いだが、亘理重宗の涌谷移住に従い去った。重宗は妻の実家の一族相馬隆胤を討ったことで相馬とも縁が切れた。
そんな中、伊達政宗は1567年に米沢で産まれた。1579年には数え年13歳にて、伊具郡での相馬氏との戦いに初陣を飾る。やがては相馬氏を破り山伝いに坂元の磯濱に出て政宗は初めて海を見たとされる。やがて新地の谷地小屋要害や駒ヶ嶺をも陥落させる。
この頃、1582年に京都では全国統一までにあと一歩と迫っていた織田信長が家臣の明智光秀に討たれる歴史上の大事件が起きている。
政宗は18歳で家督になると領地を拡大すべく果敢に動いて行くが、1586年政宗が20
才の時に人生最大のピンチに襲われる。「人取橋の合戦」(福島の安達郡本宮)である。南奥州の全ての豪族に加えて常陸の佐竹氏も加わった大軍と戦うことになってしまった。この危機を救ったのが片倉小十郎の知略と伊達成実の武勇であった。
以降の政宗は、勢いに乗り勢力を拡大し現在の宮城県南部から福島の中通りや会津などまでピーク時には115万石程度の領有があった。
しかし、豊臣秀吉が小田原攻略時に遅参をとがめられ、半分ほどに減封させられ本拠地を米沢から岩出山に移す命令を受けた。その時1591年、亘理氏も涌谷に移った。
やがて1600年に「関ヶ原合戦」が起こると、政宗は家康側に味方することで「百万石のお墨付き」といわれる加増の絵図をもらう。しかし政宗が内密に陸奥で策動していたことが家康に悟られてしまい。白石周辺のわずか5万石の増加にとどまった。幕末まで62万石のままで終わることになる。この時に政宗は本拠地を岩出山から現在の仙台青葉城に移した。
政宗は家臣団の再配置をおこなうことになる。1602年、白石には片倉小十郎、亘理には伊達成実が入った。片倉氏は12年間に及ぶ亘理支配で新たな家臣もできていて、白石移住に従った。それらの人々が住みついたのが現在の白石市亘理町である。
一方、坂元には1591年に後藤孫兵衛信康が配されたが、その後、津田豊前景康が入り、大條長三郎宗綱の坂元入りは、大坂の陣の後で1616年のことである。それ以後、明治維新まで坂元の領主となる。
大條氏は、伊達家より分家して以降長い期間に渡り伊達郡の大條村の館に住んでいたが、7代目宗綱の時に動きがでる。1588年に政宗出陣の際に召し出され、1591年には伊具郡大蔵村に移住し、翌年には名取郡北目に、さらに志田郡そして気仙郡で2千石を得る。
豊臣秀吉の朝鮮出兵時には、16名の家臣と共に政宗軍の一翼を担う。秀吉の伏見城下にも3年間滞在している。坂元に移ってからは徐々に加増して4千石となる。
伊達政宗の治世方針として、徳川幕府に倣い大録の者には要職に就かせずとして、数千石程度の家臣を重用したので大條氏も仙台藩奉行などの地位に就いていることが多く、仙台屋敷を離れることが少なく、坂元にはあまり居なかったとされる。
伊達成実は、父実元がその兄晴宗の娘を嫁として産んだ子供である。従って姪御との近親婚であり現代では禁止されている。天才も出るが障害者もでるとされる。成実は天才だった。
戦場のみならず、後に書いた「成実記」は第一級の史料とされている。
以上をもって終了と致します。50号以降は、既刊の26、25・・と続き現代へと至ります。当初は「遡って・・」の標題に従い、続ける予定でしたが途切れたこをお詫びします。誤りなども多いかと思いますが5年の長期に渡る御目通しを感謝申し上げます。やや偏りがあるものの亘理郡(山元町、亘理町)の通史となっていれば幸いです。 (記:鈴木仁)
令和5年3月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
室町時代(後期)
西暦1500年以降になると室町幕府は形骸化してゆく。
一方で地方は群雄割拠の時代となり、各地での戦乱が激しさを増してゆく。東北では伊達氏が抜きんでた存在となり。伊達稙宗(政宗の曽祖父)の時代になると南奥州の覇者となった。
亘理氏は衰弱して、伊達氏の麾下になると史書(亘理郷土史)にはあるが実際には相馬氏が領有していたとみられる。伊達稙宗は娘を相馬氏に嫁がせて実質的に相馬氏も伊達の勢力下に収めたと認識していたので相馬氏による亘理領有も問題はないと思っていたようだ。
稙宗には数名の妻妾がいて14男と7女を産んでおり、娘は相馬などの有力者に嫁がせ、男子は衰退している豪族の養子として勢力を拡大してゆき、実質的には百万石ほどの力があったと思われる。そのまま曾孫の政宗の時代に引き継がれれば天下取りができたのではないかと思われるが、伊達家にもこの時代に内紛が起きてしまう。(次号にも詳細を記す)
伊達稙宗のもとに、名門ではあるが名ばかりとなっていた関東管領である上杉氏から稙宗の一子を養子にもらい受けたいという申し出を受けて了承した。
実元である(後の伊達成実公の父親)を出すことにしたのである。しかし、出発直前になり実元が多くの精鋭を従えて行くことになり、これでは伊達家の勢力が半分に減じてしまうと、稙宗嫡男の晴宗が反対して父親の稙宗を伊達郡桑折の西山城に幽閉してしまいこの養子縁組を破談にしてしまった。
(後に上杉氏の後継は、越後で勢力を拡大していた長尾景虎が上杉謙信となり引き継ぐ)これに怒った稙宗は号令を発して、各地にいる娘婿となった豪族や、養子を出した家々の軍勢によって西山城から助け出され、息子の晴宗軍と長期に渡る戦いに突入してゆく。
両者は譲らず戦は7年間に及んだ。ようやく和睦が成立して、稙宗は丸森城に隠居することとなり、伊達家は嫡男晴宗(政宗の祖父)が引き継いだ。
しかし、この内紛で伊達家の勢力は大きく削がれた。相馬氏とも敵対する関係になった。
この乱の終了後、亘理氏は相馬氏を離れ伊達家の一翼となってゆくのである。
(戦国時代に父親追放で有名なのは武田信玄で、父信虎の留守中に家を乗っ取った)
この頃に、日本各地では巨大な勢力同士がぶつかり合い消耗戦を繰り返していた。川中島での武田信玄と上杉謙信もその一つである。
こんな中で、織田信長が台頭してくる。実力者による天下統一の機運が出て来る。
この時代の模様が記録されたと見られる亘理町の某家に伝わる不思議な古文書を紹介する。古文書が一概に正しいものだとは言い切れないところがあるが、興味深いことが書かれている。下家系図の前書きの一部を示している。


相馬信濃守という人は、相馬史書にも出ていないし、実在したのかもわからない。
冒頭の「相馬信濃守元安公」から類推されるのが、亘理元宗が隠居してからの号を「元安斎」としたことである。亘理元宗は伊達稙宗の子供である。相馬氏を名乗るのもおかしいが、元宗の姉が相馬氏に嫁いでおり、稙宗は亘理を相馬氏の配下におくことを了承していたのではなかろうか。文書の二行目に亘理が相馬領の時に、大雄寺は古い館であったと。(現代の認識もそうである)四行目に慶長8年(1603年)、当所の館は吽館と申す。 成實公着任され・・。
(これまた現代は臥牛城.とも称されているので今の認識と変わる事はない)従って、この文書に違和感があるのは冒頭部分と、二行目の前半部分である。(いずれ解明されることであろう)

亘理氏はやがて、重宗の時代に豊臣秀吉が発した伊達政宗への米沢から岩出山への移封にともない、亘理へは片倉小十郎が入り、亘理重宗は涌谷へと移り、伊達氏に名を変えることになる。
重宗は、伊達稙宗の孫になるわけだから当然かもしれないが、後に政宗に従い相馬氏とも戦い大きな戦果を上げたので一万石クラスの待遇を得ている。だが相馬氏と直接に相対するには知略に優れた片倉小十郎しかなかったのであろう。
涌谷に移ることになった重宗に政宗は丁寧な手紙を書いている。北の地は、災害も少なく住みよい所であるとしている。(政宗もかなりの気遣いを見せている)
参考文献 山元、亘理町史 (記:鈴木仁)


