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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001
令和元年12月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
http://www.watari-yamamoto.com/

明治時代(4) 維新後のこと

 明治維新まで、仙台藩内の亘理郡(新地村を含む)には2人の殿様と家臣団がいた。 亘理要害の伊達邦成公(2万4千石)と坂元要害の大條道徳公(4千石)である。維新後には殿様自身の処置と家臣の身の振り方を考えなければならなかった。
 新政府からは、武士を捨て農民・町人となることを勧められた。これに応じたのは、坂元の大條公だった。
 大條直徳公は、この時まだ30歳だったが隠居することを決めた。名前を直系に限り「伊達」とすることを許され、伊達宗亮と変えて86歳まで56年もの間、日本の歴史上で最も長い隠居生活を送るのである。
 平成21年に(10年前のことだが)、山元歴史民俗資料館において「大條道徳公」の企画展が行われた。書画などを趣味として長い余生を過ごしている。引退後も多くの子供にも恵まれて、裁判官や銀行員など多彩な人材を輩出した。直系で曾孫の伊達宗行氏は日本物理学会長を努めた(現在は仙台藩士会長)。異色の分野では、お笑い芸人サンドイッチマンの「伊達みきお」さんが道徳公の玄孫に当たる。
 今や一世を風靡している有名人だが、父親からは栄誉ある「伊達」を芸名につけるのは反対されたそうだ。(NHKファミリーヒストリーより)

 
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最後の将軍だった若き徳川慶喜公もまた45年間もの隠居生活を送り、大正2年の死亡記事はわずか、新聞一段見出しの写真はあるものの小さな記事にすぎなかった。
 赤痢菌の発見で有名な志賀潔さんも、坂元村の出身である。
 母親が大條公の家臣である志賀家から、仙台藩家臣の佐藤家に嫁ぎ、その息子の一人である潔さんを実家の養子としたのだ。
 学問で身を立てるべく、東京帝国大学を出て医師になる。
 野口英世さん(写真左)がアフリカにゆくようになった、きっかけを作ったりもしている。(写真右)が志賀さん
 志賀潔さんの回顧録を持っている人も少なくなった。
 今は無くなった坂元藩士会の会員でもあった。


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 一方の亘理では、坂元とは全く異なる事態が進んでいた。先祖が武勇に優れた「伊達成実公」ということもあったのだろうか。単なる農民となるのを潔しとしなかったのである。本音と建前ということはあるのだろうが、亘理残留に家臣団から誰ひとりとして手を上げなかったそうである。時の殿様であった「伊達邦成公」が北海道移住を決断していたこともあったのだろう。(結果的にはかなりの人が亘理に残ることになったが)
 北海道の有珠郡(現在の伊達市)に土地をもらい、北方の武力警備を兼ねた開拓農民となる苦難の道を選択したのである。
 亘理と山下からの家族を含めた家臣団合計2600人が明治14年まで合計9回に渡って、移住したのである。
 現在は、明治の壮大なこの亘理プロジェクトを小学生でも教えている。あまりにも知られ過ぎている話なので詳細な記載は省略する。特筆すべきは第三回目の移住団約500名が種まきの時期を逸して食料に困り餓死の寸前のところを、北海道開拓使の山田至人(四国の旧松山藩士)さんが緊急支援米を送り難を免れたことだった。その恩義を感じて伊達村となった明治33年に山田さんを村長として迎えている。また、原住民だったアイヌ人を紳士的に扱ったとして、現在は多大な評価を受けたりしている。(現当主:伊達元成氏講演より)
 なかには開拓に失敗して亘理に戻り、再度北海道の別の場所を目指す人などもいた。
 丁度、同じ頃の明治7年に政府の肝いりで北海道の琴似地区(現在の札幌市西区琴似)に屯田兵が置かれることになった。最初は200戸だった。その半数が旧亘理藩士だった。これは有珠に移住した中から、さらに琴似に移った旧武士の方々である。
 その方々が、心のよりどころとして作ったのが「琴似神社」で伊達成実公を祀ったものである。
 琴似の子孫の方々は、亘理に強い懐旧の念を抱いている。


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 幾度か訪問団が亘理を訪れている。
 同じく伊達成実公を神としている「亘理神社」に限りない郷愁を感じているようだ。


 亘理の北海道移住は、家老であった田村(常盤)顕充によるところが大きい。田村の献策を邦成公が全面的に聞き入れ、自ら率先して北海道に渡った。ただ実務面では田村が何度も東京と亘理を往復して政府との折衝に当たったのである。しかし実際に家臣団を動かせたのは殿様だった邦成公しかいない。殿様あっての武士なのである。
 だが政府は、新時代なので田村に功績ありと、殿様より先に叙勲させようとしたが、田村は頑なにこれを断った。(そんなことをされたら切腹せねばならぬと)
 田村は政府より代替の恩賞として千万坪(現亘理町の半分の面積に匹敵)をもらった。
 余話だが、未開地の開拓には鍛冶屋や大工なども必要だ。その職人の一人が、北海道へ行く船が松島の寒風沢から出港直前に気が変わり亘理に逃げ戻った。その子孫も現存している。

参考文献 山元町誌 亘理町史(上逃げ出し巻) (記:鈴木仁)  


 尚、恐縮ながら3月までは休刊とします。


 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。    

# by tyama2001 | 2019-12-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
令和元年11月1日  
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
http://www.watari-yamamoto.com/


明治時代(3) 初期の頃

 1868年(明治元年)薩長土肥藩などの官軍に東北諸藩が敗北して、仙台藩は大混乱に陥った。62万石を28万石に減らされた。それもごくわずかの期間で、まもなく廃藩置県が追い打ちをかけたのである。
「亘理郡」もまた目まぐるしく変わった。県の南部一帯が1年おきくらいに白石県となったり角田県となったりの思考錯誤があり、明治4年に仙台県に吸収され、翌5年には宮城県となる。ただ一時的に明治9年に半年ほどだが、亘理・宇多・伊具・刈田郡など県の南部が磐城県(福島)に編入されたことがあった。再度宮城県という名前に戻るが、その時に何故か宇多郡(新地・駒ヶ嶺)のみが、福島県になってしまうのであった。
 「郡」の範囲も当初は伊具郡と亘理郡が一つの時もあり郡長が角田にいたこともあった。宮城県は、郡名を固有名詞で呼ばす番号を付していたことがあった。亘理郡は第19大区とよばれた、そして小さないくつかの村を併せて小区とした。中央からきた役人には、その方がわかりやすかったのであろう。また小学校の開設も番号順で整理しやすかったと思われる。
 いつの時代も同じであるが、政府が機能するには、「税金」が必要である。江戸時代には年貢米があったが、近代国家日本としてはそうはゆかない。「土地」に税金をかけることにしたのである「地租」と呼ばれる制度ができた。その評価額に毎年2.5%の税金を課した。 土地の所有権を証明する「地券」が発行された。


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 土地の所有権を政府が保証する変わりに、その税金を納入しなさいというものである。
 この制度は明治6年に発布され、当初の税率は3%であった。これでは高すぎるというので、明治10年に2.5%に引き下げられた。それでも高率である。ずっと後年の昭和の終戦後にこれらは、固定資産税となる。
 この高すぎる税金が、明治15年頃から盛んになる「自由民権運動」の基になったという説がある。前頁の写真は、「大日本帝国政府」の用紙で宮城県が発行した「地券」である。(磐城国亘理郡神宮寺村の耕地である。持主が同国同郡小堤村鈴木傳六である。明治9年に発行され翌10年より地租が引き下げられたことが記されている)、<興味深いのは(磐城国)という表現である。明治9年は上述の如く亘理は一時的に磐城県となっているが当時は昔からの常用語として「磐城」に問題がなかったのであろう。
 地券の発行に当たっては、当時は役人の数が少なかったこともあり、「自主申告」であったというのも面白い。
 当時の日本は近代国家としての各種制度・政府機関・地方統治体制・憲法・法整備などを、明治23年までに整えることに目標をおいていた。


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 そんな国家スケジュールのもとで、明治22年には亘理郡の30を超える村が、6町村に統合された。
 明治14年には10年後の国会開設を決定した。それと共に政党が興った。中央では板垣退助が明治の元勲(近藤勇を敗北させる)ではあったが自由民権を唱えて自由党を結成し各地に同士をつのった。(板垣は土佐藩士であり、薩長に牛耳られることをきらったこともあったのだろう)
 福島県では三春出身の河野広中が中心となり、その力は亘理郡にもおよび、亘理の有力者たちはこぞってそれに名を連れた。その後にこれらの自由民権運動を抑え込むことがおこった。福島県知事になった三島通庸の弾圧は有名である。宮城県は松平正直知事が任命されてきており、この人は福井藩士の出身で土佐の坂本竜馬をよく知っていたとされ、自由民権運動を抑え込むようなことはしなかった。
 明治23年の国会開設に当たり、第一回衆議院選挙が行われた。小選挙区制度で亘理郡は県南の各地を含む「宮城2区」であった。現在の選挙区である宮城3区から岩沼と名取を除いた範囲だった。
 当時、選挙権があったのは高額納税者にのみ限られていた。国税を15円以上納めている富裕者に限られていた。投票総数は千票程度しかなかった。成人の1%くらいである。
 郡別の対抗戦みたいなものにもなった。だが、亘理郡の武者伝二郎氏が当選した。以降連続して4回の当選をはたしている。
 さて6町村となった亘理郡は、一般人にどのような町村税金を課していたのであろうか。
 亘理町の明治24年では一等級の税金から四十等級の税金まで細かく規定されていた。1等級は山田周蔵(50人前:38円)、27等級(一人前)、40等級(3銭8厘)
  一人前とは、米を入れる俵4表を編めるとか、農作業基準で細かく定められていた。

参考文献  山元町誌 亘理町史(下巻) (記:鈴木仁)     

の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。   

# by tyama2001 | 2019-11-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
令和元年10月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫

明治時代(2) 郵便制度

 日本の近代化に最も必要だったのは、鉄道による輸送手段とともに、郵便を制度化することだった。江戸時代からの「飛脚制度」を近代化することにあった。速さの点においては、明治中期まで人力もしくは早馬であるとか、江戸時代と変わるところがなかったが、明治になってから全国の都市に集配所制度を設けた。 郵便切手を発行したのである。距離によって郵便料金が異なった。100kmを一単位としたのである。明治5年の時点で仙台から東京までは8銭であった。 その後、明治10年に至り、利便性の向上を図るために全国一律で「1銭」とした。 (当時は米1kgが約17銭だった)

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 1銭切手は、明治35年まで25年間も続いたので、その間にいろんな図柄が出現している。 (写真は大日本帝国の一銭切手である)郵便や荷物の運送には、「駅伝」制度による馬での継馬所があった。亘理の街中で馬を継いた後は次は山下まで行くのだった。馬が行ったり来たりしていたことになる。
 「駅伝」といえば、今やマラソンであるが、日本特有のもので由来はここからきている。昔は走るのがスポーツではなく使役の役目をもったものだったのである。東京―箱根駅伝、その他各地の駅伝競技があり、今もその名を残している。

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 現代では「情報通信」という用語を使っており、一瞬にして個人の伝えたいことが、世界中を駆け巡る。アメリカ大統領が使うツイッターが有名になった。だが150年前は大変だったのである。亘理では、明治5年に永田さんが「亘理駅郵便御用取扱書」を開設した。山下では明治7年に三島さんが開設している。仙台までは2銭が必要で、そこから東京へと乗り変えたのである。当時の郵便局は、地域の有力者が自宅に開設したのである。明治13年頃になると各村々にも御用取扱書が出来るようになった。
 その後は、郵便局が貯金とか為替などを扱うようになり、官より委託される形で運営され郵便局と名前が変わり、地方局は三等郵便局と呼ばれ逓信省(郵政省)管轄となった。亘理郵便局や山下郵便局となった。田舎では特定郵便局となって行ったものもある。
 手紙は届くまでに数日をようするが、迅速性が大事なことも多くなった。亘理郡でも「電信の開通」を要望していたのである。これが出来たのは、常磐線の開通と同じ頃の明治30年になってからである。
 「電報」が可能になった。

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 それまでは、スピードを要求される手段として、長期間に渡りハトが使われていた。現在では、趣味として飼育している方がいるに過ぎないが、伝書鳩は一説によると紀元前からあったというのである。 200km程度は軽く飛んで行く。昭和35年頃までは使っていた。新聞社が電話も無い山間僻地から記事を送るとか、軍事用などに利用していた。ハトの足に小さな軽い筒を取り付け、それに書類を入れて飛ばすのである。ごく軽い荷物を背中に乗せて運ぶこともあった。ただ、飛行中にタカやワシなどの猛禽類に襲われることがあるので、複数のハトを飛ばすのだった。このようなことから農林水産省が統轄する使役動物に指定されていた。
 通信手段が極端に発達してしまった現在からみると信じがたことである。戦国時代頃によくつかわれたのが、ノロシによる(敵が来た)など信号の伝達だった。時代劇でおなじみである。昔の人たちから見ると現代人は恐ろしく便利な時代に生活している。
 現在は、亘理・山元町とそれぞれ別の行政区分感覚で物事を捉えているが、明治22年までは亘理郡内に30ケ村が存在して、それぞれにかなりの自由度があった。その中でも小堤村(亘理)が中心的な役割を果たしていたのである。現在は、消防・ゴミなど再び大きな広域行政が効率的だと、そんな傾向になっている。郵便制度などの近代化が進むにつれて、小さな村単位では行政上の不便があるということで、明治の大合併が行われることになった。小堤村はそのままの規模で亘理町となり、他は大きくまとまり、昭和29年まで続く6町村体制が出来上がるのである。郡長が宮城県から派遣され大正末まで亘理郡の一体行政が行われることになった。 昭和に入ってからは各町村が力をつけたこともあって、独自の施策が実施されるようになったのである。電信より少し遅れて明治44年には電話が開通した。亘理では大商人の12軒が加入して番号1番は当時郵便局を運営していた門沢味噌屋さんだった。12番は新井町の武田亀吉商店(薬局)まで名だたる店が名を連ねていた。

参考文献 山元町誌 亘理町史(下巻) (記:鈴木仁)

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# by tyama2001 | 2019-10-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
令和元年9月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫

明治時代(1) 鉄道開通

 文明開化で日本人は沢山の恩恵を受けたが、最も大きかったのは鉄道ではないだろうか。
 それまで移動手段として人々は歩いていた、荷物は馬車を使うしかなかった。東京(江戸)までは7日間を要した。亘理―仙台も5時間以上かかった。
 明治5年に東京―横浜間の鉄道が開通し、主要都市に向けて徐々に広がっていった。
 仙台まで東北本線が開通したのは明治20年のことである。常磐線はさらに10年遅れて明治30年になる。
 鉄道路線をどういうルートにするのかとか、駅の設置について様々なことがあった。
 仙台駅も本来なら、長町駅を出てから人家の少ないところを通過して、現在の宮城野原貨物駅(楽天球場付近)に予定されていた。
 しかし、市街地を遠く離れたところに設置されては仙台の繁栄はあり得ないとして、当時の政財界を上げて猛烈な陳情を行った。その結果、現在にみるような線路がグニャリと曲がる形で市街地に入り込み仙台駅ができた。

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 すなわち、当時からすでに町の繁栄と鉄道は切っても切れない関係にあることが認識されていたのである。
 さて、常磐線の場合はどうであったのか、上野から始まり最終区間である相馬―岩沼間のルートを旧国道6号線沿いに坂元・山下の市街地近くを通す案があった。しかし残念ながら鉄道開通に関する地元の熱意がなかったとされる。
 鉄道事業は、現在のごとくJRに一本化したものではなく、工事会社が別にあった。
 そうなると、建設は勢い楽な方向へと流れる。人家の無いところを直線で結ぶことになってしまう。駅の数も少ない方がよい。
 新地駅を出てから坂元駅そして浜吉田駅まで直線で11km、さらに直線が続き亘理駅は荒浜街道の鳥屋崎付近、さらに真っ直ぐに進み阿武隈川を渡ってから、東北本線の岩沼駅に曲がるという設計図のようだった。

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 しかし、それでは困ると猛反対して亘理市街地に持ってくるべく、時の町長武田万次郎をはじめとして、亘理の商工人が一体となり陳情を重ねた結果、浜吉田駅を過ぎてから亘理へと大きく曲がる現在の如きルートができたのである。
 山下村では駅を作ることもなく、50年もそのままに放置されてしまったのである。
 戦後の昭和24年に至り、ようやく山下駅ができたのだった。
 新しく駅を作るには、工事費用のみならず単線なので駅の部分を二股線路にしなければならず、周辺に広い土地を必要とするのである。
 山下駅開設には、大きなエネルギーが必要であった。リーダーに立ったのは、その周辺に土地を持った「斎藤忠人」であった。郵便局長をしていた。彼の所有する土地を無償で提供した。郵便物も鉄道で運ばれてくるのだから駅がないのは不便なことこの上ない。
 駅ができてずっと後になってからのことだが、彼の功績を顕彰しようという機運が出てきて、胸像が立てられた。しかし不幸にして3.11大震災により倒されてしまった。
 新しい山下駅は、ずっと内陸部に移設され高架の線路が建設され、従来のルートは忘れ去られたようになっている。新駅の周辺は「つばめの杜」として山下の中心街を形成しつつある。
 さて旧山下駅の恩人たる「斎藤忠人」の胸像は、旧駅舎トイレの裏にポツンと置かれたままである。大震災後8年半が過ぎた現在、あまりにもわびしいことである。
 山元町役場も新築になり、目に見える形で復旧・復興が進んでいる現在、胸像はしかるべき場所に設置しなおして、その歴史をきちんと伝えるべきであろう。
 鉄道が通らなかった不便さはどこでも同様であった。福島まで来ていた当初の東北本線の計画は平坦地である角田・丸森地区を通る予定だった。ところが、白石・大河原・船岡などの誘致活動が勝ったのである。日本でも有数の急勾配がある国見峠を蒸気機関車があえぎながら走っていた。
 角田・丸森地区では、桑の生育に影響があるので反対したとされるが、負け惜しみでしかない。当時すでに鉄道の優位性は広く知られていたからである。桑に影響の無い事も先に鉄道が通ったところで実証済のことだった。
 稀には情報に疎く、蒸気機関車反対のところも全国の一部にはあったとされる。
 さて、亘理では東北本線に10年遅れだったので、その間は鉄道駅のあるところまで行かなければならない。現在の常識では岩沼駅であるが、実際には槻木駅が近いのである。逢隈の箕輪峠を越えての道が意外と近くトンネルも作った。亘理は槻木駅管内であった。
 つい最近の平成27年頃だった。農業センサスという調査票が亘理の各区長当てに来た。それに最寄りの駅が槻木駅とあり、そこまで何分かかりますかという設問があり、区長さん方は驚いたものだった。当時の名残りが農水省の文書にあったということになる。槻木の方々で、亘理は近いという認識をもった人々も多かったとされる。

参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)(記:鈴木仁)


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# by tyama2001 | 2019-09-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
                    令和元 年8月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫

大正の頃(5) 電灯がつく

 現代人は近代文明の種々な恩恵を受けているが、電灯もその一つである。
 明治12年(1890年)に発明王エジソンのなかで最も偉大だとされる「白熱電球」を作りだした。瞬く間に世界中に普及していった。光りを出すフィラメントに、京都の嵯峨野にある竹が最も良い材料だったというのは、あまりにも有名な話である。
 東京では電気を使用した「アーク灯」の時代があり道路を照らしていたが、明治19年に電灯がとって変わった。仙台では紡績工場に電動モーターを採用し、その駆動に明治21年に三居沢水力発電所が出来た。電灯のことが伝わると、市内には火力発電所ができ、現在の大倉ダムのあたりにも水力発電所ができて、仙台では多くの家庭に電灯がともった。
 亘理郡に電気がくるまでには若干の時間を要した。大正に入る前年の明治44年(1911年)に亘理の町中に電灯がついた。
 阿武隈川を電力の電線を渡すのに苦労したのである。岩沼の玉崎と亘理逢隈の田沢との間に巨大な電柱を建てた。これが現代の如く鉄骨を組み立てたものか、巨木を立てたものなのかを筆者は知らない。
(ご存じの方がいたら教えてほしい)東北電力もわからないの回答。 旧国道6号線沿いにコールタールを塗った木材の電柱が立てられ、亘理の南町まで電気が通じた。亘理で最初の契約戸数は380戸であった。電気料金は10燭光(10ワット)の月間契約で55銭だった。
 (当時は1円で米が6Kg買えた時代である)当時の家屋の、天井に近い柱には、電線を導くための、円筒の小さな白い碍子が2m程度の間隔で取り付けられていたのを記憶されている方も多いであろう。
 現在の如く、塩化ビニールに覆われた並行電線などの無い時代だったので電線が2本、別々の碍子をたどって、天井からぶらさがる電球ソケットへとつながった。 電気が当時の吉田村を通り山下村へ通じるのには、さらに時間を要した。大正10年1月1日が開通日だった。
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 亘理では、国道沿いでなかった家には、なかなか電気が行かなかった。他家の軒下に碍子をつけさせてもらったり、自費で電柱を立てたりの苦労があった。
 しかし、ランプでの生活から電灯へは夜の生活を一変させたのである。
 その後、明治41年(1908年)にタングステン線によるフィラメント白熱電球が発明され電灯の寿命は飛躍的にのびたのである。
 亘理に電灯がついた明治44年頃には、このタングステン電球だったのかもしれない。この裸電球はとにかく熱かった。昭和30年頃でも同様な電球だった。100ワットともなると素手で掴むことができなかった。
 光に変換される電力はごくわずかで、大半は熱のエネルギーとして使われ効率の悪いことはなはだしかった。
 その後に蛍光灯ができ、同じワット数ながら格段に明るかった。 現在はLED電球へと進歩して、寿命は比べものにならないくらいに長くなったし、電力料金も格段に安くなった。究極の明りではないかとさえ思える。
 昭和の終わり頃まで、電柱の上には大きなトランスがのっていた。これも徐々に進歩して、今は当時とは見違えるほどに小型化された。家庭用に電圧を変換するトランスも熱をもつので放熱するために外観がヒダヒダのものだった。さらに冷却オイルには有害なPCBを含むものだったのである。これも現在は丸いつるつるのトランスとなっている。
 下に紹介するのは当会理事長千石信夫宅にある「明治末頃」との記述がある、山下村牛橋の写真である。その頃山下には未だ電気が通じていないはずだが、電柱らしきものが見えている(楕円内)。拡大すると電線のようなものまで見えるのである。公式記録では大正10年に山下の町場にようやく電気が通るのでそれより10年も早いミステリーな写真である。

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参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)    (記:鈴木仁)  

 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。   


# by tyama2001 | 2019-08-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
 山元町の古民家に、薬用に用いる植物、キハダ(写真1)が栽培されております。かねてより山元町の「伊達むらさき」に注目して研究を行っている東北福祉大学の小野木准教授は薬剤師の資格を有しており、キハダの周皮(黄色い皮の部分)に関心があるとのことでしたので、当NPOがキハダの伐採・周皮の観察会を企画し、7月20日に実施いたしました。

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写真1. キハダが栽培されている様子

 キハダの周皮は梅雨明けの前後に伐採すると剥ぎ易いとの情報を小野木准教授から聞いていたため、この時期の伐採となりました。また今回の企画には、同じく「伊達むらさき」を研究している城西大学生薬研究室の研究者(白瀧教授、鈴木准教授、北村助教及び大学院生2名)も参加し、大いに賑わいました。周皮(黄色い皮の部分)を採取(写真2~4)し、表皮が一部残った周皮(写真5)を観察すると、皆、不思議がっておりました。小野木准教授によると、キハダの周皮は天日乾燥されて「オウバク」という生薬として用いられること、大学の研究者でも実際に木を伐採して周皮を採取する体験をすることは稀ではないか、とのことでした。

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   写真2. 伐採木より周皮を剥ぐ

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   写真3. 表皮と周皮の様子 

   
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写真4. NPOメンバーと大学の研究者が協力して周皮を採取 


  
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写真5. 表皮が一部残った周皮


 キハダの伐採と周皮の採取・観察会の後、NPOの月例会(写真6)が行われ、東北福祉大学と城西大学の研究者もオブザーバーとして参加してもらいました。月例会では山元町の農家さんよりご提供いただいた朝採りの伊達むらさきのお浸し(写真7)を試食しながら、伊達むらさきの話や山元町の農業、生薬植物などの情報を共有するなど、活発な意見交換ができました。また、伊達むらさきに限らず、山元町の古民家という、新たな街の魅力に気づかされた企画でした。


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写真6. NPO月例会の様子


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写真7. 伊達むらさきのお浸し

# by tyama2001 | 2019-07-27 09:52 | 亘理・山元ニュース
元年年7月 1日
 NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫

大正の頃(4) 養蚕 <後>

 日本の養蚕業が全盛期に向かった大正期に、最も問題とされたのは品質のバラツキであった。宮城県内には多数の蚕種製造業者がいて、病気を持った蚕種や粗悪品も出回っていた。
 これらの業者に、病原菌もなく優れた蚕種を製造させるために「原蚕種」を配布するのが喫緊の課題とされたのである。
 この「原蚕種」製造所の設置を巡って、県内各地から猛烈な誘致の陳情合戦が行われた。 養蚕学校があったことにもよるが、時あたかも宮城県会議長が亘理の武田吉平(酒造業者)だった。その手腕もあって、大正6年11月の県議会において、「宮城県原蚕種製造所」が亘理に設置することが可決された。
 大正8年に亘理町館南の養蚕学校近くに250坪もの大型木造建築物ができた。蚕室、事務室などを含むものである。その後、大正13年には名前を「宮城県養蚕試験場」と改めた。
 原蚕種製造以外にも蚕業技術員の講習や試験研究なども併せもつことになった。
 さらに昭和7年に「原蚕種国家管理法」が施行され、蚕種検査室なども設けられた。
 下の写真帳は、その頃に発行されたものと思われる。





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 「宮城県蚕業取締所亘理支所」の文字が見える。難しい漢字で、現在とは逆向きで文字がかいてある。また右の写真は多数の女子検査工員が拡大鏡を用いて、蚕種紙を検査している様子である。
 この頃になると、京都からも高級技師が赴任してくるようになった。
 赴任者の中には、家族ともどもそのまま亘理に住み着いた人もいた。
 その技師一家の息子さんには、嫁さんは京都人でないといけないと、わざわざこの田舎に輿入れいただいたご婦人もいる。
 亘理町館南一帯は、宮城県きっての一大養蚕基地となったのである。旧亘理城(要害)の大手門から南西の広い土地に蚕業関連の各種建物が存在していた。官舎もあった。ここで昭和11年に生まれ仙台に住む知人は、わずか生後数ケ月で父親が転勤となったが、亘理に限りないシンパシーを持っているとのことだった。
 仙台から通勤していた県庁職員の方が、そのまま亘理に婿入りしてしまった人もいる。
 話がやや昭和に逆戻りしてしまったが、大正初期(2年)の亘理郡での蚕種業者と金額は以下の通りで、山下村に勢いのあったことがわかる。 ( )内は製造者戸数

   山下村    30,598円 (14戸)
   坂元村     263円 ( 1戸)
   亘理町    2,265円 ( 3戸)
   吉田村     -----
   逢隈村    4,652円 ( 8戸)
   荒浜村     -----

   亘理郡合計  37,769円 (26戸)

 ここで吉田村が抜けているのは統計ミスだったとされる。明治22年に亘理郡に近代養蚕をもたらしたとされる吉田村の鈴木吉太郎さん他1軒が、昭和12年まで絶えることなく操業を続けてきていたというのである。
 さて「蚕種」とは何かということだが、文字通り蚕の卵で、それを厚手の和紙に多数産みつけた「蚕種紙」というのが販売されていたのである。大きさは現代のA4版程度であった。この卵から生まれるのが「さなぎ」である。さなぎの保育器であり成長の場所でもあるのが 蚕棚と呼ばれるのが下の写真である。

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竹で編まれた直径1m程度、高さ5cmくらいの薄い籠である。ここで「さなぎ」は桑の葉を与えられ育っていく。
 ある時期になると、さなぎは白色から微妙に色が変化して糸を吐き出す時期がきたことがわかる。
 自らの体の周囲に繭を作っていくのである。 繭の光沢が品質を決めた。この段階で普通は仲買人に買いとられ、伊具郡の金山にあった佐野製糸場に運ばれた。馬の背に荷物を振り分けて、山下村の明通峠を越えて行くのである。この生繭は時期が遅れると中のさなぎが羽化して飛び立つときに繭が壊れるので、速やかに高温で処理して中のさなぎを殺すのである。1個のさなぎからは約1kmもの糸がとれ、これを数本より合わせて1本の絹糸となるのである。
 この仲買人には、当初亘理郡でも名のある商人がやっていたが、大変な利益が出る事から我も我もと新規参入が相次いだことより、大正末には免許制となった。
 「蚕」のことは、現在では忘れられつつあるが、伝統を残さんと丸森の大張小学校では教育に取り入れられ、皇居では上皇后美智子さまが育てられていることがニュースになっている。

 参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)        (記:鈴木仁)

 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。

# by tyama2001 | 2019-07-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
                               令和元年 6月 1日
                                NPO法人
                               亘理山元まちおこし振興会
                               発行人・理事長:千石 信夫

大正の頃(3) 養蚕 <前>

 大正時代に日本の主力産業は養蚕業であった。輸出総額の三分の一を占めていた。生糸である。農業のかたわらで糸を作るための軽工業が盛んだった。
 亘理郡でも同様に養蚕業が盛んだった。農家の半数が蚕を養っていた。副業としてはもってこいで女子や老人でも作業ができ、貴重な現金収入を得ていたのである。
 作業小屋のみならず、母屋にも蚕を置く家が増えて、この頃に建築された家は大型のものが多い。逢隈・亘理・吉田・山下・坂元各地区にはお城の如き大きな家があった。
 桑畑も多く、畑地の半分が桑だった時代もある。今なお、荒れた畑に桑の木が自生しているところがある。桑畑があれば誰もが、繭を生産できたのである。
 当時の繭相場は、1石(10貫:37.5kg)が米3石(450kg)であるとされた。 1坪(3.3㎡)の繭小屋があると1貫の繭が出来たとされる。
 4名の家族が50貫の繭をつくっていた。すなわち5石であり米に換算すると15石の生産であった。結構な金額になった。(写真は桑を食べる蚕と、繭3個と桑の葉である)

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蚕は昔からあったが、仙台藩伊達家の4代目すなわち1700年頃に京都から織物師を招き養蚕業を積極的に推奨するようになった。
 仙南地方では、伊具郡丸森の金山地区が先進地域だった。蚕の敵はネズミなのである。ネズミ退治に猫を大事にしてきた。このため丸森町全域にわたり猫神社といわれるものが、百にもおよぶ。石に猫を掘った猫石神や神殿を備えたものもある。

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 だが亘理郡では、ほとんどみない。確認されているのは逢隈の二体のみとされている。これは亘理で蚕業が本格的に盛んになるのが明治期以降であり、もはや近代養蚕業といわれるもので、猫神様に頼る時代ではなくなったからである。
 明治10年に仙台市大町に養蚕試験場ができ、12年には「養蚕組合規則」ができ、1郡を1区としてお互いに連携を取り合い、何事も秘匿せず生産と品質の向上に努めるというような内容である。これに基づき明治19年には「亘理蚕糸組合」ができる。
 しかし、その後生糸の暴落や組合内部のまとまりを欠いたことで30年に解散してしまう。
 養蚕の技術が十分に発達していないことも大きな原因だった。
 小堤村(旧亘理)の大半は地味が悪かった。それでも自家生産する人たちがいたのである。 亘理郡の生糸の主力生産地は明治当時では、坂元本郷、鷲足村、長瀞村、浅生原村、高瀬村、八手庭村、真庭村・・など現在の山元町が主力だった。生産量は年間284貫だった。

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 さて、明治30年に組合が解散したときにその組合長である渡辺作十郎は、原因は教育にありと感じた。奇篤な人だった。亘理郡長に「簡易養蚕学校」設立の申し出を行い、300円を寄付金として設立資金にしてほしいと申し出たのである。郡長は文部大臣に学校設立の許可と同時に国庫補助金を要請したのである。明治32年に「亘理郡立養蚕学校」の設立が認められた。
 場所は、亘理伊達家の学問所であった「日就館」跡地である。現在は亘理高校になっている。校舎建設費用として国から5千円、県から2千円、寄付金千円が当てられた。当時としては極めて多額であった。教育期間は2年。初期の卒業生は県内各地より養蚕教師として招かれ、宮城県の養蚕は亘理の卒業生によって発展したとされる。
 大正3年の学校の記録によれば
       校長、教職員    8名
       生徒 一年生 28名  二年生  32名   計60名
  教育に要する費用は、職員給与2千円  実習、他費用 3千円   計5千円   収入は国補助6百円、県補助5百円、郡費3千円、収穫物販売など  計5千円
 この学校は、大正末に郡立から「県立」となるのだがそこに面白い逸話がある。かつて養蚕では先進地だった伊具郡が亘理郡にすっかりお株を奪われてしまい、残念なことこの上なかったのである。伊具出身の県会議員がこの機会を捉えて、一発逆転の構想を練り、伊具に県立養蚕学校をもってくるべく暗躍し、県議の過半数に根回しを終えたのである。
 明日が議会という夜に河北新報の赤坂記者がその情報を得た。飲み仲間であった亘理県議永田万吉の宿に駆けつけた。万吉は一大事とばかり夜中に寝巻姿のまま、各県議の宿を回り説得を続け、ようやく事なきを得たと言う話がある。新聞社も情報管理など問題にしないのどかな時代でもあったのだろう。(郷土わたり12号より)
 参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)        (記:鈴木仁)


の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。      

# by tyama2001 | 2019-06-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
令和元年年5月 1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫

大正の頃(2)

 第一回の「国勢調査」が行われたのは大正9年(1921年)のことであるが、亘理郡ではそれに先立つこと7年も前の大正2年に「亘理郡統計書」を発行している。 亘理郡は代々、郡長に有能な方が任命されており、第8代目の卯埜さんもその一人で郡の実態をよく調べ上げ、人口のみならず各種の生産額など後世に残る統計書を残している。そのなかから世帯数と人口を見てみよう。( )内は世帯数で、この時代は一戸当たり平均して6人前後の家族だった

(第一表)
      |山下村坂元村|亘理町|吉田村|逢隈村|荒浜村|   郡合計| 備考 |

大正 2年 |6,557|4,000|4,478|3,337|6,451|3,120| 27,943人|
      |(947)|(583)|(740)|( 520)|(919)|(546)| (4,255)戸|

大正 9年 |6,614|4,001|4,590|3,621|6,426|3,154| 28,406人|         現在に続く、5年ごとの国勢調査始まる

大正14年 |7,068|4,355|5,110|4,090|6,730|3,363| 30,716人|

昭和 5年 |7,3464,691|5,287|4,423|7,162|3,734| 32,643人|

      |   ( )内の世帯数は大正2年のみを記す


 大正時代には、山下村が人口・世帯数が一番であり、郡内で勢いのよかったことがわかる。 現在の山元町(山下村+坂元村)は、大震災での打撃が大きかったこともあるが、昭和5年の人口とほぼ同じである。(大正時代には亘理郡の人口が約5千人増加したこともわかる)  平成の末から、日本は人口減少の時代を迎えている。次の時代には亘理郡全体でも、大正の昔に戻るかもしれない。


大正2年の統計資料にある亘理郡の本業とする職業別、世帯数である。        (第二表)

職業 |農 業|養蚕業|漁業|工業|商業|官公吏|労働者|其他|資産者|無業者| 計 |

世帯数|2,558| 25 | 329|241|505|  90 | 332 |200|  63 |  2 |4,345|
 筆者注:(第一表と第二表とで計が90世帯の差異があるが、重複して数えたものがあると思われる。)

 当時のことであるから、副業をされている世帯が多い。特に「養蚕業」を営んでいる方々が多かった。農家のうち約半数の1,232戸が養蚕も兼ねており、他の職業でも126戸が副業としての養蚕を行っていた。
「官公吏」とは現在の公務員であるが、それより農家収入等の方が多かった方が別途65名いて、亘理郡の公務員(官公吏)は計155名であったことがわかる。現在は両町の役場職員や県庁職員、教職員、郵便局、JRなどを合計するとどれほどになるのだろうか。
 本業とする公務員90名の中にも、農業や蚕業を副業としていた方々が三分の一ほどはいたのだから普段は家族にやらせ、世帯主は休日も働いていたのであろう。当時の公務員給料は決して高くはなかったのである。
 「労働者」は、日雇いの人や作男と呼ばれた方々と考えられる。その日給は30銭であったとされ、年間300日働いたとしても年収90円であった。当時は米一石(150kg)が25円であり、米で換算すると540kgだった。米は時代によって大きく価値が変わるので一概に現在と比較するのは無理であるが生活は相当に厳しかったとおもわれる。現在ならわずか1反歩の収量でしかない。当時の収量は今の半分程度なので、2反歩相当の働きでしかなかったのである。
 「資産者」とは、文字通り地主さんである。この地主さん方は63世帯で亘理郡全体の田畑の55%を所有していたのである。
 工業とは現在の如きものではなく、酒、味噌、醤油などの醸造業や瓦の製造、蚕に関する種子とか道具の製造などを指す。

以下の表は、上記と同じ大正2年の生産額である。当時の1円では米6Kgが買えた。
(第三表)                             (単位千円)

      | 山下村 坂元村 | 亘理町| 吉田村 | 逢隈村| 荒浜村|   郡合計| 備考 |

農産物   |  289 | 112.4 | 89.1| 125.9 | 221.8| 22.9|    860.8|
()は繭産額 |(113.8)|(37.8)| (32.8)| (32.8)|(56.3)| (7.4) |   (280.9)|

畜産    |  5,4|  2.2|  1.9|  3.5|  8.6|  1.2|    22.8|    

林業    |  14.6|  8.2|  0.4|  7.0| 12.3|  2.4|   44.9|

水産    |  3.6|  8.5|   0|  3.5|  2.3| 54.2|   72.0|

工業    |  28.3|  2.0|  53.5|  6.8| 11.8|  1.3|  103.8|
合計    | 340.5| 133.4| 144.9| 146.6| 256.7|  82.1| 1,104.3|

注①荒浜村の林業生産が気になるが、山が無いのだから海岸の松を切ったのだろうか?
  ②第三表は、あくまで生産金額を示すもので商業は抜けている。亘理町が少ないのは、このためであろう。当時としては、すばらしい統計であったが、その年(大正2年)に大型台風による大洪水があり秋の収穫に逢隈村と荒浜村が大打撃を受け、通常はもう少し高い生産額だったようだ。 

   参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)    (記:鈴木仁)  

の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。   

# by tyama2001 | 2019-05-10 14:46 | 亘理・山元ニュース
平成31年4月1日
NPO法人亘理山元まちおこし振興会 
発行人・理事長 千石 信夫

郷土の歴史を遡って知ろう!(第13号)

大正の頃(1)亘理郡の時代と終焉

 大正末までは「亘理郡長」さんがいた。亘理郡6町村の上に立つ人で宮城県への請願や県知事からの指示などは、すべからく郡長さんを通じておこなわれていた。
 亘理郡は文字通り一つだったのである。だが郡は現在、住居表示に使われるに過ぎない。
 従って、亘理「郡会議員」もいたのである。明治22年に亘理郡6町村が出来上がったのだが、まだ町村が独自に行政をおこなうには未熟だと考えられたようで明治27年に郡制度の行政単位が発足した。従って「郡役所」もあった。現在の亘理町役場のところである。古い建屋が昭和20年代まで存続していた。町村議会議員・郡会議員・県会議員といたのである。
 だが時代が進むにつれて、中2階的な「郡制度」は不必要だということになり、大正12年に廃止が決まった。郡有財産の残務整理などがあり大正15年に至り消滅した。
 大都会では、大正ロマンなどという言葉もできて、近代日本の幕開けの時代ともいわれたが、郡部ではまだまだ貧しかった。昭和へと続く凶作におそわれていた。
 モダンガールなどと言われた、洋装のハイカラな女性が登場したのもこの頃である。しかし田舎ではモンペ姿の女性が多かったのである。
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 ハンドバックも登場し、和装の美人によく似合うものであった。
 大正12年9月1日(現在は全国防災の日になっている)のお昼に関東大震災が発生した。
 亘理でもかなりの揺れを長時間感じている。県知事から亘理郡長にも救援に関しての召喚があり米穀業者が来庁するようにとのことで分銅商店の伝吉さんが県庁に向かった。報告を受けた郡長は県の意向知り、当時の大地主の代表格だった永田万吉、山田周吉(現亘理町長の曽祖父)を訪問し相談の結果、有力地主や米穀業者・精米業者を集めた会議を持ったのである。白米2000俵を出す事を決めて、県庁に報告したところ玄米もOkとのことだった。

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 9月5日には,亘理駅より白米320表と玄米210俵が貨車に積まれ出発している。途中で坂元駅よりも玄米10俵が加わった。亘理駅には貨物列車の引き込み線が昭和の終わり頃までは存在しており貨車もあった。その引き込み線の西側には、大きな米倉庫があった。現在のカラオケバー「うた蔵ぶ」に建物の名残りがある。仙台からの貨物列車が、それぞれの駅で貨車をつなぎながら走っていったことと思われる。(当時の仙台貨物駅は宮城野原駅だった:現在の楽天スタジアム付近)
 当時としては、かなり迅速な動きだったと言える。
 さらに亘理郡からの青年団員30名が応援隊員として9月6日夕刻に自炊の米・味噌などを背負い上野行きの列車に乗った。7日間ほど活動して帰着している。現代でいうボランティアだ。港についた外国船からの救援物資陸揚げや隅田川の清掃作業を行った。
 だが、救援米には後日談がある。第2回目以降は、県より仙台の第二師団を経由して送るようにとの指示だった。裏に第二師団は軍用米として没収する意図があった。県庁はそれでは困ると軍との間で20日間も揉めたのである。しかし軍の横槍に押し切られてしまった。折角の救援米の大半が東京には届かなかったのである。
 大正時代は都会の繁栄とは別に農村の困窮を代表するものとして、亘理郡坂元村に宮城県では最初の「坂元村公益質庫」が設置された。大正9年(1920年)のことである。10月に徳本寺で村民総会が招集され、村議会で議決された。この年は半作でしかなかった。 金利は月1%である。年利にすると12%になる。 質物は、日用家具・衣類など確実な動産に限るとある。特別な場合には田畑であってもかまわないとあった。
 ずっと後年の昭和10年まで公益質屋は継続し助かった人たちが多くいた。
 宮城県では、2年遅れての大正11年に設置がはじまり、「公益質屋法」が公布されたのはさらに5年が過ぎた昭和2年のことである。 一方で、第一次世界大戦の戦勝国となった日本は好景気に恵まれ、銀行も地方にやってきた。今では誰も記憶していないであろう名前の銀行が3つあった。宮城貯蓄銀行・宮城商業銀行・東北実業銀行である。亘理郡内に進出して営業所を出し互いに競争しながら張り合っていた。だがこれら3行も昭和7年には七十七銀行と合併することになる。
 亘理町新井町に堂々たる銀行があった。東北実業銀行亘理支店として大正13年に新築されたもので、その後昭和を通じて七十七銀行の支店としてなじまれた。若い方々には徳陽相互銀行が知られていると思うが、昭和38年に亘理支店が開設したもので、その消滅の様子は読者の方で詳しい方もいると思うので省略します。

    参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)   (記:鈴木仁)

の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。  
    

# by tyama2001 | 2019-04-01 00:00 | 亘理・山元ニュース