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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001
令和元年9月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫

明治時代(1) 鉄道開通

 文明開化で日本人は沢山の恩恵を受けたが、最も大きかったのは鉄道ではないだろうか。
 それまで移動手段として人々は歩いていた、荷物は馬車を使うしかなかった。東京(江戸)までは7日間を要した。亘理―仙台も5時間以上かかった。
 明治5年に東京―横浜間の鉄道が開通し、主要都市に向けて徐々に広がっていった。
 仙台まで東北本線が開通したのは明治20年のことである。常磐線はさらに10年遅れて明治30年になる。
 鉄道路線をどういうルートにするのかとか、駅の設置について様々なことがあった。
 仙台駅も本来なら、長町駅を出てから人家の少ないところを通過して、現在の宮城野原貨物駅(楽天球場付近)に予定されていた。
 しかし、市街地を遠く離れたところに設置されては仙台の繁栄はあり得ないとして、当時の政財界を上げて猛烈な陳情を行った。その結果、現在にみるような線路がグニャリと曲がる形で市街地に入り込み仙台駅ができた。

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 すなわち、当時からすでに町の繁栄と鉄道は切っても切れない関係にあることが認識されていたのである。
 さて、常磐線の場合はどうであったのか、上野から始まり最終区間である相馬―岩沼間のルートを旧国道6号線沿いに坂元・山下の市街地近くを通す案があった。しかし残念ながら鉄道開通に関する地元の熱意がなかったとされる。
 鉄道事業は、現在のごとくJRに一本化したものではなく、工事会社が別にあった。
 そうなると、建設は勢い楽な方向へと流れる。人家の無いところを直線で結ぶことになってしまう。駅の数も少ない方がよい。
 新地駅を出てから坂元駅そして浜吉田駅まで直線で11km、さらに直線が続き亘理駅は荒浜街道の鳥屋崎付近、さらに真っ直ぐに進み阿武隈川を渡ってから、東北本線の岩沼駅に曲がるという設計図のようだった。

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 しかし、それでは困ると猛反対して亘理市街地に持ってくるべく、時の町長武田万次郎をはじめとして、亘理の商工人が一体となり陳情を重ねた結果、浜吉田駅を過ぎてから亘理へと大きく曲がる現在の如きルートができたのである。
 山下村では駅を作ることもなく、50年もそのままに放置されてしまったのである。
 戦後の昭和24年に至り、ようやく山下駅ができたのだった。
 新しく駅を作るには、工事費用のみならず単線なので駅の部分を二股線路にしなければならず、周辺に広い土地を必要とするのである。
 山下駅開設には、大きなエネルギーが必要であった。リーダーに立ったのは、その周辺に土地を持った「斎藤忠人」であった。郵便局長をしていた。彼の所有する土地を無償で提供した。郵便物も鉄道で運ばれてくるのだから駅がないのは不便なことこの上ない。
 駅ができてずっと後になってからのことだが、彼の功績を顕彰しようという機運が出てきて、胸像が立てられた。しかし不幸にして3.11大震災により倒されてしまった。
 新しい山下駅は、ずっと内陸部に移設され高架の線路が建設され、従来のルートは忘れ去られたようになっている。新駅の周辺は「つばめの杜」として山下の中心街を形成しつつある。
 さて旧山下駅の恩人たる「斎藤忠人」の胸像は、旧駅舎トイレの裏にポツンと置かれたままである。大震災後8年半が過ぎた現在、あまりにもわびしいことである。
 山元町役場も新築になり、目に見える形で復旧・復興が進んでいる現在、胸像はしかるべき場所に設置しなおして、その歴史をきちんと伝えるべきであろう。
 鉄道が通らなかった不便さはどこでも同様であった。福島まで来ていた当初の東北本線の計画は平坦地である角田・丸森地区を通る予定だった。ところが、白石・大河原・船岡などの誘致活動が勝ったのである。日本でも有数の急勾配がある国見峠を蒸気機関車があえぎながら走っていた。
 角田・丸森地区では、桑の生育に影響があるので反対したとされるが、負け惜しみでしかない。当時すでに鉄道の優位性は広く知られていたからである。桑に影響の無い事も先に鉄道が通ったところで実証済のことだった。
 稀には情報に疎く、蒸気機関車反対のところも全国の一部にはあったとされる。
 さて、亘理では東北本線に10年遅れだったので、その間は鉄道駅のあるところまで行かなければならない。現在の常識では岩沼駅であるが、実際には槻木駅が近いのである。逢隈の箕輪峠を越えての道が意外と近くトンネルも作った。亘理は槻木駅管内であった。
 つい最近の平成27年頃だった。農業センサスという調査票が亘理の各区長当てに来た。それに最寄りの駅が槻木駅とあり、そこまで何分かかりますかという設問があり、区長さん方は驚いたものだった。当時の名残りが農水省の文書にあったということになる。槻木の方々で、亘理は近いという認識をもった人々も多かったとされる。

参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)(記:鈴木仁)


  の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。   

    

# by tyama2001 | 2019-09-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
                    令和元 年8月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫

大正の頃(5) 電灯がつく

 現代人は近代文明の種々な恩恵を受けているが、電灯もその一つである。
 明治12年(1890年)に発明王エジソンのなかで最も偉大だとされる「白熱電球」を作りだした。瞬く間に世界中に普及していった。光りを出すフィラメントに、京都の嵯峨野にある竹が最も良い材料だったというのは、あまりにも有名な話である。
 東京では電気を使用した「アーク灯」の時代があり道路を照らしていたが、明治19年に電灯がとって変わった。仙台では紡績工場に電動モーターを採用し、その駆動に明治21年に三居沢水力発電所が出来た。電灯のことが伝わると、市内には火力発電所ができ、現在の大倉ダムのあたりにも水力発電所ができて、仙台では多くの家庭に電灯がともった。
 亘理郡に電気がくるまでには若干の時間を要した。大正に入る前年の明治44年(1911年)に亘理の町中に電灯がついた。
 阿武隈川を電力の電線を渡すのに苦労したのである。岩沼の玉崎と亘理逢隈の田沢との間に巨大な電柱を建てた。これが現代の如く鉄骨を組み立てたものか、巨木を立てたものなのかを筆者は知らない。
(ご存じの方がいたら教えてほしい)東北電力もわからないの回答。 旧国道6号線沿いにコールタールを塗った木材の電柱が立てられ、亘理の南町まで電気が通じた。亘理で最初の契約戸数は380戸であった。電気料金は10燭光(10ワット)の月間契約で55銭だった。
 (当時は1円で米が6Kg買えた時代である)当時の家屋の、天井に近い柱には、電線を導くための、円筒の小さな白い碍子が2m程度の間隔で取り付けられていたのを記憶されている方も多いであろう。
 現在の如く、塩化ビニールに覆われた並行電線などの無い時代だったので電線が2本、別々の碍子をたどって、天井からぶらさがる電球ソケットへとつながった。 電気が当時の吉田村を通り山下村へ通じるのには、さらに時間を要した。大正10年1月1日が開通日だった。
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 亘理では、国道沿いでなかった家には、なかなか電気が行かなかった。他家の軒下に碍子をつけさせてもらったり、自費で電柱を立てたりの苦労があった。
 しかし、ランプでの生活から電灯へは夜の生活を一変させたのである。
 その後、明治41年(1908年)にタングステン線によるフィラメント白熱電球が発明され電灯の寿命は飛躍的にのびたのである。
 亘理に電灯がついた明治44年頃には、このタングステン電球だったのかもしれない。この裸電球はとにかく熱かった。昭和30年頃でも同様な電球だった。100ワットともなると素手で掴むことができなかった。
 光に変換される電力はごくわずかで、大半は熱のエネルギーとして使われ効率の悪いことはなはだしかった。
 その後に蛍光灯ができ、同じワット数ながら格段に明るかった。 現在はLED電球へと進歩して、寿命は比べものにならないくらいに長くなったし、電力料金も格段に安くなった。究極の明りではないかとさえ思える。
 昭和の終わり頃まで、電柱の上には大きなトランスがのっていた。これも徐々に進歩して、今は当時とは見違えるほどに小型化された。家庭用に電圧を変換するトランスも熱をもつので放熱するために外観がヒダヒダのものだった。さらに冷却オイルには有害なPCBを含むものだったのである。これも現在は丸いつるつるのトランスとなっている。
 下に紹介するのは当会理事長千石信夫宅にある「明治末頃」との記述がある、山下村牛橋の写真である。その頃山下には未だ電気が通じていないはずだが、電柱らしきものが見えている(楕円内)。拡大すると電線のようなものまで見えるのである。公式記録では大正10年に山下の町場にようやく電気が通るのでそれより10年も早いミステリーな写真である。

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参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)    (記:鈴木仁)  

 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。   


# by tyama2001 | 2019-08-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
 山元町の古民家に、薬用に用いる植物、キハダ(写真1)が栽培されております。かねてより山元町の「伊達むらさき」に注目して研究を行っている東北福祉大学の小野木准教授は薬剤師の資格を有しており、キハダの周皮(黄色い皮の部分)に関心があるとのことでしたので、当NPOがキハダの伐採・周皮の観察会を企画し、7月20日に実施いたしました。

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写真1. キハダが栽培されている様子

 キハダの周皮は梅雨明けの前後に伐採すると剥ぎ易いとの情報を小野木准教授から聞いていたため、この時期の伐採となりました。また今回の企画には、同じく「伊達むらさき」を研究している城西大学生薬研究室の研究者(白瀧教授、鈴木准教授、北村助教及び大学院生2名)も参加し、大いに賑わいました。周皮(黄色い皮の部分)を採取(写真2~4)し、表皮が一部残った周皮(写真5)を観察すると、皆、不思議がっておりました。小野木准教授によると、キハダの周皮は天日乾燥されて「オウバク」という生薬として用いられること、大学の研究者でも実際に木を伐採して周皮を採取する体験をすることは稀ではないか、とのことでした。

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   写真2. 伐採木より周皮を剥ぐ

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   写真3. 表皮と周皮の様子 

   
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写真4. NPOメンバーと大学の研究者が協力して周皮を採取 


  
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写真5. 表皮が一部残った周皮


 キハダの伐採と周皮の採取・観察会の後、NPOの月例会(写真6)が行われ、東北福祉大学と城西大学の研究者もオブザーバーとして参加してもらいました。月例会では山元町の農家さんよりご提供いただいた朝採りの伊達むらさきのお浸し(写真7)を試食しながら、伊達むらさきの話や山元町の農業、生薬植物などの情報を共有するなど、活発な意見交換ができました。また、伊達むらさきに限らず、山元町の古民家という、新たな街の魅力に気づかされた企画でした。


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写真6. NPO月例会の様子


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写真7. 伊達むらさきのお浸し

# by tyama2001 | 2019-07-27 09:52 | 亘理・山元ニュース
元年年7月 1日
 NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫

大正の頃(4) 養蚕 <後>

 日本の養蚕業が全盛期に向かった大正期に、最も問題とされたのは品質のバラツキであった。宮城県内には多数の蚕種製造業者がいて、病気を持った蚕種や粗悪品も出回っていた。
 これらの業者に、病原菌もなく優れた蚕種を製造させるために「原蚕種」を配布するのが喫緊の課題とされたのである。
 この「原蚕種」製造所の設置を巡って、県内各地から猛烈な誘致の陳情合戦が行われた。 養蚕学校があったことにもよるが、時あたかも宮城県会議長が亘理の武田吉平(酒造業者)だった。その手腕もあって、大正6年11月の県議会において、「宮城県原蚕種製造所」が亘理に設置することが可決された。
 大正8年に亘理町館南の養蚕学校近くに250坪もの大型木造建築物ができた。蚕室、事務室などを含むものである。その後、大正13年には名前を「宮城県養蚕試験場」と改めた。
 原蚕種製造以外にも蚕業技術員の講習や試験研究なども併せもつことになった。
 さらに昭和7年に「原蚕種国家管理法」が施行され、蚕種検査室なども設けられた。
 下の写真帳は、その頃に発行されたものと思われる。





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 「宮城県蚕業取締所亘理支所」の文字が見える。難しい漢字で、現在とは逆向きで文字がかいてある。また右の写真は多数の女子検査工員が拡大鏡を用いて、蚕種紙を検査している様子である。
 この頃になると、京都からも高級技師が赴任してくるようになった。
 赴任者の中には、家族ともどもそのまま亘理に住み着いた人もいた。
 その技師一家の息子さんには、嫁さんは京都人でないといけないと、わざわざこの田舎に輿入れいただいたご婦人もいる。
 亘理町館南一帯は、宮城県きっての一大養蚕基地となったのである。旧亘理城(要害)の大手門から南西の広い土地に蚕業関連の各種建物が存在していた。官舎もあった。ここで昭和11年に生まれ仙台に住む知人は、わずか生後数ケ月で父親が転勤となったが、亘理に限りないシンパシーを持っているとのことだった。
 仙台から通勤していた県庁職員の方が、そのまま亘理に婿入りしてしまった人もいる。
 話がやや昭和に逆戻りしてしまったが、大正初期(2年)の亘理郡での蚕種業者と金額は以下の通りで、山下村に勢いのあったことがわかる。 ( )内は製造者戸数

   山下村    30,598円 (14戸)
   坂元村     263円 ( 1戸)
   亘理町    2,265円 ( 3戸)
   吉田村     -----
   逢隈村    4,652円 ( 8戸)
   荒浜村     -----

   亘理郡合計  37,769円 (26戸)

 ここで吉田村が抜けているのは統計ミスだったとされる。明治22年に亘理郡に近代養蚕をもたらしたとされる吉田村の鈴木吉太郎さん他1軒が、昭和12年まで絶えることなく操業を続けてきていたというのである。
 さて「蚕種」とは何かということだが、文字通り蚕の卵で、それを厚手の和紙に多数産みつけた「蚕種紙」というのが販売されていたのである。大きさは現代のA4版程度であった。この卵から生まれるのが「さなぎ」である。さなぎの保育器であり成長の場所でもあるのが 蚕棚と呼ばれるのが下の写真である。

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竹で編まれた直径1m程度、高さ5cmくらいの薄い籠である。ここで「さなぎ」は桑の葉を与えられ育っていく。
 ある時期になると、さなぎは白色から微妙に色が変化して糸を吐き出す時期がきたことがわかる。
 自らの体の周囲に繭を作っていくのである。 繭の光沢が品質を決めた。この段階で普通は仲買人に買いとられ、伊具郡の金山にあった佐野製糸場に運ばれた。馬の背に荷物を振り分けて、山下村の明通峠を越えて行くのである。この生繭は時期が遅れると中のさなぎが羽化して飛び立つときに繭が壊れるので、速やかに高温で処理して中のさなぎを殺すのである。1個のさなぎからは約1kmもの糸がとれ、これを数本より合わせて1本の絹糸となるのである。
 この仲買人には、当初亘理郡でも名のある商人がやっていたが、大変な利益が出る事から我も我もと新規参入が相次いだことより、大正末には免許制となった。
 「蚕」のことは、現在では忘れられつつあるが、伝統を残さんと丸森の大張小学校では教育に取り入れられ、皇居では上皇后美智子さまが育てられていることがニュースになっている。

 参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)        (記:鈴木仁)

 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。

# by tyama2001 | 2019-07-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
                               令和元年 6月 1日
                                NPO法人
                               亘理山元まちおこし振興会
                               発行人・理事長:千石 信夫

大正の頃(3) 養蚕 <前>

 大正時代に日本の主力産業は養蚕業であった。輸出総額の三分の一を占めていた。生糸である。農業のかたわらで糸を作るための軽工業が盛んだった。
 亘理郡でも同様に養蚕業が盛んだった。農家の半数が蚕を養っていた。副業としてはもってこいで女子や老人でも作業ができ、貴重な現金収入を得ていたのである。
 作業小屋のみならず、母屋にも蚕を置く家が増えて、この頃に建築された家は大型のものが多い。逢隈・亘理・吉田・山下・坂元各地区にはお城の如き大きな家があった。
 桑畑も多く、畑地の半分が桑だった時代もある。今なお、荒れた畑に桑の木が自生しているところがある。桑畑があれば誰もが、繭を生産できたのである。
 当時の繭相場は、1石(10貫:37.5kg)が米3石(450kg)であるとされた。 1坪(3.3㎡)の繭小屋があると1貫の繭が出来たとされる。
 4名の家族が50貫の繭をつくっていた。すなわち5石であり米に換算すると15石の生産であった。結構な金額になった。(写真は桑を食べる蚕と、繭3個と桑の葉である)

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蚕は昔からあったが、仙台藩伊達家の4代目すなわち1700年頃に京都から織物師を招き養蚕業を積極的に推奨するようになった。
 仙南地方では、伊具郡丸森の金山地区が先進地域だった。蚕の敵はネズミなのである。ネズミ退治に猫を大事にしてきた。このため丸森町全域にわたり猫神社といわれるものが、百にもおよぶ。石に猫を掘った猫石神や神殿を備えたものもある。

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 だが亘理郡では、ほとんどみない。確認されているのは逢隈の二体のみとされている。これは亘理で蚕業が本格的に盛んになるのが明治期以降であり、もはや近代養蚕業といわれるもので、猫神様に頼る時代ではなくなったからである。
 明治10年に仙台市大町に養蚕試験場ができ、12年には「養蚕組合規則」ができ、1郡を1区としてお互いに連携を取り合い、何事も秘匿せず生産と品質の向上に努めるというような内容である。これに基づき明治19年には「亘理蚕糸組合」ができる。
 しかし、その後生糸の暴落や組合内部のまとまりを欠いたことで30年に解散してしまう。
 養蚕の技術が十分に発達していないことも大きな原因だった。
 小堤村(旧亘理)の大半は地味が悪かった。それでも自家生産する人たちがいたのである。 亘理郡の生糸の主力生産地は明治当時では、坂元本郷、鷲足村、長瀞村、浅生原村、高瀬村、八手庭村、真庭村・・など現在の山元町が主力だった。生産量は年間284貫だった。

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 さて、明治30年に組合が解散したときにその組合長である渡辺作十郎は、原因は教育にありと感じた。奇篤な人だった。亘理郡長に「簡易養蚕学校」設立の申し出を行い、300円を寄付金として設立資金にしてほしいと申し出たのである。郡長は文部大臣に学校設立の許可と同時に国庫補助金を要請したのである。明治32年に「亘理郡立養蚕学校」の設立が認められた。
 場所は、亘理伊達家の学問所であった「日就館」跡地である。現在は亘理高校になっている。校舎建設費用として国から5千円、県から2千円、寄付金千円が当てられた。当時としては極めて多額であった。教育期間は2年。初期の卒業生は県内各地より養蚕教師として招かれ、宮城県の養蚕は亘理の卒業生によって発展したとされる。
 大正3年の学校の記録によれば
       校長、教職員    8名
       生徒 一年生 28名  二年生  32名   計60名
  教育に要する費用は、職員給与2千円  実習、他費用 3千円   計5千円   収入は国補助6百円、県補助5百円、郡費3千円、収穫物販売など  計5千円
 この学校は、大正末に郡立から「県立」となるのだがそこに面白い逸話がある。かつて養蚕では先進地だった伊具郡が亘理郡にすっかりお株を奪われてしまい、残念なことこの上なかったのである。伊具出身の県会議員がこの機会を捉えて、一発逆転の構想を練り、伊具に県立養蚕学校をもってくるべく暗躍し、県議の過半数に根回しを終えたのである。
 明日が議会という夜に河北新報の赤坂記者がその情報を得た。飲み仲間であった亘理県議永田万吉の宿に駆けつけた。万吉は一大事とばかり夜中に寝巻姿のまま、各県議の宿を回り説得を続け、ようやく事なきを得たと言う話がある。新聞社も情報管理など問題にしないのどかな時代でもあったのだろう。(郷土わたり12号より)
 参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)        (記:鈴木仁)


の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。      

# by tyama2001 | 2019-06-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
令和元年年5月 1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫

大正の頃(2)

 第一回の「国勢調査」が行われたのは大正9年(1921年)のことであるが、亘理郡ではそれに先立つこと7年も前の大正2年に「亘理郡統計書」を発行している。 亘理郡は代々、郡長に有能な方が任命されており、第8代目の卯埜さんもその一人で郡の実態をよく調べ上げ、人口のみならず各種の生産額など後世に残る統計書を残している。そのなかから世帯数と人口を見てみよう。( )内は世帯数で、この時代は一戸当たり平均して6人前後の家族だった

(第一表)
      |山下村坂元村|亘理町|吉田村|逢隈村|荒浜村|   郡合計| 備考 |

大正 2年 |6,557|4,000|4,478|3,337|6,451|3,120| 27,943人|
      |(947)|(583)|(740)|( 520)|(919)|(546)| (4,255)戸|

大正 9年 |6,614|4,001|4,590|3,621|6,426|3,154| 28,406人|         現在に続く、5年ごとの国勢調査始まる

大正14年 |7,068|4,355|5,110|4,090|6,730|3,363| 30,716人|

昭和 5年 |7,3464,691|5,287|4,423|7,162|3,734| 32,643人|

      |   ( )内の世帯数は大正2年のみを記す


 大正時代には、山下村が人口・世帯数が一番であり、郡内で勢いのよかったことがわかる。 現在の山元町(山下村+坂元村)は、大震災での打撃が大きかったこともあるが、昭和5年の人口とほぼ同じである。(大正時代には亘理郡の人口が約5千人増加したこともわかる)  平成の末から、日本は人口減少の時代を迎えている。次の時代には亘理郡全体でも、大正の昔に戻るかもしれない。


大正2年の統計資料にある亘理郡の本業とする職業別、世帯数である。        (第二表)

職業 |農 業|養蚕業|漁業|工業|商業|官公吏|労働者|其他|資産者|無業者| 計 |

世帯数|2,558| 25 | 329|241|505|  90 | 332 |200|  63 |  2 |4,345|
 筆者注:(第一表と第二表とで計が90世帯の差異があるが、重複して数えたものがあると思われる。)

 当時のことであるから、副業をされている世帯が多い。特に「養蚕業」を営んでいる方々が多かった。農家のうち約半数の1,232戸が養蚕も兼ねており、他の職業でも126戸が副業としての養蚕を行っていた。
「官公吏」とは現在の公務員であるが、それより農家収入等の方が多かった方が別途65名いて、亘理郡の公務員(官公吏)は計155名であったことがわかる。現在は両町の役場職員や県庁職員、教職員、郵便局、JRなどを合計するとどれほどになるのだろうか。
 本業とする公務員90名の中にも、農業や蚕業を副業としていた方々が三分の一ほどはいたのだから普段は家族にやらせ、世帯主は休日も働いていたのであろう。当時の公務員給料は決して高くはなかったのである。
 「労働者」は、日雇いの人や作男と呼ばれた方々と考えられる。その日給は30銭であったとされ、年間300日働いたとしても年収90円であった。当時は米一石(150kg)が25円であり、米で換算すると540kgだった。米は時代によって大きく価値が変わるので一概に現在と比較するのは無理であるが生活は相当に厳しかったとおもわれる。現在ならわずか1反歩の収量でしかない。当時の収量は今の半分程度なので、2反歩相当の働きでしかなかったのである。
 「資産者」とは、文字通り地主さんである。この地主さん方は63世帯で亘理郡全体の田畑の55%を所有していたのである。
 工業とは現在の如きものではなく、酒、味噌、醤油などの醸造業や瓦の製造、蚕に関する種子とか道具の製造などを指す。

以下の表は、上記と同じ大正2年の生産額である。当時の1円では米6Kgが買えた。
(第三表)                             (単位千円)

      | 山下村 坂元村 | 亘理町| 吉田村 | 逢隈村| 荒浜村|   郡合計| 備考 |

農産物   |  289 | 112.4 | 89.1| 125.9 | 221.8| 22.9|    860.8|
()は繭産額 |(113.8)|(37.8)| (32.8)| (32.8)|(56.3)| (7.4) |   (280.9)|

畜産    |  5,4|  2.2|  1.9|  3.5|  8.6|  1.2|    22.8|    

林業    |  14.6|  8.2|  0.4|  7.0| 12.3|  2.4|   44.9|

水産    |  3.6|  8.5|   0|  3.5|  2.3| 54.2|   72.0|

工業    |  28.3|  2.0|  53.5|  6.8| 11.8|  1.3|  103.8|
合計    | 340.5| 133.4| 144.9| 146.6| 256.7|  82.1| 1,104.3|

注①荒浜村の林業生産が気になるが、山が無いのだから海岸の松を切ったのだろうか?
  ②第三表は、あくまで生産金額を示すもので商業は抜けている。亘理町が少ないのは、このためであろう。当時としては、すばらしい統計であったが、その年(大正2年)に大型台風による大洪水があり秋の収穫に逢隈村と荒浜村が大打撃を受け、通常はもう少し高い生産額だったようだ。 

   参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)    (記:鈴木仁)  

の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。   

# by tyama2001 | 2019-05-10 14:46 | 亘理・山元ニュース
平成31年4月1日
NPO法人亘理山元まちおこし振興会 
発行人・理事長 千石 信夫

郷土の歴史を遡って知ろう!(第13号)

大正の頃(1)亘理郡の時代と終焉

 大正末までは「亘理郡長」さんがいた。亘理郡6町村の上に立つ人で宮城県への請願や県知事からの指示などは、すべからく郡長さんを通じておこなわれていた。
 亘理郡は文字通り一つだったのである。だが郡は現在、住居表示に使われるに過ぎない。
 従って、亘理「郡会議員」もいたのである。明治22年に亘理郡6町村が出来上がったのだが、まだ町村が独自に行政をおこなうには未熟だと考えられたようで明治27年に郡制度の行政単位が発足した。従って「郡役所」もあった。現在の亘理町役場のところである。古い建屋が昭和20年代まで存続していた。町村議会議員・郡会議員・県会議員といたのである。
 だが時代が進むにつれて、中2階的な「郡制度」は不必要だということになり、大正12年に廃止が決まった。郡有財産の残務整理などがあり大正15年に至り消滅した。
 大都会では、大正ロマンなどという言葉もできて、近代日本の幕開けの時代ともいわれたが、郡部ではまだまだ貧しかった。昭和へと続く凶作におそわれていた。
 モダンガールなどと言われた、洋装のハイカラな女性が登場したのもこの頃である。しかし田舎ではモンペ姿の女性が多かったのである。
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 ハンドバックも登場し、和装の美人によく似合うものであった。
 大正12年9月1日(現在は全国防災の日になっている)のお昼に関東大震災が発生した。
 亘理でもかなりの揺れを長時間感じている。県知事から亘理郡長にも救援に関しての召喚があり米穀業者が来庁するようにとのことで分銅商店の伝吉さんが県庁に向かった。報告を受けた郡長は県の意向知り、当時の大地主の代表格だった永田万吉、山田周吉(現亘理町長の曽祖父)を訪問し相談の結果、有力地主や米穀業者・精米業者を集めた会議を持ったのである。白米2000俵を出す事を決めて、県庁に報告したところ玄米もOkとのことだった。

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 9月5日には,亘理駅より白米320表と玄米210俵が貨車に積まれ出発している。途中で坂元駅よりも玄米10俵が加わった。亘理駅には貨物列車の引き込み線が昭和の終わり頃までは存在しており貨車もあった。その引き込み線の西側には、大きな米倉庫があった。現在のカラオケバー「うた蔵ぶ」に建物の名残りがある。仙台からの貨物列車が、それぞれの駅で貨車をつなぎながら走っていったことと思われる。(当時の仙台貨物駅は宮城野原駅だった:現在の楽天スタジアム付近)
 当時としては、かなり迅速な動きだったと言える。
 さらに亘理郡からの青年団員30名が応援隊員として9月6日夕刻に自炊の米・味噌などを背負い上野行きの列車に乗った。7日間ほど活動して帰着している。現代でいうボランティアだ。港についた外国船からの救援物資陸揚げや隅田川の清掃作業を行った。
 だが、救援米には後日談がある。第2回目以降は、県より仙台の第二師団を経由して送るようにとの指示だった。裏に第二師団は軍用米として没収する意図があった。県庁はそれでは困ると軍との間で20日間も揉めたのである。しかし軍の横槍に押し切られてしまった。折角の救援米の大半が東京には届かなかったのである。
 大正時代は都会の繁栄とは別に農村の困窮を代表するものとして、亘理郡坂元村に宮城県では最初の「坂元村公益質庫」が設置された。大正9年(1920年)のことである。10月に徳本寺で村民総会が招集され、村議会で議決された。この年は半作でしかなかった。 金利は月1%である。年利にすると12%になる。 質物は、日用家具・衣類など確実な動産に限るとある。特別な場合には田畑であってもかまわないとあった。
 ずっと後年の昭和10年まで公益質屋は継続し助かった人たちが多くいた。
 宮城県では、2年遅れての大正11年に設置がはじまり、「公益質屋法」が公布されたのはさらに5年が過ぎた昭和2年のことである。 一方で、第一次世界大戦の戦勝国となった日本は好景気に恵まれ、銀行も地方にやってきた。今では誰も記憶していないであろう名前の銀行が3つあった。宮城貯蓄銀行・宮城商業銀行・東北実業銀行である。亘理郡内に進出して営業所を出し互いに競争しながら張り合っていた。だがこれら3行も昭和7年には七十七銀行と合併することになる。
 亘理町新井町に堂々たる銀行があった。東北実業銀行亘理支店として大正13年に新築されたもので、その後昭和を通じて七十七銀行の支店としてなじまれた。若い方々には徳陽相互銀行が知られていると思うが、昭和38年に亘理支店が開設したもので、その消滅の様子は読者の方で詳しい方もいると思うので省略します。

    参考文献  山元町誌  亘理町史(下巻)   (記:鈴木仁)

の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。  
    

# by tyama2001 | 2019-04-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
「郷土の歴史を遡って知ろう!」 (第12号)


NPO法人

亘理山元まちおこし振興会

発行人・理事長:千石 信夫


昭和のあれこれ(3)

 昭和4年、亘理町五日町に「旧松浦医院」の今に残る建物が完成した。
 当時は、当然ながら和風建築が主流で、奇抜なデザインの洋風建築が亘理の中心街にできたので、大変な話題になった。90年が過ぎた現在の我々がみてもモダンな感じがする。当時の代表的な亘理郡の医者であった、松浦藤四郎さんが建築したものである。昭和初期はまだ車が通行できる道路も少なく、外国製のオートバイに乗って往診に駆け回っていた。 松浦医院はその後、藤四郎さんの子供さんが眼科を開いていたが、現在は閉院されている。町の文化財に値する建造物だと思っている。
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 山元町では、高瀬の合戦原に昭和14年、「傷痍軍人宮城療養所」として設置された全国18か所のうちの一つがある。広さ東京ドーム4個分程度の広大な敷地に最盛期には1500床もの大病院だった。結核の治療を主体にしていたので、空気清浄なこの地が選ばれた。病院建設当時は何もない原っぱであったが、病院の在職者が住み着き、店ができて国道6号線沿いに町並みができるようになった。
 昭和26年に、職員の全国療養所野球大会があって優勝し病院が大いに活気づいたという記録がある。(亘理郡医師会誌より) しかし結核患者を主な対象とした療養所だったので、ペニシリンなど化学療法の普及で患者数は激減し、昭和45年頃より「脳」関連を主体にした病院に衣替えしている。現在もなお350床の大病院であることに変わりない。
 児童福祉法ができて重度身障児のための県立山下支援学校も構内にある。 広大な敷地も、大震災後に災害公営住宅地として半分近くが供された。その敷地整備の前段階の発掘で、横穴古墳など歴史的な発見が相次いだことは記憶に新しい。

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 昭和期には、数限りないエポックメーキングがあったが、代表的なものは通信と交通ではないのかとおもっている。

 「通信」は、平成が終わろうとする今なお急速な発展を止めていない。現代人は一日のうちでスマホを眺めている時間帯が最も長いのではなかろうかと思う。
 筆者が小学校の頃、すなわち昭和20年代には亘理郡にどれほどの電話があったのだろうか、めずらしいものだった。50人のクラスに一軒のみだった。社会科授業の時に電話のかけかたというので、全員が職員室に連れてゆかれた。今や博物館でしか見られない手回し式発電機のある柱に取り付けるものだった。グルグル回すと電話交換局に発信され電球が点滅する。局内の交換手がジャックをそこに差し込んで、何番ですかと問われる。電話のある生徒の家につないでもらい話が通じることを遠巻きに見ていた。そんな時代だった。電話番号も1番から順にあった。電話交換手は当時の女性の花形職場であった。
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 一般家庭に電話が入るのは昭和33年に「山元町有線放送農業協同組合」が発足し42年から山元町営となるが、昭和55年まで続く有線放送の時代である。
 亘理町では逢隈農協が35年に業務開始、亘理・荒浜・吉田では逢隈とは別に38年に合同で有線放送が開始された。それぞれが独立採算形式で料金を集めていた。
 役場・農協・学校などの公示事項や火災、落し物、迷子の通報まで行われた。この頃から押売りやものもらいが、あとを絶ったと言われている。有線放送とは、普通の家庭では数軒がグループになり、各戸で番号は異なるものの回線はグループに統括されていた。グループの誰かが使っていると話し中になってしまう。おまけに受話器を取り上げると秘話形式でない機器は他人の会話が耳に入ってくるという、今からみると信じがたいものだった。
 亘理の合同有線は昭和46年に電電公社の亘理電報電話局の管下に入った。逢隈のみは地域集団電話として引き継がれた。電話帳に○集と書かれていた時代をご記憶の方も多いと思う。電話料金から必要経費を差し引き、業務委託費を電電公社に支払っていた時代があった。
 この頃の電話料金は距離制でとんでもなく高額であった。昭和37年頃、東京まで一通話3分間200円、大阪400円、九州600円の記憶がある。
 このため電報が大活躍していた。しかしこれも文字数での料金である。「フシツイタ」など、濁点は一文字追加なのでこれで通用した。「ブ ジ ツイタ」と誰もが解釈した。

 昭和40年代にモータリゼーションが起こるまでは、亘理郡でもバスが活躍していた。国道6号線の幹線道路には、坂元から仙台までの仙南交通バス(後に宮城交通)があり停留所も多く便利であった。(昭和30年代~50年代まで)
 鉄道が通らず不便だった角田からは、国鉄バスが亘理駅や山下駅、坂元駅へと峠を越えて来ていた。また、相馬から山元の宮城病院まで福島交通バスが運航していたこともある。荒浜からは仙台行きの直行バスもあった。
 乗合バスの亘理郡での始まりは、昭和2年の山下と亘理間であった。
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 この昭和初めに、坂元の真庭に富田伝助さんという、事業意欲の旺盛な方がいて貨物自動車を購入し亘理と相馬間に定期貨物自動車を走らせた。その後、車を買い増し従業員も10名となったが、昭和16年の開戦後ガソリンが入らず廃業した。

                                (記:鈴木仁)

 尚、恐縮ながら3月までは休刊とします。  4月より大正編を発行予定です。

の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。  






# by tyama2001 | 2018-12-07 13:56 | 亘理・山元ニュース

平成30年11月1日

                           NPO法人

亘理山元まちおこし振興会

発行人 理事長 千石 信夫

昭和のあれこれ(2)

 昭和30年代頃まで、亘理郡の衛生状態はよくなかった。(日本の大都市以外は、いずれも同じようなレべルだったが)
 トイレの人糞は金肥とも呼ばれ、畑の野菜には貴重な肥料だったのである。トイレは母屋の外側に設けられ、満杯になるとこえ桶に汲み取り、それを、こえ溜に移すべく運んだものだった。この作業を「だらかつぎ」と呼んでいたことをご記憶の方々も多いと思う。(人糞と尿の混じったものを「だら」と呼んでいた)
 昭和20年代の人々は、ほとんどが腹の中に回虫を抱えていたものだ。腹痛を起こすと大概は回虫が動きまわってのことだったので「サントニン」という薬品を飲ませられた。回虫が便と一緒に出てくるのである。トイレの下を覗くと、白い虫が動き回っていた。紙も乏しく新聞用紙を揉んで軟くして使ったものだ。
 これを肥料とするのだから、今度は回虫が野菜に卵を産みつける。食べる前に丁寧に洗っても、完全に除去はできない。人間の腹が、この卵を再び育てるのである。
 はなはだ尾籠(ビロウ)な話になってしまったが、50歳以下の方々はこのような事実を全く知らないでしまうものと思って記している。
  図は「こいおけ」をスマートにイメージした。
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 「堆肥」というものもあった。 一間(1.8m)四方、高さ一尺(30cm)の木枠があった。地面に置いて稲わらを敷き詰め、その上に「だら」を撒く、これを繰り返し踏み固めて数日が過ぎると発酵して、なかのわらが引き締まるので、木枠を持ち上げて同じ作業をして、どんどん高くしてゆき、高さがほぼ一間もの立方体状の「堆肥」ができあがる。今度はこれを崩し田んぼや畑に肥やしとして撒いたり、すき込むのである。殆どが素手での作業だった。

 高級な「肥やし」は、牛・馬小屋や豚など家畜小屋から出てくるものだった。小屋の地面には稲わらを敷いておくので、そこに糞尿が落ちて汚れたものを「堆肥」の枠内に運ぶ。ほどよく発酵して、優れた肥料になるのである。70℃以上で発酵すると人間に害を及ぼす病原菌などは死滅してしまうので、思ったほどに汚いものではなくなる。

  昭和20年代は、子供の小遣い稼ぎに「うさぎ」の飼育が流行した。太らせて肉屋さんに売るのである。 アンゴラうさぎという「毛」を刈り取るうさぎもあった。草を食べさせればよいので飼育は比較的楽だった記憶がある。
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 カスミアミという現代では禁止されているが、この網を使って「すずめ」などを捕獲したこともある。カラスも食肉用に供されていた。「モッチ」というネバネバした接着剤の如きものを棒や竹の先につけ捕えるのである。亘理の上郡の人が街中へ、一羽30円程度で売りにきていたものである。結構ボリュームがあった。なんでも食べていたものである。

 燃料も乏しかった。山で拾ってくる地上に落ちた「杉の葉」や枯れ枝が、「カマド」や風呂の貴重な燃料だった。これも子供の仕事である。山からリヤカーに積んでくるのだった。 「亜炭」というのがあった。石炭になる前のものである。火力は弱いが火持ちがよかった。仙台大年寺山や竜の口で産出した。数百万年前の地殻移動によるもので、億年単位で生成される石炭とは比べるべくもないが、燃えるものは、すべて使ったので当然ながら、ゴミなどはなかったのである。

 昭和30年以降になると、徐々にではあるが衛生思想が普及するようになり、33年には集落毎(現在の行政区に近い)に「衛生組合」ができて、春・夏・秋に各戸のトイレなどの消毒作業などをおこなったものである。
 化学肥料なども発達してきて生肥の使用が減じ、し尿処理の必要性が出てきた。ゴミも出るようになった。当初、亘理では昭和38年頃から割山採石場がゴミ捨て場だった。やがてゴミ焼却場の建設が叫ばれ、山元町では昭和50年に高瀬に完成した。亘理では昭和44年に一号機が49年に2号機が完成した。場所は北新田である。現在は東日本コンクリート工場になっている。通称柴町街道の中ほどである。一日に10トンの焼却能力を持っていた。

 土葬もまた非衛生的とされた。山元の療養所からの結核死亡者は野外で木が積まれて火装とされていた。亘理も伝染病患者は同様だったが、昭和38年に石炭式の火葬場ができた。
 山元町では、亘理と合同で新火葬場を作ろうという機運が出て、昭和49年に現在も稼働する近代的な広域行政による火葬場が出来たのである。
 し尿処理についても、昭和40年に岩沼市の早股に完成した施設を広域で利用することになった。バキュームカーという汲み取り車が大活躍することになる。やがて昭和50年代に下水道ができるに及んで、バキューム車も減少してゆく。
 上水道は、少し早かった。山元町では磯地区に昭和38年に簡易水道が完成し次いで、高瀬や浅生原などに地下水を利用した浄水場ができて昭和52年頃には全域に普及した。
 亘理では荒浜など東地区での井戸水が悪かった。昭和37年の検査では70%が飲料に不敵とされた。岩地蔵から阿武隈川の水をくみ上げ大森山浄水場ができたのが昭和41年だった。配管などに莫大な費用を要したのであった。
(記:鈴木仁) 

 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。  

# by tyama2001 | 2018-11-01 17:24 | 亘理・山元ニュース

                              平成30年10月1日
                              NPO法人
                              亘理郡山元まちおこし振興会
                              発行人 理事長 千石 信夫

昭和のあれこれ(1)

 昭和元年は7日間しかなかった。昭和64年も偶然に7日間しかなかったのである。 昭和の実質は62年間であったといえる。
 大正天皇の崩御を知っている方は、亘理郡にはもういなくなったであろう。当時はラジオもまだなかった。新聞報道しかなかったのだから、現代からみると信じがたいことである。
 昭和を生き抜いた人には、余りに出来事が多すぎたので数世代を一挙に体験したようなものだという方々も多い。大きな項目を列挙してみたい。

①電波の恩恵を一般の人びとが受けられるようになったこと。
 「ニュースのみならず、娯楽面でも革命的な変化が起こった」
  ラジオ → テレビ → ケイタイ(現代に続く)
 ラジオのNHK仙台放送局の電波発信は昭和3年で、今年90周年を迎えることになった。即時性のあるニュースが聞けるようになったのである。(全国8番目;JOHKである)ただ、当時のラジオ受信機はきわめて高価なものであり持っていた人はごく限られていた。「図は昔のラジオのイメージです」
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 当然ながら真空管がつかわれており故障も多かった、だが全国民には即時に伝わることとなった。敗戦の決定を知らすべく前もってラジオ所有者のところに集まるように伝えられた昭和20年8月15日、昭和天皇玉音放送もあった。
  しかし、昭和30年頃からのテレビの普及に伴いラジオは主役の座を降りることになった。
 それまで映像のあるニュースは、映画館で料金を払って見るものだった。亘理にも駅通りの新町に昭和27年に映画館ができた。ゴジラがきた時などは、学校の先生が引率してクラス毎に見に行ったものである。ドラマ本番の前に、日本国内のニュースが白黒で15分ほど流れるのであった。映像は新鮮なものに見えた。だがテレビの普及は急速で、やがて映画館のニュースも消えていった。映画のドラマは総天然色となり、テレビもカラー化した。


②交通革命
 昭和30年代までは現在の如く、誰もが自由に自動車を運転する時代がこようとは夢のまた夢みたいなことだった。
 当時、亘理と山元町の街中を走る国道6号線は、舗装もされず昭和20年代は通行する自動車が一日に100台程度しかなかったと思う。国道でキャッチボールができた。
 急速な経済発展がモータリセージョンを生みだした。
 昔の道路はもともと自動車が走るようにはできていない。交通量が多くなるに従い、振動などの影響や事故も増えた。車の増大に対応するため国道が街の中を避けて通るバイパスの建設がはじまった。昭和43年のことである。完成には5年を費やし47年に開通した。
 逢隈・亘理・吉田・山下・坂元と山沿いや田んぼの中に新しい道路ができて、郊外に出ると再び元の国道と合流するという現在の新国道6号線ができたのである。 爆発的な車社会に対応できず、交通事故で亡くなる人が多かった。死者の数は急速に増えてゆき、交通戦争などともいわれ昭和45年がピークで日本全体では1万7千人の命が失われた。当時の山元町の人口が毎年消えて行くような状況が続いた。

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 その後、安全運転の意識が高まったことや信号機の増設など交通インフラの整備、救急医療体制ができたことなどで現在では3700人までに減じている。
 昭和30年頃、筆者の近くでトラック1台をもって「便利屋」という商売を始めた人がいる。町内の人から預かった荷物を岩沼・仙台方面に届けるのである。今でいう宅配便のようなものだが、当時は個人では送るべき物資はあまりなく一日一便で十分だった。
 旅行時などの荷物は鉄道貨物で運ばれ「チッキ」と呼ばれたものがあり便利だった。国鉄「切符」を持参していると、土産品などを別に駅まで運んでくれるのであった。
 常磐線の開通は明治30年に遡るが、亘理郡内に3つの駅しかなかった。その後山下駅の開業が昭和24年、逢隈駅の開業は昭和の終わり63年8月だった。如何にモータリゼーションの時代とはいえ、駅が近いと何かと便利である。仙台への通勤客で周辺の宅地開発が急速に進み逢隈地区の人口は急増している。
 山下駅もそれなりに利用客が増えたのであるのが、現在は仙台への近さが決め手になっている。
 昭和30年代まで常磐線の仙台発の最終列車は午後8時19分上野行きであり、通勤・通学には何かと不便だった。ところがその最終列車が亘理や山下駅に着くと、今度は大きな荷物を背負ったオバサン方が乗り込む。日立などへ就職する人が多く、その母親が息子へ食糧などの荷物を届けるのである。各駅停車なので朝の3時頃に日立に到着し、今度は朝一番列車に乗って帰ってくるのだということだった。

                       (記:鈴木仁)     ――― 次号に続く

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 この資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。


# by tyama2001 | 2018-10-01 00:00 | 亘理・山元ニュース