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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001
令和2年5月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長 千石 信夫 

                           http://www.watari-yamamoto.com/


江戸時代(2)大條道直公(坂元領主:伊達家重臣)の活躍


 いつの時代にも最高権力者・権威者となると必ず付きまとうのが世継ぎ問題である。

 江戸時代の徳川家も、代々の後継者に苦労した。ところが11代将軍・家斉には子供ができすぎてしまった。16人の側室に53人もの子供を産ませ、半数は夭折したが、成人に達した女子には嫁入り先を、男子には将軍家にふさわしい大名家の養子先を見つけなければならないという、新たな問題が出てきた。

 ちょうどその頃に、仙台の伊達家では11代目の藩主斉義公が、文政10年(1828年)若死し世継ぎ問題が出ていた。そこに幕府が介入してきた。有力な養子先を見つけたのである。だが、仙台藩にとっては大問題だった。

 政宗の血統を守らなければと、時の幕府筆頭老中であった水野忠成を説得しなければならなかったのだが、並み居る重臣たちは尻込みした。

 その時、敢然として藩の若年寄りの地位にあった坂元領主の大條道直が立ち上がった。

 説得が成功して12代目藩主には、政宗に最も近い血筋である登米伊達家から斉邦が迎えられることになった。  

 その功績に対する褒美を問われ、青葉城内にある「茶室」を所望した。

      

この茶室は、もともと豊臣秀吉の京都伏見城にあったものを伊達政宗が拝領したといういわれを持ったものである。

大條道直は、その茶室を大條氏の仙台屋敷である現在の国際センターのところに移築した。

この茶室は、そのご数奇な運命をたどる。

明治維新後になると、政府は軍用地として大條氏の屋敷を取り上げ、仙台市支倉に家を与えたので、この茶室もそこに移転した。

さらに昭和17年になると、戦時下ともなり今度は、大條氏の居城であった坂元要害の三の丸跡地に移築されたので、仙台空襲による火 

災からは免れた。



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 しかし令和の現在、この茶室は上記写真の如き無残な姿をさらしている。往時への再建を果たすべく、いろんな活動が行われている。

江戸時代にこの茶室が仙台の大條氏邸内にあった時には、茶会のみならず仙台の文人たちが集まり論談した一種の文化サロン的な役割も果たしたとされる。

仙台藩四大画家の一人である東東洋など、江戸時代中期から後期にかけての墨客などが多数訪れていた。


東東洋の絵

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大條氏は、同じ亘理郡内にあっても伊達成実以降の

亘理伊達家に比べて知名度こそ劣るが、古い由緒をもった家柄なのである。

伊達本家自体の発祥は、1189年に源頼朝が平泉の藤原氏と戦った際に戦功があったとして、現在の福島県北部の伊達郡(現在は伊達市)に領地をもらった。後の戦国時代を経て.62万石となる.大名ではなく、当時は東北の一豪族に過ぎなかったのである。

ところが、室町時代に現れた9代目の政宗(我々が知る仙台藩祖ではない)が、英傑であり周囲を次々と進攻して領地を拡大し奥羽の有力大名となったのである。

その政宗が弟を分家させ、伊達郡の梁川に領地を与えたのが大條氏の始まりなのである。

ずっと後年になり、戦国時代も終盤を迎えた頃に、本家の16代目である輝宗が長男の梵天丸が幼少の頃から人に秀でた資質を備えているのを見て、9代目の如く活躍することを願って元服時「政宗」の名を与えたとされる。

大條家は戦国時代を通じても、さしたる武勲を上げることもなかったが、伊達家の分かれでもあり江戸時代になると坂元に4千石を頂き仙台本藩の節目に活躍しているのである。

大條氏一族の末裔で歴史的遺物を多数所有する方がおり、それらの公開が検討されている。

余話

時代が停滞を続けると、いつの世にも賭け事が幅をきかせてくる。現代では「IR」というカジノ、一種の「賭場」をつくり日本の再活性化を図ろうとする試みがある。

江戸時代の後期にも、現代と似たような状況があったと.思われる。渡世人が亘理に来て.「鉄火場」を開設したのである。公認だったのかおそらくは隠れて行われていたのだろう。

しかし、この賽の目にはまった大豪農がいた。数十町歩を所有し500年にも渡って続いてきた家である。それらの田畑・財産をまき上げられるのに、いくらの時間もかからなかったようだ。その方は.自宅とその周辺が残ったに過ぎなかったのである。

 それからもう2百年に近い時が過ぎて、渡世人の7代目くらいになる。事情を全く知らない人は、この家が多くの土地を有することから昔からの名家だと思ってしまっている。しかし血は争えず一族の中には競馬に夢中な困った人.もいるのだということだ。

参考文献  山元町誌   郷土わたり(121号)      (記:鈴木仁)


# by tyama2001 | 2020-05-07 09:07 | 亘理・山元ニュース
令和2年4月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長 千石 信夫 

                           http://www.watari-yamamoto.com/



江戸時代(1) 幕末のこと 

 歴史上の転換点となった年が過去に幾度かあるが1868年(明治元年=慶応4年)も、そのひとつであった。600年近くも続いてきた武家社会である幕府が日本を支配した封建制度が崩れた。
 朝廷(天皇)に権力を取り戻そうとする動きが、公家の岩倉具視を中心に活発化して長州藩を巻きこんで、後には薩摩藩も加わり日本中が騒然となった。京都守護職だった会津藩など幕府を擁護する側は当時の首都であった京都において社会秩序を保つ為ではあったが、長州などに徹底した弾圧をおこなった。
  風雲急を告げる情勢は、仙台藩主に変わって江戸の警備に当たっていた亘理の伊達邦実も肌で感じ取っていた。薩摩藩が武力蜂起すべく乱暴狼藉を江戸市中で行っていたからである。遠く仙台でも議論が沸騰していた。
 幕府は、前年の1867年の10月朝廷に大政奉還して、形式上は王政復古となっていたが実権は幕府が握っていた。
 仙台藩は、どうするのか態度を明確にするように朝廷側から圧力がかかった。藩主の慶邦自ら上洛して説明することを求められた。しかし藩主は健康上のことなどで動かなかった。あまりに時期を失してはということで、坂元の領主であり仙台藩の奉行職にあった大條道徳が建白書を持参して京都に向かった。運命の年、1968年1月だった。

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 しかし時、すでに遅く京都の鳥羽・伏見において、戦いがはじまっており「錦旗」を掲げた薩摩・長州軍が会津などの軍勢を破り、一挙に会津は朝敵となってしまうのである。  勢いを得た「朝廷軍」は江戸を目指した。3月には江戸城の無血開城に至る。
 会津は必死に、朝廷に敵するものではないと訴えたが、聞き入れてはもらえない。
 同じころ、仙台にも九条総督をはじめ官軍参謀がやってきて、会津討伐を督促した。
 仙台藩はやむなく軍勢を整え出陣した。亘理軍は稲荷山に集結して湯の原口へ向かった。会津藩と仙台藩は、いわき方面で先陣同士で戦闘がありわずかだが死者もでた。
 そのうちに、この戦いはどうもおかしいという機運が東北各地の藩に出て来た。奥羽の各藩が一同に会して、話し合いをしようということになった。これに尽力したのが仙台藩士の玉虫左大夫である。後世には仙台の坂元竜馬ともいわれる俊英であった。1860年の咸臨丸で西欧に派遣された勝海舟など77名のうちの1人である。
 5月に奥羽各藩家老が白石に集まり、最終的には越後の長岡藩も加わるなど31藩もの大同盟ができあがった。盟主には江戸にいた輪王寺宮を迎えた。(明治の前の孝明天皇の従兄弟である)
 同時に「奥羽列藩建白書」を朝廷に提出した。我々は「王政復古」を支持するものであり、朝廷を敵とするものではない。鳥羽・伏見の戦いも偶発的なものである。九条殿下の命令によって仙台藩は会津と一戦を交えたが、藩主の松平容保は恐縮している。徳川氏も謹慎している。皇国の末長い繁栄を願っております。このような事情を踏まえて穏便なる処置をお願いしたいというようなもので宣戦布告とは異なるものだった。
 しかし、折悪しく官軍参謀だった世良修蔵が、奥羽は皆敵であるとして軍勢の増援を要請する密書を届ける途中で奪われ世良は惨殺されてしまった。
 これがきっかけで、奥羽列藩同盟は軍事同盟と化したのである。

 官軍側は会津への攻撃を強め8月には陥落する。
 仙台藩もいわき口などで戦わざるを得なくなった。小さな藩には応援の軍勢を差し向けた。しかし、近代装備に勝る官軍にはたちうちできず敗戦に次ぐ敗戦だった。劣勢の奥羽同盟は寝返る藩が出たりで決裂も同然となった。
 相馬口でも敗れた。内陸部では現在の丸森町南部の旗巻峠で激戦となったがこれも敗れた。浜通りの戦場は駒ヶ嶺となったが、雨のために火縄銃が使えなかったことが原因とされるがここも敗れ軍議所を坂元館に移して、挽回作戦を立てると同時に、講和の意志のあることを伝える為に山下の百姓、長左エ門・彦兵衛が大活躍することは、山元町役場内にある「記念碑」に詳細があるので省略する。仙台藩主伊達慶邦は降伏を決意することになった。
 降伏式は、亘理城において行われた。賊軍とされた。勝てば官軍だったのである。
 仙台藩の総責任は、但木土佐と坂英力の2人が、江戸から東京と変わる明治となってから、切腹することによって終結した。亘理の戦死者は城址の西端に石碑がある。坂元では、徳本寺に葬られている。

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参考文献  仙臺藩戊辰殉難者五十年弔祭誌(大正7年)山元町誌 亘理町史(上巻)        (記:鈴木仁)   

# by tyama2001 | 2020-04-05 10:29 | 亘理・山元ニュース
令和元年12月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
http://www.watari-yamamoto.com/

明治時代(4) 維新後のこと

 明治維新まで、仙台藩内の亘理郡(新地村を含む)には2人の殿様と家臣団がいた。 亘理要害の伊達邦成公(2万4千石)と坂元要害の大條道徳公(4千石)である。維新後には殿様自身の処置と家臣の身の振り方を考えなければならなかった。
 新政府からは、武士を捨て農民・町人となることを勧められた。これに応じたのは、坂元の大條公だった。
 大條直徳公は、この時まだ30歳だったが隠居することを決めた。名前を直系に限り「伊達」とすることを許され、伊達宗亮と変えて86歳まで56年もの間、日本の歴史上で最も長い隠居生活を送るのである。
 平成21年に(10年前のことだが)、山元歴史民俗資料館において「大條道徳公」の企画展が行われた。書画などを趣味として長い余生を過ごしている。引退後も多くの子供にも恵まれて、裁判官や銀行員など多彩な人材を輩出した。直系で曾孫の伊達宗行氏は日本物理学会長を努めた(現在は仙台藩士会長)。異色の分野では、お笑い芸人サンドイッチマンの「伊達みきお」さんが道徳公の玄孫に当たる。
 今や一世を風靡している有名人だが、父親からは栄誉ある「伊達」を芸名につけるのは反対されたそうだ。(NHKファミリーヒストリーより)

 
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最後の将軍だった若き徳川慶喜公もまた45年間もの隠居生活を送り、大正2年の死亡記事はわずか、新聞一段見出しの写真はあるものの小さな記事にすぎなかった。
 赤痢菌の発見で有名な志賀潔さんも、坂元村の出身である。
 母親が大條公の家臣である志賀家から、仙台藩家臣の佐藤家に嫁ぎ、その息子の一人である潔さんを実家の養子としたのだ。
 学問で身を立てるべく、東京帝国大学を出て医師になる。
 野口英世さん(写真左)がアフリカにゆくようになった、きっかけを作ったりもしている。(写真右)が志賀さん
 志賀潔さんの回顧録を持っている人も少なくなった。
 今は無くなった坂元藩士会の会員でもあった。


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 一方の亘理では、坂元とは全く異なる事態が進んでいた。先祖が武勇に優れた「伊達成実公」ということもあったのだろうか。単なる農民となるのを潔しとしなかったのである。本音と建前ということはあるのだろうが、亘理残留に家臣団から誰ひとりとして手を上げなかったそうである。時の殿様であった「伊達邦成公」が北海道移住を決断していたこともあったのだろう。(結果的にはかなりの人が亘理に残ることになったが)
 北海道の有珠郡(現在の伊達市)に土地をもらい、北方の武力警備を兼ねた開拓農民となる苦難の道を選択したのである。
 亘理と山下からの家族を含めた家臣団合計2600人が明治14年まで合計9回に渡って、移住したのである。
 現在は、明治の壮大なこの亘理プロジェクトを小学生でも教えている。あまりにも知られ過ぎている話なので詳細な記載は省略する。特筆すべきは第三回目の移住団約500名が種まきの時期を逸して食料に困り餓死の寸前のところを、北海道開拓使の山田至人(四国の旧松山藩士)さんが緊急支援米を送り難を免れたことだった。その恩義を感じて伊達村となった明治33年に山田さんを村長として迎えている。また、原住民だったアイヌ人を紳士的に扱ったとして、現在は多大な評価を受けたりしている。(現当主:伊達元成氏講演より)
 なかには開拓に失敗して亘理に戻り、再度北海道の別の場所を目指す人などもいた。
 丁度、同じ頃の明治7年に政府の肝いりで北海道の琴似地区(現在の札幌市西区琴似)に屯田兵が置かれることになった。最初は200戸だった。その半数が旧亘理藩士だった。これは有珠に移住した中から、さらに琴似に移った旧武士の方々である。
 その方々が、心のよりどころとして作ったのが「琴似神社」で伊達成実公を祀ったものである。
 琴似の子孫の方々は、亘理に強い懐旧の念を抱いている。


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 幾度か訪問団が亘理を訪れている。
 同じく伊達成実公を神としている「亘理神社」に限りない郷愁を感じているようだ。


 亘理の北海道移住は、家老であった田村(常盤)顕充によるところが大きい。田村の献策を邦成公が全面的に聞き入れ、自ら率先して北海道に渡った。ただ実務面では田村が何度も東京と亘理を往復して政府との折衝に当たったのである。しかし実際に家臣団を動かせたのは殿様だった邦成公しかいない。殿様あっての武士なのである。
 だが政府は、新時代なので田村に功績ありと、殿様より先に叙勲させようとしたが、田村は頑なにこれを断った。(そんなことをされたら切腹せねばならぬと)
 田村は政府より代替の恩賞として千万坪(現亘理町の半分の面積に匹敵)をもらった。
 余話だが、未開地の開拓には鍛冶屋や大工なども必要だ。その職人の一人が、北海道へ行く船が松島の寒風沢から出港直前に気が変わり亘理に逃げ戻った。その子孫も現存している。

参考文献 山元町誌 亘理町史(上逃げ出し巻) (記:鈴木仁)  


 尚、恐縮ながら3月までは休刊とします。


 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。    

# by tyama2001 | 2019-12-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
令和元年11月1日  
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
http://www.watari-yamamoto.com/


明治時代(3) 初期の頃

 1868年(明治元年)薩長土肥藩などの官軍に東北諸藩が敗北して、仙台藩は大混乱に陥った。62万石を28万石に減らされた。それもごくわずかの期間で、まもなく廃藩置県が追い打ちをかけたのである。
「亘理郡」もまた目まぐるしく変わった。県の南部一帯が1年おきくらいに白石県となったり角田県となったりの思考錯誤があり、明治4年に仙台県に吸収され、翌5年には宮城県となる。ただ一時的に明治9年に半年ほどだが、亘理・宇多・伊具・刈田郡など県の南部が磐城県(福島)に編入されたことがあった。再度宮城県という名前に戻るが、その時に何故か宇多郡(新地・駒ヶ嶺)のみが、福島県になってしまうのであった。
 「郡」の範囲も当初は伊具郡と亘理郡が一つの時もあり郡長が角田にいたこともあった。宮城県は、郡名を固有名詞で呼ばす番号を付していたことがあった。亘理郡は第19大区とよばれた、そして小さないくつかの村を併せて小区とした。中央からきた役人には、その方がわかりやすかったのであろう。また小学校の開設も番号順で整理しやすかったと思われる。
 いつの時代も同じであるが、政府が機能するには、「税金」が必要である。江戸時代には年貢米があったが、近代国家日本としてはそうはゆかない。「土地」に税金をかけることにしたのである「地租」と呼ばれる制度ができた。その評価額に毎年2.5%の税金を課した。 土地の所有権を証明する「地券」が発行された。


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 土地の所有権を政府が保証する変わりに、その税金を納入しなさいというものである。
 この制度は明治6年に発布され、当初の税率は3%であった。これでは高すぎるというので、明治10年に2.5%に引き下げられた。それでも高率である。ずっと後年の昭和の終戦後にこれらは、固定資産税となる。
 この高すぎる税金が、明治15年頃から盛んになる「自由民権運動」の基になったという説がある。前頁の写真は、「大日本帝国政府」の用紙で宮城県が発行した「地券」である。(磐城国亘理郡神宮寺村の耕地である。持主が同国同郡小堤村鈴木傳六である。明治9年に発行され翌10年より地租が引き下げられたことが記されている)、<興味深いのは(磐城国)という表現である。明治9年は上述の如く亘理は一時的に磐城県となっているが当時は昔からの常用語として「磐城」に問題がなかったのであろう。
 地券の発行に当たっては、当時は役人の数が少なかったこともあり、「自主申告」であったというのも面白い。
 当時の日本は近代国家としての各種制度・政府機関・地方統治体制・憲法・法整備などを、明治23年までに整えることに目標をおいていた。


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 そんな国家スケジュールのもとで、明治22年には亘理郡の30を超える村が、6町村に統合された。
 明治14年には10年後の国会開設を決定した。それと共に政党が興った。中央では板垣退助が明治の元勲(近藤勇を敗北させる)ではあったが自由民権を唱えて自由党を結成し各地に同士をつのった。(板垣は土佐藩士であり、薩長に牛耳られることをきらったこともあったのだろう)
 福島県では三春出身の河野広中が中心となり、その力は亘理郡にもおよび、亘理の有力者たちはこぞってそれに名を連れた。その後にこれらの自由民権運動を抑え込むことがおこった。福島県知事になった三島通庸の弾圧は有名である。宮城県は松平正直知事が任命されてきており、この人は福井藩士の出身で土佐の坂本竜馬をよく知っていたとされ、自由民権運動を抑え込むようなことはしなかった。
 明治23年の国会開設に当たり、第一回衆議院選挙が行われた。小選挙区制度で亘理郡は県南の各地を含む「宮城2区」であった。現在の選挙区である宮城3区から岩沼と名取を除いた範囲だった。
 当時、選挙権があったのは高額納税者にのみ限られていた。国税を15円以上納めている富裕者に限られていた。投票総数は千票程度しかなかった。成人の1%くらいである。
 郡別の対抗戦みたいなものにもなった。だが、亘理郡の武者伝二郎氏が当選した。以降連続して4回の当選をはたしている。
 さて6町村となった亘理郡は、一般人にどのような町村税金を課していたのであろうか。
 亘理町の明治24年では一等級の税金から四十等級の税金まで細かく規定されていた。1等級は山田周蔵(50人前:38円)、27等級(一人前)、40等級(3銭8厘)
  一人前とは、米を入れる俵4表を編めるとか、農作業基準で細かく定められていた。

参考文献  山元町誌 亘理町史(下巻) (記:鈴木仁)     

の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。   

# by tyama2001 | 2019-11-01 00:00 | 亘理・山元ニュース
令和元年10月1日
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発行人・理事長:千石 信夫

明治時代(2) 郵便制度

 日本の近代化に最も必要だったのは、鉄道による輸送手段とともに、郵便を制度化することだった。江戸時代からの「飛脚制度」を近代化することにあった。速さの点においては、明治中期まで人力もしくは早馬であるとか、江戸時代と変わるところがなかったが、明治になってから全国の都市に集配所制度を設けた。 郵便切手を発行したのである。距離によって郵便料金が異なった。100kmを一単位としたのである。明治5年の時点で仙台から東京までは8銭であった。 その後、明治10年に至り、利便性の向上を図るために全国一律で「1銭」とした。 (当時は米1kgが約17銭だった)

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 1銭切手は、明治35年まで25年間も続いたので、その間にいろんな図柄が出現している。 (写真は大日本帝国の一銭切手である)郵便や荷物の運送には、「駅伝」制度による馬での継馬所があった。亘理の街中で馬を継いた後は次は山下まで行くのだった。馬が行ったり来たりしていたことになる。
 「駅伝」といえば、今やマラソンであるが、日本特有のもので由来はここからきている。昔は走るのがスポーツではなく使役の役目をもったものだったのである。東京―箱根駅伝、その他各地の駅伝競技があり、今もその名を残している。

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 現代では「情報通信」という用語を使っており、一瞬にして個人の伝えたいことが、世界中を駆け巡る。アメリカ大統領が使うツイッターが有名になった。だが150年前は大変だったのである。亘理では、明治5年に永田さんが「亘理駅郵便御用取扱書」を開設した。山下では明治7年に三島さんが開設している。仙台までは2銭が必要で、そこから東京へと乗り変えたのである。当時の郵便局は、地域の有力者が自宅に開設したのである。明治13年頃になると各村々にも御用取扱書が出来るようになった。
 その後は、郵便局が貯金とか為替などを扱うようになり、官より委託される形で運営され郵便局と名前が変わり、地方局は三等郵便局と呼ばれ逓信省(郵政省)管轄となった。亘理郵便局や山下郵便局となった。田舎では特定郵便局となって行ったものもある。
 手紙は届くまでに数日をようするが、迅速性が大事なことも多くなった。亘理郡でも「電信の開通」を要望していたのである。これが出来たのは、常磐線の開通と同じ頃の明治30年になってからである。
 「電報」が可能になった。

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 それまでは、スピードを要求される手段として、長期間に渡りハトが使われていた。現在では、趣味として飼育している方がいるに過ぎないが、伝書鳩は一説によると紀元前からあったというのである。 200km程度は軽く飛んで行く。昭和35年頃までは使っていた。新聞社が電話も無い山間僻地から記事を送るとか、軍事用などに利用していた。ハトの足に小さな軽い筒を取り付け、それに書類を入れて飛ばすのである。ごく軽い荷物を背中に乗せて運ぶこともあった。ただ、飛行中にタカやワシなどの猛禽類に襲われることがあるので、複数のハトを飛ばすのだった。このようなことから農林水産省が統轄する使役動物に指定されていた。
 通信手段が極端に発達してしまった現在からみると信じがたことである。戦国時代頃によくつかわれたのが、ノロシによる(敵が来た)など信号の伝達だった。時代劇でおなじみである。昔の人たちから見ると現代人は恐ろしく便利な時代に生活している。
 現在は、亘理・山元町とそれぞれ別の行政区分感覚で物事を捉えているが、明治22年までは亘理郡内に30ケ村が存在して、それぞれにかなりの自由度があった。その中でも小堤村(亘理)が中心的な役割を果たしていたのである。現在は、消防・ゴミなど再び大きな広域行政が効率的だと、そんな傾向になっている。郵便制度などの近代化が進むにつれて、小さな村単位では行政上の不便があるということで、明治の大合併が行われることになった。小堤村はそのままの規模で亘理町となり、他は大きくまとまり、昭和29年まで続く6町村体制が出来上がるのである。郡長が宮城県から派遣され大正末まで亘理郡の一体行政が行われることになった。 昭和に入ってからは各町村が力をつけたこともあって、独自の施策が実施されるようになったのである。電信より少し遅れて明治44年には電話が開通した。亘理では大商人の12軒が加入して番号1番は当時郵便局を運営していた門沢味噌屋さんだった。12番は新井町の武田亀吉商店(薬局)まで名だたる店が名を連ねていた。

参考文献 山元町誌 亘理町史(下巻) (記:鈴木仁)

 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。   
     

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