郷土の歴史を遡って知ろう!(第29号)
2020年 11月 01日
令和2年11月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
http://www.watari-yamamoto.com/
弥生時代から古墳時代へ<補足>
紀元前500年すなわち今から2500年ほど前に始まったのが「弥生時代」とされる。大きな特徴は、日本人同士の殺し合いが始まるのである。その原因は、当時の中国が「春秋戦国時代」と言われ戦いに明け暮れていた。敗れた人たちが当時の「難民」として日本にどっと押し寄せた。(現代でも戦乱が続く中東のシリアから欧州への難民が大問題である。)
中国からの難民は武器を持っていた。耕した農地を武力で奪うことを日本人は教えられた。
こうなると当然ながら、個人よりも集団で自衛した方が良いとなる。
これまでには考えられなかった「環濠集落」というのができてくる。すなわち集落の外側に堀をめぐらして敵を防ぐのである。(九州の吉野ケ里遺跡が有名)
大陸からの難民は、武器と共に稲作などを持ち込んだとされるが、稲はもっと前に伝わったとされ、主な伝来品は青銅である。約700℃の比較的低い温度で溶けるために、(鉄を溶かすには1400℃の高い温度が必要)当時の技術でも青銅で容易にいろんな物が作られた。武器などと共に銅鐸が有名であるが、東北地方には青銅がおよばなかったらしく、当時のもので発掘された例はいまだない。
(耕地整理事業の工事中に水路の底から出土)。
(上図は、出土した残存している部分で長さ60cm、直径3cm程度の細い木の棒で、片端に5cm程度の握りみたいなものがある。他端は朽ちて無くなっているが、全長は1m程度であろう)
用途は不明とされているが当時の農具なのであろうか。筆者が勝手に推測すると川の水をせき止める際に流れに板を差し込んで、それを支える棒ではなかったろうか。微妙な反りがあり、中央部で大きな力を受けても折れにくいようになっている。当時でもそんな知恵はあったものと思う。
ちょうど発掘場所近くには、胴捨山、愛宕山を水源とする小川が流れており、この水を田んぼに引いたのではなかろうか。
弥生時代に青銅は東北の地まではこなかったものの、稲作はあったと思われる。赤米という古代米である。現代も観光物品として岩手県などで作付けされている。
赤米は赤飯のもとになったとされる。祝いの時に用いられる。最初の栽培米であり、すなわち永年にわたり存続してきたので、これを食べることは目出度いのである。後に赤は祝いの代名詞へ発展したと思われる。
関西地方で見つかった銅鐸に川の堰をはずす人の姿が描かれたものがある。稲作に関連することは記録に残すべきものだったのだろう。
当時の亘理町や山元町は一面の湿地帯で、阿武隈川は大雨の都度自在に流れを変えていた。大きく変わったのが2500年前とされ、それまでの河口だった鳥の海から、現在の位置になったとされている。鳥の海に流れ込む鐙川がそれに相当することを、耕地整理前の昭和の航空写真からも読み取れる。その写真に逢隈の北部地区では円弧上に住宅が点在しているのがみえる。これも当時の自然堤防跡と推定され、人の往来で固められた自然堤防の地盤の強いところを利用し後の世の人たちが家を建てたものである。
弥生時代に大きな集落ができ、敵と戦うようになると当然ながらリーダーが出てくる。豪族の出現である。その力を示すために大きな墓を作るようになる。
通常の前方後円墳とは異なるもので、円であるから高度な測量技術などは必要としない。中心に棒を立て、紐を引けば円である。おそらくは、その位置から見て漁貝類を主要産品とする豪族だったと思われる。当時の海岸線は、その辺りまで来ていたのだろう。現在は田んぼの中にあると言っていい。西暦100年から400年代のものと推定されている。
ほぼ同時代に現れる関西の巨大な前方後円墳と同じ系統と見られる名取の雷神山古墳や仙台の遠見塚古墳などの主は、何らかのつながりをもっていたのであろう。
規模は小さいながらも、山下の合戦原と吉田の長井戸に前方後円墳がある。
参考文献 亘理町史(上巻)、山元町史
インターネット上の各種縄文・弥生時代資料 (記:鈴木仁)