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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

郷土の歴史を遡って知ろう!(第21号)

令和元年12月1日
NPO法人 亘理山元まちおこし振興会
発行人・理事長:千石 信夫
http://www.watari-yamamoto.com/

明治時代(4) 維新後のこと

 明治維新まで、仙台藩内の亘理郡(新地村を含む)には2人の殿様と家臣団がいた。 亘理要害の伊達邦成公(2万4千石)と坂元要害の大條道徳公(4千石)である。維新後には殿様自身の処置と家臣の身の振り方を考えなければならなかった。
 新政府からは、武士を捨て農民・町人となることを勧められた。これに応じたのは、坂元の大條公だった。
 大條直徳公は、この時まだ30歳だったが隠居することを決めた。名前を直系に限り「伊達」とすることを許され、伊達宗亮と変えて86歳まで56年もの間、日本の歴史上で最も長い隠居生活を送るのである。
 平成21年に(10年前のことだが)、山元歴史民俗資料館において「大條道徳公」の企画展が行われた。書画などを趣味として長い余生を過ごしている。引退後も多くの子供にも恵まれて、裁判官や銀行員など多彩な人材を輩出した。直系で曾孫の伊達宗行氏は日本物理学会長を努めた(現在は仙台藩士会長)。異色の分野では、お笑い芸人サンドイッチマンの「伊達みきお」さんが道徳公の玄孫に当たる。
 今や一世を風靡している有名人だが、父親からは栄誉ある「伊達」を芸名につけるのは反対されたそうだ。(NHKファミリーヒストリーより)

 
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最後の将軍だった若き徳川慶喜公もまた45年間もの隠居生活を送り、大正2年の死亡記事はわずか、新聞一段見出しの写真はあるものの小さな記事にすぎなかった。
 赤痢菌の発見で有名な志賀潔さんも、坂元村の出身である。
 母親が大條公の家臣である志賀家から、仙台藩家臣の佐藤家に嫁ぎ、その息子の一人である潔さんを実家の養子としたのだ。
 学問で身を立てるべく、東京帝国大学を出て医師になる。
 野口英世さん(写真左)がアフリカにゆくようになった、きっかけを作ったりもしている。(写真右)が志賀さん
 志賀潔さんの回顧録を持っている人も少なくなった。
 今は無くなった坂元藩士会の会員でもあった。


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 一方の亘理では、坂元とは全く異なる事態が進んでいた。先祖が武勇に優れた「伊達成実公」ということもあったのだろうか。単なる農民となるのを潔しとしなかったのである。本音と建前ということはあるのだろうが、亘理残留に家臣団から誰ひとりとして手を上げなかったそうである。時の殿様であった「伊達邦成公」が北海道移住を決断していたこともあったのだろう。(結果的にはかなりの人が亘理に残ることになったが)
 北海道の有珠郡(現在の伊達市)に土地をもらい、北方の武力警備を兼ねた開拓農民となる苦難の道を選択したのである。
 亘理と山下からの家族を含めた家臣団合計2600人が明治14年まで合計9回に渡って、移住したのである。
 現在は、明治の壮大なこの亘理プロジェクトを小学生でも教えている。あまりにも知られ過ぎている話なので詳細な記載は省略する。特筆すべきは第三回目の移住団約500名が種まきの時期を逸して食料に困り餓死の寸前のところを、北海道開拓使の山田至人(四国の旧松山藩士)さんが緊急支援米を送り難を免れたことだった。その恩義を感じて伊達村となった明治33年に山田さんを村長として迎えている。また、原住民だったアイヌ人を紳士的に扱ったとして、現在は多大な評価を受けたりしている。(現当主:伊達元成氏講演より)
 なかには開拓に失敗して亘理に戻り、再度北海道の別の場所を目指す人などもいた。
 丁度、同じ頃の明治7年に政府の肝いりで北海道の琴似地区(現在の札幌市西区琴似)に屯田兵が置かれることになった。最初は200戸だった。その半数が旧亘理藩士だった。これは有珠に移住した中から、さらに琴似に移った旧武士の方々である。
 その方々が、心のよりどころとして作ったのが「琴似神社」で伊達成実公を祀ったものである。
 琴似の子孫の方々は、亘理に強い懐旧の念を抱いている。


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 幾度か訪問団が亘理を訪れている。
 同じく伊達成実公を神としている「亘理神社」に限りない郷愁を感じているようだ。


 亘理の北海道移住は、家老であった田村(常盤)顕充によるところが大きい。田村の献策を邦成公が全面的に聞き入れ、自ら率先して北海道に渡った。ただ実務面では田村が何度も東京と亘理を往復して政府との折衝に当たったのである。しかし実際に家臣団を動かせたのは殿様だった邦成公しかいない。殿様あっての武士なのである。
 だが政府は、新時代なので田村に功績ありと、殿様より先に叙勲させようとしたが、田村は頑なにこれを断った。(そんなことをされたら切腹せねばならぬと)
 田村は政府より代替の恩賞として千万坪(現亘理町の半分の面積に匹敵)をもらった。
 余話だが、未開地の開拓には鍛冶屋や大工なども必要だ。その職人の一人が、北海道へ行く船が松島の寒風沢から出港直前に気が変わり亘理に逃げ戻った。その子孫も現存している。

参考文献 山元町誌 亘理町史(上逃げ出し巻) (記:鈴木仁)  


 尚、恐縮ながら3月までは休刊とします。


 の資料は、山元町中央公民館、つばめの杜ひだまりホール、ふるさとおもだか館、亘理町立図書館の情報コーナーに置いてあります。手に取ってお読みいただければ幸いです。    

by tyama2001 | 2019-12-01 00:00 | 亘理・山元ニュース