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山元町産 伊達むらさき    (金時草)


by tyama2001

826日(土)、NPO法人 亘理山元まちおこし振興会の主催、山元町教育委員会の協力のもと、山元町防災拠点・坂元地域交流センター「ふるさとおもだか館」の防災研修室において、東北福祉大学健康科学部保健看護学科の小野木弘志准教授による『「食とくすり・病とくすり』くすりと健康について考えてみよう!』と題した教育講演が開催されました。

講演会には亘理・山元町地域住民49名が参加しました。講演でははじめに、山元町の特産野菜「伊達むらさき」に関する小野木准教授の研究が紹介されました。


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山元町の特産野菜「伊達むらさき」に関する研究の紹介

講演では、普段食べている食品の栄養素が体の中でどのように利用されているのか、また、その栄養素がどのような医薬品に応用されているのか、参加者にクイズ形式で説明されました。クイズの答え合わせをすると、参加者から「あのCM等でよく聞く成分か」「化粧品のあの成分か」などの声があがりました。


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普段食べている食品の栄養素の説明      サバの写真は小野木准教授の釣果だそうです

 講演の後半は食に関連する病(やまい)と、病に用いられるくすりの話がありました。

講演後の質疑応答では、参加者より「目からうろこでした。このようなことを学んでいる学生がうらやましいと思いました」「サプリメントは効果があるのか」「お酒はどのくらいなら飲んでも良いのか」などの質問や感想が寄せられました。

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食べ物からくすりまで、盛りだくさんの講演内容でした

小野木准教授は2017年より山元町におけるさまざまな調査研究を開始し、20235月からはNPO法人 亘理山元まちおこし振興会の顧問として、社会活動に取り組んでいます。


# by tyama2001 | 2023-09-08 07:09 | 亘理・山元ニュース

令和5年4月1日

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

                      発行人・理事長:千石 信夫



戦国時代の終焉

親子・兄弟さらには親戚同士で戦っていた時代もようやく終息へと向かう。

南奥州で減権を握ったかに見えた伊達氏にも内紛が起きて、7年間(1542年~1548年)に及ぶ戦闘が和睦すると伊達氏の勢力は三分の一程度にまで落ち込んだ。

それまで敵と味方に分かれて戦っていた豪族も分散して、再度の結集が図られることになった。亘理元宗は伊達稙宗の子供であり、相馬氏も正室が稙宗の長女だったので、当然ながら相馬・亘理氏は稙宗軍に属し相馬は義弟、亘理氏は兄である伊達晴宗と戦ったのだが、稙宗・晴宗の親子が和睦して、伊達家は晴宗が後継者になると亘理元宗は伊達軍に付く。

ここで、すなわち相馬氏と亘理氏は完全に敵対することになったのである。

相馬氏は、亘理元宗の配下にあった坂元の愛宕山要害にある阪元大善を急襲して、立てこもる兵士と共に殺害してしまう。相馬氏は館を燃やしたものの亘理氏が動き出し全面対決になるのはまずいと引き揚げてしまう。この時に13歳であった坂元大膳の息子は人買いによって関東の農家に売り飛ばされて行方知れずになってしまう。ところが数年後に偶然発見されて坂元城主に復帰することになった。坂元三河と名乗ったのである。山城は不便であるとして、現在の蓑の首城に移り坂元城としたのである。

相馬氏は、亘理氏との再度の友好を求めて、娘を元宗の息子である重宗に嫁したのであるが、両者の対立は収まらなかった。伊達本軍の輝宗(晴宗の息子)は伊具郡(現在の丸森町)に陣をしき、相馬軍と対時していた。相馬軍は亘理と丸森の二方面で戦わねばならなかった。

亘理美濃守となった重宗は、積極的に駒ヶ嶺城を攻めようとして、伊達輝宗からの加勢も得て総勢180名で坂元城に入った。同時に城の堀などの護りも強化した。

一方の相馬軍は、情報不足で坂元城が手薄とみて軍勢を差し向けてきたのである。

先陣は堀の近くまできて驚くことになる。結局相馬軍は敗退してゆくことになった。重宗は追撃を始めた。混乱に陥り撤退する相馬軍のなかでしんがりを務めんとして一騎の武者が残った。散々に亘理軍を悩ませたが遠矢に当たり勇士は討ち死する。相馬軍は無事に逃げた。

敵ながら天晴と坂元氏は塚を作った。相馬側の子孫は、平和になった江戸時代以降約2百年間に渡り命日には、坂元の塚への墓参りを欠かさなかったということである。

相馬軍と伊達軍の攻防は、その後も続いた。相馬軍は磯濱山に陣を築いたりしたこともある。そんな激戦のなかで坂元三河も命を落とし、その子が坂元氏を継いだが、亘理重宗の涌谷移住に従い去った。重宗は妻の実家の一族相馬隆胤を討ったことで相馬とも縁が切れた。

そんな中、伊達政宗は1567年に米沢で産まれた。1579年には数え年13歳にて、伊具郡での相馬氏との戦いに初陣を飾る。やがては相馬氏を破り山伝いに坂元の磯濱に出て政宗は初めて海を見たとされる。やがて新地の谷地小屋要害や駒ヶ嶺をも陥落させる。

この頃、1582年に京都では全国統一までにあと一歩と迫っていた織田信長が家臣の明智光秀に討たれる歴史上の大事件が起きている。

政宗は18歳で家督になると領地を拡大すべく果敢に動いて行くが、1586年政宗が20

才の時に人生最大のピンチに襲われる。「人取橋の合戦」(福島の安達郡本宮)である。南奥州の全ての豪族に加えて常陸の佐竹氏も加わった大軍と戦うことになってしまった。この危機を救ったのが片倉小十郎の知略と伊達成実の武勇であった。

 以降の政宗は、勢いに乗り勢力を拡大し現在の宮城県南部から福島の中通りや会津などまでピーク時には115万石程度の領有があった。

しかし、豊臣秀吉が小田原攻略時に遅参をとがめられ、半分ほどに減封させられ本拠地を米沢から岩出山に移す命令を受けた。その時1591年、亘理氏も涌谷に移った。

やがて1600年に「関ヶ原合戦」が起こると、政宗は家康側に味方することで「百万石のお墨付き」といわれる加増の絵図をもらう。しかし政宗が内密に陸奥で策動していたことが家康に悟られてしまい。白石周辺のわずか5万石の増加にとどまった。幕末まで62万石のままで終わることになる。この時に政宗は本拠地を岩出山から現在の仙台青葉城に移した。

政宗は家臣団の再配置をおこなうことになる。1602年、白石には片倉小十郎、亘理には伊達成実が入った。片倉氏は12年間に及ぶ亘理支配で新たな家臣もできていて、白石移住に従った。それらの人々が住みついたのが現在の白石市亘理町である。

一方、坂元には1591年に後藤孫兵衛信康が配されたが、その後、津田豊前景康が入り、大條長三郎宗綱の坂元入りは、大坂の陣の後で1616年のことである。それ以後、明治維新まで坂元の領主となる。

大條氏は、伊達家より分家して以降長い期間に渡り伊達郡の大條村の館に住んでいたが、7代目宗綱の時に動きがでる。1588年に政宗出陣の際に召し出され、1591年には伊具郡大蔵村に移住し、翌年には名取郡北目に、さらに志田郡そして気仙郡で2千石を得る。

豊臣秀吉の朝鮮出兵時には、16名の家臣と共に政宗軍の一翼を担う。秀吉の伏見城下にも3年間滞在している。坂元に移ってからは徐々に加増して4千石となる。

伊達政宗の治世方針として、徳川幕府に倣い大録の者には要職に就かせずとして、数千石程度の家臣を重用したので大條氏も仙台藩奉行などの地位に就いていることが多く、仙台屋敷を離れることが少なく、坂元にはあまり居なかったとされる。

伊達成実は、父実元がその兄晴宗の娘を嫁として産んだ子供である。従って姪御との近親婚であり現代では禁止されている。天才も出るが障害者もでるとされる。成実は天才だった。 

戦場のみならず、後に書いた「成実記」は第一級の史料とされている。

以上をもって終了と致します。50号以降は、既刊の26、25・・と続き現代へと至ります。当初は「遡って・・」の標題に従い、続ける予定でしたが途切れたこをお詫びします。誤りなども多いかと思いますが5年の長期に渡る御目通しを感謝申し上げます。やや偏りがあるものの亘理郡(山元町、亘理町)の通史となっていれば幸いです。 (記:鈴木仁)


# by tyama2001 | 2023-04-19 10:48 | 亘理・山元ニュース

令和5年3月1日

NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

                      発行人・理事長:千石 信夫



室町時代(後期)

西暦1500年以降になると室町幕府は形骸化してゆく。

一方で地方は群雄割拠の時代となり、各地での戦乱が激しさを増してゆく。東北では伊達氏が抜きんでた存在となり。伊達稙宗(政宗の曽祖父)の時代になると南奥州の覇者となった。

亘理氏は衰弱して、伊達氏の麾下になると史書(亘理郷土史)にはあるが実際には相馬氏が領有していたとみられる。伊達稙宗は娘を相馬氏に嫁がせて実質的に相馬氏も伊達の勢力下に収めたと認識していたので相馬氏による亘理領有も問題はないと思っていたようだ。

稙宗には数名の妻妾がいて14男と7女を産んでおり、娘は相馬などの有力者に嫁がせ、男子は衰退している豪族の養子として勢力を拡大してゆき、実質的には百万石ほどの力があったと思われる。そのまま曾孫の政宗の時代に引き継がれれば天下取りができたのではないかと思われるが、伊達家にもこの時代に内紛が起きてしまう。(次号にも詳細を記す)

伊達稙宗のもとに、名門ではあるが名ばかりとなっていた関東管領である上杉氏から稙宗の一子を養子にもらい受けたいという申し出を受けて了承した。

実元である(後の伊達成実公の父親)を出すことにしたのである。しかし、出発直前になり実元が多くの精鋭を従えて行くことになり、これでは伊達家の勢力が半分に減じてしまうと、稙宗嫡男の晴宗が反対して父親の稙宗を伊達郡桑折の西山城に幽閉してしまいこの養子縁組を破談にしてしまった。

(後に上杉氏の後継は、越後で勢力を拡大していた長尾景虎が上杉謙信となり引き継ぐ)これに怒った稙宗は号令を発して、各地にいる娘婿となった豪族や、養子を出した家々の軍勢によって西山城から助け出され、息子の晴宗軍と長期に渡る戦いに突入してゆく。

両者は譲らず戦は7年間に及んだ。ようやく和睦が成立して、稙宗は丸森城に隠居することとなり、伊達家は嫡男晴宗(政宗の祖父)が引き継いだ。

しかし、この内紛で伊達家の勢力は大きく削がれた。相馬氏とも敵対する関係になった。

この乱の終了後、亘理氏は相馬氏を離れ伊達家の一翼となってゆくのである。

(戦国時代に父親追放で有名なのは武田信玄で、父信虎の留守中に家を乗っ取った)

この頃に、日本各地では巨大な勢力同士がぶつかり合い消耗戦を繰り返していた。川中島での武田信玄と上杉謙信もその一つである。

こんな中で、織田信長が台頭してくる。実力者による天下統一の機運が出て来る。

この時代の模様が記録されたと見られる亘理町の某家に伝わる不思議な古文書を紹介する。古文書が一概に正しいものだとは言い切れないところがあるが、興味深いことが書かれている。下家系図の前書きの一部を示している。

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相馬信濃守という人は、相馬史書にも出ていないし、実在したのかもわからない。

冒頭の「相馬信濃守元安公」から類推されるのが、亘理元宗が隠居してからの号を「元安斎」としたことである。亘理元宗は伊達稙宗の子供である。相馬氏を名乗るのもおかしいが、元宗の姉が相馬氏に嫁いでおり、稙宗は亘理を相馬氏の配下におくことを了承していたのではなかろうか。文書の二行目に亘理が相馬領の時に、大雄寺は古い館であったと。(現代の認識もそうである)四行目に慶長8年(1603)、当所の館は吽館と申す。 成實公着任され・・。

(これまた現代は臥牛城.とも称されているので今の認識と変わる事はない)従って、この文書に違和感があるのは冒頭部分と、二行目の前半部分である。(いずれ解明されることであろう)




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亘理氏はやがて、重宗の時代に豊臣秀吉が発した伊達政宗への米沢から岩出山への移封にともない、亘理へは片倉小十郎が入り、亘理重宗は涌谷へと移り、伊達氏に名を変えることになる。

 重宗は、伊達稙宗の孫になるわけだから当然かもしれないが、後に政宗に従い相馬氏とも戦い大きな戦果を上げたので一万石クラスの待遇を得ている。だが相馬氏と直接に相対するには知略に優れた片倉小十郎しかなかったのであろう。

 涌谷に移ることになった重宗に政宗は丁寧な手紙を書いている。北の地は、災害も少なく住みよい所であるとしている。(政宗もかなりの気遣いを見せている)




参考文献   山元、亘理町史           (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2023-04-10 17:05 | 亘理・山元ニュース

令和5年2月1日  

 NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

                         発行人・理事長:千石 信夫


室町時代(中期)
中世の豪族が江戸時代にまで生き残った例は数少ない。その多くが内紛で自滅している。
 亘理氏も同様である。11代目以降に混乱が生じてしまう。10代目胤茂の後を継いだ子供達の間で内紛が起こったのである。
11代目を継いだ茂連が1447年に39歳で子供を残さず死亡したことから始まる。茂連の弟同士による相続争いが勃発したのである。
先ずは、すぐ下の弟である宗清が継いだのであるが、異母弟の茂元が亘理当主宗清の座を狙っていた。
 17年後の1463年に、茂元は伊達氏の支援も受けたのであろう宗清親子を襲撃して自害させた。宗清(48歳)には2人の男子がいたのだが共に自害してしまう。
この内粉で亘理氏は大きく勢力を落としてしまうことになる。独立した豪族の形をてしまうという事態になる。
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 以降の亘理氏は「茂元」の子や孫と継承されるが、すっかり衰微してしまう。時には伊達氏の支配下に、また南の相馬氏に領有されることもあったようだ。相馬史書のひとつである「奥相秘鑑」にはそのような記述(山元町史)も見られ、亘理の某家の家譜にもそのような記録が残っている。
 やがて茂元の曾孫、亘理宗隆の時代になると、家臣の間より当時の伊達家当主「稙宗」に宗隆の娘を差し出し、その間に産まれた男子を亘理家の当主として、伊達氏の完全配下に入り生き残ろうとする策が出て、実行されるのである。
 次号に詳細を記述することにする。

 一方、都では鎌倉時代末期から室町時代の中期にかけて「徳政令」が頻発される。一切の借金を無かったことにするという命令である。ありがたい法令のようだが、字句からイメージされることとは異なり、幕府御家人の救済策だったのである。幕府は一切の損をせず、御家人が大名や裕福な町人、商人から借金したものをチャラにするというもので、貸した人々はたまったものではない。世の中が大きく乱れる原因となってゆく。
 このような中で専制政治を行っていた室町幕府6代目将軍が、播磨(兵庫県)の守護大名である赤松氏に暗殺されるという事件が起きた。1441年のことである。年号は嘉吉元年であったので「嘉吉の変」とも呼ばれている。
 しかし赤松氏は、幕府側の勢力によって攻め滅ぼされてしまうことになる、
 6代目が死亡すると、やがて7代目将軍も早死にしたので、次には歴史上有名な8代目将軍の足利義政の時代となる。
 奥方が日野富子という日本史上の三大悪女(北条政子、淀殿と共に)とされ1400年代後半の室町幕府に多大な影響力をもつことになった。当時の日野氏は公家であった。
 富子は義政と結婚すると、男子をもうけたがすぐに死亡し以後5年ほどは子供に恵まれなかったので、9代目の将軍にすべく既に出家していた義政の弟を強引に還俗させてしまう。皮肉なことにその直後に富子は男子を産むのである。
 富子は義弟を無視して、我が子を9代目の将軍にしてしまう。そんなことは許されないと有力大名である山名氏が反対し、富子を支持する大名(細川氏)との間に戦乱が起きてしまう。応仁の乱である。11年もの間戦乱に明け暮れた。富子は才覚のある女性で、夫の将軍義政に変わって大いに権力を振るう。各所に関所を増設してその通行料が彼女自身に入ってくるような仕組みを作るなどの蓄財行為を行った。悪女とされる所以でもある。
 結局9代目は、富子の息子だったものの、その息子には子供が出なかった。今度は10代目を誰にすべきかとなった。還俗した8代目義政の弟に子供が出来ていたので、10代目としたのである。
 これもまた短い期間で将軍職を終わってしまったので、11代目を選ぶのにまた富子が干渉して、戦乱が起こる。1493年(明応2年)のことで明応の乱と呼ばれており、この時から戦国時代に入ったとされる。富子は財力を貯えたことに加えて8代目将軍の義政に嫁して40年近くになるので、かなりの権勢を誇るにいたったのである。
 一方の義政は、すっかり政治に関心を無くしてしまい、京都の東山に隠居所を作り俗にいう趣味の世界に浸る。
 後には、現在に残る銀閣寺の造営に励む。
 義政は為すところがなかったようにみえるが、そ  の後の日本文化に多大な影響を与えたのである。
 義政の元には、京都の文化人と言われる人々が集まってきていたのでその後の時代に大きな影響を及ぼした。公家に影響を受け華やかさを持つとされる文化を創出した。3代目将軍義満の時代は北山文化と呼ばれ禅を主としたが、8代目義政は銀閣寺そのものに床の間をしつらえるなど日本住宅の原型ともなるべきものができたのである。

参考文献   山元、亘理町史           (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2023-02-14 16:18 | 亘理・山元ニュース

令和4年12月1日  

 NPO法人 亘理山元まちおこし振興会

                         発行人・理事長:千石 信夫

室町時代(前期)

 南北朝初期頃までの亘理地域周辺の主な豪族をあげると鎌倉幕府を開設した頼朝によって配置された亘理郡地頭の武石氏(亘理氏)や南の相馬氏、現在の仙台に拠点を置く国分氏、さらには福島県の中通り北部を支配する伊達氏がほぼ均等な勢力を保っていた。

 だが伊達氏は、豪勇を誇る8世宗遠に至ると、その息子である9世政宗も英邁を謳われたこともあって、親子で周辺地域である山形県南部の置賜地方に侵入を始めた。さらには勢い余って宮城県の刈田郡まで進出してきたのである。これには亘理・伊具・宇多郡を支配下に収める亘理行胤が、見過ごすことは出来ぬと兵を出したが1381年に刈田で戦うも行胤は敗れる。同じ年に行胤の父である広胤(足利尊氏から3郡領土を安堵された)も病没する。

亘理氏と伊達氏が戦った刈田戦の2年後、1383年に行胤は荒浜の高須賀に今に残る「湊神社」を建立した。武運長久を願ったのであろうか。

 一方の伊達氏は、九世の政宗の時代になると、さらに領地を広げてゆく。(有名な戦国時代の政宗は17世である。英傑で知られた九世政宗にあやかろうと、後世になって16世の輝宗が自分の息子に名付けたのである。政宗は期待にたがわぬ活躍をして仙台藩祖となったことはご存じのとおりである。)

 また、江戸時代に坂元領主になった大條氏の先祖は、9世政宗の弟である。初期の大條氏は現在の福島県柳川に館を構えていた。

 九世政宗は1404年に死亡するが墓所がわからなくなっていた。伊達氏が戦で領地を広げると拠点を移したので、後世になるとわからなくなってしまった。ただ死亡した場所が記録に残っているので推定はついていた。

明治21年に至り当時の伊達家が、先祖の墓所を確定させようと旧寺があった山形県高畠町東光寺の奥まった雑木林を切り開いて政宗夫妻の墓を見つけたのである。

明治37年(1904年)に9世政宗の500回遠忌が行われたのである。

当時、亘理氏は戦に弱かった。亘理行胤が1393年に病亡すると、息子の重胤が9世の亘理氏を継いだ。しかし重胤は1412年に仙台の国分氏との戦いで戦死してしまう。

その4年後の1416年のことになるが、10世の亘理氏を継いだ胤茂が、国分氏を攻撃してこれを殺し復讐を遂げたのである。胤茂の代に、名取郡や柴田郡をも一時的には配下に収めるのである。だが、この勢いは長く続かなかった。

胤茂が死亡すると亘理氏には深刻な内紛が起きて、一挙に衰亡してしまうのであるが後号に記載する。

   <前述した、約100年間の武石(亘理氏)を下にまとめた。>

 

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 当時の豪族間の勢力争いを別に、亘理郡の出来事として、1409年に陸奥国府の役人(按察使)として派遣されていた藤波(ぎょう)(ゆう)2年間の陸奥調査結果を1411年に都に戻り詳細に報告したことが評価され、亘理郡に百町歩を与えられ山下の笠野に神社を設けた。尭雄は伊勢神宮に参詣して素戔嗚尊の神符をいただき牛頭天王社を創建したのである。

 (現在の八重垣神社であるが、古札には大同2年(807年)もあり、古社を再建したものとするのが妥当であろう。藤波氏は以来、代々の神職を務め現在に至る)

 神社は、周辺地域の人々から深く尊崇され、参詣する人も多く、祭典ともなると大変な賑わいとなり近隣町村の商店も門前に店を広げ市が立ったとされた。

 御神輿が浜辺から海中に出御する勇壮な神事でも知られている。

 また、この時代の京都では、現代にも残る幽玄な「能」が「世阿弥」によって完成された。

 





1363年に世阿弥は、当時の猿楽役者として有名な観阿弥の子供として生まれる。足利将軍3代目の義満以降の将軍が芸能を好んだことから、役者間の芸の競い合いが生じて芸能の発展につながった。

 勝ち残ったのが世阿弥の一座であった。現代で言う原作、脚本、演出、役者まで一座で行っていた。能に使う面に特徴がある。殆ど表情を持たないものが多いが、夜叉の面などもある。演者の体の動きや舞いによって演目の内容を表現するので、幽玄さを醸し出すのである。神話などの悲劇に題材を求めることが多い。これと対をなすのが狂言であり、日常生活から拾い上げたコントというべきものである。能と狂言を合わせて能楽と表現している。これらを演ずる場所が能舞台である。

 宮城県には残念ながら現存する能舞台は白石市の碧水園と登米市の2ケ所のみである。

参考文献 菊地文武著「山元町での鉄生産に始まる古代東北の物語」 

            山元、亘理町史   (記:鈴木仁)   


# by tyama2001 | 2022-12-19 11:32 | 亘理・山元ニュース